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食えない心  作者: さとー
第一章
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第四話 大切な思い出

 「――とまぁ、こんな感じでブドウとの戦いは終わったわけだよ」

 「ふーん」と、いかにもつまらないといった様子で樒の話を聞いているのは紅葉だ。

 「で、あんたは情けなくもあの向日葵とかいう子に助けられたわけだ」

 何が気に入らないのか、嫌味ったらしくそう言ってくる。

 「なんだよ、お前だって何もできずにこの家で放置されてたくせに」

 そう、ブドウが樒を自身の能力で酔わせ、真弓と胡桃をさらっていったとき、紅葉は一人この家に残されたのだった。何故かというと、ブドウにダガーナイフで刺されて心を食べられないように、樒が気絶した後も紅葉は剣の姿を維持していたらしく、そのせいでブドウは紅葉に危害を加えられなかったからだ。硬度的な問題で剣の状態ならば刺されないらしい。

樒の近くに置いていてもリスクが増すだけと判断したのか、それともそもそも興味がなかったのか、ブドウは紅葉をリビングに放置したままその場を去ったのだそうだ。

 そして放置された紅葉はというと、ブドウが去った後に家へとやってきた向日葵の後を付けてブドウの居場所を探そうとしたものの、魔剣の力を全力で使って駆け出した向日葵を追いかけることはできず、結局ブドウの居場所を探して一人で街をさまよっていたらしい。

 そのことを指摘されると、紅葉は弱ったようにベッドの上にうつぶせになり、大きくため息をついた。

 「はぁー。結局、おいしいところはあの子に全部持っていかれたわけなのよね……」

 「まぁ、確かに情けなくはあるけど全員無事だったんだからよかったと思うよ」

 ちなみに向日葵がどのようにして樒たちの居場所を見つけたかというと、彼女はあろうことか住宅地をまっすぐ走るために家々の屋根の上を移動していたのだそうだが、その折に森の一部から何匹かの鳥が飛び立つのが見えたらしい。そしてそれを見てまさかと思い、進行方向を変えて森へと直行したところ、魔剣の力によって強化された目に一本の木がわずかに揺れているのが見えたのだそうだ。そして上から落下してきた理由はというと、その不自然に揺れる木を見失わないように、さながら忍者のように木のてっぺんを足場にして移動したかららしい。つまり、向日葵は樒が暴れたせいで揺れていた木に向かって森の上を一直線に走り、最後はその木から飛び降りてきたのだ。

 かなり無茶苦茶な話だったが、魔剣の力と、何より実際に樒のもとへ現れたことから考えて本当のことなのだろう。

 「でもー」と、一体何が不満なのか、紅葉は元気がなさそうにベッドの上でぐったりとしている。

 「なんだよ、何が不満なんだ?」

 樒がいい加減我慢できずに尋ねると、紅葉は顔を上げ、机について紅葉の方を向いている樒と目を合わせたかと思うと、そっぽを向いて言い辛そうに言った。

 「だって……折角あんたが食べていいって言ってくれたのに、私、何も食べれなかった」

 「なるほどね……」

 なるほど、納得のいくことこの上ない。紅葉としては心を食べるまたとないチャンスだったのであろう。しかし結局ブドウの心を食べたのはシオンであり、紅葉はそれが残念でたまらないのだろう。

 紅葉はごろん、とベッドの上であおむけに寝転がり、何の気なしに呟いた。

 「あーあ、また樒のことを狙う悪党でも現れないかしら」

 そうすればまた樒が紅葉の力に頼って、結果として心を食べるチャンスが訪れるのに、ということだろう。

 「物騒なこと言わないでよ……そう何度も命を狙われたらたまらないって」

 「でもほら、あんたって不幸体質っぽいし、こんな感じのこと言っておけば本当にそういうことが起きるんでしょ? なんだっけ、フラグ? この前読んだ漫画に書いてあったわよ」

 「やめてよ……怖くなってくるから」

 樒は自分に今まで起こってきた不幸な出来事を思い返して身震いする。その大半はあのブドウという魔剣が仕組んだことらしいが、それ以外でも樒は色々と大変な目に遭ってきているのであった。そのせいか、そんなことを言われれば思わず身構えてしまう。

 しかし、そんな樒でも、今回ばかりは予想外だった。

 昨日ブドウが倒されたことによって気が緩んでいたのだろうか。とにかく、自分では危機管理能力には自信があると思い込んでいる樒はとある人物の襲来を予測できなかった。

 ピンポーン、と聞きなれた玄関のチャイムが鳴る。

 たまたま一階にいたのだろう、胡桃が「はいはーい」と言って玄関へと走る足音が聞こえた。

 誰か来たのだろうか? などと間抜けにも考えていた樒は、下から聞こえてくる声に戦慄した。

 「樒先輩いる?」

 何を隠そう、やってきたのは昨日の勝利の立役者であり、樒が必死に紅葉の存在を隠していた、吹上向日葵である。

 「いるよー」

 「じゃあお邪魔するね」

 胡桃は慣れているのか〝じゃあ〟という言葉には突っ込まず、「どうぞどうぞ」と向日葵を家に上げる。

 部屋の扉に耳を当て、その話声を聞いていた樒は紅葉に、絶対に部屋から出ないようにと強く言ってから、急いで下へと降りた。

 「あ、先輩! 昨日色々あったとかで、少し気になって遊びに来ちゃいました」

 向日葵は当たり前のようにそう言うと、にこりと笑う。

 真弓と胡桃に対しては、昨日の件は強盗に襲われて殺されそうになったところを警察に助けられたという風にしている。いくら気を失っていてほとんど記憶がないとはいえ、流石におかしいと感じたのか、姉の真弓は未だに納得していないようだが、それでも、樒に話す気がないことを感じ取ったのか、しつこく聞いてくることはなかった。

 床に開けた大穴はというと、そこは正直に、紅葉を使って強盗を追い払おうとしたらああなって最終的に返り討ちにあったと説明した。

 「なんでも強盗に襲われたとか。先輩の不幸体質もいい加減冗談じゃすまなくなってきましたね」

 いけしゃあしゃあと笑顔でそんなことを言ってくる向日葵に、樒が若干顔をひきつらせていると、向日葵の隣にいた胡桃がおかしそうに笑う。

 「あはははは、そうなんだよ。全くもう、巻き込まれる私とお姉ちゃんの身にもなってほしいよ」

 もちろん冗談で言っているのだが、それでもやはり樒は多少の罪悪感を抱いてしまう。しかし、それを態度に出しても気まずくなるだけだ。

 「結果そんな風に笑えてるんだから、胡桃も大概メンタル強いよね」

 「まあ、もう慣れたっていうかさ……」

 急に遠い目をし始めた胡桃に、樒はさらに申し訳なくなりながらも、無理やり話を変えた。

 「昨日のことなら僕も気絶しててあんまり覚えてないけど、覚えてる範囲でなら話すよ」

 そう言って樒は冷蔵庫からボトルコーヒーを取り出すと、コップを三つ取り出してコーヒーを注ぐ。自分のものはブラック。胡桃のものはミルクと砂糖をたっぷりだ。そして向日葵のものには砂糖を少し入れた。それらをリビングのテーブルの上に置くと、椅子に腰かけてここで話すという態度を明確にする。樒の部屋に行きたいとでも言われたらまずいので、二階には行かせない算段である。

 胡桃も樒の意図が伝わったのか、はっとしたような表情になると、向日葵の方を向いて言った。

 「向日葵ちゃん、私は今からお姉ちゃんとお昼ご飯の買出しに行ってくるから」

 全然伝わってなかった。

 そして最後に、自分より背の高い向日葵の耳元に背伸びをしてこっそりと言う。

 「しばらく帰ってこないから、頑張ってね」

 その直後にちらりとこちらを見たので、わざと聞こえるように言ったのかもしれない。樒は心の中で、胡桃はそっちの味方なのか、と裏切られたような気持ちになる。

 向日葵も向日葵で少し恥ずかしそうに、小声で「ありがとう」と言う。

 「おい胡桃、食材ならケフィアとヨーグルトがあるだろ。あとチーズとか牛乳も。わざわざ買出しになんて行かなくていいって」

 胡桃はじとーっとした眼差しで樒の方を見ると、呆れるように言った。

 「はぁ……お兄ちゃんってば最低だね……大体、ケフィアはお母さんのでヨーグルトとチーズと牛乳は胡桃のだよ。あ、たまに減ってる時があると思ったけど、もしかしてあれってお兄ちゃんだったの?」

 あの大量の乳製品がすべて妹のものだったとは全く知らず、ちょくちょく小腹がすいたときに食べていた樒だったが、そこは真顔で嘘をついた。

 「全く身に覚えがないからきっと乳酸菌の性質的な問題で減ったんじゃない? ほら、分解とかしそうだし」

 あまりにわざとらしすぎて嘘だとばれたのだろう。胡桃は頬を膨らませると、

 「お兄ちゃん、あとで話があるから」

 そう言って、真弓を呼びに二階へと上がっていった。

 リビングから胡桃の姿が消えると、向日葵がおかしそうにくすくすと笑う。

 「いいんですか? 怒らせちゃって」

 「向日葵ちゃんほど怖くないからいいんだよ」

 冗談めかしてそう言うと、向日葵は先ほどの胡桃のようにわざとらしく頬を膨らませて抗議する。こんな冗談を言えるのは、ブドウの件で向日葵に対するわずかな疑念が解けたからだろう。向日葵は本当に姉の楓が大好きで、楓を死へと追いやったのはブドウだったのだ。それに、ブドウのことは魔剣であるシオンと紅葉を除けば二人だけの秘密である。秘密を共有し合えば、不思議と距離が縮まる。

 「もう、先輩いつもは私のこと怖くないって言ってくれるじゃないですか」

 「僕は嘘つきだからね。それと、そういうあざといのは胡桃だけで十分だ」

 樒の言葉を聞き、向日葵はふくらました頬をひっこめる。

 「胡桃ちゃんみたいに振る舞えば私も大切にしてくれると思ったんですけど、だめですか」

 残念そうにそう言いながら、ようやくリビングの椅子に腰を下ろした向日葵を見て、樒はとりあえず話はここでできそうだ、とほっとする。

 「そんなに大切にしてるかな?」

 樒としては別段そんなつもりはなかったので、素直に尋ねた。

 向日葵は、少しうらやましそうに笑うと、両足を揺らした。

 「してますよ……あんなに必死になってる先輩、初めて見ました。先輩があんな声で叫ぶなんて、初めて知りました」

 あの時、駆け付けた向日葵は樒が言葉にならない叫び声を上げているのを聞いていたのだろう。

 「家族だからね」

 ごまかすようにそう言う。

 わずかな沈黙ののち、二階から真弓を連れてきた胡桃がリビングに入ってきた。

 「それじゃあ、胡桃たちは買い物に行ってくるからね」

 姉と出かけることができてうれしいのか、胡桃は急かすように真弓の手を引いている。

 真弓は引きずられるように歩きながら、樒と向日葵の方を見ると、つり目がちなのに覇気のないその独特のまなざしで言い放った。

 「樒、私たちがいないからって向日葵ちゃんを部屋に連れ込んだりしちゃだめだから」

 途端に向日葵は顔を真っ赤にし、樒も飲んでいたコーヒーを噴き出す。

 「ちょっ、姉ちゃん!」

 抗議の声を上げたところで樒ははっと気づく。これは恐らく向日葵が樒の部屋に入りにくいようにしたのだろう。

 妹とは違い気の利く姉に心の中で感謝しつつも、表面上は軽く怒っておく。

 「そんなことしないから、ほら早く行ってきてよ」

真弓は仕方ないから最低限のことはしてあげた、といった表情で胡桃に引きずられていった。最後に「いってきまーす」という胡桃の元気な声が聞こえたかと思うと、玄関のドアがしまる音が聞こえ、リビングには樒と向日葵だけが残されたのであった。

もっとも、二階の樒の部屋には紅葉がいるのだが、もちろんそれを向日葵に知られるわけにはいかない。話がややこしくなりそうだし、その姿が楓に酷似しているからだ。それに、タイミングを逸したということもあるだろう。今更見つかろうものなら、向日葵からすれば樒が楓の姿をした魔剣を隠していたことになる。どうなるかは予想もできない。

「ふふっ、本当に胡桃ちゃんは真弓さんのことが好きですね」

真弓の台詞なんてなかったかのように、先ほどまで赤らめていた顔をやんわりとしたものに変えると、向日葵はそんなことを言いだした。

「そうだね、僕にもあれくらいなついてくれると嬉しいんだけど」

軽い口調で樒はそう言ったが、向日葵からの反応はなかった。暗い顔でコップに注がれたコーヒーを覗き込んでいる。

ここで樒は気が付いた。

向日葵は姉を亡くしたのだ。ブドウというすべての元凶を倒したものの、その心はやはり未だ晴れることはないのだろう。なんせ、あれほどの怒りをブドウに持つほどに向日葵は姉である楓のことを大切に思っていたのだ。

それを疑い、さらには向日葵が楓を殺したのではないかとすら考えていた樒は、自分の愚かさを呪った。

向日葵は顔を上げることなく、コップの中を覗いたまま、震える声で言った。

「お、お兄ちゃん……」

突如放たれた意味不明な言葉に、樒の口から思わず疑問の声が出た。

「え?」

言った張本人はというと、恥ずかしそうに顔を上げて、

「す、すいません……いや、先輩が胡桃ちゃんになついて欲しいということなので、もしかして妹とかが好きなのかなって……でも、やっぱりこれは恥ずかしいです……」

「いやいや、違うから。別にそういうのは求めてないから」

 慌てて否定しながら、内心呆れる。なんだかんだいって、結局一番に向日葵の頭に浮かぶのは樒のことなのだろう。自分がそれほどまでに好かれる理由を未だ理解できない樒は、それゆえにその好意が受け取り辛いものでもあった。もちろん、その好意を受け取らない理由はそのほかにもたくさんあるのだが。

「でも、もし私と先輩が一緒になったら、私は真弓さんのことを〝お姉ちゃん〟と呼べるんですよね……それは、なんだか、いいですね。またお姉ちゃんができるなんて夢みたいです」

呆れさせられたと思えば、今回は本当に姉の楓のことを思って儚げな表情になっている。やはりいつまでたっても、樒は向日葵に振り回されるのは変わらないようだ。

なんだか暗い雰囲気になりそうだったので、しばらくの間を置いて話を変えるついでに樒は今まで聞き損ねていたことをきいてみた。

「ねぇ、向日葵ちゃんはさ、いつシオンと出会ったの? 昨日の戦いとかを見ているとなんだか慣れているように感じるんだけど」

昨日の戦いの中、向日葵は終始ブドウを圧倒していた。それは喧嘩すらろくにしたことのない樒の目にも明らかだ。

向日葵は少しも言い辛そうにはせず、まるで昨日食べた朝食を思い出そうとするかのような気軽さで頭をひねった。

「えーっと、私が中学に上がってすぐのころですかね。だからもうシオンとは出会ってから一年以上になります」

「ってことは、もう一年以上も魔剣と戦い続けるってこと?」

一年――それが長いのか短いのかは樒には分からないが、少なくとも向日葵にとってはすでにそれが当たり前になっている様子だ。

「そうなりますね」

 向日葵はなんてことないことのようにそう言う。

そして、樒は一番聞きたかったこと、もっとも向日葵とシオンの核心に触れるであろうことを聞いた。

「向日葵ちゃんはさ、何でそんなことしてるの?」

まっすぐに向日葵の目を見て尋ねると、向日葵は口元へ運んでいたコップを止め、一度テーブルの上へ置いた。

そして、飛び出た答えはよく分からないものだった。

「それが……シオンとの約束だからです」

「約束?」

思わずその言葉を問い直してしまう。

「そうです。私はシオンを拾ったときに約束したんです。魔剣を狩るために協力することを」

「どうして、そんな約束を? 危険だとは思わなかったの?」

そんな約束をしてしまっては、自分に危険が及ぶということが想像できなかったのだろうか? いや、もしかすると、協力しなければそのまま心を食べるとでも脅されたのかもしれない。もしそうならば、必要のない戦いに巻き込まれてふびんなことこの上ない。

しかし、向日葵は自嘲気味に笑うと、顔をほんの少し下に向けて言った。

「なんでもいいから……他人とは違う何かが欲しかったんです。何か、自分が特別であると思えるような、はっきりと自分と他者の区別がつけられる何かが……」

愚かだ、とは口が裂けても言えなかった。なぜならその気持ちは誰しもがもちうるものだからである。非日常に憧れ、自分が何かに選ばれた特別な存在であることを夢見る。そして樒もまた、自分が不幸な目に遭うたびに悲劇の主人公のような気分に浸った時もあった。そうでもしないとかつての樒は平静を保てなかったのだ。

高校生になった今でこそ、自分が経験してきた悲劇は世界中にあふれていて、むしろそれ以上の悲劇もこの世には存在することを理解している。

ほとんどの人間はいつか自分が特別な存在ではないということに気が付いてしまう。

だがしかし、中学生になったばかりだった当時の向日葵がそれに気づいていないのも無理からぬことだろう。

だからこそ、樒にはシオンを拾った時の向日葵を愚かだと責めることはできなかった。

「そう……まあ、理由が何にせよ、そのおかげで僕は助かったんだ。改めてお礼を言うよ。ありがとう」

そう言って頭を下げると、向日葵は恐縮そうに体の前で両の掌をぶんぶんと振りながら、恥ずかしそうに言った。

「い、いえ、そんな……私は私のやりたいようにやったわけですし……それにそもそも私がもっとちゃんとしていれば、もっと早く片が付いたはずなんです……ただ、それでも、先輩の感謝の気持ちに甘えるなら……約束通り私のこと……〝向日葵〟って呼び捨てで呼んで、欲しいです……」

忘れてくれていればよかったのだが、やはり向日葵は覚えていたようだ。正直な話、慣れない呼び方で呼ぶのは気が進まないが、それでもやはり頑張った者には何かが送られるべきだろう。少なくとも樒はそう思う。だから樒はその名を呼んだ。見栄を張って平静をよそいながら、彼女の望むものを与えたのだった。

「分かったよ……向日葵」

その日、岩槻家のリビングに、秋という季節には似合わないあたたかな笑顔の花が咲いた。



『ねぇ樒、私たちくらいの歳になればさ、自分たちが特別な存在じゃないことになんて気が付いてしまうと思うんだ。でもさ、だからといってそうなりたいと思うのがおかしいってことにはならないと思わない? 異世界ファンタジーの主人公に憧れるのも、触れてはいけない禁忌に触れようとするのも……そして、誰かにとって特別な存在でありたいって願うのも、結局は全部同じことだと思うの。かくいう私も、他人とは違う特別な存在になりたくて周りから浮いてしまうような言動をとっているのかもね。ま、こんなこと、大昔にえらい心理学者とかがすでに言っていることなのかもしれないけど。とにもかくにも、人間って特別って言葉に憧れるものだってことだよ。……さて、ここで質問です。わたくしこと吹上楓は――君にとって特別な存在になれたかな?』

彼女にとって特別なのであろう紅葉きらめく景色を背に、かつて彼女はそう尋ねた。

その時は答えることができなかったその質問に今度こそ答えようとしたところで、いつものようにその夢は覚めたのだった。

「おはよう、樒」

湯気の立つカップを片手に、髪を下の部分で束ねた真弓が二階から降りてきた樒を見てそう言った。

「おはよう、姉さん」

リビングからバーのカウンターのように位置しているキッチンで朝食の用意をしている胡桃にも挨拶を飛ばしておく。

「おはよう、胡桃」

胡桃は火を使っているようで、振り向かずに間延びした返事を返した。

「おはよー」

フライパンの音とその臭いから察するに今日の朝食のおかずはウインナーのようだ。

「紅葉ちゃんは?」

真弓が樒の方を見ずに、テレビから流れる朝のニュースを見ながら尋ねる。

「まだ寝てるってさ。ご飯は後でレンジで温めなおしてから食べるってさ。なんだか最近どんどんだらしなくなってる気がするよ」

「そうね、でも私が気になってるのはそれと反比例するように樒が元気になってること。以前に比べて、明るくなってきた」

樒としては別に悪いことではないと思うのだが、何故か真弓は不機嫌そうに樒とは目を合わせずテレビの方を向いたままだ。そして、少し間を開けてから、テーブルの上に用意してあったコーヒーに樒が口を付けた瞬間に再び口を開く。

「紅葉ちゃんといかがわしいことしてないよね?」

「っ⁉ ごほっ! ごほっ!」

いきなり投下された爆弾に、コーヒーを飲んでいた樒がむせる。

「してないよ……」

「そう、ならいいけど」

胡桃ができた朝食を運んできたからか、真弓は話をあっさりと切り上げた。

胡桃は朝食を運ぶとともに席につき、両手を合わせて「いただきます」と言う。それにならって樒と真弓が手を合わせて「いただきます」と言う。いつもと変わらない、静かな食事のスタートだ。

しばらく黙々と箸を進めていると、胡桃が思い出したように声を出した。

「あ、そうそう、お兄ちゃんには言ってなかったけど、今日の三時頃にやっと床の修理屋さんが来るって。お母さんが手配してくれたみたいで、ついでにそのせいで作業が遅れて研究室に泊まるのが延期になるとか」

樒の母親は大手企業の研究部門で働いており、子供三人を養うため、さらには自身が熱心な研究者であるため、しばしば研究室に長期滞在する。

「そうか……だとしたら僕も家にいた方がいいの?」

「いやいや、家には私がお留守番してるからいいよ。お兄ちゃんは約束通り紅葉さんとお出かけしてきて」

「そうか、分かったよ」

今日は土曜日。ブドウとの一件があってからちょうど一週間が経過している。あれから特に何が起きるわけでもなく、変わったことといえばちょくちょく向日葵が家に遊びに来て紅葉の存在がばれやしないかとひやひやさせられるようになったことと、紅葉が日を追ってだらしなくなっていることだろう。

問題ばかりだった樒の人生ではなかなか穏やかな一週間だ。それでも強いて問題を上げるとすれば、紅葉の暇つぶしがないことか。しかしそれも今日で解決する。今日は紅葉の暇つぶしの道具を買うために二人で出かけるのだ。向日葵も今日は用事があるということで家に来ることはないので絶好のチャンスだといえよう。

結局紅葉が起きてきたのは昼の十二時になりかけたころだった。もはや朝食とは呼べないそれをけだるそうに口に運ぶのを見届けながら、樒は軽い昼食をとる。

「何だか最近元気ないね。もしかして僕が寝てる間に僕の心でも食べようとしてるんじゃないよね?」

軽い冗談のつもりで言ってみたが、紅葉の反応は薄く、

「ないない」

と言って片手を横に振るだけだった。

「今日は遠出するから早めに支度してくれよ」

今日向かうのは秋葉原だ。埼玉県の中でも田舎の方に位置するこの町からは遠くなってしまうが、考えがあってのことだ。まず一つに、暇をつぶせる時間とそれにかかる費用を考えた結果、樒の中では携帯ゲームがもっともコストパフォーマンスがよいのではないかという結論に至った。買うものがゲームと決まったなら、それにもっとも都合がよいのは秋葉原だろう。加えて、紅葉のオレンジ色に輝く髪の毛は中々に目立ってしまう。しかしあの町ならばぎりぎりごまかせそうな気がしないでもない。樒はあまりそっち方面のことには詳しくないのだが、休日の秋葉原にはコスプレイヤーなる人々が見受けられると聞いたことがあった。

ちなみに初めは原宿など奇抜なファッションがはやっている場所も考えたが、あそこには基本的に洋服しか売っていないようなイメージがあるので却下となった。

「えー、家から出たくない……」

完全に引きこもりと化している紅葉を呆れたように見つめる。

「はぁ……紅葉が暇つぶしの道具が欲しいって言ったんでしょ? それを買いに行くんだから少しは嬉しそうにでも……」

と、ここまで言ったところで、樒の口が止まった。

目の前で未だに寝ぼけたような目をしていた紅葉が、その目を大きく見開いたのだ。

「ど、どうしたんだよ」

「そっか、今日って外に出かける日だった……」

「あれ? 忘れてたの?」

この一週間、紅葉の目立つ容姿など、色々と頭を悩ませていたのに、忘れられていたとはがっかりだ。

「ちょっと! だったら何で早く起こしてくれなかったのよ!」

急に紅葉は大声を出したかと思うと、テーブルに広げられた遅めの朝食をあっという間にたいらげ、さらには樒の分の昼食まで食べつくしたかと思うと、リスのように食べ物でほっぺたを膨らませながら、仁王立ちで言った。

「ふぉふぁ! ふぁふぁふふぃふふぁふぉ!」

「ごめん、なんて言ってるのか全然分からない」

紅葉の声が聞こえたのか、キッチンの方で洗い物をしていた胡桃がこちらを振り返り間抜けな声を出していた。

「ふぇ?」

ごくん、と口の中の食べ物を一気に飲み込み、紅葉はきれいなオレンジ色の目をきらきらさせて言い直した。

「ほら! 早く行くわよ!」

急に元気になった紅葉に少々呆れながらも、不思議と悪い気はしない樒だった。



 ふと気づくと、電車に乗っていた。

『電車に乗っているとさ、不思議な気持ちになるの。ほら遠くの景色ってゆっくり流れていくけど、近くの景色ってすぐに見えなくなるでしょ。あ、そうだ、その前にさ、知ってた? 私と君って小学校の時からずっと同じクラスだったんだよ。君が私の妹を助ける前から、そしてそれが縁になって家族ぐるみの付き合いを始める前から、私は君のことを知っていた。え? 電車の話はどこにいったのかって? ふふっ、まあ聞いてよ……そうそう、それで、とにかく私は、君が思っているよりもずっと前から君のことを知っていて、そして見ていた。友達のいない小学生の君が一人で砂のお城を作っていたのも、そしてそれをガキ大将みたいなやつらに壊されていたのも、遠くから、まるで電車の窓から遠くの景色を眺めるように見ていた。ゆっくりと、君のことを見ていた。だけどある日を境に、君が突然窓のすぐ近くにまでやってきたの。だからね、しょうがなく私は窓のすぐ近くの景色になった君を見ようとした。そしたらね、びっくり……すごく速いんだよ。君が、目を離したらすぐにどこかへ行ってしまいそうなほどに速く私のもとを通り過ぎていこうとするの。だから私は、君から目が離せなかった。君が、私の乗る電車のはるか後方へと行ってしまっても、それでも見失わないように、私は君から目を離さなかった。そしていつからかな、君はいつの間にか電車の中に乗り込んできやがったんだ。びっくりしたよ、私は。でもね、同時に安心したんだ。もう君を見続けるようなことはしなくてよくなったんだって。だって君はもう私の目の前の座席に疲れ切った様子で座っていて、過ぎ去った景色になるなんてことはなくなったんだもん。……さて、前置きがかなり長くなりましたがここで質問です。今でこそ疲れ切っている君は、もしその疲れが取れてしまったら、電車から降りちゃうのかな?』

車内アナウンスから、そんな長ったらしい声が聞こえてきた。いつだったか楓と二人で電車に乗った時に訊かれたことだ。たしかあの時はぶっきらぼうに「よく分かんないよ」と答えた気がする。今言えるのは、結局先に電車を降りたのは楓の方だったということだ。そして、樒は今でもその電車に乗り続けている。必死に、通り過ぎようとする景色から目を離さないように。

山手線でもあるまいし、一周してまた元の場所に戻ってくるわけがないことは分かっている。

楓は死んだはずなのに、この電車は一体どこに向かおうというのか。

樒はぼんやりと外を流れる景色に目を向けた。

外には見慣れた埼玉県の田舎の景色が見える。

しばらくすると、車体を軋ませるような音を立てて電車が停まった。駅の看板には守ってやりたくなるような文字で『胡桃』と書かれている。

樒は降りなかった。

電車が出発する。

しばらくして、電車が再び停まった。駅の看板には頼りがいのある文字で『真弓』と書かれている。

樒は降りなかった。

電車が駅を出る。

またしばらくして、電車が停まった。駅の看板には何かを必死に求めるような文字で『向日葵』と書かれている。

先ほどの二駅よりも長い間電車は停まっていたが、樒は降りなかった。

ようやく電車が動き出す。

電車は急に進行方向を変えると、しばらくして四つ目の駅についた。駅の看板には、どこかで見たのとそっくりな字で『紅葉』と書かれている。

樒は――――。

「樒! 樒!」

耳元で静かに叫ばれて、樒は目を覚ました。

窓からは暖かい日差し、そして時折揺れる車体がまるでゆりかごのように感じられたのか、樒は電車の中で眠ってしまっていたようだ。

隣に座る紅葉は怒った様子で話しかけてくる。

「もう、なに寝てるのよ。私は電車に乗るの初めてなんだから……それで、今日行くって言ってたのって秋葉原っていうところよね? さっきアナウンスで言ってたんだけど、次は秋葉原らしいわよ。どうするの? やっぱり次の駅で降りるの?」

一体何の夢を見ていたのか思い出せず、寝起きでぼんやりする頭のまま樒は答えた。

「ああ……降りるよ」

電車で一時間ほどかけてやってきた街には、土曜日ということもあってか人が多い。それほどきたことがあるわけでもないのでそれほど詳しいというわけでもないが、初めて来た紅葉よりはましだろう。樒は紅葉よりも半歩前に出て適当な店を探す。

 いくら秋葉原といえども年中コスプレをしている人がいるわけではないらしく、たまにメイドの格好をした人がチラシを配っているくらいだ。

 それゆえに樒が思っていたよりも紅葉の髪色は目立っていた、先ほどからすれ違う人の視線をもろに感じる。

 当の紅葉はそれほど気にしていないようで、初めて見るのであろう背の高い建物の群れに見入っている。

 物珍しそうにきょろきょろとあたりを見回しながら歩く紅葉が心配で、樒は思わずその手を握っていた。

 「ほら、はぐれるよ」

 紅葉はいきなり手を握られても嫌な顔をすることはなく、田舎者丸出しの行動が恥ずかしかったのか、少し照れながら笑った。

 「あはは、ごめんごめん」

 紅葉の手を引き、目についたゲーム屋へと入る。どうやら中古の品も売っているらしく、特に新品である必要のない樒にはありがたい。

 ここに来る間に、紅葉がテレビゲームや携帯ゲームについてどれほど知っているのかを尋ねたところ、ある程度の概要は知っているがやったことはないとのことだった。

 「好きなゲームを……そうだな、二つ選んでいいよ。もちろんカセットの方でね。本体は同じのだと助かるかな。違うのだとお金がかかるから」

 「分かったわ」

短くそう答えると、今度は紅葉が樒の手を引きながら店内を回り始める。よっぽど楽しみだったのか、ちゃんと話を聞いていたのかあやしいくらいだ。

 あとは紅葉が好きなゲームを選んでそれを買うだけである。

 樒は基本的に無趣味で、二、三か月に一度漫画を買うくらいしかお金を使わない。よって毎月もらっているおこずかいがたまりにたまって今日は金銭的にかなりの余裕を持って秋葉原まできたのだが、それでもこれからどれくらいのペースで紅葉の暇つぶしを買うことになるのか分からないのだ。節約しておいて損はないだろう。

 と、そこまで考えたところで樒はふと思い至った。

 これから――一体いつまで紅葉と一緒にいるのだろうか? 

最近はもう諦めたのか、紅葉は心を食べさせてくれと交渉してくるようなこともない。一週間前に向日葵たちの手によってブドウが倒されて以来、樒は今まで通り学校に行き、そして帰ってくれば紅葉が家にいる。紅葉が家に住むようになって二週間ほどが経過したが、すでに紅葉は家に馴染んでおり、胡桃とも真弓とも仲良しだ。女が三人寄ればかしましいとはよく言ったものだと感じさせられるばかりである。そして毎晩一緒のベッドで眠る。この二週間の間にずいぶんと会話をして距離が縮まった気がするが、それでも紅葉は魔剣なのだ。今の関係性がずっと続くのだろうか?

「まあ、向日葵とシオンのことを考えれば、大丈夫か……」

樒はまとまらない思考を、一年以上一緒にいるという向日葵とシオンのことを思い出すことで無理やり押し込めた。

「ん? なんか言った?」

人口密度の高い店内でも樒の独り言が聞こえていたようで、商品の並べられた棚の下の方を見るためにかがんでいた紅葉は、首だけを回転させてこちらを見上げてきた。

オレンジ色に輝くその瞳には樒が映っている。樒はそれを掻き消そうとするかのように言った。

「何でもないよ。ほら、立って、他のお客さんがここ通ろうとしてるから」

 棚と棚の間は狭く、人が一人かがむだけで通れなくなるほどだった。

 通行の邪魔になっていた紅葉をその手を引っ張って立たせると、太った男がその脇を通ろうとする。

 やはり紅葉のせいで通れずにいたようなので、樒は軽く頭を下げた。

 すると、その太った男はイラついた顔で樒を無視し、代わりに紅葉に軽く肩をぶつけてから小声で独り言のように言った。

 「クソが、いちゃつきやがって、邪魔なんだよ……」

 魔剣ではあっても、人間の姿をしているときは見た目のままの女の子だ。体の大きな男に肩をぶつけられた紅葉は、小さく悲鳴を上げて樒の胸に倒れてきた。

 「ちょっ、なによあいつ……そりゃあ私も邪魔だったけどさ……」

 じとーっと向こうへと歩き去ってゆく男の方を見ながら紅葉が不平を漏らす。

 「あ、ごめん」

 紅葉は自分が樒に抱き付くような形になっているのに気が付いたのか、慌てた様子でその身を離した。

 しかし、樒はそんなことにも気が付かず、細められた目で太った男の背中を睨みつけていた。

 「……樒? どうしたの? 顔、怖いわよ」

 紅葉の心配そうな声で、我に返る。

 「ん? ああ、大丈夫だよ。っていうか、紅葉こそ大丈夫?」

 「大丈夫よ、あのくらい。それに、あんたが抱き留めてくれたしね」

 紅葉はそう言っていたずらっぽく笑うと、再び樒の手を握って次の棚へと向かった。

 胡桃の買い物に付き合わされることがたまにある樒なので、女の子の買い物とは時間のかかるものだという認識はちゃんとあったのだが、どうやら胡桃は短い方だったようだ。

 それから二人は四時間ほど目についたゲームショップを回り、晩御飯までには帰ってくるように、という真弓のいいつけをギリギリ守れるか守れないかという時間帯にようやく買い物を終えた。

 紅葉は満足そうに、三本のゲームのカセットとその本体の入った袋を抱きしめるようにして持っている。カセットは二つまで、という話だったのだが、最終的に残った三つのゲームを前に、あまりにも真剣な顔で悩む紅葉を見かねて三つとも買ってあげたのだ。

 樒は帰りの電車の中で、ふとかつて楓に誕生日プレゼントを買ってあげた時のことを思い出した――。

 『樒、突然なんだけどさ、今日は私の誕生日です。今日君を呼び出してこうやって買い物に来たのにはそれなりの理由があるってこと。さてさて、女の子の誕生日を忘れていたあげくに何も用意していない君に、優しい私がチャンスをあげる。ここにイチョウとカエデの葉をあしらった二つの髪留めがあります。…………どっちかでいいから、欲しいな』

 樒がどうしたかは、言わずもがなだ。

 


 帰りの電車に揺られて一時間。その間、満足そうにゲームの入った袋を抱きかかえ、紅葉は眠りこけていた。初めての遠出で疲れたのだろうが、昼まで寝ていたことを考えるとやはりだらしないと思ってしまう。とはいえ、行きの電車では樒の方が寝ていたので何も言えないのだが。

 電車は背の高い建物が所狭しと並んでいた秋葉原を離れ、埼玉県へと入り、樒たちの住む田舎の方へと向かっていく。外の景色はすでに夕日で茜色に染まっており、遠くには赤く色づいた山々が見えていた。ゆっくりと後ろへ流れていくその景色を見ながら、樒は再びいつの間にか楓のことを思い出していた。

 ようやく落ち着いた日々を送っているからだろうか、どうにも楓のことを思い出してしまう。

 『ねぇ樒、もし目の前で誰か大切な人が殺されるとして、それを止めるには殺そうとしている人を殺さなければいけないとする。そんな状況になったら君はどうするのかな? 相手を殺してでも大切な人を助ける? それとも、人殺しはいけないことだからといってあきらめる? ああ、こんな質問は重要じゃないんだよ。私が言いたいのはさ、結局どちらを選んだとしても君にはつらいことしか待っていないってことだよ。大切な人を見殺しにするのも、誰かを殺してしまうのも、精神的苦痛の大きさに差はあれど、結局君は傷ついてしまう。なんだかさ、とっても理不尽だと思わない? みんながよく言うように、いっつも真面目な人が損をする。私はね、そんなのおかしいって思うんだ。でもさ、そんな真面目な考えを持っていてもいいことないってことも分かってる。そんな矛盾の答えを、私は君に見たような気がするの。いじめられている誰かを助けたせいで代わりにいじめられて、不良に絡まれている人を助けようとしたせいで不良に殴られて、それなのにそれで助かった人には助けてもらえない君の姿を見てね。分かってるよ。自分のためなんだよね。だから同情はしないし心配もしない。だけど同時に君がどれだけ大丈夫だと言おうとも、私は君が苦しんでいることを知っているし、いくら君が強くともその苦しみに変わりはないことを私は知っている。だからさ、その……なんていうか……今夜は私にいっぱい甘えていいんだぜ?』

 前置きが長いことはいつものことで、話すことより聞くことの方が好きな樒にとってそれはありがたいことだったが、しかしそんなことは関係なしに思うのだった。散々哲学めいたことを言っておいて、最後に照れたように本音を言うのはずるいんじゃないかと。

 電車が突然大きく揺れた。

 電車の揺れに少し遅れて、紅葉が頭を樒の肩に預けてきた。そうとうお疲れなのか、起きる気配は微塵もない。

 目を閉じているその姿は、オレンジ色の瞳が見えないことによって楓にさらに似ている。髪の毛の色を黒に染めれば、彼女は本物の楓になってしまうのではないか? そんな幻想さえも抱いてしまう。

 そんなことはありえないと分かっていながらも、樒は駅につくまで紅葉のオレンジ色の頭に肩を貸していた。

 二人が電車を降りるころには辺りは暗くなっており、普段なら胡桃が晩御飯を作り始めている時間帯だった。

 晩御飯、待っていてくれたらいいな、などと考えながら街灯の照らす道を歩いていると、通りかかった公園の方から笑い声が聞こえてきた。

 そっちの方を見れば、よくこの公園にたむろしている数人の不良が下品な笑い声を上げながらこちらに歩いてきている。

 関わりたくなかったので、紅葉の手を引いてその場を離れようとすると、不良たちの中で最も体つきのいいリーダー格らしき男が声を掛けてきた。

 「おい! 逃げんなよ!」

 その男の声に反応するように、周りにいた不良が笑い声を上げる。

 思わず足を止めてしまった樒の方に不良たちはゆっくり歩いてきたかと思うと、二人を取り囲んでにやにやといやらしい笑いを浮かべた。

 樒は思わず学校で自分をいじめていた連中を思い出した。最近はどこをほっつき歩いているのか全く学校に来なくなったので忘れかけていたが、そいつらよりも一回り体の大きな目の前の不良たちは、体つきは違えどそいつらと似たような表情をしていた。自分よりも弱いものを見つけてはいたぶり楽しむ最低の表情だ。

 「ねぇ、君ってたまにこの公園通っては俺たちの方を睨んでたよねぇ?」

 リーダー格らしき男がそう言うと、再び周りからは笑いが起きる。一体何が面白いのか分からないが、もしかするとその男が喋ったら笑わなければいけないというルールでもあるのかもしれない。

 笑い声が収まってくると、次は金髪のいかにも軽薄そうな男が口を開いた。

 「しかもこいつ、毎回可愛い子と二人で歩いてんの! しかも違う女と! やばくね?」

 大げさにそう言うと、周りの数人は口々に「うらやましいねぇー」などとヤジを飛ばしてくる。

 違う女というのは向日葵と胡桃と真弓のことだろう。もっと前なら楓も入っているかもしれない。そして今は紅葉である。

 周りの男たちがその話で盛り上がり始めた中、リーダー格の男だけは樒の方を向くと、軽く腰を曲げて、自分より背の低い樒に視線を合わせてきた。

 「なぁ、質問に答えろよ? 君さぁ、ここ通るたびに俺たちの方睨んでただろ?」

 樒が何と答えようか迷っていると、隣では紅葉が他の不良連中に絡まれていた。

 「すげぇ、超かわいいじゃん」

 「髪色すげぇ、おい、お前も今度こんな感じに染めてみろよ」

 「いやだっつーの、お前がやれよ」

 などと、周りで勝手に騒がれているが紅葉は案外平気そうな顔だ。きっと危機意識がないのだろう。魔剣の力を使えばどうにかなるとでも考えていそうだ。

 「おい、無視してんじゃねぇぞ」

 リーダー格の男は紅葉の方を見ていた樒にしびれを切らしたのか、語気が荒くなっている。

 「いや、最近視力が落ちてきたのでそう見えるだけですよ」

 樒としてはこれで解放してほしかったのだが、当然そうはいかないようだ。

 「あ? 適当ぶっこいてんじゃねぇぞ」

 樒は目の前でどんどん不機嫌になる男から眼をそらすように紅葉の方を見た。

 「ねぇ、名前なんていうの? てか何? あの男とは付き合っちゃってる感じ?」

 「名前は紅葉よ、別に付き合ってるわけじゃないわ」

 「お? マジで? じゃあこれから俺らと遊ぼうぜ。そんな奴よりぜってぇ楽しいからさ」

 「嫌よ、私の持ち主はこいつだし」

 めんどくさそうにそう言うと、紅葉は樒の方に一歩近づいてきた。

 「え? ちょっ、なになに? 持ち主ってどういう関係だよ。やばくね?」

 紅葉の発言に一層周りの男たちが盛り上がる中、やはりリーダー格の男だけはイライラした様子で樒の方を見ていた。

 「んなことはどうでもいいんだよ。俺って優しいから君が正直に謝れば許してやろうと思ってたんだぜ? いやいやほんとに。一発殴るくらいで許してやろうと思ってたわけよ。なのに何だよその態度は?」

 リーダー格らしき男は乱暴な手つきで樒の胸ぐらをつかみ、血走った目で睨みつけてきた。

 一発殴られるくらいなら我慢しよう、と樒が覚悟を決めると、男は樒の予想を裏切り、空いた方の手で紅葉の肩を掴んで金髪の男のほうへと押した。

 「おい、そいつのこと好きにしていいぞ」

 「マジっすか? やりぃ!」

 その台詞を聞いた瞬間、樒は自分でも瞳孔が開くのが分かった。

 隣からは紅葉の嫌がる声と男たちの下種な声が聞こえる。

 「ちょっと! 離しなさいよ!」

 「まぁまぁ。たまにはほかの男の相手もいいじゃんかよ。おい、叫べないように誰か口元抑えとけよ」

 「は? 何言って⁉ ちょ……むぐっ」

 樒はとっさに手を伸ばそうとしたがぎりぎり届かない。体を移動させようとしても、胸ぐらをつかんでいるリーダー格らしき男がそれを許さなかった。

 「おいおい、話はまだ終わってねぇんだよ」

 つかんだ胸ぐらを上に押し上げながら男は血走った目で言う。

 樒は思わずその男の目を睨みつけていた。

 「そうだよ、そういう目をして欲しかったんだよ。イラついてんだろ? ここ通るたびにそんな目しやがって……一発殴んなきゃ気が済まなかったが、気が変わった。そこの女と一緒にぼろ雑巾みたいにしてやる」

 男がこぶしを振り上げる。樒は何の抵抗もせずにそのこぶしを受けた。頭に衝撃が走り、一瞬視界がなくなったのかと思った。

 殴った瞬間に男は樒を掴んでいた手を離したようで、樒の体はそのままコンクリートの道路に打ち付けられる。

 「樒!」

 紅葉の心配そうな声の方に目を向ければ、噛みつきでもしたのか、口をふさいでいた男の手から血が出ていた。

 その男が、乱暴に紅葉を押し倒した。

 「てめぇ! 女だからって優しくしてもらえると思ってんじゃねぇぞ!」

 押し倒された衝撃で、紅葉が大切そうに持っていたゲームがアスファルトに散らばる。

 「なんだこれ、さっきから大切そうに持ってると思ったら、ゲームかよ」

 周りの男たちが散らばったゲームを手に取ったあと、つまらなさそうにそれを投げ捨てた。

 それを見ていた紅葉が一瞬、悲しさと怒りを織り交ぜたような表情をしたのを、樒は見逃さなかった。

 紅葉達の方に目を向けていたリーダー格らしき男が樒のほうに近づいてくる。先ほどまで怒りに満ちていた表情は、一発殴ってすっきりしたのか嗜虐的なものへとその姿を変えている。

 不良たちに絡まれた時、樒は自分が殴られて済むのなら我慢しようと思っていた。樒の視線にいら立ちを覚えたというのなら、例えどれだけ悔しかろうが、痛かろうが、怒りを感じようが、今まで通り我慢しようと思ったのだ。それで済むのなら、むやみに彼らを傷つけることはない。本来争いごとの嫌いな樒は確かにそう思っていたのだが、さすがにもう我慢の限界だった。

 「紅葉!」

 我慢の限界だったのは紅葉もまた同じだったのか、今まで見た中で最も怒りに満ちた顔で樒の方を向いた。

 そして、突如あげられた樒の大声に不良たちが一瞬固まったかと思うと、紅葉は大きな剣に姿を変え樒の手に収まり、樒の髪と瞳はオレンジ色の光を放っていた。

 一体何が起きたのか理解できずにいる不良たちは、どうしていいか分からずにリーダー格の男の方を見ていた。

 視線を集めた男は、何が起きているのかも分からずにとりあえずこちらに向かって言葉を発する。

 「おい、何だそれは? ふざけてんじゃねぇぞ!」

 周りからの視線のせいか、男は少し焦ったような顔をしながらも、大きな剣を持つ樒に殴りかかってくる。

 ブドウと戦ったときは酔いと怒りのせいか記憶があいまいだが、今ならわかる。身体能力の強化とは、何も筋力が上がるだけではないらしい。まるで男のこぶしがスローモーションのように感じられる。反射神経や動体視力まで上がっているのだ。

 樒はあっさりと男のこぶしをかわすと、剣を持っていない方の手で男の首を掴み、そのまま上へと持ち上げる。

 「ふざけてんのはどっちだよ」

 怒りで声が震えるのを必死に抑えつつ、男の首を握りつぶしてしまわないように手に込める力も抑える。

 男は苦しそうに樒の手を掴むが、魔剣の力を使った樒の腕力には敵わなかった。

 樒は適当なところで男を周りの不良たちの方へと投げ捨てると、紅葉で思いっきりアスファルトを叩き割ったのちに言った。

 「もうこういうことはしないでくれ」

 流石の不良たちも怖気づいたのか、響き渡った轟音が消えるよりも早く全員どこかへ走り去っていった。

 「あいつらの心、食べないのね」

 紅葉が剣の姿をしたままそう言ってきた。

 「人間の社会ではね、法律ってものがあって人が人を殺しちゃいけないことになってるんだよ。あれくらいのクズ野郎どもでも更生の余地があるとして殺しちゃダメなんだ」

 皮肉や冗談の一種のつもりでそう言ったのだが、ブラックすぎたのか、紅葉からの反応はなかった。

代わりに、魔剣の力を解き樒の髪と瞳の色をもとに戻したと同時に弱々しい声を発した。

「これが……最後のチャンスだったかもしれないのにね……」

紅葉がそう言った瞬間、右手に持っていた剣の重みが消え、人間の姿に戻った紅葉が樒の隣に倒れた。

「紅葉……?」

何が何だか分からずに呼びかけるが返事はない。

「紅葉⁉ どうしたの! おい! どうしたんだよ⁉」

幸い胸は上下しており、呼吸はしているようだった。しかし、紅葉は魔剣だ。呼吸をしていることがどれほどの安心感につながるというのか。心なしか髪の毛のオレンジ色はくすんでいるようにも見え、それが樒の心をざわつかせる。

「なんだこれ……ど、どうすれば……」

樒は無意識のうちに携帯電話を取り出して救急車を呼ぼうとしたが、たった三桁の番号を押す前にその手は止まってしまった。紅葉は人間ではないというのだから、救急車を呼んだところでどうにもならないだろう。

だがしかし、ここでじっとしていても意味はないのも確かだ。

まるで糸が切れた操り人形のようにぐったりとしている紅葉を両手で抱え、樒はとりあえず紅葉を家まで運ぶことにした。

樒はざわつく心を必死で押さえつけ、これからのことを考える。

たった一つ、紅葉の状況が分かりそうな人間がいる。いや、正確には人間ではなく魔剣だ。シオンである。

問題はどのように説明するかということであり、その点においてシオンよりも厄介なのはその持ち主である向日葵だ。樒が今は亡き楓の姿に酷似した魔剣を持っているということを知ったら一体どんな行動に出るか全く予想できない。

ただ、今の樒にできるのはそれくらいなのでやるしかないのも確かだった。

きっと電話でゆっくりと説明すれば分かってくれる。突飛な行動にはでないだろう。

樒はそう自分に言い聞かせて家へと歩き出そうとした。

しかし、樒は忘れていた。

いつだって物事は突然で、そしてよくないことこそ予期せぬ時に起きるものだということを。

紅葉を抱きかかえ、急いで家へと戻ろうとふりかったその十数メートル先に、紫色の瞳と髪を携えた一人の少女が佇んでいたのだ。

この時ばかりは向日葵の目は樒を見つめていなかった。限界まで見開かれたその目は、髪と目の色こそ違うもののどこからどう見ても死んだ姉そっくりの紅葉を見つめていた。

樒が思わぬ事態に声をかけあぐねていると、向日葵は顔を下に向け、肩を震わせながら、ぎりぎり樒に聞こえるくらいの声を発す。

「ああ……そういうことでしたか……あははっ、おかしいと思ったんですよ。お姉ちゃんが死んで、先輩と一番近い関係にあるのは家族を除けば私のはずなのに……なのに、なんで樒先輩は私を受け入れてくれないのかなぁって……そりゃそうですよね……」

泣いているのか、それとも笑っているのか、肩を震わせる向日葵の表情は樒からはうかがえない。それでもいつも通りではないことは誰にだってわかるだろう。

「お、落ち着いて、向日葵。これは楓じゃ――」

そこまで言ったところで、樒の言葉は切れた。

不意に顔を上げた向日葵と目があったのだ。

しかし、目があったといっても樒にはその紫色に光る眼が自分をとらえているとは思えなかった。焦点の合ってない目は次第に細められ、それとは反対に瞳孔が拡大してゆく。

今まで樒の感じたことのない感情を纏った向日葵は、右手のナイフをきつく握りしめたかと思うと、得体のしれない感情を乗せて叫んだ。

「お姉ちゃんは……お姉ちゃんは…………死んでも私の邪魔をするのか‼」

雄たけびを上げながらナイフを構え、そのまま突進してくる向日葵。その瞳から一筋の涙がこぼれる。

シオンの本来の姿であるところのそのナイフは、樒が抱きかかえている紅葉に向かって直進してきた。

樒は、自然と紅葉をかばっていた。

ナイフが紅葉に刺さる直前、向日葵に背を向け、抱きかかえていた紅葉の代わりにナイフの的となったのだ。

痛みはなかった。

しかし、樒は確かに自分の背中に付け根までずぶりとしなびやかなナイフが刺さっているのを感じた。

血は出なかった。

しかし、樒は確かに傷口から自分の中の何か大切なものが食われようとしているのが分かった。

背後からは、我に返ったのか、向日葵の悲痛な声が聞こえる。

「はっ! し、シオン! 食べちゃだめ‼」

しかしその悲痛な叫びは一瞬遅く、樒には自分の中でシオンが心に牙を突き立てているのが分かった。

だがその感覚も束の間、樒の中でシオンが叫び声を上げたかと思うと、ナイフの姿をしていたシオンがはじけ飛ぶように人間の姿に戻り、路上に膝をついた。

「がはっ! ごほっ! うぉぇ……な、なんだこれ……」

そう、樒の心は魔剣でも食べることができない。悲しみ、怒り、悔しさ、数々の負の感情であふれているのだ。父の敵であり、友の敵であり、そして楓の敵であるブドウを倒したところでそれは変わっていなかった。

樒は紅葉を抱きかかえたままゆっくりと向日葵の方へ向き直る。

「向日葵、全部説明するから、今からうちに来てほしい。それと……隠しててごめん」

向日葵はシオンで刺されても無事な樒と、死んでしまった姉によく似た紅葉と、路上で苦しむシオンの間で視線をさまよわせながら、完全に混乱した顔でなんとか頷いてくれた。



家に帰ると、一番に出迎えてくれたのはいかにも不機嫌そうな顔をした胡桃だった。おそらく晩御飯を作って待っていたというのに約束より遅く帰ってきたから怒っているのだろう。片手にお玉を持って腕を組み、玄関に仁王立ちしている。

しかしそんな彼女も樒がぐったりとした紅葉を背負っているのと、何故か一緒にいる向日葵に面食らったようで、疑問の声を上げる。

「えーっと、どうしたの? お兄ちゃん」

樒は一瞬なんと言おうか迷ったが、自分よりも魔剣についての知識が乏しい胡桃と真弓には言ってもしょうがないと考え、ごまかした。

「あー、紅葉は疲れて電車の中で眠っちゃってね、起こすのも可哀想だから運んできたんだよ。向日葵は帰り道に偶然会ってね、それで、今日はうちに泊まりたいっていうもんだから連れてきたんだよ」

胡桃は何も言わず樒の隣で顔を下に向けている向日葵を気づかわしげに見ると、無理やりに明るく振る舞った。

「な、成程ね! ていうかお兄ちゃん、帰ってくるの遅いよ! ずっと待ってたんだからね」

「ごめんごめん……あとついでにもう一つ悪いんだけど、紅葉を上に運んだあとに向日葵と話があるから先に夕飯食べてて」

樒は胡桃が少しごねるかと思ったが、先ほどから俯いて一言もしゃべらない向日葵を見てただ事じゃないと分かったのか、心配そうな顔を見せつつも承諾してくれた。

リビングにいた真弓にも同じように説明し、樒は心がなくなってしまったかのように何も喋らない向日葵を自分の部屋へと連れていく。

リビングを出る直前、胡桃が心配そうな声で、

「お兄ちゃん……その、大丈夫?」

と聞いてきたのに対し、樒はいつものように答えた。

「ああ、大丈夫だよ」

扉を閉めるとき、ちらりと覗いたリビングにはまるで何もかも見透かしたかのような姉と、ただただ心配そうに両手を握りしめている妹がいた。

樒は自分の部屋に入ると、まずは背負っていた紅葉をベッドの上に寝かせ、次に向日葵へとクッションを手渡して座るように促した。

紅葉はベッドの上で死んだように眠り、向日葵は力の抜けた様子で床にへたり込んでいる。

何から話していいか分からず、とりあえず床に腰を下ろした樒に、今まで黙り込んでいた向日葵が俯いたまま口を開いた。

「……ごめんなさい」

「どうして向日葵が謝るの? 悪いのはずっと隠していた僕だ」

言う機会なら何度もあったはずだ。いきなり紅葉の姿を見れば向日葵がショックを受けることは分かっていたのに、あらかじめ説明せずにずっと隠していたのは樒の方である。ならば悪いのは自分だと、樒は本気でそう思っているのだった。

しかし、向日葵はそんなことはないとでもいうように首を横に振る。

「違いますよ……全然違います……なんで先輩はそんなに優しいんですか……」

こんな時であろうと、樒の返答はやはり変わらない。

「いつも言ってるだろ。僕は優しくなんてないよ」

その言葉を聞いて、ようやく顔を上げた向日葵の顔は、怒りと悲しみが混ざったような複雑な表情をしている。

「じゃあ、どうしてそんなに平気そうな顔をしてるんですか⁉ 私はまた先輩を! ……先輩を……殺すかもしれなかったのに……」

また、とはきっとテニスラケットで樒の腕の骨を折ったことを言っているのだろう。確かに当たり所が悪ければ死んでいたかもしれない。

「……どうして先輩はまだ私の目の前に、そうやって座っていることができるんですか……普段だってそうです……避けてるようなそぶりをして、それなのに突き放そうとはしない……」

「それは……別に優しさとかじゃないよ……」

樒の言葉を無視し向日葵は勢いよく立ち上がる。

「今だってそこに! ……そこに……」

向日葵はそう言いながら、ベッドの上に横たわる紅葉の方を指さした。

そして何と言っていいか分からないのか、口をぱくぱくと動かし、結局何も言えずに俯いたかと思うと、

「ごめんなさい……胡桃ちゃんの部屋に、行ってきます」

そう言って樒の部屋を出て行った。

胡桃はまだ下の階で晩御飯を食べているはずだ。そこまで頭が回っていないのか、それとも一人になりたかったのか、樒には分からなかったが追いかけることはしなかった。今追いかけたところで会話は成立しないだろう。お互いに一度落ち着くべきなのだ。シオンに相談するのはそれからでもいいと思った。

一瞬、下に降りて晩御飯を食べようかとも思ったが、流石にそんな気分にはなれなかった。

ベッドの上で静かに寝息を立てている紅葉を見ると、本当に疲れて眠ってしまっただけではないかと思わされる。しかし、紅葉が最後に言った言葉と、いつもに比べて明るさを失っているオレンジ色の髪がそういうわけではないことを物語っている。

紅葉に近づこうと体が自然に動いたその時、不意に先ほどまで向日葵が座っていた場所から声が聞こえた。

「あなたは――」

見れば、シオンが行儀よく正座で座っていた。ナイフの状態で向日葵のカバンに入っていたのが、人間の姿になって出てきたのだろう。

「いえ、あなたの心は、一体どうなっているんですか?」

その味を思い出したのか、苦々しい表情だ。

「さぁね、僕自身は食べたことないから」

「言い辛いですが……食えたもんじゃないですよ、あんなの」

他人の心をあんなのとは失礼な物言いだが、それも仕方ないだろう。

「あまりに苦く、あまりに酸っぱく、そしてあまりに辛い……」

その味それぞれが一体どんな心の特徴を表しているのか、樒の知るところではないが、きっとろくでもないものだろう。

「でも、そのおかげで心を食べられずに済んだ」

食べようとした張本人に言うことでもないかもしれないが、そこに言ってから気が付く辺りは、自分でもだめだと思う。

しかしシオンは気にしていないようで、真剣な顔で言った。

「向日葵の言う通りですね。あんなことがあったというのに、怒っている風でもなければ、怖がっている風でもない。どうしてそんなに平気な顔をしていられるのか、正直分かりません。まるで、楓さんのようです」

楓――その名前を耳にした瞬間、樒の心は大きくざわついたのだが、きっとそれも表情には出ていないのだろう。

「あいつとは面識があったんだね」

シオンは、少し懐かしむような顔で楓のことについて喋り始めた。

「はい。楓さんも、あなたと同じように私を恐れることはありませんでした。誰だって私が魔剣であることを知れば恐れるか、魔剣について質問攻めをしてくるかのどちらかだったのですが、楓さんはただ一言、『じゃあ君は向日葵の友達なんだね』と。たったのそれだけでしたよ」

「ははっ、あいつらしいね」

樒の知らない楓の話を聞いて、出てくるものといえば乾いた笑いとそんな一言だった。

「あまり会うことはありませんでしたが、好感の持てる人でした」

シオンはそこでいったん言葉を区切ると、真剣なまなざしでベッドの上の紅葉に視線を向けて言い放った。

「だからこそ私は心を鬼にしなければなりません。心を鬼にして、そこに倒れている魔剣について話を聞かなければいけません」

樒はシオンが紅葉のことをどうしようとしているのか直感でわかった。シオンがどういう理由で向日葵の心を食べずに魔剣狩りをしているのか分からないが、それでもシオンの険しい表情から、シオンが紅葉のことを放っておかないことは察せられる。

しかしだからこそ樒も言い放った。シオンの目をまっすぐに見据えて、自分の意思を。

「僕も君にききたいことがある。そこにいる魔剣を――紅葉を、どうすれば助けられる?」

紅葉の身に言った何が起きたのかは分からないし、助けを要しているのかすらも分からない。しかし、樒は自分のスタンスを提示するためにも、あえてそういう言い方をしたのだ。それを理解したシオンが眉を顰める。

「助ける……ですか。その前に質問をしていいですか?」

「ああ、僕に答えられることならなんでも答えるよ。だから、僕の質問にも正直に答えてくれ」

「分かりました。では、まずあなたの心が食べられていなのは私があなたの心を食べることができなかった理由と同じでいいでしょうか?」

「そうだよ。紅葉も僕の心を食べることはできなかった」

シオンは話が長くなりそうだと思ったのか、袴を改造したようなぶかぶかとした服の中で足を崩した。

「では、その紅葉という魔剣はあなた以外の人間でもいいから心を食べさせろと要求してきましたか?」

「してきたよ」

樒の覚悟していた通り、この答えを聞いたシオンの表情はほんの少し険しくなった。

「それで、あなたは断ったわけですね」

この言葉は妙に断定的だったが、あまり気にせずに答える。

「もちろん。いくらなんでも人間を襲うことなんてできないよ」

「それで、あなたはそんな魔剣を助けようというのですか?」

段々と格式ばった口調になってきたシオンに若干気圧されながらも、樒は答える。

「そうだね。でも絶対に紅葉で人を襲ったりはしない。そこは約束する」

できる限り真剣に、樒はそう言うと、シオンは少し残念そうな顔で言った。

「そうですね……確かにそれなら私はそこの魔剣を見逃すでしょう」

樒は期待の表情を隠しきれずに思わず前のめりになって言った。

「だったら早く紅葉を助ける方法を――」

しかし、シオンは有無を言わせぬ力強さで樒の言葉を断ち切った。

「だからこそ、そこの魔剣は助かりません」

シオンの言っていることを理解できず、思わず問い返す。

「た、助からないって……?」

「より正確に言うならば、そこの魔剣を助ける方法はありますが、あなたには恐らくできないでしょう……」

シオンはその中性的な顔に似合わず、眉間にしわを寄せて残念そうにそう言ったが、樒としても引き下がることはできない。

「僕には恐らくできないって……一体どんな方法だよ」

うろたえる樒に、シオンは残酷な真実を突きつける。

「その方法とは、心を食べさせることです」

正直に言えば、樒は心のどこかで気付いていたのかもしれない。なぜなら紅葉は最初から言っていたのだ。魔剣である自分の食料は心だと。だとすれば樒に拾われてから一度も心を食べていない紅葉がどうなるかは明白だった。お腹がすいたといえば軽く聞こえるかもしれないが、その先に待っているものは餓死である。

樒はそのことをあえて考えないようにしていたのだ。こんなに早いとは思っていなかったものの、いつか必ずやってくるその時のことを考えないようにしていたのだ。

そして問題は、樒がそれほどまでに紅葉のことを大切に想っているということだった。こんなにも真剣に紅葉のことを助けようとしている時点で気付くべきだったのだが、樒はそのことにようやく気が付いた。

相手は人間の心を食べる魔剣だというのに、いつの間にこんなにも大切に思ってしまうようになったのか。自分はこんなにも早く誰かに対して心を開くような人間だったであろうか? そんな疑問がわいてくる。

何より、樒は怖かった。今、紅葉を助けるためならば悪人の心くらいなら食べさせてもいいのではないかと思っている自分がいることにとてつもない恐怖を覚えた。

まるで樒の心のうちが読めているかのように、シオンは尋ねてくる。

「あなたは、そこの魔剣を助けるために悪人といえど人を殺すことができますか? それも、一度ではありません。定期的に――魔剣の力を使わなければ年に二人か三人でしょうか――あなたはそこの魔剣に生贄を捧げることができるのですか?」

重い言葉を使っているのはきっと樒にそうしてほしくないからだろう。

「それと、私と向日葵のように魔剣のみを食べるというのも無理な話でしょう。そもそも魔剣を見つけること自体が難しいですし、今のそこの魔剣の状態では見つけたところで勝てるとも思えません。私と向日葵はこの一年で運よく三体――いえ、ブドウを含めれば四体ですか――魔剣を倒すことに成功しましたが、それでも結局魔剣の力を使っているのでエネルギーが足りず、人間を数人襲っています」

人間を数人襲っているというシオンの言葉を聞いて、樒は自分の中に心当たりがあることに気が付いた。

「気付いているはずです。あなたに害を加えていた同級生ですが、最近学校に来なくなったのは私が心を食べたからです」

ずっと気付かないふりをしていたが、心のどこかで分かってはいたのだろう。樒は驚かなかった。

「私のためなのか、あなたのためなのか……いえ、きっと半分以上はあなたのためなのでしょうね。とにかく向日葵には覚悟があった。そしてその依り代はあなたです。別にあなたのせいにするわけではありませんが、どうか向日葵を責めないでください。責めるなら、私を」

最後の台詞は先ほどまでの冷静さとは打って変わって申し訳なさそうだった。

樒に責めるつもりなどない。自分でも何度も言っている通り優しい人間ではないのだ。自分をいじめていた人間がどんな目に遭おうが知ったことではない。

だがしかし、自分で手を下すとなると話は別だった。ブドウと戦ったときは、あまりの怒りに何も考えずにその心を紅葉に食べさせようとした。きっと酔いのせいで判断力が鈍っていたこともあるだろう。しかし、あれほどまでに怒りを覚えていたブドウに対してでさえ、向日葵がナイフを突き刺そうとした瞬間思わず止めてしまったのだ。

それほどまでに、樒の中には命を奪うことに対する罪悪感や忌避感が存在する。いや、そもそも殺していいと思えるほどの悪人を探すというのもまた難しいことだろう。

結局樒には決めることなどできなかった。

その代わり、樒は向日葵に対して罪悪感を覚えている様子のシオンに尋ねた。

「……どうしてシオンはそうまでして魔剣狩りをしているの?」

「それはもちろん生きるためですよ」

本来ならばそれで納得するだろう。だがしかし、ただ生きるためと言う理由だけならば、向日葵の心を食べ、体を乗っ取ったほうがはるかに効率がいい。だからその答えだけでは不十分だ。樒がそう思っていることをシオンは察したのか、言葉をつなげた。

「……私は特殊な魔剣でしてね、この体のもととなった人間の記憶があるんです。その記憶のせいですかね、私が人間の肩を持ってしまうのは」

この時、樒は自分がどんな顔をしていたか分からない。

ただ、怪訝な顔から驚きの表情に移り変わるシオンの顔だけが視界に映っていた。

自分で尋ねておいてなんだが、もはやシオンが魔剣狩りをしている理由などどうでもよかった。それよりも、シオンの言葉の中に気になる部分があったのだ。

この体のもととなった――シオンは確かにそう言った。

樒が恐る恐るその部分について触れると、シオンは魔剣が生まれる仕組みについて説明してくれた。

そしてその内容は、樒が想像した通り最悪のものだった。



『君ってさ、殺人事件とか強盗とか……はてにはそこらにいる不良みたいな人たちを見るときでさえ、怖い顔をするよね。……ふふっ、ごまかさなくていいよ。私にもそういう気持ちってあるからさ。なんていうのかな……ただ単純にずるが許せないとか、悪いことが許せないとかそういうことじゃなくて、その結果として苦しんでいる人がいるっていう現実、それが許せないんだよね。テストでカンニングしたり学校をさぼったり……そういうのはやった本人に責任が帰ってくるわけだから別にいい。でも、自分の快楽のためだけに誰かを不当に傷つけようとすることには憎悪と言っていい程の激しい感情を抱くのが君なんだよ。そしてそれは美しい感情から生まれていたはずなのに、はた目から見れば危なく見えちゃうんだよね。それでさ、それが自分でも分かってるから周りには心配かけないようにって振る舞って、自分が傷つけられることに関しては我慢しようだなんて思っちゃって……それで、最後に残ったのは何? 怒りかな? 悲しみかな? それとも悔しさかな? そんな君を見て、周りは馬鹿にするか心配するかだったんだよね。でも聞いて、私はそんなろくでもない感情をため込んでまで君が守りたかった何かを、そしてそれを今もなお守り続けている君を、私は素直に美しいって思う。誰が何と言おうと、私はそんな君が大好きだよ。――――さて、以上が吹上楓による私だけは君のことを理解しているよアピールだったわけですが、何か感想は? ちなみに、模範解答は「僕も僕のことを理解してくれている――そんな君が大好きだよ」です。さぁ、ここまでお膳立てしてあげたんだよ。ここまでさせておいてそれでもはぐらかされたなら、私は君の想いを勘違いしていたということで……死んじゃうかな』

この台詞から数日後、楓は約束を破って死んでしまったわけだが、そんなことを樒は恨んだりなどしなかった。

友達が死んだときは助けることができなくて悔しかったし、父親が死んだときは父親を殺した連中に怒りを覚えた。そして楓が死んだときに感じたことといえば、深い悲しみだけだ。

それでも楓の言う守りたい何かのためにすぐに立ち直ったふりをして、平気なふりをした。

それらがブドウという魔剣が仕組んだことだと知った時には怒りのあまり我を忘れた。

そのブドウがいなくなって残ったものといえば、それでも消えない悲しみと、その理不尽さに対する怒りだけだ。

そして残酷な運命は再び樒の心をもてあそぶ。

シオン曰く、魔剣が生まれるために必要なものは二つ――どういうわけか本来持っていないはずの心を持ってしまった植物と、そしてそれが人間の体を形作るためのもととなる血液だそうだ。そして、魔剣が人間の姿を得た時、当然の如くその姿はもととなった血液の持ち主そっくりになる。

ここまでくればあとは簡単だ。楓が死んだあの場所に紅葉が突き刺さっていたのも、紅葉の人間の時の姿が楓に似ているのも、全て必然だったのだ。

つまり魔剣紅葉は、偶然にも心を持ってしまった紅葉の木が、楓の血液をもとに人間の姿を得たものということだった。

紅葉を助ける方法といい紅葉の正体といい、いい加減樒の頭はパンクしそうだった。

先ほどから何度も頭を殴られたかのように意識が遠のこうとする。

しかしそれでも、次々と襲い来る精神的ショックから壊れてしまいそうになった樒の心をなんとか繋ぎ止めたのは、部屋のドアの向こうから聞こえる声だった。

「お兄ちゃん……開けるよ」

いつも甘えるようなしぐさをとる胡桃が時折発する心配そうな声。その声が樒の心を何とかつなぎとめた。

シオンは胡桃の声が聞こえた瞬間にナイフの姿へと変わりながらカバンの中に戻る。

樒は胡桃が入ってくる前に自分に言い聞かせるように呟いた。

「大丈夫だ……僕はまだ、大丈夫だ」

返事のない樒に遠慮するようにドアはゆっくりと開かれ、風呂あがりなのか髪をおろした胡桃が入ってきた。

服装はいつものピンク色のパジャマである。

樒がシオンから話を聞いてショックを受けていることなど知るはずもない胡桃は、それでも向日葵と何かがあったと思っているのか、心配するような、遠慮がちな様子で言ってくる。

「さっきね、向日葵ちゃんが私の部屋に居てね……」

胡桃は今の状況を、向日葵が紅葉の存在を知ったことによってショックを受け、その影響で樒と向日葵の関係が悪化したのだと思っているのだろう。

それはもちろん間違ってはいないのだが、樒にとって問題はそれだけではない。

だが当然、樒がそのことを胡桃に打ち明けるはずもなかった。

だから樒は強がる。何かを守るために、何かに勝つのではなく、何かを倒すのではなく、だがしかし心の中で戦うのだ。

「遠慮するなよ。僕は大丈夫だから、何でも言っていいよ」

いつも通りにそう言うと、胡桃もまたいつも通りにその心配そうな表情をひっこめた。

「じゃあ、遠慮なく」

そう言うと、胡坐をかいていた樒の上にすっぽりと収まるように座った。背中を完全に樒の胸に預けているので、顎のすぐ下にシャンプーのいい匂いのする胡桃の頭がある。

「なんでそこに座るの……?」

「なぜなら今から胡桃はお兄ちゃんに言い辛いことを言うからです。こうすればそっちを見なくて済むでしょ」

お互いの顔の見えないこの位置は、正直今の樒にとってもありがたいのでそこはそれで納得しておく。

「お前が今更言い辛いとか……これは大変そうだね」

ため息交じりにそう言うと、胡桃は樒の両腕をつかんで自分に巻き付けるように無理やり持ってきた。自然、樒が胡桃を抱きしめるようになる。

まるでそれによって勇気を出したかのように、胡桃は喋りはじめた。

「あのね、私、今まで向日葵ちゃんは私のこと別に友達だなんて思ってないんだろうなって思ってたの。向日葵ちゃんって本当にお兄ちゃんのこと好きだから……だからきっと、私がお兄ちゃんの妹だから仲良くしてるんだろうなって」

一人称が〝胡桃〟ではなく〝私〟なのはきっと彼女の本音が出ているからだ。樒はよくこれを基準に胡桃の話を適当に流すか否かを決めていた。

「でもね、私も別にそれでいいって思ってたんだ。なんていうかさ、近すぎなくていいなって……気楽でいいなーだなんて思ってたの」

ずいぶんと間延びした、いつもの胡桃とは違う冷めた言い方だった。

しかし、その声は段々と熱を帯びてくる。

「でもね、さっきわかった。そうじゃなかったんだって。私の部屋にいた向日葵ちゃん、さっきまで泣いてたのが分かるくらい眼もとを真っ赤にしてた。そんなの初めてだったからどうしていいか分からなくって、とりあえずそばに寄ってみたらね、向日葵ちゃんったらいきなり抱き付いてきてわんわん泣き始めたんだよ」

そこで胡桃はどうしてか嬉しそうにくすりと笑った。その理由を聞く間もなく、胡桃は再び口を開く。

「それでね、私に言ってくるの。『先輩のことが好きなの』って『でもお姉ちゃんのことも好きなの』って……何度も何度も、私の服が涙でぬれることなんて気にせずに。それでね、私気がついちゃった。向日葵ちゃんは私のことを本当に友達だって思ってくれてたんだって。だからさ、お兄ちゃん、私は……今回ばかりは向日葵ちゃんの――」

顔を見づらいからだとか言っていたくせに、胡桃のその後の台詞は、ぐいっと顔を上げて樒を下から見上げるように発せられた。

「――私の大切な友達の味方をするからね」

その挑発的な笑顔が、なかなかどうして小憎らしい。

だから樒も強がって言った。

「何言ってるんだよ……胡桃は僕の味方なんてしてくれたことないでしょ。だから今回も、僕一人で大丈夫だ」

膝の上から見上げてくる胡桃の顔は一瞬だけ心配そうな顔をした後に、何かを決意したものとなった。

「じゃあお兄ちゃん、遠慮なく言うよ。向日葵ちゃんがこれまで思ってきたこと……もしかしたら私が言うべきじゃないのかもしれないけど、余計なおせっかいかもしれないけど、それでも言うよ。大好きな二人がこのままなんて耐えられないから」

胡桃はそう言うと樒の膝の上を離れ、テーブルの向かい側に正座した。その大きく丸っこい瞳は力強く樒をとらえて離さない。

もしかするとこれは逃げているのかもしれない。紅葉に関する現状から現実逃避するために胡桃の話を聞いているのかもしれない。一瞬そんな考えが頭をよぎったが、樒はすぐにその雑念を追い払った。

たとえどんな理由であろうと、今自分が妹の話を真摯に聴くべきであることは確かなはずだからだ。

そして胡桃は今まで樒が眼をそらしてきた向日葵の本音を語り出した。

「あのね、お兄ちゃん、向日葵ちゃんは小さいころから楓さんのことが大好きだったの。そしてね、お兄ちゃんに助けられてからはお兄ちゃんのことも同じくらい好きになったんだって。でもお兄ちゃんは同い年の楓さんとばかり仲良くなっていった。それが当然のことだってことくらいは向日葵ちゃんにも分かってたの」

それは、確かに当然のことだろう。先に樒と出会ったのは向日葵ではあるが、その後に家族ぐるみの付き合いともなれば、当然同級生の樒と楓が仲良くなっていく。

「苦しかったんだって。寂しかったんだって。大好きな二人が奪われたみたいで辛くて、しかも奪っていったのは大好きな二人で……もう何が何だか分からなくなっちゃったんだろうね」

向日葵の気持ちを考えてか、胡桃は今にも泣きそうな顔をしていた。

「でもさ、向日葵ちゃんは楓さんとお兄ちゃんがお互いに好き合っているのならそれで構わないって言ったんだよ。自分の好きな人同士が仲良くなるのって、それはそれで幸せなことなんじゃないかって……それで納得しようとしてたの……なのに……なのに……」

感極まったのか、胡桃は唇を震わせながら俯いた。膝の上で握られたこぶしはぷるぷると震え、その上に涙が落ちる。

「もういいよ……分かったから。大丈夫だから」

楓の言っていた、守っていた何かが少しだけ崩れる音が聞こえた。もちろんそんなものは現実ではなく、実際に聞こえるのは胡桃の嗚咽を漏らす音だけだ。

こんな光景は見たくない。数少ない大切なものが傷つく様子など見たくない。そんな思いから樒は必死に胡桃に「もういい」と言い聞かせたが、それでも胡桃は止まらなかった。必死に、何かを伝えようとしてくる。

「違う……大丈夫じゃないもん……お兄ちゃんも向日葵ちゃんもこのままじゃいけないの……だから、伝えなきゃ。お兄ちゃんを傷つけちゃうかもしれないけど……それでも、向日葵ちゃんの想いを伝えなきゃ……だって友達なんだもん……私、勝手に友達じゃないとか、ひどいこと思って……」

何かにすがるように涙と共に本音を吐き出してくる胡桃を、樒はテーブルを回って抱きしめた。これは断固として優しさなどではない。胡桃が泣いているのが許せないだけだ。その事実を許している自分を殴り飛ばしたくなるから、必死に慰めるのだ。

「違うの……今は、私が甘やかされていいところじゃないの……私が、やらなきゃ……」

そう言って胡桃は抱きしめる樒の体を両手で突っ張る。しかし言葉とは裏腹に胡桃の腕にほとんど力は入っていなかった。

「ダメ……お兄ちゃん……私がやらなきゃダメなの……友達なのに、また裏切るようなことはしたくないから……」

涙を流しながら樒の体を突っ張る手にほとんど力なく、その手はいつの間にか樒の服をぎゅっと握りしめていた。

「ダメだよ……私、向日葵ちゃんのために……」

胡桃がこれ以上苦しむ必要などない。自分がちゃんと向日葵との関係性を修復すればいいのだから。だから、胡桃には泣いて欲しくなかった。

そして、樒が再び胡桃を慰めようと声をかけようとした瞬間、ゆっくりと樒の部屋のドアが開いた。

いや、ゆっくりに見えたのは樒の目だけで、恐らくは素早く、されど静かにあけられたのだろう。

樒はドアを開けた主の人間離れした冷ややかな目に背筋を凍らせた。

しかもそれが四つ。

雪男も凍えそうなその瞳が映しているのは、向日葵への罪悪感と向日葵の抱いていた想いへの憐みから涙を流す胡桃と、それを必死に慰めようと抱きしめる樒――――ではなく、

「ダメだよ……お兄ちゃん……」と涙ながらに訴える妹に無理やり抱きつく兄の姿であった。

泣き腫らしたのであろう向日葵のその瞳は、眼もとを真っ赤に染めつつも、瞳の中は南極にでもつうじているんじゃないかと思うほどに冷たい。

その後ろに立っている真弓の目はいつものただでさえ感情の稀薄そうな目から一切の感情が消えていた。

胡桃は二人の存在に気付いてないようで、未だ涙ながらに「ダメだよ……向日葵ちゃんのためにも……ダメ……」などと言ってくる。

今までの人生の中で初めて訪れたタイプの不幸に、樒は、まるでラブコメみたいだ、などと場違いにも思った。

今までのシリアスな流れを確認するように思い出す。

よくなっていたはずの向日葵との関係が紅葉の存在がばれたことによって破綻して、紅葉が死にそうで、それを助けるには心を食べさせなくてはいけなくて、紅葉は楓の血をもとに生まれていて、それで……なるほど、人生とはいつ何時なにが起きるか分からないものだ。

樒は完全にパンクした頭でそう結論づけると、何かを悟ったように頬をひきつらせて笑った。

いつもより低いトーンで、向日葵と真弓の声が重なった。

「なにしてるんですか先輩」

「なにしてるの樒」

その声で二人の存在に気付いた胡桃が少しの間を開けて状況を把握する。先ほどまで泣いていたのが嘘のように、胡桃は取り乱しながら樒の体を渾身の力で引きはがした。そしてあたふたと両手を動かして向日葵と真弓の誤解を解こうとする。

しかし、二人は胡桃の話など全く聞かず、胡桃に突き飛ばされるようにして床にしりもちをついた樒の方へとまっすぐに歩いてくる。

そしてもう一度、二人の声が重なった。

「そこに正座してください先輩」

「そこに正座しなさい樒」

ピンチのはずなのに、しかし泣いていたのが嘘のようにあわあわする胡桃を見るとなんだか安心した。

かなり珍しい二人の罵詈雑言を浴びながら、樒は思うのだった。

願わくばこんな風に、まるでギャグのように、乗り越えれば笑い話にできるような形で――今抱える問題も終わって欲しいと。



向日葵と真弓から罵詈雑言の嵐を受けた後、胡桃による必死の説得によりなんとか誤解は解けた。

今樒は向日葵と自室で二人きりである。正確に言うならば、ベッドの上で死んだように眠っている紅葉と、ナイフの姿で向日葵のバッグの中に収まっているシオンがいるのだが、両方とも会話の中には入ってこない。

そしてその会話の内容は、向日葵のことだった。

胡桃が荒ぶる二人を説得したときに、向日葵の気持ちを伝えようとしていたことを口走ったのだ。その際、向日葵は胡桃にお礼を言ったのち、しかしきっぱりと「自分の気持ちは自分で伝える」と言い切った。

「樒先輩……その、胡桃ちゃんからはどこまで聞きましたか?」

今まで思ってきたことを話すのがやはり気恥ずかしいのか、向日葵は言い辛そうにそう切り出した。

「えっと……向日葵が、僕と楓が好き合っているのならそれでいいって思っていたってとこまでかな」

向日葵は先ほどまでの緊張した顔をほころばせ、なにか諦めたような笑みを浮かべた。

「……そうですね、胡桃ちゃんの言う通りです。そう思おうとして、実際それで納得させることができていたんです」

目は合わせてこないものの、伏し目がちなその瞳の端には樒が映っている。

そして、向日葵はつらつらとまるで昔を懐かしむかのように語り始めた。

「いつかお姉ちゃんと樒先輩が結婚する時が来て、私が先輩の義妹になって、胡桃ちゃんみたいに大切にしてもらえたなら、それはそれで幸せなんじゃないかって。それでみんな幸せになれるんじゃないかって思ってたんです」

〝結婚〟そんな単語が出てきて樒は少し気恥ずかしくもあり、そしてそんな未来がもう訪れないことに悲しみを覚えた。しかし、そんな気持ちも向日葵の方を見れば掻き消えた。

向日葵は一呼吸置いた後に、表情を急変させたのだ。

何かを悔やむようで、しかし決してその事実を否定はしないというような力強い表情だ。

「だから、私はその邪魔になるものは全力で排除しようとしました。シオンの力を借りて、お姉ちゃんと先輩の邪魔になるもの……私の夢を邪魔するものは全て排除しました」

そのためならばほかの誰が傷ついても構わない、向日葵は言外にそう語っている。しかしそれを責めはできないだろう。

なぜなら樒だってそうしてきたからだ。向日葵は樒に対して『優しい』と言うが、樒が優しいのはごく限られた範囲にのみだ。自分の家族と、死んでしまった友達と、楓だけ。いや、きっと向日葵もその中に入っていたのだろう。たとえその理由が、向日葵が楓の妹だからだとしても。

少しの間沈黙していた向日葵の唇が、震えはじめた。

「なのに……なのに、お姉ちゃんが死んじゃって、私、どうすればいいのか分からなくなったんです」

そう、向日葵の夢はついえた。それも、楓の死という最も残酷な形で。

樒は黙って話を聞き続ける。いや、もしかすると何も言えなかっただけかもしれない。

「お姉ちゃんが死んじゃって、悲しいのに……今だってその悲しみは消えていないはずなのに……今なら樒先輩に……なんて、そんなことを考えている自分が怖くて……怖くて悲しいから先輩に甘えたくて……」

段々と台詞は切れ切れになっていき、しかしそのせいで向日葵の気持ちは真摯に伝わってきた。

心の中はきっと様々な感情の嵐が吹き荒れ、ぐちゃぐちゃになっていたはずだ。夢を壊され、抑えていたはずの感情が湧きでて、されど罪悪感にさいなまれ、あげくの果てには、それを失ったからこそ色々なものが壊れてしまったはずの大切な人が目の前に現れたのだ。たとえそれが本物ではないと分かっていても、体が、心が、過激に反応せざるを得なかったのだろう。

そんな向日葵の心を感じとり、震えるこぶしにぽたぽたと涙が零れ落ちるその姿を見て、心の中で自分に言った。

守りたいものがあったはずだ。自分がどれだけ傷つこうが、守りたいものがあったはずだ。目の前で、それが壊されようとしている。そんなことはあってはならない。もう、目の前の少女を泣かせてはいけない。

「大丈夫だよ」

樒はそう言って、胡桃にしたように向日葵を抱きしめた。

「あ……え……? せん、ぱい?」

抱きしめているためにその表情は窺い知れない。それでも、声から察するに驚きが大半を占めているのは分かった。

「大丈夫だよ。向日葵は何も心配しなくていい。泣かなくてもいいんだ」

これで正しいのかなんて分からない。ただ、自分が守りたいものを守るにはこうするしかないと思うから、樒は向日葵に言葉をかけながら抱きしめた。

「せ、せんぱい……なんで、こんなの……」

樒は正直に言う。

「守りたいから……向日葵が泣いているところはもう見たくない」

「そんな……でも、こんなの……無理、ですよ……泣いちゃいます」

向日葵は恐る恐る、まるで触れてはいけないものに触れるかのように、樒に抱き付いてきた。

どれくらい時間が経っただろうか。

気がつけば聞こえるのは時計の秒針が正確に刻むリズムと向日葵の落ち着いた息遣いだけだった。

日付はすでに変わっているが、いつから抱き合っていたのかも分からず、どれほどの時間が経ったのか樒には分からない。とても長かったようにも思えるし、あっという間だったようにも思える。

向日葵の泣き声がやむまで胡桃にしていたように声をかけ続け、そのあとは向日葵の腕が離してくれるまでそのまま抱きしめていた。

そしてようやく、向日葵の腕から力が抜けた。自然と向日葵の腕はそのまま下に落ちる。

樒はゆっくりと体を離し、向日葵の目を見た。

向日葵は泣き腫らした目を下に向け、脱力した様子で崩れた正座のまま座っていた。

樒が声をかけあぐねていると、向日葵は力の抜けた表情で顔を上げ、樒の方を見ながら、紅潮した頬のまま言った。

「えーっと……あの、今日はもう遅いですし……胡桃ちゃんの部屋で寝てきます……」

気の抜けた様子だが、ある程度頭はまわっているのか、向日葵はふらふらと立ち上がるとシオンの入ったバッグを持って部屋を出ていった。

樒はしばらく放心したようにぼうっとしたあと、向日葵が閉め忘れたドアを閉め、ベッドのふちに背中を預けるようにして座り込む。

「はぁ……」

思わず、大きなため息が出た。

疲れているのだろう。色々なことがあり過ぎた。

向日葵のことが思い浮かぶ。あれで正しかったのだろうか、と再度自分に問いかけてしまうが、樒にはあれ以外の選択肢など思い浮かばなかった。

次いで紅葉のことも樒の心を嵐のようにかき乱す。紅葉を救うためには人の心を食べさせなければならない。樒が優しいのはごく限られた人間に対してのみだ。そしてその中に紅葉が入り込んでしまいそうなことに自分でも気が付いている。それでも、やはり誰かを生贄に差し出すようなことなどできるはずもない。なにより、そんなことをしてしまえば今まで守ってきて何かが壊れてしまうような気がした。

うなだれ、思わずつぶやいてしまう。

「……なんでこんなことになっちゃうんだよ」

顔を上げ、首をひねりベッドで意識を失っている紅葉の顔を見た。

目をつぶっているその顔は、どこを見ても楓そのものだ。

樒は答えの出ない問いを延々と自分に問い続け、いつの間にか眠りについていた。



 翌朝、樒が起きた時には向日葵は帰っており、携帯には二通のメールが届いていた。どちらも向日葵からだった。

 一通目の内容は端的で、樒が紅葉のことについてどちらの結論を出してもいいように、できれば魔剣、少なくとも心を食べてもいいと思えるような人間を見つけておくといった内容だ。

 そしてもう一通は、シオンからの伝言のようなもので、今の紅葉の状態について書き連ねてあった。簡単に説明すると、いまの紅葉はエネルギーの消費を抑えるために休眠状態になっているものの、一応はある程度周りの会話は聞こえているらしい。おそらく、樒が心を食べさせる準備ができるまでエネルギーをとっておくつもりなのだろう。それでももって三日が限度だとメールには書いてあった

 樒は今更迷惑をかけるわけにもいかないと言うこともできず、お礼のメールを一通送った。

 向日葵は好きでやっているのだ。たとえそれがどれだけ大変なことであろうとも、彼女自身が心から望んでやっているのであればそれを尊重したい。それに、ブドウとの戦いを見る限りにおいて危険というわけでもないだろう。何より、向日葵とシオンがこれからも一緒に生きていくためにも魔剣探しは必要なことなのだ。

 そこまで考えたところで、魔剣と人間が一緒に生きてくということが樒の心に重くのしかかった。

 朝食の席ではあまりこのことについて考えないようにしていたのだが、真弓が少し怪訝そうな顔をしていたことから察するに表情にほんの少し出ていたのかもしれない。

 しかし幸いなことに、ここ最近は紅葉が朝に起きてきたことなどほとんどなかったので起きてこないことを不審がられることはなかった。

 今日は日曜日、考える時間ならたっぷりある。とはいっても流石に明日まで紅葉が起きてこなかったら、真弓と胡桃は紅葉の様子がおかしいことに気付くだろう。

 樒は今日中に答えを出すつもりでいた。

 朝食を終え、自室でベッドに腰かけ、頭の中で紅葉と紅葉を救うことによって失うものを天秤にかける。

 昨日は向日葵のことのせいで深く考えることができなかったことと正面から向き合わなければいけない。

 樒にとって大切なものを一つ一つ数えてゆく。

 最初に家族――姉の真弓と、妹の胡桃と、そして母。

 最後に向日葵。今更その存在を否定することなどできない。

 「ははっ……少ないな……たったの四人って……」

 思わず言葉がこぼれた。

 「ああ、そうだ……忘れてた、紅葉……お前もだよ」

 だからこそ悩んでいる。あっという間に樒の心のうちに侵入することを許してしまった魔剣を失うことが、樒にとってつらいことだと自覚してしまったから。

 「それと、シオンもいれなきゃいけないのかな……いなくなると向日葵が悲しむだろうしね」

 誰かがいなくなるということは樒にとって非現実的な出来事ではない。今だってまた一つ大切なものを失おうとしている。

 何度も何度も考える。

 このまま何もしなければ紅葉は消え、樒の中に一抹の寂しさを残したまま日常が帰ってくる。

 逆にもし紅葉を救うことを決意したならば、紅葉に人の心を食べさせ続けることになる。向日葵の生き方を肯定してしまった以上、今更そのことを否定することなどできないが、自分が向日葵と同じことをできるかといえばそれはまた別の話だ。それに何より、きっとそれは今まで守ってきた大切な何かを壊してしまうことにつながるだろう。

 それはプライドや矜持といった言葉だけでは表せない、樒の心の中に通った一本の芯のような、それでいて自分の身の回りの何かのような、そんな曖昧模糊とした何かであったが、楓がそれを存在すると言ってくれた瞬間、樒はその存在を確かに感じ取っていた。つまるところ、楓が肯定してくれたそれを壊すことが樒にできるのかという話なのだ。紅葉を救うために、楓を裏切れるのか――彼女が美しいと言ってくれた自分を裏切ることができるのか――そこに全ては帰結する。

 延々と、気が狂いそうになるまで考えた。

 体が動かない。脳以外を動かすことを心が拒否しているのだ。

 そんな、思考の世界に埋没する樒の意識を現実へと引き戻したのは、突如真上から降りかかった真弓の声だった。

 「樒、お昼ご飯」

 いつの間に部屋に入ってきたのか、真弓が目の前に立っている。

 顔を上げ、真弓の足もとから顔の方へと視線を映した。

 「樒……? どうしたの? ひどい顔」

 正面から見下ろす真弓が心配そうな顔を見せた。

 しまった、と思った。言い訳しようとするが、先ほどまで考え事に没頭していた反動か、うまく言葉が見つからない。

 「紅葉ちゃんのことでしょ」

 何もかも見透かされているのではないかと思うような、静かではっきりとした言葉だった。

 言葉を失っていると、真弓は優しく微笑んでから言った。

 「お話、しよっか」

 微笑みの理由は樒を安心させるためで、ということは真弓は樒を心配していて、それは樒が避けていたことではあったが、ここで断っても真弓をもっと傷つけることになってしまうだろう。結局、樒に選択肢などなく、力なくうなずいた。

 真弓は樒の隣に座ると、後ろから腕を回して肩を抱いた。

 「何するんだよ」

 ほっとしてしまう心とは裏腹に、樒は少し嫌そうに言った。

 「胡桃と向日葵ちゃんだけ抱きしめて、私だけなにもなしとかひどい。まあ、でも私はお姉ちゃんだから私から抱きしめるのが自然かと思って」

 思わず頭を預けてしまいそうになったが、そこはぐっとこらえた。

 なぜ樒が向日葵を抱きしめたことを知っているのか疑問だったが、大方向日葵が胡桃に話してそれが真弓まで伝わったのだろう。

 「で、話って?」

 樒の方からは話すことなどない。話したところで心配や迷惑をかけるだけだからだ。

 「うーん、その前に、『話して』って言っても話してくれないんだよね」

 「そりゃあ、話すことなんてないしね。別に僕は大丈夫だし」

 そんな強がりも真弓にはお見通しなのか、珍しく真弓はくすりと笑った。

 「そうだね、だから、私が思ってることだけ話す」

 真弓の笑顔は、あたたかく見守ろうとするそれで、なんだか信用されているように感じる。まさしく樒が求めているものだった。

 真弓には心配せずにそんな風に笑っていて欲しい。

 樒は黙って真弓の次の言葉を待った。

 しばらく間を置き、真弓が話し始めた。

 「ずっと思ってた。誰か、樒が自分の弱いところや心の傷を見せられる人がいたらいいのにって」

 真弓はこちらを見ず、狭い部屋の中でどこか遠くを見るように斜め上へと視線を放っている。

 「私と胡桃じゃ、どうしたって心配しちゃうから……樒はそういうの嫌いだもんね。樒は自分のせいで誰かが傷ついたり心配させたりしちゃうことが許せないんだよね……分かってはいるんだけど、でもやっぱり心配しちゃう」

 そんな自分が恥ずかしいのか、真弓はうつむいて自嘲気味に微笑んだ。

 「その点、楓ちゃんは理想の子だった。樒のいいところも、悪いところも、強さも、全部理解してくれて……それでいて、樒の求めるものを持っていた」

 「そう、だね……」

 意地っ張りな樒もここだけは否定しなかった。それが、彼女はもういないことをはっきりと自覚させてしまう。恐らく、楓が生きていれば正直には答えられなかっただろう。

 「それで、樒は同じようなことを紅葉ちゃんに求めているんだと思う。そしてそれはきっと叶う。彼女なら、樒のことを分かってくれると思う」

 真弓は樒が紅葉に自分のつらい体験を話したことを知らないはずだ。それでも、樒以上に真弓は樒のことを理解しているようだった。

 「ああ、別に紅葉ちゃんに楓ちゃんを重ねてみてるんじゃないかとか、そんなことを言いたいわけじゃないの。樒はそこらへんわきまえてるし、何より……重ねて、いつか楓ちゃんが紅葉ちゃんに塗りつぶされちゃったら嫌だもんね」

 「姉さんは、ほんとになんでもお見通しなんだね」

 何も言っていないのに心の中を見透かされ、樒は何とも言えない気持ちになる。

 いつもなからここで真弓は『お姉ちゃんだからね』と返してくるのだが、今回は違った。

 真弓は急に悔しそうな顔になり、樒の肩を抱く腕に力を込めて言った。

 「……そうでもないよ。私にだって分からないことくらいある。今だって、いや、昔から分からない……樒はどうして平気そうな顔ができるのか……それが分からない。樒は楓ちゃんのことを大切な思い出として決して忘れることなく胸にしまいながらも、紅葉ちゃんと向日葵ちゃんのことも考えてちゃんと前に進もうとしている。すごくつらいと思うし、大変だと思う。きっと私には樒みたいにうまくはできない……。樒のその強さが一体どこからきているのか、私にはそれが分からない……楓ちゃんなら分かるんだろうな」

 最後の一言は独り言のようで、なんでもできる真弓にしては珍しく、心の底からうらやましいと思っているのが感じられた。

 樒は楓の言葉を思い出す。

 自分のことなど気にせず、周りの大切なものに一切の傷を負わせようとしないその精神を――ほんの小さな心配さえもかけまいとするその病的なまでの生き方を――肯定してくれた楓のことを思い出す。

 真弓の話を聞き、楓のことを考え、そして答えはやはりここに帰結したのだった。

 昔から変わらない。

 樒には守りたいものがあるのだ。



 真弓の話を聞き終え、胡桃もいれて三人で昼食をとったのち、樒はすぐさま自室へと戻った。

 いつもおいしい胡桃の料理も、この時ばかりは全く味がしなかった。

 昼食の時間まで起きてこなかった紅葉を胡桃が心配していたが、昨日出かけたから疲れているのだろうと説明しておいた。

 部屋の扉を静かに閉め、眠っている紅葉を立ったまま見下ろす。

 決心が鈍らないうちに、早く伝えなければいけない。

 「紅葉、僕の答えを言うよ」

 体が震える。今までこれほどまでにつらい選択をしたことなどない。

 こぶしは固く握りしめられ、いざ紅葉を前にすると決心が揺らぎそうだ。

 「僕は、自分の欲望のために誰かを傷つけるようなことが絶対に許せない。だから……だから、守りたいものがあるから……僕は、僕は紅葉を――――」

 涙で視界が歪む。

 涙をぬぐうと、紅葉がいつの間にか目を覚まし、体を起こしてこちらを真剣な表情で見つめていた。

 再び涙がこぼれるのを必死にこらえ、紅葉の目をまっすぐに見て伝える。

 「――――僕はお前を助けない」

 涙でぼやけそうになる視界の中で、紅葉を見捨てる選択をした樒に、あろうことか紅葉は優しく微笑んだ。

 「……そう、分かったわ。短い付き合いだったけど、そんな気はしてたしね」

 もしここで、紅葉が泣きながら心を食わせてくれと頼み込んで来たらどれだけ楽だっただろうか。人間らしさなどなく、人の心を食べる魔剣としてその本性を現してくれたのなら、樒は自らの決断の正しさを疑わないだろう。

 しかし紅葉は諦めているといった様子ですらなく、樒の意見を尊重しているようだった。

 それが余計に樒の心をえぐる。

 「ごめん……」

 思わず謝っていた。

 紅葉はむしろそれが気に入らないといった風に眉間にしわを寄せる。

 「なんで謝るのよ……あんたは人間で私は魔剣。こうなるのは仕方のないことでしょ? シオンたちが特別なだけで、これが当たり前のことなのよ。私があんたの心を食べることができなかった時点でこの結末は覚悟してたんだから、同情なんて不要なの」

 「それでも……ごめん」

 本当ならば誰も犠牲にせずに紅葉を助けたかったのだ。それができないことが、紅葉と向かい合って改めて悔しかった。

 「あーもう……じゃあ、私のエネルギーが完全に切れるまで……休眠状態じゃなきゃ今日の夕方くらいまでが限度かしら……とにかくそれまで、私のお願いを聞いてくれたら許してあげる」

 大げさにやれやれといった様子で肩をすくめる紅葉に、樒は無理やりいつものようにふるまい、強がって答えた。

 「……分かったよ。ただし、心を食べさせる以外ならね」

 「ふふっ、そうこなくっちゃ」

 紅葉はそう言って嬉しそうに笑った。

 「えーっと、最初のお願いは……そうそう、せっかく買ってきたんだし一緒にゲームしましょうよ」

 「いいけど、本体一つしかないし二人でできるの?」

 「え? でも二人で対戦するゲームって書いてあるわよ?」

 紅葉はそう言うと枕元の袋から昨日買ってきたゲームソフトのうち一つを取り出し、パッケージの裏面を確認する。

 樒からは表の面が見えたが、紅葉が取り出したのは樒の見たことのないゲームだった。いや、パッケージにはでかでかと『ショーギ』と書かれており、その背景には将棋盤らしきものが描かれているのだが、その将棋盤に乗っているものが滅茶苦茶だった。見たことのない謎のモンスターや明らかに将棋盤をはみ出している新幹線など、盤上は混沌とした雰囲気を醸し出している。

 パッケージの裏面を見ながら首を傾げている紅葉を見かねて、樒はゲームソフトを受け取って確かめてみれば、やはり『通信対戦可能』と書かれているだけで、ゲーム機の本体とソフトが二つずつないと二人でプレイすることはできないみたいだ。

 「あー、残念だけどこれは本体とソフトが二つずつないと対戦はできないみたい。ていうか本体一つで二人プレイできるゲームなんてないんじゃないと思うよ」

 そう言ってゲームソフトを紅葉に渡す。

 「えー、何なのよそれ……せっかく二人でできると思って選んだのに」

 紅葉は肩をがっくりと落とすと、残念そうにゲームを片づけた。そして、「じゃあもう残りの二つもダメかぁー」などとつぶやきながら、思案顔をする。

 今日で死んでしまうかもしれないというのに、そして見殺しにしようとしている張本人が目の前にいるというのに、そんなことなど全く気にしていない紅葉に、たとえ覚悟はできていたのだとしても、樒は素直にすごいと思った。

 「まあ、いいわ。ぶっちゃけ、あんたと一緒に居らればそれでいいし、おしゃべりでもしましょうよ」

 「いつから僕はそんなに紅葉から好かれていたのさ?」

 紅葉の言葉に心が痛んだが、何とかそんな風に切り返した。

 「別に好きとか嫌いとか、そういうのじゃないわよ。あんたは私の持ち主で、話せるのなんてあんたくらいしかいないだけ」

 確かにその通りだ。胡桃と真弓もいることにはいるが、今の紅葉の状態を知っていて、会話ができそうなのは樒だけだろう。

 「ていうかいつまで立ってるのよ。ここ、座りなさいよ」

 そう言いながら、紅葉は上半身を起こしたことにより空いたスペースをぽんぽんと叩く。

 紅葉のエネルギーが尽きるまでお願いを聞くと約束したので、断ることもできず素直にベッドへと腰かける。

 すると、紅葉が起こしていた上半身を倒し、頭を樒の太ももの上に乗っけてきた。

 「なにやってるの?」

 太ももの上から見上げてくる紅葉に、思わず尋ねる。

 「いいじゃない、エネルギー足りなくてつらいのよ」

 じゃあなおさらちゃんと横になった方が楽なのではないかと思い、自分がベッドから降りることを提案しようとした樒だったか、紅葉の瞳がうるんでいることに気が付き、すんでのところで言葉を飲み込んだ。

 遅まきながら気が付いてしまった。あと何時間かすれば死んでしまうかもしれないというのに平気なはずがないのだ。例え魔剣であってもそれは変わらないだろう。

 こうして樒と一緒に居たがるのも消えるのが怖いからなのかもしれない。

 自分が辛そうに振る舞ってはいけない。そして、できる限りいうことをきいてやるのが樒にできる唯一のことだ。

 「そうだ、結局あの子はどうするの?」

 「あの子って?」

 「ほら、向日葵とかいう、あんたのことが大好きな」

 魔剣のくせにそういうことに興味があるのか、紅葉はにやにやしながら聞いてきた。

 「どうって……」

 向日葵のことについては一応解決したと思っていたのだが、今後の関係性については考えていなかった。

 「『守りたい』とか『泣いてるところは見たくない』とか言って抱きしめておいて? あんたは妹を慰めるくらいの気持ちだったかもしれないけど、勘違いされたってしょうがないと思うわよ?」

 流石にそのことが分からないほど樒も馬鹿ではない。一応、覚悟の上でああしたのだ。

 そもそもなんでそのことを知っているのかと疑問に思ったが、よくよく考えればあの場に紅葉はいたのだ。シオンがメールでいっていた通り休眠中でも会話くらいは聞こえていたのだろう。

 「分かってるよ……大丈夫だって。向日葵を傷つけるようなことはしないさ。ていうか、魔剣のくせになんでそんなことわかるんだよ」

 ところどころ人間とは違う考え方を見せるものの、紅葉は人間の心についてどうもちゃんと理解している節がある。

 樒の質問に対し、紅葉は言い辛そうに眼をそらすと、小さな声で言った。

 「そりゃあ、この体のもととなった人間のおかげでしょ」

 樒は自分の心臓が大きく跳ねるのを感じた。どたばたしていて頭の隅に追いやられていたが、魔剣とは心を持った植物が人間の血を吸って生まれたものなのだ。そして、ブドウによって殺された楓の血を吸い生まれたのが紅葉である。

 樒がシオンからこの話を聞いた際に、紅葉にも聞こえていたのだろう。

 もちろん、楓を殺したのはブドウで、その血を紅葉が吸ったのは偶然の出来事であることは樒も理解している。だから責めるようなことではないし、むしろ外見だけでも楓と会うことができてありがたいとすら思っている。

 ただ、先ほどの紅葉の言葉のせいで、樒はきくまいと思っていたことを我慢できなくなった。

 「……あのさ、もととなった人間の記憶とかって、どれくらい残ってるものなの?」

 その答えによってはもしかすれば決意が大きく揺らいでしまうかもしれない。しかし、そんな重要な質問に、紅葉は案外あっさりと答えた。

 「残ってないわよ。この体のもととなった人間の記憶なんて残ってない。ただ、この世界で生きるための知識のようなものだけはある。人間の気持ちもその一つね。分かりやすく言えば記憶喪失になってるようなものかしら。ほら、記憶喪失の人間って別に言葉とか電車の乗り方とかを忘れるわけじゃないでしょ。多分、そんな感じ。経験としては不足してるんだけど、知識だけは元の人間から譲り受けるの。まぁ、いくらか欠落しちゃうみたいだけどね」

 そう説明した後、紅葉は気遣うように付け加えた。

 「だから、その……私は楓っていう女の子とは全く違う存在よ」

 紅葉の言うことはちゃんと樒にも分かっていた。何よりそのこちらを気遣うような瞳が、樒に楓と紅葉はやはり別の存在だと確認させる。

 なぜなら楓は樒のことを心配などしないからだ。それを樒が最も嫌がると知っているから、楓は決して樒を心配したり気遣ったりしない。

 だから樒は逆に紅葉を安心させるように笑顔を作って言った。

 「大丈夫だよ。そんなこと思ってないから」

 樒の笑顔を見て紅葉も笑う。どうやらうまく笑顔を作れていたらしい。

 「話が逸れちゃったわね……それで、あの子とはどうするの?」

 よっぽど気になるのか、話を戻してきた。

 「もちろん、それ相応の責任は取るつもりだよ。別に、向日葵に言ったことは嘘じゃないし」

 その台詞を聞いて、紅葉は少し意外そうな顔をした後に、頬を緩めた。

 「なによ、意外と男らしいとこあるじゃない」

 「まあね」

 そう言って得意げに振る舞う。

 おかしそうに笑う紅葉を見て、樒は自分の感情が表に出ていないことに安堵する。

 それから数時間、樒は紅葉から振られる話題に応え続けた。その内容はほとんどが樒のこれからのことで、樒は必死に平静を装い続けた。

 そして、とうとう秋の空は茜色に染まり始めた。

 会話が途切れ、静かになっていた部屋の中で紅葉がぽつりとつぶやいた。

 「もう、こんな時間なのね」

 気付けば紅葉の瞳や髪の毛の美しいオレンジ色がほとんど失われつつあった。彼女が人間ではないことを表しているようにも思えていた特殊性が失われていく。

 徐々に瞳の色は日本人らしい黒と茶色に変わっていき、髪の色もまた黒へと変色していく。

 そのせいで見た目がどんどん楓に近づいていき、樒の心を苦しめる。

 「ねぇ、樒、お願い聞いてくれるのよね」

 色を失う紅葉とは対照的に、窓からのぞく茜色に染まる空を見ながら、紅葉は静かに言った。

 「ああ、僕にできることなら何でも言っていいよ」

 今度は茶化さない。心を食べさせる以外ならどんな願いも聞いてやるつもりだ。

 「このまま、エネルギーが尽きたら、多分私は魔剣から元の植物に戻るんだと思う。偶然心を持ってしまった紅葉の木にね。だからその時はさ、私を庭にでも植えて欲しいのよ。それで、毎日ちゃんと世話して、毎日話しかけて欲しい」

 紅葉は震える唇でそう言った後、今にも泣きだしそうな瞳で樒の目を見てきた。

 樒も真っ直ぐに目を見て返事をする。喉の奥が焼けるように痛かったのでいつも通りに答えることができたかはよく分からない。

 「分かったよ。ちょうど、父さんが使ってたガーデニングの道具もあるからね。ああ、でも、僕には友達がいないから、面白い話は聞かせてやれないかもしれないけど、努力はする」

 もうエネルギーがほとんどなくなってきたのか、最初に会ったときの元気が嘘のようにしおらしい。そしてその見た目が楓と全く同じなのが樒の心を一層苦しめた。

 「ありがとう……あとは……あ、そうだ、庭に植えた私の近くでバーベキューとか……」

紅葉の瞳から涙がこぼれた。

「それと、きっと私は大きくて立派な木になるでしょうから、その時は私を見ながら宴会とかして欲しいわね……えーっと……それから……それから……」

 震える唇を必死に動かして言葉を紡ごうとする紅葉を遮って、樒は安心させるように言い聞かせた。

 「大丈夫だよ。寂しくないように、ずっとこの家に住み続けるし、胡桃にも真弓姉さんにも紅葉のこと教えて話しかけてもらうよ。だから、大丈夫だ」

 見捨てるのは自分だというのに、大丈夫だなんて言える自分が恨めしい。湧き上がる負の感情を押し殺し、今だけは紅葉のためにと必死に表情を作る。

 紅葉はついに耐えられなくなったのか、樒の太ももの上から離れ、枕に顔をうずめた。

 胸が張り裂けそうなほどに痛い。しかし、それでももう決断してしまったのだ。今更変えることはできない。それに、自分は間違ったことなどしていたにはずだ。世間一般的に見れば、魔剣は人間の心をエネルギーとして摂取する人類の敵と言ってもいいだろう。

 だがそんなこととは関係なしに、樒の心は罪悪感で埋め尽くされそうになる。

 それを少しでも軽くするためか、樒は紅葉に優しく話しかけた。

 「他に……他に何かある? してほしいこと」

 「…………べたい」

 枕で顔を覆っているためよく聞こえない。

 「ごめん、もう一回」

 「……べたい……樒の作ったオムライスが……食べたい」

 「ちょっとだけ時間がかかるけど、大丈夫?」

 「あと一時間くらいは大丈夫そうだから、早く、お願い」

 自分の魔剣としてのスペックの高さにかなり自信を持っていた紅葉のことだ、こんな状況でも意地か何かで泣いているところを見られたくないのだ。きっと、同情を誘って心を食べさせてもらおうとしないのもそういう理由からに違いない。

 そう思い、樒は「分かったよ」と言って一回のキッチンへと降りていった。

 正直樒も表情を作るのが限界だったので助かった。この世の理不尽さなんてとっくの昔に理解していたはずなのに、勝手に与えられては奪い去られる不条理に怒りさえ湧いてくる。

 しかし樒はそんな気持ちを心の奥底へとしまい、慣れた手つきで料理を始めた。楓の大好物がオムライスだと知って以来何度も練習したことを思い出した。今となっては最も得意な料理だ。

 出来上がっているころには紅葉のエネルギーが切れていたなんてことにならないように、なるべく急いで作りつつも、今までで一番心を込めた。

 楓のために作っていた時よりも心がこもっているように感じる。

 完成したオムライスを皿にのせ、飲み物とスプーンを忘れずに持っていく。階段を上がる足は自然と急いでいた。

 不意にもういなくなってしまっているのではないかと不安になる。

 扉を開けると、もう涙は流していないものの、眼もとを赤くした紅葉がベッドの上で壁に肩を預けて座っていた。窓の外の夕焼け空を眺めるその姿は今にも消えてしまいそうなほどに儚い。

 紅葉は入ってきた樒に気が付くと、ゆっくりと樒の方へと顔を向けてくる。

 樒はお茶の入ったコップをテーブルの上に置き、オムライスだけ持ったままベッドへと腰かける。

 壁に肩を預けていることから察するに、体を起こすことすらままならないのだろう。

 「ねぇ、樒、悪いんだけど、食べさせてくれない? もう、腕……上がらないのよ」

 紅葉そう言って力なく笑う。目に見えて衰弱していた。

 「……分かったよ」

 樒はあふれ出る感情を抑えながら、オムライスを一口分スプーンですくい、紅葉の口元へ運んだ。

 紅葉は口元に運ばれたスプーンを弱々しく咥える。

 樒はゆっくりとスプーンを引き抜いた。

 本当はつらいはずなのに、紅葉はオムライスを咀嚼しながら幸せそうな顔をした。

 「本当に……おいしいわね。あの時食べたのよりももっとおいしい……」

 窓から差し込む夕日のせいで紅葉の髪や瞳がオレンジ色に見え、まるで元気を取り戻したのではないかと錯覚させる。

 紅葉が口を開けて催促してきたので、再びスプーンを口元に運ぶ。

 「きれいな心みたいな味がする……もう一口」

 樒は紅葉の催促に従い、オムライスを食べさせ続けた。

 そして、オムライスが半分にまで減ったころ、突然紅葉の体が鈍いオレンジ色に光り出した。

 「あれ? もう、限界かしら……? 思ったよりつらくないわね……それのおかげだったりして」

 紅葉はそう言って冗談っぽく笑う。

 樒はオムライスを脇に置き、何と言っていいか分からずにうろたえてしまった。

 「ねぇ、ちゃんと約束覚えてる?」

 紅葉の発する光は、静かに、大きくなってゆく、まるで線香花火みたいだ。

 「覚えてるよ。庭に植えて、毎日世話して、毎日話しかけて……それで……」

 喉の奥が焼きただれそうだ。涙はいくらでもでそうなのに、声だけが出せない。

 紅葉はそんな様子の樒を見て微笑むと、壁から上半身を離して樒の方へと倒れこんできた。

 「なんであんたの方が辛そうなのよ」

 体を預けてきた紅葉を、樒は抱きしめることはできない。紅葉ではなくこれまで守ってきたものを選んだ樒には、その資格がないと思ったのだ。

 「きっと、あんたの声は届くと思うから、絶対約束守ってよね……いつかきっと、私からも返事するから……」

 涙はこぼしてはいけないと思ったから、樒はぎゅっと目をつぶった。

 樒の胸に顔をうずめる紅葉には見えていないだろうからもう表情を作ることなど無視して、ぐちゃぐちゃの顔で伝えたいことを伝える。

 「……分かったよ……それと、紅葉に会えて……本当に、よかった」

 「うん、私も」

 そう返事が聞こえた途端、まぶたの向こうに感じていた光が消滅した。

 まぶたを開ければそこにはきっと紅葉はいない。そのことを認めるのが嫌で、樒は目を開けることができなかった。

 最後に体を預けてきた紅葉の感触がいまだに残っている。

 自分の未練がましさが恨めしかった。

 「えーっと……樒……?」

 ついには幻聴まで聞こえる始末だ。

 「…………ん? 幻聴?」

 「幻聴じゃ、無いと思うわよ……」

 幻聴にしてはあまりにクリアな声に驚き、恐る恐るまぶたを開けると、そこには、気まずそうな表情をした紅葉がいた。

 「え? 紅葉……紅葉だよね……?」

 本来人間であるならばありえないはずのオレンジ色の瞳と髪。そのどちらともが出会った当初の輝きをとどめたまま目の前に顕在している。

 「ど、どうして……エネルギーが切れたんじゃ……?」

 紅葉はベッドの脇に置かれたオムライスを横目に見ながら、人差し指でほっぺたをぽりぽりとかいて言った。

 「いや……多分だけど……オムライスを食べた時に……エネルギーが補充されたような……」

 唐突過ぎて理解が追いついてないのか、樒の口からは疑問の言葉ばかりが出てくる。

 「いや、でも、確か人間か魔剣の心じゃないとダメだって……」

 すると、紅葉は恥ずかしそうに俯き、樒に聞こえるギリギリの声でぼそぼそとつぶやいた。

 「その……今思えば……オムライス食べた時……心の味が……多分愛情みたいな味だと思うんだけど……だから、その……樒が心を込めて作ってくれたから……オムライスから人間の心が摂取できたんじゃないかと……」

 体中から力が抜ける。今までの苦悩と葛藤、そして決意は何だったのか分からなくなってしまう。ただそれでも、今まで体験してきた出来事のどの結末をもってしても今の結末には敵わないだろう。

 浮かび出る疑問をようやく追い越して、樒の心の中に喜びが広がった。

 そしてどんな顔をしていいのか分かっていない紅葉を、樒は思いっきり抱きしめたのだった。



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