とある傘屋の与太話
秋の雨はとにかく冷える。
昼の陽気に温められた心地の良い熱を奪い、しんと張りつめた風が肌を撫でる。
彼らは生粋の気分屋でもある。優しく降っていたかと思えば、突然その力を強め、豪雨となりて油断していた人々を困らせる。
要するに、手を焼かずして秋の雨空を潜り抜けることは不可能だといえる。
当然雨が降れば人々はそれを避ける。ある者は手持ちの傘を差し、またある者は近くで傘を買い、またある者は雨が止むまで建物の中で待つ――いわゆる雨宿りをする。
ここまでの話を折るようなことになるが、敢えて雨に打たれたい。
その冷たさを求めて外にひとり立ち尽くす人も、少なからず存在する。
天然のシャワーといえば聞こえはいいが、温度や強さの調整はできない。気まぐれなそれに身を任せるのも悪くない、というものだろうか。
そんな雨の日の、とある古い傘屋の夕方の話をしよう。
☆
「雨宿りを、させてほしい」
疲れきった若い男の声。店番をしていた少女は頷き、タオルと即席の折りたたみ椅子を差し出した。
「悪いね、世話になる」
「いえ。今日は夜まで降るみたいですし、ごゆっくりどうぞ」
男はずぶ濡れの上着を脱ぎ、膝にかける。
……周りを見ると、ここはタイムスリップしたかのよう。
時代劇に出てきそうな木造の傘屋。芸者が好んで使うような古き良き花柄の短い傘が幾つも並んでいる。
店内もどこか懐かしい香りがした。どこかの森の、名も知らない木の香り。鼻を近づけるとほんのり感じるような、優しい香り。
学校のものであろう制服を着た店番の少女が浮いて見えるほど、古風な店だった。
持ってきたタオルも椅子も現代のもの。なんというか、中途半端だと思う。
可笑しな気分になりかけたが、今日の出来事を思い出すととてもそうはなれず、そのまま俯き、目を閉じた。
少女はその様子を窺っていたが、やがて自然な動きに戻った。
長い沈黙が続く。
かろうじて耳に入るのは地面を打つ雨の音。ただただ一定のリズムで降り続ける。
弱まる気配も、強まる気配もない。天気予報なら深夜まで止まないという。
弱るのは深く傷を負い、満身創痍の男の心ばかりだった。
先に沈黙を破ったのは少女の方だった。
「うちは傘屋ですので、お買い頂ければすぐに帰れますよ。もしも買えない、または『帰りたくない』のならば、少し私とお話しいたしませんか? というのも、私とて一人ぼうっとお客様を待っているのは退屈ですので」
男を励まそうとしているのかこれが普通なのか。明るく品のある笑顔でそう言った。
どうせ他人だし、独り言程度に言っておけばいいか、と男は思い、困ったように笑って応じた。
「俺の話でよければ、聞くかい?」
「はい。喜んで」
すると少女はそそくさとテーブルと、自分用の椅子を持ちこみ、準備万端といった顔で座る。
それに頷き、男は語った、
とある人間の、雨の日に起きた大失敗の話。大事なものを一つ失った悲劇を語った。
☆
その男には気になっている女性がいた。
同じ会社の先輩。絵理花という女性だった。
仕事熱心で気が強く、はっきりと物を言うタイプだった。入社したての男は彼女から仕事を教わり、後輩として可愛がられていた。
そう、あくまで後輩として。
これに気がつくことができれば、男は傷つかなかったかもしれない。
しかし『男』という生き物は女性に比べて勘違いしやすくできている。女性にとっては普通の人に当たり前に振舞っているつもりであっても、男性からしたら自分にしか向けられていない特別な感情だと錯覚してしまう。……なんと愚鈍な生き物だろうか。
自分が振られ、初めてそれに気がつくとは。もはや自分を笑うことしかできない。
哀れで、単純で、傷つきやすい自分。もちろん初めてではなかった。
これを強く感じたらしめたのは、愛の強さと、重く空を覆っていた雨雲のせいだろう。
彼女は言った。異性として特別な愛を向けることは一度もなかったと、勘違いさせる気持ちも無かったと。
傷つける気持ちも、もちろん無かったと。涙を孕ませながら、上ずった声で告げると、背を向けて走っていった。
その背中はとても愛おしく、虚しいものであった。
肌を突き刺す雨が、激しさを増して襲いかかってきた。そんな、一瞬だった。
「というのが、今日傘屋で雨宿りをしている男の、情けない話だよ」
最後にそう付け加え、口を噤んだ。
思い出すと胃のあたりがキリリと痛み、嫌な吐き気が襲ってくる。
この記憶を、もう体が拒絶しているのだ。
少女の方へ目を向けると、彼女は目を閉じ、ただ黙って男の話に聞き入っていた。
男が話すのを止めると、そっと目を開け、優しい眼で応じる。
「そう。大変な一日でしたね。人は誰しも恋に敗れたときは傷つくものです。恥じる必要などありません」
「そうかもしれない。けれど、俺が落ち込んでいるのは少し違う」
「といいますと?」
首を傾げる少女に微笑し、男は再び下を向き、言う。
「俺が落ち込んでいるのは、絵理花さんを泣かせてしまったことだ。彼女は正直で真摯な人、だからこそ、初めて俺の気持ちに触れたとき自分との違いを見つけてしまって、深く悲しんだんだと思う。きっと俺を傷つけたことを後悔して、涙を流していたんだと思う。彼女は優しい。その優しさが嬉しい。その優しい女性を泣かせてしまったことがひどく、胸に棘が突き刺さったように痛く、苦しいんだ」
吐き出す息のことごとくが重く、冷えた空気の中へ溶けてゆく――そんな雰囲気を追い出すかのように少女は一度手を叩き、ふんと鼻息を吐いた。
何が起こったのか、男は拍子抜けした顔で音の鳴った方へ向き直った。
少女の顔は、少し怒っているように見えた。
「とある人は言いました。『女は三十五億人もいる。また別の人を探せばいい』と。しかしもうひとりの人は言いました。『彼女でなければ胸躍らないし、愛することもできない。ご飯を食べても美味しくないし、ひとりで出かけても楽しくない。僕の一番好きな食べ物は彼女の手料理で、ショッピングも遊園地も彼女と行かなきゃ楽しくない。他の人じゃない。彼女じゃなきゃダメなんだ』と。当然笑われた。それは今現在だからで、思い出は更新されればもっと楽しいこともあるでしょう。それでも、その人は今の幸せを取った。愛した彼女と一度別れるも見事復縁を成し遂げ、死ぬまで一緒に、愛し合って暮らしました。これをあなたは愚かだと思いますか?」
男は口を開けたまま、首を横に振った。少女は続けた。
「私は、素敵だと思います。人生を捧げて愛せる女性に出逢えたことは間違いなく幸福なことです。そんな出逢いを、私もしてみたいものです」
想像したのか、少女は僅かに頬を赤らめ、はにかんでみせた。
これは彼女からの精一杯の応援。
まるで男の未来を見てきたかのように語った少女の、しかし自信に満ち溢れたエール。
そう。ここで落ち込んでいることこそが自分の答え。
彼女の明るく真っ直ぐな性格が好きだ。宝石のように大きな瞳が好きだ。鎖骨を覆い隠す長い茶髪が好きだ。
彼女の、笑顔が好きだ。
「なんだか励まされてしまったよ。ありがとう、まだ諦めないでいたくなったよ。君の言葉は、あまりその見た目には合わないほど大人だね」
少女は笑って応える。そうして立ち上がると、一本の傘を持って来て――男の前に差し出す。
「これはプレゼントです。または私の暇つぶしに付き合ってくれたお礼でもあります」
遠まわしに代金はいらないと言われ仕方がなく、そしてありがたくその傘を受け取った。
「綺麗な傘をありがとう。男にはちょっと恥ずかしい柄だけど……これはなんという花なんだい?」
「コチョウランです。花言葉は――幸福が飛んできますように」
店の外に出ると、雨は止んではいないが弱まっていた。道を歩く人に流されそうになりながら、空を見上げる。
「そういえば、名前聞いてなかったな」
振り返ると、そこにはただの廃ビルがぽつりと、寂しげに立っているだけだった。あの古風な傘屋は、影も形もなかった。
一瞬戸惑ったが、右手に持った傘を見て、夢ではないことを認識する。
ひとりでに微笑し、その傘を差して、最寄りの駅まで歩き始めた。
また逢えるといいな、そんなことを考えながら、人の波の中に消えていった。