便箋1「だから違うって言ったのに」便箋2「逆ですよぼくたち」
トライダー編だよ! 三人称で参ります。
風紀兵団の平団員、ヨハン・トライダーは拘束されてはいなかったが、その嫌疑は、彼の心に重くのしかかっていた。
彼の主張は、先日自分が手配犯と知りつつ逃したアイリ・フェヌグリークは、嫌疑そのものが魔術師トリスタンの罠によって作り出されたものであり、無効であるというものだった。
一方、トライダーを追及する側の主張は、彼がブルマリンに居た時点ではアイリは間違いなく手配犯だったのだから、アイリを捕えなかった事は王国と法に対する背任であるというものである。
しかし、彼を追及する者達の目的は法の遵守ではなく、ただの復讐である。既に私刑団を動かすなどの罪状が明らかとなっているトリスタンはともかく、アルベルト男爵の関与にまでトライダーは言及していた。
この訴えはグラナダ侯爵を始めとする複数の有力者の証言によって補強され、アルベルト男爵は今、別の法廷で窮地を迎えている。
そしてトライダーを訴えている原告人はアルベルト男爵の息のかかった人間であり、この事件の仕置きで必ずやトライダーを道連れにするようにと厳命されていたのだ。
レッドポーチから戻った二人の風紀兵団の男は、トライダーに面会を求めた。トライダーは裁判所近くの宿に泊まり、裁判の日を待っていた。
「トライダーさん、ヴィタリスのお針子、マリーさんから、陳情書を預かって来ましたよ」
「彼女に会ったのか!? どこで会えたのだ!? その……彼女の様子はどうだったのだ……?」
ヴィタリスのマリーがトライダーの想い人である事は、二人の男も薄々気付いていた。
「はい、レッドポーチで御会い出来ました。お元気そうでしたよ、別段どこかを悪くしたとか、そういう所はなさそうでした」
「トライダーさんに会えない事は寂しそうでしたね、ですから、ちゃんと裁判に勝って、会いに行ってあげないと」
トライダーは溜息をついた。
「元気そうか……それは何よりだ。私に気を遣うのはやめてくれ。彼女が私を待ってなどいない事は……良く解っているつもりだ」
「そんな事ありませんよ、これを見て下さい、マリーさんから……貴方への手紙もあるんです」
「手紙……?」
男はトライダーにそれを渡す。
封筒の表面には『ふ゛ぃたりすのまりい』と、不揃いな字で書いてあった。
トライダーはため息を漏らす……仕方がない。彼女は母と離別、父と死別した孤児で貧しいお針子である。教育を受ける機会がなかったのは彼女のせいではない。
何とか彼女をハワード王立養育院に住まわせてやりたい。そこは見事な花壇と清廉な森林に囲まれた、美しく安全な場所なのだ……トライダーは可憐で嫋やかなヴィタリスの少女の面影に想いを寄せながら、封蝋を切り便箋を開く。
『ιωι、ナま:
├ラィ勺″─、ナωレょιご─⊂ねっιωナょょレヽひ─⊂τ″す。
、ナレヽレょ″ωτ″ゅぅ、ナ″レヽレニナょっτレょナニ″めτ″す。
レナ″ω、キレニカゝぇιτ<ナニ″、ナレヽ。
─⊂、キ─⊂″、キι⊃⊇レヽτ″す。
ぉねカゞレヽιます。ま丶)─』
「……ありがとう。これはお守りにしよう。言うまでもないさ。私は生き延びてまた風紀兵団で働きたいと考えている」
トライダーは微笑みを浮かべ、便箋を封筒に戻し、懐に収める。
「すみません……代書しようと申し出たのですが、断られてしまいまして……」
「いいんだ。本人の筆で書かれた物が一番さ」
◇◇◇
翌日……法廷は開かれた。
「どのような訳があれど、被告が恐れ多くも国王陛下の私兵を名乗る風紀兵団の人間でありながら、手配犯の逃亡の手助けをした事は明白である。後で辻褄が合えばいいというものではない!」
原告側の代理人は、そうまくし立てた。
双方が同じ主張を繰り返すものだから、法廷の空気はすっかり澱んでいた。
ブルマリン事件は社交界の貴族達からの注目度も高く、傍聴席は紳士淑女で一杯だったのだが……彼らの求めるドラマはここには無かった。
もう有罪でも無罪でもいいじゃないか。籤で決めろ。そんな無責任な声も傍聴席からは聞こえて来た。
ヴァレリアンとカリーヌの夫妻も傍聴席に居た。ヴァレリアンはトリスタンによる白金魔法商会の計画倒産事件について、カリーヌはトリスタンによる脅迫事件について呼び出されて法廷に居たのであり、トライダーの法廷については関与していなかった。
二人は勿論、自分達を助けてくれたトライダーに味方したい気持ちは持っていた。彼らは既に裁判長に陳情書を提出していた。トライダーの行いを称え、無罪または減刑を願う陳情である。
弁護側の代理人が立ち上がった。
「裁判長、新たな陳情書が一通、差し入れられております」
「そう聞いておる……ヴィタリスのマリー? 町の少女だそうだが」
「ええ、そうです! トライダー氏が普段、どんなに真面目に仕事に励んでいるかを書いているはずです、そうした市井の声にも、法廷は耳を傾けねばなりません!」
傍聴席から鼻息と微かな笑い声が漏れる。弁護側も形振り構わぬようだ、という呟きも聞こえた。
弁護側代理人が、厳重に封をした手紙を書記官に渡す。書記は封印の状態を確かめ、頷く。
「封印に問題はありません。ヴィタリスのマリーという字も何とか判読出来ます」
トライダーは少し俯く。自分でも読めなかったあの手紙の文字を、書記は読む事が出来るだろうか……事によっては、法廷でヴィタリスのマリーが侮辱される事にはならないだろうか。自分の為にそんな事が起きたなら……心が折れてしまいそうだ。
「……」
案の定、封を開き、便箋を見た書記は……固まっていた。
「どうしたのかね」
「こ……これは……読めません……」
「読めない!? 何をおっしゃる! 市井よりの訴えですぞ!」
弁護人が声を荒らげる……しかし書記も大声で応じた。
「弁護側は何を考えているのです! これを読めと言うのか!」
トライダーの心が怒りに震えた。何という侮辱か。彼女の字が下手だったとしても、それを恥じねばならないのは我々教育を持つ者の方なのだ。彼女のような持たざる者に断じて責任は無い、持てる者が、それを与えないのが悪いのだ。
「……いいから読みたまえ」
裁判長が面倒くさそうに言った。書記は一瞬、信じられない、という風に裁判長を見上げたが、やがて頷く。
「裁判長がそうおっしゃるのなら……」
書記は一つ、咳払いをした。
「……ヨハン。君が変わりない事を僕は祈っていたが、少々面倒な事になっているようだな。君は他人の為なら自分の身を守ろうともしない人だから、きっとヴァレリアンの色恋の事も、カリーヌ夫人の名誉の事も証言していないのだろう。君が許してくれるなら、僕が代わりに証言したいぐらいだ。カリーヌ夫人の夫への愛情は真実の物だったな。夫がその愛を分け与えた女に剣を差し向ける人は居ても、その女をその剣で守って欲しいと依頼出来る人がどれだけ居るだろうね。あの日僕は君に全てを話した。そして僕らは同じ未来を向いて戦った。あの日の事を僕は忘れない。だから絶対に諦めないでくれ。いつの日かまたあのブルマリンのサロンで会ったら、カリーヌ夫人の勇気と名誉の為に乾杯しよう。親友。フレデリク」
ただ平坦な声で、はっきりと。書記はその封筒に入っていた文言を読み上げた。便箋の文字は間違いなく豊かな教養を持つ者の手によると思われる、美しい筆記体で書かれていた。
原告側の代理人は、紫色になった唇を震わせながら、何とか声を絞り出そうとしていた。しかしそれは上手く行かなかった。
先に沸騰したのは傍聴席だった。
「どういう事だ!?」「フレデリク!? 噂のフレデリク様なの!?」「被告と二人で四十人斬った、疾風のフレデリク!?」
「欺瞞だ!! 欺瞞です、裁判長!!」
原告側代理人がようやく爆発した。しかしすっかり沸騰した傍聴席の騒ぎ声にかき消され、その声は裁判長に届かなかった。
「静粛に! 静粛に!!」
裁判長が一際大声で叫んでいたからというのもあるが。
「被告人! 何を笑っているのだ! 裁判長! 被告は法廷を侮辱している!」
原告側代理人は唾を飛ばし、トライダーを指差して猿のように騒ぎ立てる。
トライダーは腹を抱え、肩を震わせながら俯いていた。
「勘弁してくれフレデリク……はは……ははは……君はどこまで人を食った奴なんだ……」
弁護側代理人は、手紙を持って来た風紀兵団の二人に詰め寄っていた。
「何だこれは!? 私は聞いていないぞ!?」
「も、申し訳ありません!! ここに来るまで、宿にも泊まっていますし、飯屋では手紙をポケットに入れていたサーコートを脱ぎ、壁に掛けていました……どこかで誰かに手紙をすり替えられた可能性は……否定出来ません……」
傍聴席ではカリーヌ夫人も、周りの有閑マダム達に取り囲まれ質問攻めにされていた。
「今のお話、本当ですの!?」
「カリーヌ夫人、貴女がトライダー様とフレデリク様を派遣されましたの!?」
「夫の浮気相手の為に!? その剣で守って逃がしてあげて欲しいと!?」
それはカリーヌ夫人には身に覚えの無い事だった。実際夫人はそんな事をあの可憐な騎士に頼んだりしていなかった。ただ、事件を解決して欲しいと頼んだだけだ。
しかし今、そんな事はとても言い出せる雰囲気では無かった。
「わ……私は……正妻として、主人の傍で生きていけますが……アイリさんは……主人と別れ、逃げなくてはならないのです……同じ殿方を愛した者として……私は……」
傍聴席で黄色い悲鳴が沸き起こる。
ヴァレリアンも囲まれている。
「どういう事なんだ君!? 今の話は本当か!?」
「夫人は君の浮気を知りながら……アイリ嬢を守る為、トライダー君達にその保護を依頼したと言うのか!?」
ヴァレリアンの方は、元々そう聞いていた。さすがに気まずいので、その事を夫婦で話し合うような事は無かったが。
「その通りだ……私がだらしないばかりに、私は二人の女性を不幸にしてしまった。それなのに……カリーヌもアイリも、私の為に……」
ヴァレリアンははらはらと涙を流す。
「そ、それに今の話が本当なら、手配犯を逃がすよう依頼したカリーヌ夫人にも責任が……」
原告側代理人がぼそぼそとつぶやくが、今、彼の話など聞いている者は誰一人として居なかった。
「静粛に! 静粛に!!」
裁判長は怒鳴り続けたが、傍聴席が沸き止む事は無かった。
「無罪だ! トライダーは無罪だ!」「愛と名誉だ! 愛と名誉だ!」
「見せて! フレデリク様の手紙を見せて!」「これが男冥利! これが女冥利だ!」
法廷は崩壊した。暇人たちが求めていたのは、法の遵守がどうこうなどという退屈な話ではなく、こういう決着だったのだ。
貴族の世界は市井とは違う。少なくともアイビスではそうだ。
この場合ヴァレリアンは不名誉にはならない。二人の美女から真剣に愛された男だからだ。
そしてカリーヌは不名誉どころか大変な面目を施す事になった。彼女は愛と勇気の夫人として、その名を社交界に燦然と輝かせて行く事になる。