ロイ船長代理「明後日は無理かのう」不精ひげ「マリーが居ないとズルい風が吹かないな」
宿屋のノートに残っていた、父のメモを手がかりに、アンリの店を訪れベリーダンスを見学したマリー。
いや、それ手がかりでも何でもないから……
とりあえず、王の御前で仮の手の内を明かしてから、少し時間が経ちました。
私達は王宮への道を戻る。八月のハマームの人々は夕方過ぎてからの方が元気だ。昼の暑さもあるが、砂漠に囲まれてるからか、日が落ちるとすぐ結構涼しい風が吹き、火照った体に心地良いからかもしれない。
宮殿に戻った私は馬を降り、ガラベーヤとクーフィーヤを脱ぐ。
ジェラルドも着替える……ってぎゃあああ! あんたガラベーヤの下パンイチじゃないか! フレデリクの前だからいいけど、どこかでマリーが見てたら困るんだからそんなに堂々と着替えないで欲しい……元の服着るのか。早く着てよ……
「こんなんで引っ掛かるかねェ」
「何でもやってみようじゃないか」
今度は偽ジェラルドと偽フレデリクだ。いや私が偽フレデリクだから偽偽フレデリクだな。もう何が何やら。
とにかく衛兵さん達に用意して貰った私と背格好の似た人と、ジェラルドと背格好が似た人を、私とジェラルドが着てたガラベーヤを着せて送り出す。先ほどの馬に乗って、王宮から港へ行ってもらうのだ。
それから、偽ファルク殿下に早めに部屋の明かりを落としてもらう。
「フレデリクよう」
ジェラルドが呼び掛けて来る。私もジェラルドも、にせファルク殿下の部屋の近くの屋根の上に転がっている。伏兵と言えば伏兵だが、だらけているだけかもしれない。
日は完全に落ち、西の空の赤みも無くなった。時刻は午後八時頃だろうか。
「お前、何でストークを離れた? 何の為に旅をしてるんだ?」
ストーク人ではないし流されるまま旅暮らしを始めたマリーちゃんは、フレデリクを装っている時にそう聞かれたらどうするかという問答集を頭の中にちゃんとしまってあった。
「たいした理由は無いよ。貴族の四男なんか何もやる事が無いんだ。自分の居場所は自分で見つけるしかない。無駄なプライドのせいでお針子にもなれないからな」
「そうか……軍人の長男には解んねえのかもな。俺は俺でパパの過剰な期待を背負ってガキの頃から苦労したような気もするが、カルメロを見てたらよう。俺は期待して貰えただけマシだったんだなって思えて……だからカルメロってすげえなって」
その時。下のバルコニーの手摺りの上に居たぶち君が一声鳴いた。
「マーオ」
ぶち君、それは猫が他の猫を威嚇する時の声では? さりとてぶち君の他に猫は見当たらず……まさかね。
「来たんじゃないか」
「何?」
屋根の上から覗いてみると。宮殿の正面で騒ぎが起きている……商人が押していた荷車が転倒し、載せていた篭がひっくり返って、入っていたニワトリが何十羽も逃げ出したようだ。
「何だ間違いねえ、おいもう近くに居るだろ」
ジェラルドは屋根から滑り降りてしまう……どういう事? 伏兵はいいの? 私がぼんやりとそう思いながら顔を出した瞬間、ジェラルドが叫ぶ。
「マジか!」
先にバルコニーに降りたったジェラルドが掴みかかろうとしていた相手が、一瞬、黒い霧のような物に変化して……トリスタン!?
刹那の時間……全てがゆっくりと動いて見えた……
「こいつ、掴めねェ……」
黒い霧のような物に変化してジェラルドの手をすり抜けた奴が、元の人影に戻り……白刃を振り上げ、ジェラルドに斬りかかる……!
「危ない!!」
私は短銃を取り出し……間に合わない!?
ジェラルドの喉元に凶刃が……!
「なるほど、こっちは掴めるのな」
しかしジェラルドは冷静に「敵」の手で突き出された直刃の短刀の、柄を掴んでいた……最初に短刀を掴んでいたはずの「敵」の手は煙へと変わっていて、ジェラルドの手だけがしっかりと短刀を掴んでいる……奇妙な光景だ……
それより……私の番だよ……撃たなきゃ……撃て……撃って……撃てよ!!
次の瞬間。黒い霧の一欠片が、突風に吹かれたかのように弾けた。
あの時と同じように。私が撃った時と同じように……だけど音がしない……いや私、撃ってないじゃん、撃てなかったから……!
じゃあ誰が?
バルコニー廊下に居たのはジェラルドと「敵」だけではなかった。
遠くに誰か倒れてる……階段の近くの方だ……衛兵かも……
ファルク殿下の部屋の方は? 近衛兵が二人と……もう一人……偽ファルク殿下ことセレンギルが居る。
私の意識が刹那の認識から戻る、ゆっくりと流れていた時間が元の速さに、待って、結局の所、今何が起きたの!?
とりあえず私もバルコニー通路に降りたよ、短銃は? 撃ってないけど持ってます、「敵」って誰!? またトリスタンなの!?
ていうかどこ行った、その敵はどこに!?
えーん、わからんわからんわからん、今の「敵」がトリスタンだったとして……
何が起きたんですか! 誰か教えて!?
「追うぞ、フレデリク!!」
は、はい! ジェラルドさん私何を追えばいいですか!?
「フシャーッ!!」
ぶち猫さん!? どっち!? あっ……コウモリの群れが逃げて行く……私が余所見してる間にまた逃げたのね? トリスタンなのね?
私は。
バルコニー廊下の手摺りを乗り越えて、飛んだ。
「馬を早く!!」
私がそれっぽく叫ぶと、厩舎の衛兵は綱を引くのではなく、白馬の尻を叩いて……空馬のまま私の方に走らせて寄越した! ひええっ!? 無茶するな!!
私は向かって来る白馬に方向を合わせて走り、飛び乗るっ……どうなるのこれ!!
「下がれ! みんな下がって!!」
私は白馬を駆り宮殿を飛び出す……なに?? 何がどうなってんの??
今起きた事を整理してみよう……
私達は宮殿から帰ったふりをして「敵」に罠を仕掛け、待っていた。待っているとまず、ぶち君が鳴いた。私は冗談で言った。何か来たんじゃないかと。見ると宮殿の前で騒ぎが……ジェラルドはそれを見て間違いないと言った。宮殿の前の騒ぎは、「敵」が衛兵たちの注意を別の場所に引く為の陽動だ。
ジェラルドが急いで降りたら「敵」はもう目の前に居た。ジェラルドが掴もうとしたら「敵」の体は黒い霧に変わってしまい掴めない。でも「敵」が繰り出そうとしていた刃物は掴めた。
私は「敵」を撃てなかったが、今から怖い魔術師が自分を殺しに来るかもしれないと聞かされていた偽王子、セレンギルはずっと銃を持って待っていて、ためらわず「敵」を、あの音の出ない魔法の銃で撃った。
その時私は周囲を確認していた。遠くに衛兵が倒れているのを見つけた。その間に「敵」はまたコウモリの群れに化けて逃げた。
私はコウモリの群れを一瞬見失っていたけれど、ジェラルドとぶち君が教えてくれた。
そして私は今、白馬に乗ってコウモリの群れを一人で追いかけている! 追いつけませんでしたは通用しない、この馬はあのコウモリが飛ぶ速度より速い!
だけど無理でしょ、ここ街中だよ、人をはねたりしたらどうすんの!? 無理、無理、諦めようよ無理!
それに追いついた所でどうするの、あの「敵」は触れないんでしょ、たぶん素手や普通の武器では、私が持ってる魔法の銃の弾は別として……ああ……じゃあ私が戦うしかないじゃん……
「ああっ、もう!」
私は空に向けて一発、引き金を引いた。
―― ドンッ!!
道行く人々が驚いて道を空ける。最悪だ。私は今銃声で市民の皆様を威嚇し、一日の終わりの時間のお楽しみとか家族の団欒とか、そういう暖かい営みを妨げているのだ。
コウモリの群れは夜のハマームの街中を飛んで行く、夜のハマームは意外とあちらこちらに篝火やら街路ランプやら掛けてあって、道は照らされている。真夏のハマームでは日が落ちて涼しくなったこの時間が憩いの時間なんだな。
ごめんなさい、露店での食事や買い物を楽しむ人々の合間を、コウモリの群れを追って私は馬で駆け抜ける、ごめんなさい! ごめんなさい!
いつも通り、意識の表層では後ろ向きで臆病でやる気のない私。
だけど深い気持ちの中では解っていた。これは私がやらなきゃいけないんだ。あの魔術師はもう化け物の部類になっていて、今日私が倒さなかったらまた誰かを襲う。今日も衛兵さんが一人倒れていた……かなり出血していた。
ジェラルドの手があいつを掴む事が出来なかったのも見た。普通の武器ではあいつは傷つける事も出来ない。そんな奴に襲われたら……これからも何人の衛兵さんが殺されるか解らない。
深層心理では解っているつもりだと思う。だけど……表層では今、街中を人を縫って馬を走らせてるだけでも怖い……そして追いついた所で何が出来るんですか、あんな化け物相手に「人」を銃で撃てないマリーに何が出来るんですか!
「トリスタン、逃げるな、僕と勝負しろ!」
せめて口振りだけでも勇ましく。私はそう叫んでみる。




