第一章 その5「山間を翔ける爆弾を抱える荒鷲」
長野県松本市 飛騨山脈穂高連峰
北アルプスの峻厳な山々は人を拒むかのように標高が増すにつれ険しくなっていく。標高が百メートル上がれば気温は0.65度下がる。すでに二千五百メートルを超える標高で、ハイマツ帯を過ぎ、登山道を無視して大岩の転がる岩場をトラバースで進んでいた。
さすがに疲れてきた。体は絶えず疲労を訴えていたが、無視できるものではなくなってきた。それでも那智は前方警戒組の指揮を引き続き行い、部隊の進行を遅らせることなく進み続けていた。
途中には岩壁登攀や懸垂下降して越えなくてはならない地形もあった。
そうした場面では山岳レンジャーである那智が隊員達の安全を確保する。ハンマーでハーケンを打ち込みながら先頭を登り、支点を取ると確保器等の器具を使って登山用ロープで連結したバディを組登攀で登らせ、那智はバックパックなどをその場にデポして再び降り、下で登攀の安全を確保する。
登攀するバディを交替で確保しあいながら進む隔時登攀を多用したが、基礎が出来ているだけあり、速度は早い。焦らず確実に登ることが重要だ。
ザイルと自分のハーネスをカラビナで繋ぐ前に自己確保を外した隊員もいたが、那智はそれを見逃さず、不安全事項は起こさなかった。
人一倍登り降りをし、神経を擦り減らしながら前進を続けるが、疲労感を覚えるよりも分遣隊における自分の役割に満足していた。精鋭達の中で彼らの足を引っ張ることを恐れるよりも、役割があり、仲間に貢献できる方が気が楽だった。
そうしてようやく目標の地点へと到着すると、分遣隊長の剣崎が隊を分けた。主力と爆撃誘導を実行する火力誘導班に分かれ、火力誘導班は攻撃目標を見下ろすことのできる位置に監視哨を設ける。
「寒っ」
警戒員として配置に就いた海保3曹が呻く。OPは尾根を外した斜面だったが、強烈な風に吹き晒されていた。
「早くポンチョを出して保温しろ」
那智はポンチョを被って顔をスカーフで覆う。頭部の放熱量は体の約八割で、頭部の保温は低体温症を防ぐ上で重要だ。また山地機動のレイヤリングは非常に難しい。動いていれば体は熱を帯び、立ち止まれば汗が冷え、たちまち体温が下がる。水は空気の約二十五倍の熱伝導率を持つため、湿度をコントロールし、肌から濡れを離す必要があった。ドライレイヤーやベースレイヤーなどレイヤリング用の服はすべて自費負担だが、レイヤリングに妥協は出来ない。
ポンチョは体に直接風が当たるのを防いでくれる。それに加え、一般部隊の官給品にはないゴアテックスのレインウェアも身に着けていた。
ポンチョは雨風を凌ぐだけでなく、偽装に使う事やライトを使う際に光を漏らさないよう遮光するのにも使える他、担架を作ったり、応急浮体を作ったりと意外と汎用性が高く、背嚢の中でもすぐ取り出せる位置にしまってあった。ポンチョをしっかりと被って保温しながら那智達は監視を行った。
攻撃目標は見下ろす平地に存在した。見失いそうなOD色の個人用テントが四つ、綺麗に並べてある。
攻撃目標を捕捉すれば後は火力誘導員の野中の仕事だ。VHFの対空無線機の機能を追加した長距離用の広帯域多目的無線機を背負った野中は航空支援を要請し、火力誘導を開始した。
近藤以下本部班の班員達がJ/PED-1軽量レーザー目標指示測距装置を展開し、目標への火力誘導の準備を整えた。
野中はしばらく無線でやりとりしていたが、日本海上で待機していた空自の支援戦闘機が要請によって差し向けられたことを剣崎に報告した。
那智は寒さに凍えながらもその様子を興味津々で見ていた。航空支援の火力誘導を見るのは初めてだった。声が無線機に通る様にフェイスマスクを外した野中は白い息を吐きながら真剣な目つきで指示を行っている。
「到着まで五分」
野中が短く告げる。LLDRを野中は覗き込んで誘導を開始した。コールサイン・スラッガー01に進入方位や使用兵装などを指示していく。その手際は流石としか言い様が無かった。
情報小隊では前方観測員の任務を担当することもあり、レンジャーでも火力襲撃のために火力誘導のスキルが求められるが、航空火力や艦砲射撃の誘導には専門の教育が必要だった。那智はその様子を目に焼け付けるように見ていた。
「攻撃を許可」
野中が声を張る。すでに接近する戦闘機のエンジンの音が山々の間に雷鳴のように響いていた。戦闘機が進入する方向に那智は目を凝らした。
『スラッガー01、投弾。着弾まで40秒』
「了解」
『照射まで10秒、照射せよ』
「レーザー照射」
野中はLLDRを使って目標に一連の符号化されたパルスレーザーを照射する。
背後に二機の戦闘機の機影が見えた。一瞬にして機体がはっきりと分かるほどの距離に機影はあった。思わず口を開けて驚嘆する。
戦闘機はまるで空気を引き裂くように頭上を飛び抜ける。もちろん本当に爆弾が落とされることはなく、二機は編隊を解いて左右に分かれるとそのまま爆音の余韻を残しながら飛び去って行った。
「スタンバイBDA……ターゲット、デストロイ。ミッションNo.2026E、コンプリート、RTB」
野中は爆撃損害評価を行って支援機に報告すると、すぐに撤収を始めた。
「今のはF-15じゃないか?」
那智は呆れた顔をする。航空自衛隊のF-15J戦闘機は制空戦闘機で敵の戦闘機を撃墜する空戦専門だ。対地攻撃は出来ない。板垣3曹が振り返って剣崎と顔を見合わせると、剣崎は肩を竦めた。
「あれは複座型を改造した戦闘爆撃機なんだ。日本版ストライクイーグルだよ」
剣崎の言葉に那智は驚いた。ストライクイーグルとはF-15の派生であるF-15E戦闘爆撃機のことだ。周辺国の脅威になる爆撃機能(対地攻撃能力)を持たせないために、意図的に対地攻撃能力や空中給油能力を除去してF-4EJを導入した過去があるほど、日本は爆撃という言葉には敏感で、深部侵攻爆撃を任務とするF-15Eは導入されていない筈だった。
「F-2があるのに何故今さらそんな改造を?」
「さあてね。空自の事情には疎いからな」
「偵察機への改造名目の予算で改造してるんです」
撤収する野中が言った。
「空自もやる気なんだな……」
那智は去っていった戦闘機の方向を向いた。音速で飛ぶ戦闘機の姿はすでになかった。
『制限高度ギリギリよ、馬鹿。実戦的な訓練も良いけど、メンバーから外されたら元の子もないでしょうが』
「制限高度は守ってるよ」
爆撃アプローチを終えて上昇したF-15の機内通話で後席から浴びせられた罵声に流して答えた東條征人1等空尉は機体を左にバンクさせ、改めて地上を見下ろした。峻厳な山々が連なる北アルプスを見て東條はまだ見ぬ北朝鮮の地形を想像していた。
『スラッガー01、こちらステイシス。変針。機首方位175。空中給油機コビー13とコンタクト』
「スラッガー01、ラジャー」
東條は早期警戒管制機の機上兵器管制官に応答し、操縦桿を倒してバンクをかけながら4G旋回して機首を南へと向けた。
「スラッガー02、こちらスラッガー01。機体と武器システムをチェック。残燃料を報告しろ」
『ラジャー。02、ステート6・0』
東條機に続いている二番機の機長である大城戸智登2等空尉が応答した。大城戸2尉のF-15はすでに東條機の右後方に位置していた。大城戸は東條の僚機で、東條に続いて地形追随飛行を行い、絶えずポジションを維持していた。
『問題ない』
東條の後席、戦術航法士の木坂七海2等空尉が、太平洋上に待機する空中給油機の位置を確認し、残燃料と風の影響などを計算し、短く断言する。
後席員のサポートは偉大だ。特にこのF-15は今までのF-15と違い、多種多様な任務に対応するため、任務の組み合わせも複雑でパイロットのワークロードは増している。大きく分けても航法、操縦、火器管制、電子戦、サイトや早期警戒機とのデータ処理等々これらのミッションを一人のパイロットでやろうとしても操作機器の簡素化集約化では補いきれない部分が出てくる。それをWSOと分担することでパイロットは機体操作に集中できた。
『どう思うの』
「なにがだ?」
木坂が話しかけてくる。戦闘機パイロットは機種によって性質が出てくる。複座のF-4のパイロットはおしゃべりで単座のF-2やF-15、F-35のパイロットは寡黙だと言われている。この複座のF-15に乗り込むと単座のF-15のパイロットである東條も木坂もよく喋るようになった。
『この機体にこの訓練よ』
木坂とは因縁の仲と言っていい。戦闘機パイロットという職種に女性の登用が解禁されたのは最近で、木坂は航空学生で採用が開始された女性戦闘機パイロットの二期生に当たる。
空戦に置いて小柄な方がGの負担を受けにくく、男よりも女の方が有利な面もあった。しかし、男でも値を上げる訓練についてこれる女は少なく未だに採用された人数は一桁に留まる。
負けず嫌いの勝気で活発な性格の木坂は部隊配備当初は問題児扱いを受けており、東條も手を焼いた。
どこの国でもどの時代でも、軍隊や警察は、男性原理で成り立っている。そうでなければ、敵や犯罪者と戦うことが出来ないからだ。最近は自衛隊もセクハラに神経を使うようになったが、今でも強固な男性社会であることに変わりはない。男性社会の中では、女性の役割は限られている。誰かの所有物か付属品のような扱いをされる。男性原理は、支配欲と強く結びついているからだ。
そんなことに真っ向から反発する木坂は、常に気を張っていて周囲を敵視していた。指導のために後席に乗り込んだ東條をGロックでグレーアウトさせるためにとんでもない機動を行ったこともあった。
そんな木坂に、東條は彼女の性格と空戦技術を切り離して指導することにした。
東條が編隊長を務めた初の緊急発進で中国軍の戦闘機を要撃してから木坂は変わった。仲間を信用し、頼る様になった。あの対領空侵犯措置が木坂の何を変えたのかは未だに謎だったが、今では信頼できる僚機も務める立派なパイロットとなっていた。
東條に対してやけに馴れ馴れしくなったのはそれからだった。空ではもう階級の上下に関わらず敬語を使わなくなっていた。不都合があるわけではないし、地上ではそれなりの分別のある態度なので東條が問題にしなければ、先ほどのように馬鹿呼ばわりすらしてくる始末だった。
『対地攻撃能力が付与されたF-15。慣熟飛行訓練のはずが、内容は空中給油に地形追随飛行。渡洋対地攻撃に精密誘導爆弾の実射。陸自の航空支援』
「F-4だって改で支援戦闘機になっただろ。防衛省も全機種を多用途戦闘機にするって言ってる。偵察機を兼ねた多用途戦闘機に改造されたF-15をいち早く戦力化するためにも、こうした訓練は重要だ」
『今さらそんなごまかしは聞きたくないわ。もう秒読みだとは思わない?』
「秒読みって、“北爆”がか?」
北爆とはベトナム戦争に対するアメリカの本格的介入の第一歩となった北ベトナム爆撃を意味するが、東條達の間では北朝鮮への空爆という意味で暗に使われていた。
まだこの“特別なF-15”が航空自衛隊でどのような運用をされるのかや、この訓練目的について表立って説明されたことはなかった。しかし、このF-15を運用する臨時編成の飛行隊に各部隊から集められたパイロット達は、連日に渡る過酷な訓練やF-2やF-35等の異機種共同訓練を行い、大規模な航空作戦が行われる予感は誰しも持っていた。そして、その対象が、今緊張の高まる朝鮮半島であり、北朝鮮の策源地攻撃を想定していることは薄々感づいていて、各人で北朝鮮の地形や戦力を研究したりもしている。だが、誰もがそれが現実になることを恐れるかのように言及は避けていた。
『私はどちらかというと開戦……いや、再開ね。プラン5027のように北が先手を打つんじゃないかしら』
朝鮮戦争は終わってはいない。終戦ではなく休戦状態であるため、名目上は現在も戦時中であり、緊張状態は解消されていない。それどころか最近は再び軍事的緊張が高まりつつあり、朝鮮戦争の再開も懸念されている。
そこに来て、この連日に渡る訓練と、なによりもこのF-15だ。
RF-4E偵察機の退役に伴う代替の偵察機として一部のF-15DJを改修するという表向きの公表とは異なり、このF-15は米国にフェリーされた後に、そのF-15の部品を新造のF-15E戦闘爆撃機に移植すると言った方が正確な、ほぼ別物となるほどの再生大規模改造を受けていた。
現在、航空自衛隊ではF-15JやF-2戦闘機の近代化改修が急がれているが、年に多くて十二機とそのペースは遅く、間に合っていない。またF-15の一部の初期ロットであるPre-MSIPは近代化改修に対応しておらず、周辺諸国の戦闘機に対抗するには厳しくなりつつあり、後継機が必要だった。そのため、Pre-MSIP機を米国に送り、改良再生して日本仕様のF-15Eとする、という荒業が取られた。
F-15Eの最新機種であるサウジアラビア向けのF-15SAの一歩先を行くこの日本仕様のF-15Eは、アナログ計器が廃され、F-35と同様のタッチパネル式大型液晶ディスプレイを取り入れた新型コックピットシステムに換装されたグラスコックピット化されており、セントラルコンピュータも高性能な最新型となっている。
レーダーも新型の合成開口能力機能を備えたAN/APG-82(V)1電子走査アレイレーダーを装備し、これにより全天候での空対地・空対空攻撃能力を獲得していた。RF-4E偵察機の後継機として偵察機に転用するためだけなら明らかなオーバースペックだ。
F-15Eストライクイーグルは全天候型の戦闘爆撃機で、低高度での高速侵攻任務に対応している。機体の番号や標記こそ元のF-15DJだが、コンフォーマル・フュエル・タンクを装備し、AN/AAQ-33スナイパーXR目標指示ポッドと地形追従レーダー、赤外線センサーを備える航法ポッドを装備する外観はごまかしようがない。
三沢基地第三航空団の機体としてこのF-15Eは今、試験名目で飛行しているが、行っているのは実質、渡洋爆撃──しかも実戦的な地形追随飛行や空中給油、陸自の爆撃誘導員との連携など、危険も伴う非常に実戦的な訓練だった。
「ともかく十中八九、半島有事を想定した事だというのは間違いない」
『このストライクイーグル導入も、それを見越したってわけ?』
「そんな急に降って湧いた計画じゃあないだろうな。F-35で初期ロットのF-15も更新するなんて話もあったが、結局飛行隊も増やすことになったら調達ペースが間に合わない。それにF-35は確かに第五世代機としての能力は優れているが、飛行性能は日本の要撃機向きじゃない。運用コストもF-15よりは上がっているだろうし」
単純な飛行性能を比べるとF-35の航続距離は2220キロ、最大速度はマッハ1・6。対するF-15は機内燃料のみでも2800キロ、F-15Eの最大であれば5750キロ、最大速度は機体重量が増したF-15Eでもマッハ2・5だ。
専守防衛を方針とする日本にはステルス戦闘機であるF-35は抑止力と有事の際のゲームチェンジャーや切り札となるが、平時においては、恒常的な対領空侵犯措置などの任務が主たるため、使い勝手が悪い。
日本はそのため、F-4戦闘機の後継である次期戦闘機選定においてはF-35ではなく、飛行性能ではF-15に近いF-22ラプターステルス戦闘機を求めていたが、機密漏洩の懸念からそれは叶うことがなかった。
「高価なF-35を補佐、補完できるF-15を維持しなくてはならない上、F-15にJASSM-ER(長距離空対地対艦ミサイル)を搭載するマルチロール化も検討されている。そうなると35年も運用し続けていて寿命延長の改修も必要で手間も時間もかかるが、短命な近代化改修よりも、再生して新造の機体を入れるのは納得できる。でもまあ、この半島有事の危機が迫っていることが導入を早めたきっかけではあるだろうな」
『でも早まったとは言っても、ストライクイーグルだってまだたった十四機よ。それに加えてF-2とF-35を航空支援に回してF-15で制空権を確保するとしても空自総出になるわ。中露を睨んで防空態勢も維持しなくてはならないとなると作戦機も武器も足りないんじゃないの』
空自唯一の第五世代ステルス戦闘機であるF-35は一個飛行隊分しか配備が済んでいない。F-2も三個飛行隊だ。
「まあ、課題は山積みだな。でも能力がないわけじゃない」
東條には議論の余地は無かった。やれと言われれば実行しなくてはならない。
しかしこの時期に東條がこのF-15Eに回されたということは、これから起こり得るであろう朝鮮半島有事において自分は制空戦闘を担当することが出来ない可能性があった。
防衛大を出て戦闘機パイロットとなった東條は二十八歳。那覇の第305飛行隊のパイロットとして近年、中国の海洋進出に伴い緊迫の度合いの増す南西方面の防空を担い、中国軍相手にしのぎを削ってきた。それだけに空戦技術には自信があり、本物の戦闘機パイロット――戦闘機対戦闘機の制空戦を制するパイロットになりたいという気持ちが本能的にあった。
「作戦機が足りないとしても、恐らく日米共同作戦になるだろう。自衛隊は米軍の補助的な任務を担うことになる。まあ、そう言っていつまでも胡坐をかいているわけにはいかないが……」
自衛隊は軍隊としては不完全な組織であり、在日米軍を補完する存在でしかなかった。日米同盟が無ければ満足に自国を守れないというのが日本の現状で、東條にはそれが薄氷の上に立っているに等しい状況だと思っていた。
近年、米国も世界の警察の旗を降ろし、自国の利益を優先する方針に転換しようとしていた。経済的損失が大きい場合は、日本を守ってくれなくなるかもしれないという危機感は間違っていない。だからこそ自分達の国は自分達で守るべきなのだ。
『時代は変わるわね……』
木坂は感慨深い声を発した。
「不変なものなどないのさ」
時代に応じて自衛隊も日本も変わらなければならない。最適化や進歩が無ければ淘汰される。
旧式なイーグルは最新のストライクイーグルに化け、航空自衛隊は策源地攻撃能力を取得しようと模索している。女性戦闘機パイロットが自分の後席員を務めるようになり、ステルス戦闘機が、世界の空の覇者になろうとしていた。
空戦にこだわる自分は、古い存在なのかもしれないなと、東條は自嘲気味にマスクの中で顔を歪めた。
二機のF-15Eは日本海に抜け、空中給油機を目指して飛び続けた。