第1話
「ひゃ?」
十文字九重は驚いていた。
さっきまで二番目の兄である次郎左衛門と話していたというのに、いつの間にか次郎左衛門がいなくなっていたのだから。九重自身は桶の中身を竹笊に上げようと桶を持ち上げたとこだった。
もっといえば、台所の様子も変わってしまっている。十文字家に限らず台所は、木材で作られている。いや、そもそも日本の家自体、木材や紙、そして土で作られている。けっして石よりもつるつるでカチカチに固そうな素材は使われていない。
では、視界に入るものは何なのだろう? 壁も床もつるんつるんのぴかぴかである。九重は首を傾げた。
とても不可思議な場所。
九重がこの世界で思った最初の印象である。
不可思議といえば、さっきからずうっと自分を凝視している人達は何者なのだろう? 金や茶、はてには銀や赤など、とにかく明るい色の髪をした男女の集団だ。彼らは装いも見知らぬ物だった。髷も結っていない。九重は江戸しか知らないが、少なくとも他の地方の物でもないはずだ。江戸は日本各地から人が流れてくるのだから。そんな江戸で、目前の彼らが着ているような着物は見たことがない。
九重はさらに首を傾げた。
本当に、不可思議なことである。
九重が狐につままれたような気分でいると、じわりじわりと彼らが声をあげだした。
彼らは言う。
「やった……っ! 召喚が成功した!!」
なんのことやら。
さらにさらに九重の首が傾げる。手に持つ桶の水がちゃぽりと鳴った。
◇◆◇◆◇
──異世界。
「いせかい?」
取り敢えずお茶でもしながら詳しい事を話そうということで、九重は脚の長いとても綺麗な白い丸机に連れていかれた。そして背もたれがある一人掛けの縁台のような物に座るよう促される。どこか南蛮からの舶来品のような仕立てである。三番目の兄がオランダ好きなので、九重はあちらの国の小物などを実際に見たことがあったのだ。
席に着くと、「召喚に成功した」と叫んだ白地に紫と金で複雑な模様が描かれている外套を羽織った白髪の男が説明をはじめてくれた。
──この世界には魔法というものが存在する。魔法とは、自然の力や生物の体内に存在する魔力を自在に操って様々な現象を起こす力である。
「手妻……とは違うんですよ、ね?」
手妻とは、日本古来の奇術、いわゆる手品のことである。
魔法というものが、日本のものに置き換えると何になるのかな? と九重は思った。あやかしが使う術、仙人の術……。どうもしっくりくるものがないので気にしないことにした。そもそもそのようなもの自体実際には見たことがない。気にするだけ無駄であろう。
──この魔法を使って、こちらの世界は発展し続けている。
──魔法にはさまざまな種類があるが、そのなかのひとつに『召喚魔法』という術がある。
この術は比較的新しい術で、さまざまな場所からさまざまものをこちらの世界に呼ぶことが出来る。そう、それは物であろうが、生き物であろうが問われない。
「えっと、つまり」
九重はきょろりとあたりを見回したあと、ぱちくりと瞬いた。
「私、のことなのでしょうか?」
ここで九重以外の者達が頷いた。
九重は周囲の人々の顔を見る。その多くが彫りの深い顔付きであった。数年に一度、肥前の出島にあるオランダ商館の一行が徳川将軍家に拝礼するために江戸にのぼってくる。九重は件の三男に連れられて、一度だけ一行を見たことがあった。商館一行も彫りが深い顔立ちだった。
いま九重の周りにいる人々と、どことなく似たような感じを受ける。
しかしなんとも現実味のない話である。
取り敢えず九重は、取っ手が付いた花柄の磁器の湯飲みに淹れられたまま、手付かずのお茶を一口飲んだ。赤い茶は、番茶ともほうじ茶とも違う。とても香り高い物で、しかし慣れないと少しばかり鼻に付く。
──世界の国々は、この召喚魔法を使ってはいろんな人や物を召喚し、召喚された人々は沢山の恩恵をこの世界にもたらした。
──とくに食事のことに関しては、召喚者の知恵により多大な発展を遂げた。
「ほう」
九重の黒い眼が、きらりと光った。仮にも料理人を目指す身。俄然興味が湧く。
「唐揚げ、ハンバーグ、ラーメン、餃子」
「カルボナーラ、ピッツァ、フライドポテト」
「ドーナッツ、ショートケーキ、ミルフィーユにマカロン」
「アクアパッツァ、ラザニア、パエリア、オムライス」
「チョロス、ソフトクリーム、プリン、メロンパン」
「肉じゃが、ブリ大根、皿うどん、カレーライス」
「焼きそば、とんかつ、卵焼き」
周りの男女が口々に言う。
なにかの呪文かな? と思ったが、卵焼きと聞こえたので料理名らしいとわかった。ところで、焼いたお蕎麦は美味しいのかなと、九重は頬をかく。
「ここに挙げた以外にも沢山の料理や調理法が、異世界の者達によりこの世界に伝わった」
白地の外套の男とは違う、深い金色の髪に紺碧の瞳を持つ、赤色の外套にひときわ豪奢な着物を着た熟年の渋い男が言う。
召喚された者達の世界の料理は、とてつもなく美味であった、と。
こちらの世界の料理とは比較にならないぐらいに。この世界の者達はこぞって食べたがった。何年何十年……異世界の料理人気はいまだにブームだ。
そうすると、いつのまにか人々は、
「グルメになってしまっていた」
ここで金色の髪の男がひと息ついた。
「そうすると新たな問題が生まれた」
「新たな問題?」
「うむ。舌が肥えたことにより、人々はさらに新しい料理を求め出したのだ。しかし……」
もともとあまり食事に関して発展していなかった世界である。
いくら異世界の料理を作っていても、圧倒的に経験値も歴史も浅い。新しい味を求めて、少し違う手を加えてみたりしても、教えられた通り忠実に作る以上の味にはならなかった。
「とはいえ、人々の新しい料理を食べたいという欲求は日に日に増してな」
富める者達は金に物を言わせて、世界中の美味といわれる食材を求めた。さらに腕の良い料理人がいると聞けば、問答無用に連れて行く。国家間の争いごとにまで発展したとこもあったという。
そうしてついには禁じ手に手を出そうとした者達もいた。
「禁じ手?」
九重が聞き返せば、金色の髪の男が深く頷いた。
「召喚魔法を使って、異世界の者を呼ぼうとしたのだ」
「えっと……」
不思議そうな顔をした九重に、金色の髪の男は分かっているという風に頷いた。
「召喚魔法というものはな、個人で使うことは許されていないのだ」
誰もかれもが好き勝手に召喚魔法を使っていたら、こちらの世界が異世界のものばかりになってしまう。それだけならまだいいが、異世界の者がこちらの世界を征服するようなことも無いとは言い切れない。
「だから使用できるのは独立した国だけ。さらには国々の持ち回りでしか召喚魔法を使えぬよう各国々で約定を交わしている」
しかしそれを軽んじた者達が違法に召喚魔法を使おうとした。だがすんでのところで取り押さえることが出来た。しかしこのような考えを持つ者はきっとまた出てくる。
そこで各国のトップ達は決めた。公式に召喚魔法を使い、異世界からまだ知らない料理を作れる料理人を呼ぶことを。
「だがな、なかなかうまくはいかなかった」
金色の髪の男は言う。
異世界から召喚した料理人が作る料理は、確かに美味しかった。だが、これといった目新しさは無かったのだ。
各国は持ち回りの番が来るたびに、料理人を召喚した。
そして未知なる料理を作れる料理人を求めての召喚をはじめてから、はやくも何十年と経った。
しかし召喚する料理人達が作る料理は、どれもこれも未知とは言い難かった。
各国はようやく気付いた。過去の召喚者達によって、あらかたの美食は既に普及され尽くされていたんだと。
こちらの世界の人々は絶望した。求めてやまないものは、最初から無かったのだから。
「しかしな、ある召喚者がこう言ったのだ」
金色の髪の男は、ごくりと喉を鳴らした。
「『過去の料理人を喚んでみたらどうだ』と」
「かこ?」
金色の髪の男は続ける。
その召喚者は、日本という国の人間だった。その者がいうには、過去……遠い昔の日本の料理と今の日本の料理はけっこう違うのだ、と。
金色の髪の男は柔らかく細めた目で、九重を見やった。
「その結果、君が喚ばれた。……今更になるが、勝手にこちらの世界に連れて来てしまって申し訳ない。しかし、どうしてもこの世界は未知なる味を欲したのだ」
たかが食事。されど食事。衣食住というように、食事というものは人が生きる為に大切な糧のひとつだ。飽食の時代に生きる者達からすれば、大袈裟にきこえるかもしれない。
しかし戦中では、食事ひとつが兵士達の意気を大きく左右する。
とくにこちらの世界は娯楽という娯楽も少ない。そんななかでぶち込まれたグルメである。召喚者からもたらされた料理には、手の込んだものから手軽でも美味しいものまである。歴代の召喚者達の中には、御丁寧にも貧しい者達でも手が出せるようにレシピを改良した者もいた。
美味しい料理は、いつしか貧富の差を問わない娯楽の一種になっていたのだ。
為政者からすれば、美食を与えることで民衆の不満をいっときでも散らすいいガス抜きという面もある。
「これを見てくれ」
「はい?」
金色の髪の男が懐から折りたたまれた一枚の紙を取り出した。
「過去の日本の料理人を喚んでみたらどうかと提案してくれた者が描いたものだ」
折り目のついた紙には、墨とは違う黒い物で絵が描かれていた。そこには九重にとって馴染み深い、
「武士、ですね」
の、絵が描かれていた。
美しく剃られた月代に、少し太めの髷。髱や鬢は武士らしくすっきりしている。ただ裃を着けているが、どうしてか右腕のほうは脱いでいる。さらにはそのもろ出しの肩から腕にかけては桜の絵が描かれていた。どういった趣向の絵なのか、いまいち判りかねる。
しかしこの絵、九重が知る絵とはだいぶ違う。なによりも目が大きい。浮世絵師のもとに弟子入りしている七番目の兄によれば、目は細いほうが流行りの筈である。ということは、先の日本ではその流行りはないらしい。
「だいたい二百年くらい前に、この絵のような人々が生きていたと、その者は言っておった」
「に、二百年、前……」
九重はぽかんとしてしまう。
二百年。九重がいた時代から考えれば、徳川初代将軍の大権現様がお江戸に幕府を開府したときよりももっと遡るくらい昔だ。途方もない時の流れに、九重は目が回りそうな思いである。
「ふはぁー……、なんだか、すごく、すごいですねぇ」
九重はよくわからなくなっていた。そんな九重を、金色の髪の男達が微笑ましげに見ている。
「さて、話しを戻すが。君……、ええっと」
「あ、名乗りが遅れてしまい、申し訳ありません」
居住まいを正した九重が、若干キリリとした顔で言う。
「私は、旗本は十文字家が九男、十文字九重と申します」
「きゅ、九男!?」
異なる世界でも兄弟九人は驚異の数字であるらしい。
驚きつつも、いちはやく我に返った金色の髪の男が名乗り返す。
「こちらこそ紹介が遅れてしまった。我はこのマディアーノ王国国王ジルバードである」
「おうさま? 王様!?」
今度は九重が驚いた。
日本では帝がおられるため、国王という呼称を使うことはないが、確か国王は国の一番偉い人を指したはず。とんでもない人と話していたのだと、今更ながらビビる九重であった。
「そこにいるのが、召喚魔法を使った筆頭魔導師ラルク」
白地に紫と金の模様が描かれた外套を羽織った男が頭を下げる。
国王ジルバードが次々に紹介していくが、九重の頭をすり抜けていく。情報過多である。これ以上は入らない。
そんなこんなで九重がぽけらっとしている間に紹介は終わった。
「さてコノエ殿」
「ふぁい……あっ、はいっ」
気を抜きすぎていたと、九重は我に返る。
「いっけん万能そうな魔法だが、召喚魔法には様々な制約があってな。時を遡れば遡るほどこちらの世界に滞在出来る期間は短くなる。ラルク」
「はい。今回の召喚魔法は、私を含めた七人もの魔導師及び魔法士が術を展開し、約二百年前まで遡りました。これらを考えれば、コノエ殿がこちらの世界に滞在出来る期間はおおよそ三年前後かと愚考致します」
そういったラルクという成人男は、ぱちんと九重に向かって片目をつぶってみせた。どういった意味なのか皆目見当がつかない。ただ難しそうな仕草だなぁと思う。
金色の髪の男が真摯な眼差しを九重に向けてきた。
「コノエ殿、三年だ。三年間だけ、こちらの世界で君の料理の腕をふるって欲しい」
「三年…」
一気に色んな話しを聞いたせいで、家に帰れるかという重大な事がすっかり頭から抜けてしまっていた。しかし聞いた限りでは三年後には帰れるようだが、一応確認しなければならない。
「あの、三年経ったら私は家に帰れるのでしょうか?」
「ああ。滞在出来る期間が終えれば、自然と元に戻って行く。かつて同じ人物を二度召喚したことが何度かあったが、その者達は元いた場所に帰れたと言っていた」
「そうなのですか。……逆に言えば、三年経たねば帰れぬということになるのでしょうか?」
「うん、ごめんね」
ラルクが苦笑して言い切った。
「ふむ、そうですか」
九重は考える。
三年経てば帰れる。三年経たねば帰れない。どっちにしろ三年間はこちらにいるのは確定だ。
正直自分の作る料理を振る舞うというのには心が踊る。仮にも料理人を目指しているのだから、腕試しをしてみたいし、二百年先の日本の料理も気になる。
もしかしたら、これは絶好の機会なのかもしれない。お江戸の誰も知らない調理法を身に付けれるかもしれないのだ。これを好機と言わずして一体何を言うのか。
九重はうんと頷くと、国王ジルバードに顔を向けた。
「わかりました。十文字九重、三年間御奉公させていただきます」
こうして侍の子は、異世界で奉公することに相成った。