猫「存分に語り、ぶつかり合うがいい。お前達は若いのだから」
ハーミットクラブ号の水夫は全員残っていた。
それからジェラルドは、フラヴィアさん達が追放される時にも関わっていた事が解った。
早く言えよジェラルド。
翌朝。波止場近くの宿屋で目覚めた私は服を脱ぎ、水桶と手拭いで体を拭う。命の洗濯とはこの事である、何せ私は丸五日ぶっ続けでフレデリク君になっていたのだ。
六日目を迎える前に、いっぺんマリーに戻らせて下さい……ああ……生き返る。
乾いた布で髪を拭きながら、私は部屋に備え付けのノートを開いてみる。港の宿だけあって、個室を利用する贅沢な客には、船長と名のつく人が多いようだ……ゴードン船長、ヤコブ船長、カルビン船長……ぱらぱらとめくっただけでも色んな船長の落書きがある。
私も記念に何か書いておこう。
『パスファインダー船長、八月二十二日午前のハマームに雨後の虹を見ゆ』
さて、マリーはここまで。フレデリクに戻る時間ですよ。さらしも新しいのと換えよう……その瞬間。私の脳裏にいやな閃きが浮かんだ。
さらしを巻く手を止めた私は、ノートの前に駆け戻り慌ただしくページをめくる。
あるなよ? あるなよ……
『アンリの店のベリーダンスすげえイイぞ! むちむちぷりんのゆーぅとぴあッ! オレのおすすめ。パスファインダー船長』
私はノートを閉じ、膝を抱えて床に蹲り、涙を堪える。
日付は三年前か……これが歴史としがらみの海、内海というものか。
私はもう一度立ち上がって、先程のページを恐る恐る開く。ほら、全然他人のパスファインダーさんかもしれないし……いや間違いなく父の筆跡だよ。
今回の事件はファルク王子の離婚が発端になっていると思うのだが……王様んちと一緒にするのも何だが、うちの両親も離婚してるんだよな。
頭空っぽの父と、娘の私から見ても夢見がちな女の子だった母。
あんな二人がどこでくっついたかは知らないが、無責任に私が生まれた後も父は放蕩をやめず……は言い過ぎか……とにかく船に乗り続け、無事母に愛想を尽かされた。船乗りにだけは惚れちゃあいけないよ、お嬢さん。
朝食を済ませ宿を出ると、ちょうど桟橋の方からジェラルドがやって来るのが見えた。遠目に見てる分にはかっこいいよな。堂々とした体格の野性味溢れる美男子だ。向こうも私を見つけたようだ。
「フレデリク、俺もたまには陸の朝飯を食いてェと思うんだが……無心させて貰う訳にゃ行かねェだろうか……その分は戦働きで返すから」
「……昨日渡した金貨10枚はどうした!」
「違うんだフレデリク、俺はただ倍に増やしてから使おうと思っただけで!」
そして近づくと残念な男だ。船乗りだけはやめておきなよ、お嬢さん。
全く。仕事に差し障ると困るので、そのへんの露店の飯でも食わせるか。
「フレデリク、そいつは勘弁してくれ、俺はフェザント人だぞ、そんな可哀想な姿になったパスタは見るだけで胸が痛んでだな」
「いいから食え! 力が出ないだろ!」
私はジェラルドに、冷えて延びたベタベタの焼きパスタをパンで挟んだやつを買って渡す。お針子時代のマリーの朝食だってこんなの一個だったのだ。
「とにかく、食べながら行こう」
「これだからストークあたりの奴は……朝食というのはな……ただの栄養補給ではなく日々の糧を通して神と対話する為の豊かな時間でもあって」
ストーク人のフレデリク君は合理主義者である。
私は文句を言いながらも焼きパスタパンを食べるジェラルドと、当たり前のようにジェラルドとの待ち合わせ場所に現れ、ついて来たぶち猫ちゃんと共に、朝のハマームの町を歩いて行く。
ジェラルドが会わせたい人物と言うから、髭に導火線でも編み込んだ大男でも出て来るかと思いきや……港で釣り糸を垂れていたちょうどロイ爺のような小柄な老人が、ジェラルドを見て手を上げた。
「アンドレウ氏だ。お前の推理通りここからフェザントへお嬢さん達親子を送ったのは俺だ。その時に一緒に仕事をした」
もう少し早くに紹介してくれてたら、宮殿には行ってなかったろうな……どっちの方が良かったかは解らないけれど。ジェラルドもアンドレウさんに私を紹介する。
「こいつが話してたフレデリクだ。想像と違うだろ?」
「宜しく。あの海賊ファウストの尻を引っ叩いてやった男だというから、髭に導火線でも編み込んだ大男かと思っていたよ」
アンドレウさんはそう言って、手を差し伸べて来た。握手ね、はい。
「小さな手だね」
「よく言われるよ」
これでジェラルドの秘密は全部か? そうではないと思う、人には色々な秘密がある。だけどフレデリク君に言うべき事くらいは全部言ったか? まーだ何か隠してるような気がするんだよなあ、この男。
「ファルク王子の私邸の執事長を務めていたんだ。フラヴィア様が離縁され、フェザントに返され……そして独身に戻った王子は宮殿に帰り、私邸に住むべき人も居なくなり、私も隠居という事になった」
アンドレウさんの食事がまだだったので、私達は結局港のテラスで飯を食う事になった。ジェラルドがターメイヤという練ったそら豆のスパイシーな揚げ物を次々と平らげているのが誠に腹立たしい。揚げたてで美味そうなのに私は満腹で食べられない。
「ジェラルド君との仕事が……フラヴィア奥様やカルメロ坊ちゃん、カメリアお嬢さんへの最後の奉仕になった。その時はね、別に仲良くはなかったよ……ジェラルド君は我々全てに怒りを燃やしていたし、私は失意のどん底にあった」
アンドレウさんはターメイヤを挟んだパンを二切れだけ食べている……勘定は私持ちなんだけどこれじゃジェラルドしか得してない……
「情けない話だが、年をとるとそんな想い出さえ美化されてしまう。久々にジェラルド君の顔を見て、嬉しいと思ってしまったね……聞きたい事は何だったかな」
「フラヴィアさん達三人は今、ハマームに向かっています。彼女らは急ぐ旅をしていて八月中にはハマームに到着するつもりです」
「ああ、昨日ジェラルド君から聞いて驚いたよ。お会い出来れば光栄だね、本当に……だけど……正直、もっと先の事だと思っていたね……カルメロ坊ちゃんがせめて、貴方くらいの年頃になってからの事だろうとね」
え?
「ここだけの話だよ」
「はい」
アンドレウさんは声を落とす。
「マフムード陛下はファルク王子と折り合いが悪くてね。まあ、自分の王子がフラヴィア様と私邸でフェザント人のような暮らしをしているのが大層気に入らなかったのだろう。また、陛下は剛毅な軍人肌の方なのだが、王子は正直、文化人でね」
うーん。それは重大な秘密なんだろうけど……私は既に知っていた。
「またフラヴィア様と一緒に居る事で、ファルク王子は益々優しい人になってしまってねぇ。陛下はそれに業を煮やしていたんだよ」
文化の違いもあるのだろうか。王子様が優しくて何がいけないのか……でもファルク王子はちょっと行き過ぎ感あるかな……あの人、虫も殺せなさそうだし。
「ま、そんな陛下もカルメロ坊ちゃんの話となるとまるで別でね」
どういう事ですか?
ジェラルド? 何、揚げたてターメイヤに夢中になってんの! ちゃんと話聞け!
「カルメロ坊ちゃんの方も御爺様が大好きで……よく陛下の膝の上で遊んでいたね。それに坊ちゃんは六歳の誕生日に群臣の前で見事な剣の形稽古を披露する事に成功してね。陛下には痛快の極みという面持ちで……ファルクを飛ばしてカルメロを太子にしようなどと、冗談を言われて、笑って……」
私は立ち上がっていた。
「待って下さい! 色々と話が違いますよ!」
「すまんが、声を控えてもらえんかな」
「フレデリク? 今の話が何か関係あるのか?」
アンドレウ老は口元に人差し指をあてる。馬鹿者はターメイヤを頬張りながら顔を上げる。
「アンドレウさん。とにかく、もうじきフラヴィアさん達がハマームにやって来ます。貴方の事も味方と思って宜しいですか? 必要なのです、フラヴィアさん達の味方が、一人でも多く」
アンドレウさんにはそれだけ言った。それから私は馬鹿ジェラルドに向き直る。
「ジェラルド! もう隠してる事は何も無いだろうな、これ以上あるなら付き合えないぞ!」
「おいおい、いつ俺がお前に隠し事をしたんだよ」
「君は酷い奴だ! 僕は考えるより動く方が得意な人間だというのに、君は考えがないフリをして、僕に考えさせた!」
たったこれだけの事を聞きだすのに何日かかった?
喜怒哀楽の激しい陛下、拗ねた王子、フラヴィアさんもジェラルドも本当の事を言わない、皆が皆そんなだから、こんな単純な話がここまで拗れたのだ。
「解ったぜ、俺が思うにフレデリク、お前は何かを誤解してるんじゃないかと」
「だったら次は君が考えて行動しろ! 僕は僕の誤解に基づいて行動するからな!」
「解らねぇ……お前が俺の何に怒っているのかよく解らねェ」
ぶち猫ちゃんは私達の顔を交互に見比べてから、テーブルの上で寝転んだ。




