マリー「この戦いが終わったら、一度故郷に帰ってみようかな……」
歴史のある海。船乗り達の記憶、願い、時には恨みや後悔、無垢な自然に見えるこの海には、そんなものが眠っているのだ。
フォルコン・パスファインダー船長の土下座術がマリー・パスファインダー船長に受け継がれていたように。
新月の夜。少し靄がかかりだした空。ハマームの近くでは見えていた銀河の星々が、だんだん見えにくくなって行く。吹き降ろすような、妙にひんやりとした風が海面をさざめかせている……水平線は、全く見えなくなった。
最低限必要なごく僅かな明かりを残し、灯火管制の敷かれたサイクロプス号は、失礼な言い方をすればまるで洋上の廃墟のようだ。
船体の軋む音と僅かな囁き、聞こえるか聞こえないかという微妙な笛の音……聞こえて来る音もそれだけだ。
私はロゼッタさんというサイクロプス号の航海士の一人の近くに居た。この船にも女性の乗組員が居るのね。背が高くて、アイリより少し年上かな……とても海賊船に乗っているようには見えない、色白で知的な印象の綺麗なお姉さんだ。
ロゼッタさんは私が近くで見ている事に気づき、囁くように言った。
「君はうちの艦長にどんな魔法を掛けたのかしら」
どうしよう。フレデリク君で答えていいのかしら。ファウストさんは私の事皆にはフレデリクだって言ってるよな。
「皆さんにとっては、僕は厄介者なのでしょうね」
「そうでもないわ。皆、あんなに楽しそうにしている艦長、久しぶりに見たから」
あれが楽しそうなんですか? 私はてっきり、さんざん恩着せがましく迫られ無茶を言われ、半ギレになっている人に見えたんですが……普段はもっと機嫌が悪いんでしょうか?
「この前の吹き流し騒ぎといい今日といい。貴方と居る時の艦長は生き生きしてるわ。いつもは仮面をつけて愛想笑いしているだけの人だから」
別の航海士が近づいて来る。確かリゲルって人だな。こっちは絵本から出て来たみたいなスカーフェイスの厳つい男だ。海賊らしい海賊というか。
「お喋りはよせロゼッタ」
「……けち」
「お前なあ、俺だって我慢してんだぞ、そいつには聞きたい事も言いたい事も山ほどあるからな……だけど今は作戦中だ。フレデリク。艦長室に来てくれ」
灯火管制は艦長室の中にも及んでいた。ランプも三面のシャッターを閉められ、海図だけを照らしている。
「フレデリク君。前にこの船が雨の夜の後で、フェザントの軍艦とフォルコン号の目の前に現れたのを覚えていますか」
私を案内して来たリゲルさんがそのまま居るせいか、ファウストはそう言った。
「勿論。あの夜僕はフォルコン号に居た。一度だけ、サイクロプスが前方を横切るのを見たよ。フォルコン号のマリンベルを鳴らしたのは僕だ」
「簡単に言ってくれますねェ。かなり慎重に追い抜いたつもりだったのに。あのベルを聞いた時は皆ガッカリしたんですよ? 見つかってしまったとね……今回は同じ轍は踏みません。完璧に近づけて見せますよ……気づかれぬまま」
えーと。どういう事でしょう?
よく解らないので私は黙っていた。リゲルさんは持ち場に帰って行く。ファウストは私の言葉を待っている……私はアイマスクを外す。
「それで、何が起こるんですかね?」
「……は?」
ファウストの眼鏡がズレた。
「貴女がやれって言ったんでしょう? もう一度あの芸当を見せてみろと、ガレオン船相手に。おあつらえ向きに今夜は新月で靄もかかっている。貴女が用意したポインターもさっき見つかりましたよ」
私はまだ良く解っていなかったけれど、それを言ったら怒られるような気がしたので黙っていた……こういう時は別の質問をしちゃえ。
「ポインター、見つかりましたか」
「あのバルシャ船でしょう?」
そう、あのバルシャ船……ジェラルドか、ジェラルドが着かず離れず追っているその先に、ガレオン船が居るはず……で、合ってるかな? 合ってるかよく解らないので、私は解ったようなふりをして真剣な表情で黙って頷く。
「気づいた時にはすぐ隣、そういう操船をしてみせますよ」
ファウストも満足げに、凄みのある笑みを浮かべて頷く……すみません……なんかすみません。
舷側の波除けの向こうにあるのは、吸い込まれそうな闇だ。月の無い夜、靄にほとんどかき消された星空。海面の反射もごくわずかだ。サイクロプス号のマストさえ、星明かりを遮る影としてしか見えない。
船酔い知らずを着ていてさえ怖い闇の中、私はマストを登ってみる。
「おい、その上は危ないぞ……ってお前フレデリクか」
望楼からさらに上に行こうとした私に、一人の水夫が声を掛けて来た。甲板の一部には最低限の明かりが掛けてあるが、マストの上はどこも、お互いの顔もよく解らないくらい暗い。
「望遠鏡を借りられないかな」
「この状況で登るのかよ……ほんとイカレてんなお前」
イカレてるんじゃなくてズルしてるんですけどね……まあこの闇は普通に怖いよ。でも足元は大丈夫。
私は更に高く登る。
そしてなんと。マストの天辺近くまで登ってしまうと、靄がかなり晴れていて、星空が綺麗に見えてしまった。
行く手に一隻のバルシャ船が見える。靄の中にマストの天辺まで埋まってはいるが、普通に灯火をつけているのでよく見える。
そしてその先に…ほんのわずかだが見える、靄の上に少しだけ飛び出したマストの影が。あれが目指すガレオンだろうか。向こうにも灯火は見えない。
見えてるのかな? サイクロプス号の船員には。
一応知らせてみようか。
「この新月の靄の夜の中、そんな距離で見えたですって? 簡単に言ってくれますねェ。聞きましたか皆さん、この化け物からじゃ、隻眼の巨人なんか丸見えでも仕方ないですね」
一度甲板に降りて報告した私に、ファウストはそう言った。その後ろではロゼッタさんが数人の水夫と相談している。誰かこの闇の中で上の上まで行く奴は居ないかと呼び掛けているようだが、誰も手が上がらない。
「いや、僕がまた登るからいいよ。通信手段だけ確保してくれ」
「君は客人でしょ、何度もあんな所に登らせられないわ」
「いいんだロゼッタ、やってもらおう。あの場所では誰もフレデリクに敵わないよ」
私は再びマストに登る。柵のついた展望台よりさらに登り、小さな足場のある監視台のさらに上……こんな闇の中だし多少は怖いが、足元は魔法のおかげで安定している。
とはいえ、こんな所に登るのも、ここにずっと居るのも普通の人には無理だろう。むしろ私自身、船酔い知らずがなければ二秒で気絶して落ちる。
サイクロプス号の甲板も見えないよ……月の無い満天の星空と、靄の雲海。ハーミットクラブ号は遠くで雲海に沈んでいて、ぼんやりとした小さな光だけが見える。その向こうにはガレオン船のマストの先端だけが突き出て見える。
こんな浮世離れした世界で、私は一人、何をしているのだろう。
帰る場所か。ファウストが余計な事を言うから、私は色々と思い出してしまった。この冒険が終わるまで忘れているべきだったなあ。
ヴィタリスの、狭いながらも楽しい我が家。貧乏だけど本だけは何冊もあって、それから、針仕事の他にも季節に応じて色々な仕事があった。牧童や麦刈り、鱒追いや筵編み……
ああ。私本当は機織りがやりたかったなあ。大店に雇われた機織り娘さん達は、毎日綺麗な服を着て清潔な工場に集まり、美しい織物を織るのだ。
私みたいに牛の糞をスコップですくって桶に集めて回る仕事をする必要もない。あの人達、みんなキラキラして見えたな。休み時間には皆で工場の庭で弁当を食べてたりして、何だかいい所のお嬢様達のように見えた。
下らない事を考えながら、私は定期的にガレオン船とバルシャ船の距離、方向を書いたメモで小石を包み、甲板に落とす。小石は靄の中に消え、甲板に落ちる音も聞こえない。
新月の夜の虚無の中で、私はガレオン船のマストに必死に目を凝らしていた。




