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食えない心  作者: さとー
第一章
3/5

第三話 酔いと狂気

「ブドウ――あの魔剣はそう呼ばれています」

 向日葵が持つ魔剣、シオンはそう言った。

 樒は今、魔剣が一体どういうものかという説明を受けたうえで、先ほど襲ってきた魔剣についての話を聞いている。無論、自分が魔剣を知っているということは話さなかった。あくまで魔剣について知ったのは今さっきという体だ。

 ちなみに、というか結構重要なところかもしれないが、向日葵がどうしてシオンに心を食べられていないのかについてシオンは説明してくれなかった。今は先に説明しなければいけないことがあるとか何とかでごまかされたのだ。

 結局シオンが自分について教えてくれたのは一つだけ――わけあって魔剣を倒しているということだけだった。『一言で言えば魔剣狩りですね』と。

 「私が知る限りここらでは最も危険な魔剣でしょう。正直な話、戦闘力で言えば私と向日葵の敵ではないですが、ただ、その趣味嗜好が厄介です」

 そこでシオンは一旦言葉を区切り、嫌悪感を隠そうともしない顔で言った。

 「趣味嗜好が他の一般的な魔剣と違って狂っているんですよ。私たちが人の心を食べるというのは先ほど言った通りなんですが、食べるというからにはもちろん味がするわけで、普通私たちはプラスな感情の多い心ほどおいしいと感じるんです。まぁ、あまりにも行き過ぎた愛の心なんかは甘すぎて胃がもたれそうになったりするらしいんですけど」

 今までずっと真面目な顔で話していたシオンだったが、最後の言葉は軽い冗談のつもりだったのか、笑顔を見せる。

 こほん、と一度咳払いをしてシオンは話を続けた。

 「では逆に、人間のマイナスな感情の多い心――悲しみだとか憎しみだとか怒りだとか、そう言った感情が多く含まれる心というのは総じて不味いと感じるんです。心に闇を背負っている人ほど、そしてその闇が深ければ深いほど、人間の心は不味くなるんです」

 「なるほど、じゃあもしかするとあまりに不味すぎて食べられないほどの心を持っている人間もこの世には存在するかもしれないんだ」

 この樒の台詞を聞くと、シオンは目を丸くした後に苦笑いをした。

 「あはは……おかしなことを考える人ですね。まあ、もしかするとそんな心の持ち主もいるかもしれませんが、ほとんどありえないでしょうね。例えるなら、ほら、人間が真面目に料理を作ったとして、それが絶対に食べられないほど不味いということがあるでしょうか? いくら不味くても、無理をすれば食べれるでしょう?」

 「確かに、そう言われると分かりやすいね。そんな毒のような料理なんて普通はできないか」

 なんで樒がそんなことをきいたのか不思議に思っているのか、シオンは首を傾げながらも、次の言葉を放った。

 「まぁ、もし仮にそんな人間がいるとしたら、数えきれないほどの悲しい思いをして、想像できないほどの憎しみを背負って、こらえきれないほどの怒りを心のうちに留めているんでしょうね」

 「ははは……そんな人間、確かにいるわけないね。ごめん、話をそらしちゃって」

 「いえ、えーっと、どこまで話しましたっけ……そうそう、とにかくそういった、人間のネガティブな心はおいしくないんですが、ブドウはどういうわけかそういった心を狙って食べているんです」

 つまりは偏食家というわけですね、とシオンは付け足す。

 樒はそれを心の中で変食家と変換していたが、そんなことはどっちでもいいことだろう。

 「まぁ、そこまでなら別段危険さがほかの魔剣と変わるというわけではありませんが、たちの悪いことにブドウは狙った人間の心にマイナスの感情を植え付けようとするんです。今日だってきっとあなたを襲うことであなたの心に恐怖という感情を植え付けようとしたのでしょう。つまるところ、あなたの心という食べ物に味付けをしようとしたわけです」

 と、シオンがここまで言ったところで、離れたところで何やら電話をしていた向日葵が戻ってきた。

 「ということで先輩、自分が今どれだけ危険な状況にいるか分かりましたか?」

 正直な話、樒はそこまで危機感を抱いているわけではなかった。なぜなら、思えば樒の心は食べられないほどに不味かったはずだからだ。もちろん、紅葉に食べられなかったからといってあの偏食家の魔剣に食べられないというわけではないし、心を食べる際に切られて体が傷つかないとも限らない。

 だがしかし、そういったことを向日葵に知られたくなかったので、樒は一応危機感を抱いているふりをした。

 「そうだね、今まで何度も危険な目には遭ってきたけど、今回はいろんな意味で危なそうだ」

 そう聞くと向日葵はにっこりと笑って、

 「ですから、今日は私とシオンが先輩の家に泊まります」

 と言った。

 「え?」

 「大丈夫です、真弓さんと胡桃ちゃんがいるときにはシオンはナイフの状態にして隠しておきますし、力を使わなければ髪や目の色が変わることもありません」

 樒としては問題はそこだけではなく、むしろ紅葉に合わせたくないというのが一番の理由なのだが、それをここで言うわけにもいかない。なのでほかに理由を上げて断らなければならなかった。

 そしてそれとは関係なしに向日葵の言葉には気になる点があった。

 「いやいや、それはまずいんじゃないかな……ていうか、力って何?」

 「あれ? シオン、そこは説明してないの?」

 向日葵はそう言ってシオンの方を向く。二人の身長は同じくらいで、シオンの見た目の歳も同じくらいに見える。

 「魔剣については大雑把に説明したけど、そこまではいいかなって」

 樒と話をしているときは丁寧な話し方と柔らかい物腰で、礼儀正しい女の子といった風だったが、向日葵と話すときは敬語ではないせいか男の子のようにも見える。つくづく性別が判断しづらい。

 「そう、じゃあついでだし私から説明する」

 向日葵はシオンとの短い会話を終え、制服のスカートをふわりとなびかせながらくるっと樒の方を向いた。

 「先輩、魔剣の力というのはですね。まあ、簡単に言うと身体能力が上がるんです。魔剣や取りつかれた人間の元々の力にもよりますが、持ち主である人間の身体能力が大幅にアップします。個人的な感覚としては映画や漫画の中に出てくる忍者の体ってこんな感じなのかなーって感じでしょうか」

 だいぶ大雑把な説明だったが、これはこれで分かりやすい。その度合いは、いくらか人間離れしているということだろう。

 「それと、魔剣によっては特殊な能力が使えるのもあるらしくて、ちなみにシオンは危険を前もって察知する予知能力みたいなのが使えます」

 「ああ、もしかしてそれで僕の危険を察知して助けに来てくれたの?」

 そうだとしたらありがたい話だ、と樒にしては珍しく単純にそう思っていると、向日葵は眼をそらしながら少し焦った顔をした。

 「え、えーっとそれは……」

 と、ここでシオンが口を開く。

 「いえ、そういうわけではなく、私たちがあなたを助けにこれたのは、いつも陰ながら見守っているからですよ」

 「ちょっと! シオン!」

 向日葵は焦った様子でシオンに詰め寄る。

 「いつも? 見守る?」

 樒が怪訝な表情で向日葵の方を見ると、向日葵は変な汗を流しながら目を泳がせている。

 「それはですね、えーっと……」

 焦って次の言葉が出てこない向日葵の代わりに、シオンが悦明しようとした。

 「向日葵があなたのことを好きなのはご存じなんですからそこら辺は察してあげてください。現代の日本では愛する人を常に陰から見守ることが一般的な愛情表現なのでしょう? 確かストーキングといって――」

 そこまで言ったところで向日葵がシオンの口をふさぐ。

 「あはははは、シオンったら変な漫画でも読んだの?」

 「いや、これは向日葵がこの前言って……」

 「いいから黙って」

 背筋の凍るような冷たい声でそう言われ、シオンは小さく「はい」と言って黙った。

 なんとなく普段の二人の間柄が分かったような気がした。そして向日葵がシオンに間違った常識を教えていることも。

 「では先輩、もうすっかり暗くなってしまいましたし、家に帰りましょうか」

 「そうだね、気を付けて帰ってね」

 樒はそう言ってそそくさとその場を立ち去ろうとする。

 「そうですね先輩、今日は特に気を付けて帰りましょう」

 その後ろを、当然のように向日葵がついてきた。シオンはナイフの姿になってカバンの中にでも入っているのか、姿を消していた。

 「ところで向日葵ちゃん」

 「何ですか? 樒先輩」

 「どうしてついてくるの? 向日葵ちゃんの家はこっちじゃないはずだけど」

 「いやだなぁ、先輩、今日は先輩の家に泊まるって言ったじゃないですか。もう忘れたんですか」

 樒としてはその話はなんとかうやむやにしたつもりだったのだが、そううまくはいかないようだ。

 「いやいや、今からいきなりそんなこと言ったら色々と困ることがあるでしょ……ほら、お泊りの準備とかしてないし、親御さんもいきなりそんなこと言われても困ると思うよ。胡桃とか真弓姉さんにも言ってないし」

 これだけ理由を列挙すれば何とかならないかと樒は思ったが、何ともならないようで、向日葵はいつもの笑顔で言った。

 「大丈夫ですよ。うちの親と胡桃ちゃんにはもう電話で話しておきましたし、明日は土曜で学校もないので。先輩の家に泊まるときに必要になるものは常備していますし、あの日とかも大丈夫です」

 さらっとそんなことを言う向日葵だったが、さらに最後に一言付け足した。

 「で、ですからあの……今日は、襲っていただいても構いません……まだ私、先輩のこと諦めていませんし……」

 恥ずかしそうに向日葵は顔を赤くする。

 魔剣のことのせいで忘れかけていたが、樒はこの前向日葵に告白されたのだ。そして、樒の心はあの時と変わっていない。今もまだ向日葵のことを信じ切れていないし、信じきれない自分に怒りにも似た感情を感じる。

 「だから、もう一度言うけど、僕は今そういう気分にはなれないんだ」

 「それは残念です……」

 「だから今日は大人しく自分の家に帰ろうか」

 「いえ、それとこれとは話が別です」

 どうやら樒のいきなり自然に帰宅を促す作戦は失敗したようだった。いや、そもそも成功するなんて考えていなかったが。

 しかし樒としてもここで引くわけにもいかない。どうしても向日葵と紅葉を会わせるわけにはいかないのだ。見た目が楓と酷似している紅葉に会わせて、向日葵が一体どんなリアクションをとるか分からない。

 「大丈夫だって。あの魔剣が今狙っているのは僕なんだろ? だったら胡桃や姉さんに危害が加えられる心配もないじゃないか。それに、さっきだって一応周りに人のいない時をねらってきたようだし、家にいるときは大丈夫だと思うんだけど」

 向日葵に心配ないと思わせようと樒はこう言ったが、しかし向日葵はより一層真剣な顔で言った。

 「何言ってるんですか? 胡桃ちゃんや真弓さんも危険に決まってるじゃないですか」

 予想外の一言に、樒は思わず聞き返す。

 「え? それはどういう……」

 「いいですか、ブドウは先輩に悲しみや恐怖といったマイナスの感情を植え付けようとしているんですよ? そして誰かに悲しみや怒りといった感情を抱かせるのに最も効果的な方法の一つは、その人の身近な人を――たとえば家族を傷つけることです」

 その言葉を聞き終えた瞬間、いや、もしかすると聞き終える直前かもしれない、樒は走り出していた。後ろから聞こえる向日葵の声も気にせず、自分の家の方へと走り出していたのだ。

 「胡桃と姉さんが? ふざけやがって」

 ペース配分など気にせず、できる限りの速さで家へと向かっていると、すぐさま後ろから向日葵が追いついてきた。魔剣の力を使っているのだろう、髪と目が紫色に変色している。

 「ちょっと、先輩! どうしたんですか、急に走り出したりなんかして」

 「どうしたもこうしたもないよ! 胡桃と姉さんが狙われるかもしれないんだろ⁉ だったら急いで帰らなきゃ!」

 そのことを知っておきながら、なぜ言わないのかと、思わず樒は向日葵の方に批難の目を向けたが、向日葵は悪びれもせずに言った。

 「だって、私にとって一番大切なのは先輩ですから」

 狂っている――樒は正直そう思った。

 「だからって、二人を見捨てる理由にはならないだろ」

 珍しく、樒は怒りをあらわにして隣を走る向日葵に言う。

 しかし向日葵はそんなことは意に介していないのか、くすりと笑いながら、

 「……それもそうですね」

 魔剣の力でもっと出るであろうスピードを抑え、樒に合わせるように向日葵は樒の斜め後ろをついてきている。

 今ここで言い争っている時間はない。樒はそう考え全力で走った。家につくと真っ先に鍵を差し込んで玄関の扉を開ける。靴を脱ぎ、廊下を駆け抜けてリビングの扉を勢いよく開けて樒は叫んだ。

 「胡桃! 姉さん!」

 「ど、どうしたの? お兄ちゃん」

 「樒?」

 「あー、おかえり樒。どうしたの、そんな慌てて」

 リビングの中ではちょうど晩御飯を食べ終えた胡桃と真弓と紅葉の三人が食器を片づけているところだった。三人とも不思議そうな顔で、肩で息をする樒を見ている。

 「はぁ、よかった」

 特に異変はなさそうで、樒は安心する。

 しかしそうずっと安心もしていられない。もしかすると深夜にでも襲ってくるのかもしれないし、なんなら今すぐやってきても不思議ではないのだ。

 樒はそう思った後、玄関の鍵を閉めていないことに気が付いたので、慌てて閉めに行こうとする。そうして振り向いた瞬間、後ろで笑いをこらえている向日葵が目についた。

 それを見た瞬間、もしや、と嫌な予感がする。

 向日葵が樒の脇を通り抜けてリビングに入ろうとするのを阻止し、玄関の鍵を閉めるついでにそこまで連れていく。

 「向日葵ちゃん、ブドウも来てないみたいだし、今のうちにちょっと聞きたいことがあるからちょっと玄関まで行こうか」

 「え? あ、はい分かりました」

 本当のことを言えば紅葉に合わせないようにするための口実なのだが、別に不自然ではないだろう。それに、本当に話したいこともあった。玄関の鍵を閉めて、向日葵と話す。

 「えーっと、もしかしてさっきの胡桃と真弓姉さんが襲われるって話……嘘?」

 樒がそう言って疑いのまなざしを向けると、向日葵は悪びれた様子もなく、

 「いえ、本当ですよ。ただ、先ほど胡桃ちゃんに電話で最近ここらで強盗がはやっているそうだから、戸締りをきちんとして知らない人は絶対に家に上げないようにって言っておきましたし、ブドウは事件が表ざたになるのを避けたがるので、無理やり侵入してくることはないだろうと踏んでいました」

 つまり、家にいる二人がブドウに襲われないようにちゃんと対策をしたうえで、向日葵はわざと樒を焦らせて家まで急がせたのだ。そうすればどさくさに紛れて自分も樒の家まで行けることも見越していたのだろう。

 「はぁ……わかったよ、今日はもう仕方ないから泊まっていっていいよ……ただし、シオンのことは絶対にばれないようにね」

 樒はそれっぽい会話をしつつ、胡桃にメールで、紅葉と向日葵を会わせたくないから紅葉を樒の部屋に隠しておくように頼んでおいた。

 「分かってますよ。ちゃんとシオンはナイフの状態にしておきますから大丈夫です」

 「それと、襲われたことも内緒でね」

 「え? すいません、それは言っちゃいました……」

 「……言っちゃったのか」

 樒が落胆して見せると、向日葵は慌てて弁解しようとする。

 「あ、でも魔剣のことについてはちゃんと伏せてますよ。たださっき説明した強盗らしき人に実際に襲われたって言っただけで」

 「そうか……まぁ、強盗に襲われたくらいなら大丈夫か」

 少し遠い目をする樒に、向日葵は憐みの視線を向けた。

 「いや、何が大丈夫なのか分かりませんけど全然大丈夫じゃないと思いますよ。ていうか強盗に襲われたくらいって……今までどんな目に遭ってきたんですか……」

 そりゃあ、……父親がいなくなったり、幼馴染みの妹にテニスラケットで殴られて骨折したり、友達が死んだり、幼馴染みが死んだり、拾った魔剣に心が食べられそうになったり、いきなりほかの魔剣に襲われたり……などと心の中で列挙することによって樒は逆に冷静さを取り戻した。

 「まあ、とにかく、お願いだから大人しくしてね」

 「分かりましたって。そんなにくぎを刺さなくても大丈夫ですよ」

 樒としては魔剣以外のことについても大人しくしているようにという意味だったが、そのことが伝わっているのかいないのか、向日葵は楽しそうに、

 「さ、行きましょう」

 と言ってリビングへと向かった。

 


 「樒、あの子だれ?」

 自分の部屋に戻ると、紅葉がベッドの上に仁王立ちしていた。

 ちなみに今、向日葵は胡桃と一緒にお風呂に入っている。というか、樒がそうなるように何とか仕向けたのだ。ちなみに夕食は冷蔵庫のあまりもので樒が適当に料理を作った。

 「お前は僕の彼女か」

 「そうなってあげてもいいわよ」

 けろりとした顔でそんなことを言う。

 「どうせその代わり心を食わせろとか言うんだろ」

 「分かってるじゃない。まぁ、その話はあとでじっくりするとして」

 「あとでじっくりするんだ……」

 「するわよ」

 樒としては心を食わせろという条件が付くものはなんであれ断るつもりなので不毛な議論になると思うのだが、紅葉を納得させるためならば仕方あるまい。

 「それで、私がこの部屋に閉じ込められた理由であるところのあの女の子は誰なのよ」

 ああ、なるほど、それで少し機嫌が悪そうなのか、と樒は心の中で納得する。きっといきなり樒の部屋に閉じ込められて怒っているのだろう。

 樒はとりあえず今日あった出来事を紅葉に話した。

 「ふーん、なるほどね。ブドウにシオン、そしてシオンの持ち主で心を食べられていない向日葵ちゃんか。心の味付けねぇ、今のあんたの心なんて食えたものじゃないと思うんだけど、世の中には変な奴もいるのね。ていうか、私としてはブドウよりもシオンっていう魔剣の方が気になるわ。樒はその向日葵って子がどうして心を食べられてないのか聞いたの?」

 「いや、一応聞きはしたんだけど、その話は色々話がややこしくなるから今度って言われた。ていうか、そっちよりもブドウの方が問題だと思うんだけど」

 「何言ってんの、そんなの倒せばいいだけじゃない。よく分からないあの二人よりよっぽど分かりやすいわ」

 いや、それが簡単にできるのなら苦労はしないんだが、と考えたところで、樒は思い至る。

 「って、え? もしかして倒せるの?」

 紅葉は、得意げにさも当然といった表情で、腕を組んで言った。

 「当然でしょ。余裕も余裕、力さえ使えればさくっと倒せるわ」

 今まで魔剣らしい紅葉の行動といえば、樒の心を食べようとして吐きそうになるという無様なものだけだったので、魔剣としてはかなりダメな部類に入るのではないかと勝手に思い込んでいた樒であったが、思い返せば剣の時の姿はまるで伝説の中の英雄が持っていそうなそれである。もしかするとすごい力を持っているのかもしれない。

 樒は期待しながら尋ねる。

 「も、紅葉ってどんな力を持ってるの?」

 「力って、そりゃあ、宿主の身体能力を上げる力よ」

 「ほ、ほかには? ほら、シオンっていう魔剣は軽い予知能力があるらしいし」

 「そんなものないわよ」

 当然のように言う紅葉に、思わず樒は力の抜けた顔をする。

 「期待しただけ損だったか……」

 落胆する樒に、紅葉は抗議の声を上げる。

 「ちょ、ちょっと! なに失望してんのよ。そもそも私に小細工なんて必要ないのよ。そうね、だったら約束するわ。私の力を使えば、あなたは誰よりも早く、誰よりも力強くなる。そして剣である私に決して切れないものなんてないし、剣である私は決して折れることはない。刃こぼれすらすることはないでしょうね。どう? 最高の剣でしょ?」

 もし紅葉の言うことが本当なら、確かに剣としてはこの上なく最強だろう。

 「期待しとくよ」

 樒はなんとなく得意げな紅葉を褒めるのが癪だったので、そう言っておく。

 「期待以上だと思うけどね」

 紅葉はそう言いながらベッドの上での仁王立ちをやめ、ベッドの端に腰かけた。

 「それで、私はこれからどうすればいいわけ? あの子が帰るまでこの部屋に閉じこもっていればいいの?」

 「申し訳ないけどそうなるかな。まぁ今晩だけだから我慢してよ」

 「いいわよ、お風呂に入れないのはちょっと嫌だけど、明日の朝あの子が帰ってからにでもシャワーを浴びさせてもらうわ」

 部屋に入ってきたとき不機嫌だったのは半分ほど冗談だったのか、あっさりと了承してくれる紅葉に、樒は一言「ありがとう」とだけ言っておいた。

 樒にとっては嬉しいことに。その日、向日葵と紅葉が出会うことはなかった。向日葵が樒の部屋に泊まりたいと言い出したり、夜中にこっそり樒の部屋に侵入しようとして来たりと、あまりおとなしくしてくれたとは言い難いが、何とか紅葉の存在は隠し通せたのでぎりぎりセーフといったところだろう。

 そして翌朝、土曜日で学校が休みなので、樒は紅葉と一緒に買い物に出かける予定だったのだが、ブドウがいつ襲ってくるか分からず、しかも胡桃や真弓を襲うかもしれないという状況なので、二人から離れるわけにはいかない。二人を守れるのは樒だけなのだ。一応、向日葵とシオンもいるにはいるが、こういう都合がいい時だけ向日葵の手を借りるのも卑怯な感じがした。とはいっても自身の姉と妹に危険が迫っている状況でそんなことも言っていられないだろう。などと悩んでいた樒だったが、当の向日葵葉というと、

 「それでは、お邪魔しまた」

 と言ってあっさりと朝のうちに帰っていった。

 もう少しここにいるとごねるかと考えていた樒だったが、きっと女の子なんだから色々とあるのだろう。泊まることになったのも急なことだったし、などと勝手に納得していた。

 しかし、こうなってくると困ることがある。胡桃と真弓を守るとして、それでは二人から離れられないではないか。今日明日は学校がないからいいが、もし学校が始まってしまえば、二人を同時に守ることはほぼ不可能だろう。そうなると、やはり向日葵の手を借りるしかないように思えてくる。

 樒が朝食をとり終え、一人部屋の中でごろごろしながらそう考えていると、ケータイに電話がかかってきた。

 画面には〝向日葵〟と書かれている。

 「忘れ物でもしたのかな? ……はい、もしもし」

 樒の予想とは違い、向日葵が電話を掛けてきた理由は今の樒にとって最もありがたいことだった。

 「先輩、私です。向日葵です。ブドウのことについてちょっと話したいのですが、今、大丈夫ですか?」

 樒はちらりと自室の扉の方に目をやる。姉の真弓は今頃部屋で受験勉強の真っ最中だろうし、妹の胡桃は何をやっているのかは分からないが、まさか扉の前で聞き耳を立てているはずもないだろう。

 「大丈夫だよ」

 「ありがとうございます。では手短に」

 何か急ぐ理由でもあるのか、真面目な声音で向日葵は迅速に用件を伝えてきた。

 「先輩のことですから今頃、胡桃ちゃんや真弓さんから離れられないで困っているでしょう。ですから、私がブドウを倒すまで待っていてください。くれぐれも、危険なまねはしないでくださいね。いくら魔剣といっても宿主の体を破壊すれば倒すことは可能ですが、私にとっては特別でも客観的に見れば一般的な高校生であるところの先輩には勝てっこありません」

 「いや、でも僕のために向日葵ちゃんを危険な目に合わせるというのも……」

 先ほど考えてはいたものの、やはり樒にとって気が引けることだ。つい向日葵を心配するような言葉が出てきてしまった。

 「先輩は、優しいですね。こんな私のことを心配してくれますし、いきなり魔剣に襲われたというのに、同じ魔剣を持っている私のことを信用してくれています」

 それは違う、と樒は心の中で否定した。樒自身、向日葵のことなど全然信用していないと思っているのだ。魔剣のことで向日葵のことを信用しているのは、自分がすでに魔剣のことについて知っていたからだし、そもそも信用しきっているかといえば怪しい。それに今だってテニスラケットで殴られたことが軽いトラウマになっているし、もしかすると楓を殺したのではないかとすら疑っている。つまるところ、何をするか分からないと思っているのだ。何をするか分からないからこそ信用できない。ごく簡単で当然のことである。ただそこに、樒への純粋な気持ちが含まれているかもしれないと思うと、やはり樒は向日葵を冷酷に扱うことはできないのであった。

 「そんなことはないよ、僕は、そんな優しい人間じゃない」

 「相変わらず、そう言うんですね。ただ、正直に言うと、今回は先輩のためだけというわけじゃないんです。私にも、あいつを倒さなきゃいけない事情がありまして……」

 その理由が何か、樒はあえて聞かなかった。

 「そう、だとしてもやっぱり、ありがたいよ。正直、向日葵ちゃんの言う通り困ってたから、そっちはお願いできると助かる」

 「じゃあ決まりですね。……それで、先輩、その、私がブドウを倒したら……ご褒美に、私のこと〝向日葵〟って呼び捨てで呼んでくれませんか? お姉ちゃんの妹とかじゃなくて、後輩として、一人の女の子として、そう呼んでほしいんです」

 それは、僕に楓のことを忘れろということか? と樒は口をついて出そうになった。楓はもういないんだから、自分をその妹としてみるのはやめてくれとでも言いたいのか、と思ってしまった。しかし、そんなことは口が裂けても言えない。

 「確かに、もうちゃん付けで呼ばれるような年じゃないもんね」

 そう濁して、樒はそのお願いを聞く。それがまるで、自分が向日葵を利用しているように思えて、自身の罪悪感を刺激するのだった。

 「ありがとうございます!」

 電話の向こうから聞こえる喜びの声。それが一層樒の心を締め付けた。

 「学校が始まる前に、この土日でけりをつけますので安心して待っていてくださいね!」

 その声が、まるで逆光でも浴びるように樒の心を暗くしていた。



 「あんた、結局これからどうすんのよ?」

 そう言って、向日葵との電話を終えた樒の部屋に入ってきたのは紅葉だ。

 「どうするもこうするも、胡桃と真弓姉さんから離れられない以上は家に待機かな」

 「状況が状況だし、買い物の約束はこの際延期にしてあげるけど、でもこのままってわけにもいかないでしょう? ブドウとやらをやっつけなきゃ何の解決にもならないわけだし」

 案外物分かりがいいのか、暇つぶしの道具を買いに行くのは延期にしてくれるらしく、その協力的な姿勢に樒は安心する。心を食べさせるか否かという問題の決定権が樒にある以上、あらゆる主導権が樒にいってしまうのは当然といえば当然だろう。

 「ああ、それならさっき向日葵ちゃんから連絡があって、ブドウはあっちが何とかしてくれることになった」

 それを聞くと、紅葉はどうしてか軽くがっかりした表情をする。

 「そう……それなら問題ないわね。じゃあ、私たちはここでゆっくりしておきましょうか。でもあんたのせいで今日も暇なんだから、なんか話でも聞かせてよ。あ、そうそう、この前言いかけてたテニスラケットにまつわるトラウマの話とか」

 ブドウのせいじゃないかと樒も思いはしたものの、狙われているのが樒な以上、樒のせいで紅葉が巻き込まれたといえなくもない。だったら、あの日向日葵からテニスラケットで殴られたことくらい話してもいいだろうという気になってくる。それにどうせ紅葉は人間ではないのだし、他の人間に話したりもすまいという気持ちもあった。

 「まぁ、いいよ。別に減るもんじゃないしね。えーっといつ頃だったかな――」

 ――結局全部話して、そして誰かにこの話を丸ごと説明したのは初めてだったからか、なんだか樒はすっきりしていた。

 ただその話をしている途中、向日葵が樒をどう思っているのかなども話さなければいけなかったのが樒には少しだけつらかった。

 「なるほどねぇ、この部屋に侵入しようとしてたし、なんだかおかしな子だとは思ってたけど、想像以上にエキセントリックな子なのね」

 「そうだね、正直、何をするか分からなくてハラハラするよ。あまり関わりたくないっていうか……」

 相手が人間ではないからか、樒はついつい本音を口にする。

 「それで、ほかには?」

 「ほかって? 向日葵ちゃんの話でほかに聞いて面白いことはないけど」

 実際のところ、他にも向日葵の常軌を逸した行動に関する話はたくさんあるのだが、積極的に話すことでもないので樒は黙っておこうとした。

 紅葉は不満そうな、大層心外だとでも言いたそうな顔だ。

 話そうとしないのが不満なのかと樒は思ったが、そうではないようで、

 「別に面白くはないわよ。笑える話じゃないし……でもまぁ、聞いてあげる」

 不意に、樒の心臓が跳ねた。

 いつだったか、樒が自分の不幸話を笑いのネタにでもするように楓へと話した時、楓が今の紅葉と同じようなことを言ったのを思い出したのである。

 「別にあの子に関することじゃなくてもいいし、時間あるんだから話してよ。あんたの心がそんな風になる原因になった出来事全部。いいでしょ、別に減るもんでもないんだし。それに、万が一減ったら、それはそれでいいことなんじゃないの?」

 これもまた、樒が楓に言われたことだ。

『もし話して何かが減ったんだとしたら、それはきっと悲しみとか、怒りとか、君がその心のうちにため込んでいた負の感情だよ。だから減っちゃってもいいじゃん』

確か楓はそう言ったはずだ。

目の前の魔剣は楓ではないのに楓の姿で同じようなことを言ってくる。だからだろうか、それともやはり相手が人間ではないからだろうか。樒はいつの間にか口を開いていた。

 「……まぁ、確かに、暇だしね。それじゃあ、そうだね、まずは父さんがいなくなった時のことから話そうか。確か、ちょうど中学一年のこの時期だったかな、警察に聞いた話じゃあ、たちの悪い酔っ払いの集団に絡まれて、集団リンチだってさ。酒のせいで判断能力が低下していたとか何とかで、そいつらは死刑にはならなかったけど、流石にまだ刑務所にでも入ってるんじゃないかな? まぁ、父親に関しては……いい父親だったんだろうね、きっと。テニスが好きで、小さいころからよく近所のテニスコートに連れていってくれたよ。それに、そいつらに絡まれた理由ってのも、最初にそいつらに絡まれてた女の人を助けたからなんだって。まぁそんな父親だったんだけど、あっさりと死んだわけさ…………なんだ、話してみればあっという間なんだな。なんかこうもっと話すことがいっぱいあるって思ってたけど、事実をありのままに話せばこんなもんか」

 なんだか拍子抜けな気分の樒に対し、紅葉は特に表情を変えず真面目な顔で言った。

 「ほかには?」

 別にここで話を切り上げても良かったはずなのに、樒の口は言葉を発するのをやめなかった。

 「まだ聞きたいのか……じゃあ、僕の友達が自殺した話でもしようか。中三の時の話だ。友達といっても、友達になった理由が最低でね、同じ奴らにいじめられてたからなんだよ。陰湿なことから表立った暴力まで、何でもござれないじめっ子グループがあってね――あ、ついでに今もそのグループは継続中なんだけど。いや、この前はどうしてだか大人しくしてたっけ……まあそこはどうでもいいか。とにかくそのいじめグループに二人していじめられてたわけだ。それで、きっと耐えられなかったんだろうね、僕を残して自殺しやがった。校舎の屋上から飛び降りたんだって。ちょうどその日、僕は学校を休んでたからよく知らないんだけど、とにかく飛び降り自殺したんだよ」

「そのいじめグループはどうなったの?」

「言ったろ、今も継続中だって。つまり、おとがめなしさ。いじめの事実なんてありません。学校側もこれで通したよ。あとから聞いた話なんだけどさ、あいつ、親から虐待も受けてたらしくてね。金でもつかまされたのか知らないけど、親の方も特に何も言わず、あいつの自殺は何事もなく終了。受験勉強でストレスを抱えた一人の少年が自殺したってことになったよ」

これを聞いた紅葉は、別段樒を責める風でもなく、こう尋ねてきた。

「あんたは、何も言わなかったの? 学校とか、警察とかに」

「……言わなかったよ。脅されてね――僕たちをいじめてた連中に。僕は強くないから、結局誰にも何も言えなかったよ」

詳しく言えば、脅しの内容は樒に手を出すのはもちろん、胡桃や真弓にも手を出すというものだったのだが、そのことまでは言わなかった。

震える声の樒に、紅葉は目をそっと伏せて、「そう」とだけ言った。

「そうだね、あとは……そうそう、これが一番新しいやつかな。小さいころからよく遊んでた、いわゆる幼馴染みってやつがいたんだけど、紅葉と会う十日くらい前かな――死んだよ。紅葉と出会ったあの場所で、木から転落死したらしい。あ、ちなみに向日葵ちゃんの姉だよ。楓っていってね、あいつもあいつで中々不思議で面白いやつだったけど、まあ、僕の周りとしては当たり前かな、死んじゃったよ」

そう、あらかた語り終えた樒に、紅葉が静かにきいてきた。

「悲しくないの?」

「悲しい? どれが?」

そう樒は問い返す。

紅葉は、相変わらず真面目な顔で答えた。

「全部よ。さっき話したことも、まだ話してない小さな出来事もすべて」

紅葉の問いに、樒はいつものように答える。

「悲しくないよ。僕は、大丈夫だ」

それを聞いて、紅葉の表情がようやく動いた。憐みとも違う、悲しみとも違う、何とも言えない表情に顔が歪んでいる。その、まるで不幸を語る聖母のような口元から、最後の質問が発せられた。

「だったら、なんで泣いてるのよ」

 それに対し、地獄を嘆く鬼のような少年は、こう答えた。

 「分かんねぇよ」



 紅葉との会話を終えた樒は、いつの間にか泣いてしまった気まずさから部屋を出た。もっとも、気まずいと感じていたのは樒だけだろう。

 樒は胡桃と真弓に見つからないように、そっと今は亡き父親の部屋へと入る。父親の部屋といっても今はもうただの物置で、中にはガーデニング用の道具が埃をかぶって押し込まれている。樒の記憶には、家族の誰一人としてガーデニングをしていた人間が思いつかないが、母親曰く、樒が物心つく前に父親がやっていたらしい。

 物置と化した父親の部屋は、誰も掃除をすることはなく、たまに母親がいらないものを詰め込むだけだ。樒もこの部屋に入ったのは久しぶりだった。

 よく見れば、まだ開けられてすらいない植物の種が入った袋なんてものもある。きっともう植えられることはなく、花を咲かせることもないのだろう、と思いながら樒は少し腫れた眼もとが元通りになるまで物思いにふけっていた。

 ――数十分ほどたっただろうか、廊下を歩く音と共に、

 「お兄ちゃーん」

 という声が樒の耳に届いてきた。

 窓から差し込む光をただぼんやりと眺めていた樒は我に返る。もう眼も元通りになっただろう。樒は部屋を出て、ちょうど樒がいた部屋を通り過ぎた胡桃に後ろから声をかける。

 「どうした? 胡桃」

 急に背後に現れた樒にびっくりしたのか、胡桃は軽く驚きの声を上げて振り返る。

 「わっ……、そんなところにいたの、お兄ちゃん」

 「ああ、なんか最近紅葉が僕の部屋にずっといるから一人の時間が欲しくてね」

 「ちょっとお兄ちゃん、そんなこと言ったら他の男の人が聞いたら嫉妬で焼死しちゃうよ」

 急に物騒なことを言いだした胡桃に、今度は樒が驚く。

 「いやいや、焼死って……」

 「それだけ嫉妬するってことだよ」

 自分のツインテールの先っぽをそれぞれ掴み、頭の上に掲げるという謎のポーズをしながら、胡桃は言う。

 「美人な姉と可愛い妹に囲まれて暮らしているだけには飽き足らず、紅葉さんみたいな美少女と同じ部屋で暮らしてるんだよ? それに文句を言うなんて、嫉妬のあまり発火している人たちに囲まれてキャンプファイアーの刑に処されてもおかしくないよ」

 「え? なにそれ、どうなるの?」

 「えーっとね、体中が燃えている人と一緒に、繋いだ手が灰になるまでオクラホマミキサーを踊らされるの。そして最後には中央で燃え盛る人たちの群れに投げ込まれるんだよ」

 全く意味は分からないが、想像してみるとかなり恐ろしい。

 「怖いよ……何よりその刑を考えた胡桃が怖いよ」

 「なんかねー、お姉ちゃんが後夜祭で一緒に踊ってた人を見てたら思いついた」

 いつもの可愛い笑顔ではなく、暗い顔でそんなことを言う胡桃に若干どころかかなりビビりながらも、樒は用件を聞く。

 「で、どうしたんだ? 僕のこと探してたみたいだけど」

 樒が引いていることに気が付いたのか、胡桃は慌てて表情を取り繕いながら、甘えるように言った。

 「そうだよ、そうなんだよ、勉強教えてよお兄ちゃん。学校の宿題なんだけど、数学の問題が分からニア」

 「なんだよ、『分からニア』って……」

 「共和国的な? 分からニア共和国?」

 自分で言ったくせに、顎に人差し指を添えて首を傾げる胡桃。

 「まぁいいや、中学生の数学くらいだったら僕でもなんとかなるだろ」

 そんなに頭のいい方でもない樒だが、一応高校生なのだから中学校の数学くらい何とかなるだろう。それに、受験勉強中の姉に頼るわけにもいくまい、などと考えて胡桃が分からないという問題を見た樒だったが、

 「なんだこの問題、僕には分からニア」

 問題文を読み終わった瞬間に投げ出した。

 勉強机につく胡桃の後ろから、樒はかがむようにして問題文を読んでいたのだが、問題の内容は滅茶苦茶だった。

 「ちょ、ちょっとお兄ちゃん、諦めるの早いよ」

 「いや、分かるはずないだろこんなの、ていうか数学の問題って言ったよね?」

 「うん、言ったね」

 「よし、ちょっとこの問題文を声に出して読んでみて」

 樒の台詞に、胡桃は不思議そうな顔をしながらも従った。

 「えーっと……男女がそれぞれ四人ずつ集まる集会がありました。その八人は食事と会話を楽しみ、そのうち六人が二人一組の男女のペアになって帰っていき、余った二人のうち、男の方はいつの間にか帰っていました。問一、最後に余った女の気持ちは割り切れるか答えよ。問二、先生が余った理由をなるべく先生を傷つけずに説明せよ。問三、生徒の諸君はアラサーの女教師を求めよ」

 「全然数学の問題じゃないじゃん! ていうか問三は何なんだよ、問題ですらないし……次の値を求めよみたいに言われても困るよ」

 「いや、でも宿題だし、一応答えを書いて提出しなきゃ。だからお兄ちゃんも一緒に考えてよぉー」

 ツインテールの片方で樒のお腹をたたきながら、胡桃は駄々っ子のように言う。

 明らかに面白半分で手伝わされているが、いい気分転換になりそうだったので樒は手伝うことにした。

 「分かったよ……まあ、実質、考えなきゃいけないのは問二だけだしね」

 「そうだね、問一は明らかに『割り切れない』が正解だもん……割り切れてたらそもそもこんな問題作らないよ」

 「いやいや、割り切れてなくても普通こんな問題作らないから」

 「問一の答えは、割り切れない……っと」

 樒のつっこみを無視し、胡桃は問一の答えを書き込んだ。

 「思ったんだけどさ、そもそも僕はその先生のことを全く知らないんだから解きようがないんじゃないか?」

 もっともなことを言ったつもりの樒だったが、だからといって樒が手伝わないという選択肢はないらしく、胡桃はその先生について大雑把に教えてくれた。

 「えーっとね、歳は問題文に書かれてる通りアラサーで、眼鏡かけて見た目はクールなんだけど、中身は真逆な感じかな。あと結婚とかの話になるとすぐに落ち込む。あ、結構美人だよ。スタイルもいいし、あれでどうして結婚できないのか不思議なくらいだよ」

 「うーん、それならあれじゃないか? こんな問題作ってるくらいなんだから、普段の行動とかのせいなんじゃないか? 仕事でこんなことしてるんだし、学校の外では何やってるか分かったもんじゃないって。だから答えは『もっと普通にしておけばいい』だ。美人でスタイルもいいなら普通にしておけばいいだろ」

 「なるほど、言いえて妙だね」

 樒なりの答えを提示すると、胡桃は何とも腹の立つきりりとした顔で振り返りながらそう言ってきた。

 「いや、何が?」

 「かっこよくなかった? 今の」

 満足げな表情で言ってくる胡桃だが、当然のことながら樒には全く意味が分からない。

 「いや、それ以前に全然意味が分からなかった」

 「いやー、なんか『言いえて妙』っていう言葉がかっこよくてね、使いたくなったの」

 たはは、と胡桃は笑う。

 そして、急に俯いて、いつもとは違い元気のない声をだした。

 斜め後ろに立っている樒からは、ちょうどその顔に影が差し、余計落ち込んでいるように見える。

 「胡桃ってね、いついかなる時も誰からだって『可愛い』って言われるの。だから胡桃、お兄ちゃんからだけは『かっこいい』って言われたい……だめ、かな?」

 そう言って顔を上げた胡桃の目はうるんでおり、そんな目で上目遣いに見上げられれば、確かに誰だって可愛いと言うだろう。

 そんな可愛い胡桃を見て、しかし樒は言った。

 「いや、意味が分からない」

 「だよねっ!」

 樒の反応を予想していたのか、すぐさま胡桃が手のひらで自分のおでこを叩きながら、楽しそうにそう叫んだ。

 樒はため息をつく。

 「はぁ……僕は最近胡桃の考えてることが分からないよ」

 胡桃は先ほどのやり取りで満足したのか、樒の台詞なんて聞かず、にこにこ顔で宿題の答えを書き始める。

 樒がその答えを覗いてみると、こう書いてあった――『先生は美人でスタイルも良いので、そのまま喋らずに座っておけば、男の人が向こうから寄ってくると思います』

 「ま、そんな感じでいいんじゃないか。最後の問題は、答えようがないからいいか」

 「そだねー……ただ、男子生徒って書いてないのがちょっと気になるけど……」

 胡桃が若干顔を引きつらせ、問三を見ながら言った。

 それにつられるように、樒も顔を引きつらせる。

 「大した意味はないでしょ……ないよね?」

 まだ見ぬ妹の数学教師が、予想もできないような行動に走らないように願いつつ、樒はそれから一言二言会話を交わし、胡桃の部屋を後にした。



 胡桃に課された、宿題という名の教師の憂さ晴らしを手伝うという何ともよく分からない行動を終えた後、樒は未だ紅葉と顔を合わせるのが嫌だったので、コーヒーでも飲んで一息つこうかと一階に降りてリビングへと向かった。

 一人でゆっくりしたかった樒だったが、どうやらリビングには先客がいたようで、テレビの音が聞こえてくる。

 樒がリビングに入ると、そこにいたのは姉の真弓だった。受験勉強の合間の休憩だろう、コーヒーを片手にニュース番組を見ている。姉のことだ、もしかするとニュースを見るのも受験勉強の一環なのかもしれない。

 特に声をかけることもせずに、樒はリビングとつながっているキッチンへと向かい、冷蔵庫からボトルコーヒーを取り出す。真弓はあたたかいものが飲みたかったのか、キッチンには未だにコーヒーの香りの残るコーヒーメーカーが放置されていた。

 コップにコーヒーを注ぎ、テーブルを囲んで真弓とは対角線上に座る。

 真弓は樒に目を向けることもなく、ニュースの流れるテレビを見ている。

 ニュースの内容はここ埼玉県からかなり遠く離れたところでの出来事のようだ。それなのにニュースになるということはきっと大きな事件なのだろうと思い、樒もニュース番組へと視線を向ける。

 恐喝、窃盗、薬物売買など、様々な罪名がニュースキャスターの口から飛び出す中、テレビ画面上には金髪や茶髪の若い男たちが数人ほど警察に連行されている様子が映っていた。顔にはモザイクがかけられており、男たちがどんな表情をしているのかは分からないが、少なくとも樒の目には反省しているようには見えなかった。まるで、カメラが向けられるのを面白がるような態度をとっている。

 テレビに映る光景に樒が目を奪われていると、いつの間にか樒の方を見ていた真弓が声を掛けてきた。

 「樒、顔怖いよ」

 真弓の淡白な声で我に返る樒。力を入れ過ぎたせいか、コップを握る手のひらは白くなっていた。

 「ああ、ごめん、視力落ちたのかな、目細めないとテレビの字が見えにくくて」

 かろうじてそう言う樒だったが、真弓は小さくため息をつくだけで、それ以上は何も言わなかった。

 リビングには時折どちらかがコーヒーを飲む音と、ニュースキャスターがいかにも遺憾ですといった感じの声でニュース原稿を読む声だけが響いていた。

 それから数分後、樒の飲んでいたコーヒーがちょうどなくなった時である。不意に玄関のチャイムが鳴った。

 ニュースキャスターがまるで先ほどとは別人のように明るい口調でパンダの赤ちゃんの誕生を祝っている中、樒は玄関へと向かう。

 この時樒は一体何を考えていたのだろうか。先ほどのニュースのことかもしれないし、姉から言われた一言についてかもしれない。一番有力なのは紅葉に色々と話してしまったことだろうし、もしかすると胡桃の宿題についてかもしれない。

 しかしいずれにせよ、その時の樒はうかつだったと言わざるを得まい。

 なぜなら、樒は一体誰が来たのかも確認せずにドアを開けてしまったのだから。

 そこには長身の女が立っていた。つばの広い帽子のせいでゆがんだ口元しか顔の見えない、コートを着た女だ。

 その女――いや、魔剣が自らの本体であろう武骨なダガーナイフを取り出した瞬間、樒はドアを閉めるのを諦めてすぐさまリビングへと駆けこんだ。

 「姉さん!」

 突如リビングに駆け込んできた樒にわずかばかりの驚きを見せている真弓の手を取り、樒は二階へと駆け上がる。

 真弓は困惑した様子で、どうしてか少し顔を赤らめながらついてきてくれた。

 樒は胡桃の部屋の扉を開けると、強引に真弓を中に押し入れる。中では胡桃が訳も分からず固まっていたが、すぐに口を開いた。

 「ちょ、ちょっとお兄ちゃん、お姉ちゃん、何やって――」

 「ごめん、訳は後で説明するから、鍵を掛けて二人とも絶対に部屋から出ないで!」

 樒はそれだけ言うと、すぐさま扉を閉める。

 中から胡桃の抗議の声が飛んできたが、真弓がそれを制したのか、胡桃の声はすぐに止み、代わりに真弓の声が聞こえてきた。

 「絶対に、説明しなさいよ」

 「……うん」

 樒が短くそう答えると、ガチャリ、と鍵のしまる音が聞こえた。

 樒は振り返らず、いつの間にか後ろに立っていたもう一つの魔剣に言う。

 「紅葉、力を、貸してくれ」

 樒からは見えないが、声色から察するに、まるで悪魔みたいな笑い方をしているのだろう、紅葉は楽しげに答えた。

 「お安い御用よ」

 そう言った瞬間、紅葉はオレンジ色に光ったかと思うと次の瞬間には剣に姿を変え、樒の手の中に収まった。

 樒は長く重い剣を両手で持ちながらさっきとは逆に階段を駆け下り、一階のリビングへとたどり着く。ブドウはまるで遊びに来た客人のように、真弓が座っていた椅子に座り、真弓の飲みかけのコーヒーを飲んでいた。

 先に口を開いたのはブドウだった。

 「今日はあなた達に用はないんだけどねぇ」

 ブドウはにやにやと笑いながら、二階の方を見る。

 「狙いは僕の家族か」

 樒は冷静を装って尋ねる。

 「ふふふ、話はあのシオンとかいう邪魔くさい魔剣から聞いているようね」

 「ああ、それで、そのシオンはどうしたんだ?」

 樒としてはあまりそっちの方を気にしている素振りは見せたくなかったのだが、我慢できずにきいてしまった。

 「あら、気になるの? あなたは、向日葵とかいう娘のことを避けていた風だから、別段大切にしているとは思っていなかったけど」

 しまった、と樒は心の中で思った。ブドウは樒の身の回りの人間を傷つけることによって、樒の心に怒りや悲しみという感情を植え付け、味付けをしようとしている。そのため、向日葵が狙われないためにも仲の良いということにはしたくなかったのだ。

 ただ、今朝電話で向日葵はシオンと共にブドウを倒しに行くと言っていた。それなのに今この場にブドウがいるということは――。

 樒の脳内に最悪の考えがよぎる中、頭の中に声が直接響いてきた。

 紅葉である。

 『これがブドウね、まぁぶっちゃけ自分以外の魔剣なんて初めて見たし、見ただけじゃよく分からないけど、これくらいなら余裕で倒せるわよ』

 「確かに、正直向日葵ちゃんには迷惑してたけど、お前を倒してくれるっていうもんだから期待してたんだよ」

 樒はブドウに向かってそう言いつつ、心の中で紅葉に語りかける。

 『いくつか聞きたいことがあるんだけど』

 『なに?』

 『あれを倒すっていうのは具体的にどういうことになるの?』

 『そりゃあ、私があの魔剣の心を食べておしまいよ』

 『それじゃあ、宿主の人間はどうなるの?』

 この点だけが、樒の心配していることだった。樒とその周りの人間に危害を加えようとしている魔剣についてはどうなろうと樒の知ったことではないが、魔剣に心を食われた人間については別だ。

 『ああ、なるほどね。少なくとも、あんたが喜ぶような結果にはならないわね。すでに魔剣に心を食べられている以上、あの人間にもとの心が戻ることはないわ。多分、心のないただの抜け殻のようになるでしょうね』

 『助ける方法はないの?』

 そんな樒のほんのわずかな期待も許さないように、紅葉はきっぱりと言い切った。

 『ないわ。一度食べられた心は魔剣のエネルギーとして消費されるだけよ。人間だって一度食べたものをもとの形のまま吐き出すなんて出来ないでしょう』

 そう言われると、樒にはもう何も言い返せない。

 むしろこれではっきりした。もう二度と宿主の人間に心が戻ることなどないのなら、理屈の上ではためらうことなどないだろう。

 だがしかし、あくまでも理屈は理屈だ。目の前の魔剣はどこからどう見ても人間の姿をしている。それを剣で切るというのは樒にとってかなり抵抗があった。

 「そうよねぇ、邪魔だったわよねぇ、あの子。姉の方とは違って」

 心の中で紅葉との会話を終えた途端、最後の方を強調するようにブドウがそう言ってきた。そして、さらに驚くべき言葉を付け加える。

 「よかったわ、一緒に殺さなくて」

 樒は一瞬ブドウが何を言っているのか分からなかった。

 いや、分からなかったというより、脳がその台詞の意味を理解することを拒んでいるとでも言うべきか。

 だがそんな樒の様子を、まるで誕生日のサプライズプレゼントでも貰ったかのような様子で楽しみながら、ブドウは無慈悲に告げた。

 「あれれぇー? もしかしてあの娘から聞いてないのかしら? これは面白いことになったわね! あっはっは!」

 「な、何言ってんだよ、お前」

 樒の口からかろうじて絞り出された言葉は、自分でも驚くくらいに震えている。

 「知らないのなら教えてあげる。いやぁ、私の口から言えるなんて、最高じゃないの! あのねぇ、あなたと仲の良かった幼馴染み――えーっと何ていったかしら……ああそうそう、楓とかいう女の子を殺したのは――――私よ」

 目を見開き、全身の汗腺から汗が噴き出ているような感覚に襲われながら立ち尽くす樒に、ブドウはゆがんでいた口元をさらに意地悪く歪めて、追い打ちでもかけるように次々と言葉を吐き出した。

 「もしかして本当に気付いてなかったの? あっはっは‼ いいわ、その表情、この際だから全部教えてあげましょう。あなたの父親が死んだのも、あなたの友達が死んだのも、全部私が仕組んだことよ! あの向日葵とかいう娘、てっきり全部話したもんだと思ってたけど……いや、そもそもあの娘も知らなかったのかしら? まぁ、そんなことはどうでもいいわ。もっと詳しく話してあげる。そうねぇ、ああ、そういえば、あなたの父親だけど、この体って結構美人じゃない? だから若い男の集団をたぶらかしてね、それであなたの父親の前で男たちに無理やり連れて行かれそうになっているように演じれば、簡単に引っかかってくれたわ、あのお人よし。助けに来て、あげくぼこぼこにされちゃって。それを笑って見てた私を見たあの男の表情といったら傑作だったわねぇ! あんたの友達は少し面倒だったわ。まぁでも、自殺にまで追い込まれた時の人間の顔といったら最高だったわよ? 思わず食べちゃいそうになったもの。幼馴染みの方は、ちょっと失敗だったかしら。まさか妹が魔剣を持っているなんて思ってもみなかったわ。あのせいで変なのに追いかけまわされる羽目になっちゃった」

 椅子から立ち上がり、この世のものとは思えないほどの邪悪な笑みを浮かべながら、全ての元凶である魔剣は狂ったように言う。

 「あはっはっは! ねぇ今どんな気分? 心の中は? 怒り? 悲しみ? ああ、もう我慢できない……長年かけて味付けして、あとは姉と妹を目の前で殺して最後だったんだけど、もういいわよねぇ、もう、我慢できないもの……ああ、でもダメ、せっかくここまできたんだから、でも……」

 後半はうわごとのように何かをぶつぶつとつぶやいていたが、もはや樒の耳には届いていなかった。

 心の中ではなく、樒は声に出して紅葉に話しかける。

 「紅葉」

 対して紅葉も、剣から響かせるように声を発した。

「なに?」

紅葉のその何かを期待しているかような声が、今は余計に樒の神経を逆なでする。しかしその怒りも、矛先はただ一つだ。

 樒は狂ったように笑っているブドウをまっすぐ睨み、紅葉の期待通りの言葉を静かに、しかしかつてないほどの感情を込めて力強く言い放った。

 「食っていいぞ」

 「待ってました‼」

 紅葉が歓喜の声を上げた瞬間、樒はまるで秋に色づく紅葉のように、髪の毛はオレンジ色に染まり、目は自身の怒りを表しているかのように真っ赤にその色を変えた。

 両手でしか持ち上げることのできなかった大きな剣が、今は嘘のように軽い。オレンジ色に光る剣の重さが変わったわけではない、樒の腕力が変わったのだ。

 紅葉という名の魔剣を両手から片手に持ち替え、剣の振り方など知らない樒は思うままに剣を振り上げ、ブドウへと突進した。

 驚くほどのスピードで間合いを詰めた樒が、振りかぶった剣をまっすぐに振り下ろす。片手で乱暴に、それもでたらめなスピードで振り下ろされた剣は、爆発的に向上したその身体能力に樒がまだ慣れていないからか、ブドウがわずかにその身を動かしただけで的を外した。

 宙を凪いだ剣先はそのまま床に振り下ろされ、大きな音と共に深々と突き刺さる。

 樒は突き刺さった剣を引き抜きながら、そのまま斜め上にブドウがいる方向へと振りぬいた。が、ブドウは面白そうに笑いながら後ろへと飛んでそれをかわす。

 樒は思いっきり剣を振りぬいたせいか、よろけて倒れそうになりながらも剣を杖のようにして何とか踏みとどまった。

 頭に血が上っているせいか、思考は乱されまともに考えることができない。

 もはや樒は目の前のブドウを斬ることしか考えられず、再び剣を構えて突進しようと一歩目を踏み込んだ――その時である、樒が違和感に気が付いたのは。

 ブドウに向かってまっすぐ進んだはずなのに、まるで地面が歪んでいるかのように足もとがふらついた。たまらずテーブルに片手をついて何とか体のバランスを保ったものの、段々と足もとがおぼつかなくなってくるのを感じる。

 異変に気付いた紅葉が心の中で話しかけてきた。

 『樒? どうしたの?』

 『分からない……くそっ、なんだこれ』

 樒はぐらつく視界の中、必死にブドウを睨みつけていたが、ついに立っていられなくなり、膝をついた。

 ブドウがその狂ったような笑みを浮かべたまま、ゆらゆらと近づいてくる。

 その身を支えるように地面に突き刺していた剣を、近づいてくるブドウを振り払うように振るう。しかし距離感すらも曖昧なその攻撃は、虚しくも空を切るばかりで、支えを失った樒の体はそのまま前のめりに倒れた。

 まるで頭の中で地震でも起きているかのような感覚の中、ブドウが話しかけてきた。

 「あはははは! そうねぇ、人間のお子様にはこの感覚は分からないわよね。これは私の力よ。あのシオンとかいう魔剣にも隠していた私のとっておき。流石にあなたの持つ魔剣とまともに斬りあったって勝てそうになかったから使わせてもらったわ」

 「畜生……なんだよこれ……うっ」

 突如訪れた吐き気を必死に押さえつける樒。頭の中が麻痺しているのか、体中の筋肉に力がうまく入らない。

 「簡単に言うとねぇ、あなたは今酔っているのよ。それが私の能力。近くにいる者をアルコールで酔わせるの。リビングに入ってきてからずっと使っていたのだけれど、思ったより時間がかかって驚いちゃったわぁ。あなた結構お酒に強いみたいねぇ」

 そんなブドウの話を半分も理解できないまま、樒の意識はどんどん混濁してゆく。

 「安心しなさい。まだあなたを食べるようなことはしないから。ちゃんと目の前で姉と妹の苦しむ姿を見せてからにしてあげる。うふふふふ」

 薄れゆく意識の中、すぐそばを通り過ぎるブドウの足音と、悪魔のような笑い声だけが樒の頭の中に響いた。

 


 平衡感覚がおかしくなりそうなくらいに脳が揺れ動き、体中がぬれているみたいに悪寒がする。まるで嵐の中を進む船に乗っているかのような感覚。外からは大きな風の音が聞こえてくるかのようだった。そんな感覚の中樒は目を覚ましたが、目に映るのは薄暗い闇の中にぼんやりと浮かぶ木々だけだ。

 あたりはいたって静かで、揺れ動いているのは樒の頭の中だけだと気が付く。

 そんな森の中に聞こえた嫌な笑い声で樒はこれまでの出来事を思い出した。

 樒の中の嫌悪と憎悪を無理やりに膨らませるその笑い声で顔を上げると、前方でブドウが木に寄りかかりながらこちらを見ていた。

 「目が覚めたみたいねぇ。大丈夫かしら? ちゃんと状況は分かってる?」

 樒は視線だけを動かして周りを見渡す。そこはよく樒や楓が遊びに来ていた森の中だった。体はしっかりとロープで木に括り付けられており、抜け出せそうにはない。加えて、ご丁寧にも樒が括り付けられている木は楓が転落死したという木だった。ブドウがどのようにして楓を転落死と見せかけて殺したのかは、樒の知るところではないが、とにかくその悪趣味さに怒りが湧いてくる。

樒の頭は激しい怒りと少しの痛みがあるものの、正常な思考を確保できていた。

 「真弓姉さんと胡桃、そして紅葉はどこだ?」

 「そんなに怖い顔しないでちょうだいよ。そんなに怒った顔されたら……ああ、食べちゃいたくなるじゃないの」

 ブドウは樒の、怒りを隠そうともしない目を見て、興奮した様子でそう言った。

 まともに会話すらできそうにないので、樒はあたりを見回して三人を探す。すると、上の方から呻き声が聞こえた。

 もはや焦る気持ちを隠そうともせずに上へと視線を急がせれば、そこには胡桃と真弓の二人がちょうど樒の真上につるされていた。

 きっとブドウの能力で酔わせてあるのだろう。ぐったりとした様子で、時折苦しそうな声を上げている。しかも、ご丁寧なことに樒が顔を上げればその表情がしっかりと目に映るように体の角度を調整してあるようだった。

 樒が怒りのあまり声を出せないでいると、ブドウがコートの中から自身の本体であろうダガーナイフを取り出してゆらゆらと近づいてきた。

 「さぁて、最後の味付けの時間にしましょうか。つるしてある二人ももうすぐ酔いが醒めてきて意識を取り戻すわ。そしたらまずは手始めに妹ちゃんのほうの足の指を一本ずつ切り落としましょうか」

 ブドウはこれからやることが楽しみでたまらないという風に、ダガーナイフをなめながら笑う。

 「そうねぇ、そしたら一本目でもう痛みのあまり酔いなんか一気に醒めちゃって、自分がどんな状況かすらも分からずに泣き叫ぶに違いないわぁ」

 ブドウが笑いながら近づいてくるにつれて、怒りに支配されていた感情に焦りと恐怖が加わっていく。

 「そして傷口から噴き出る血を浴びながらあなたはどんな表情をしてくれるのかしら?」

 樒は必死に何かを言おうとしたが、心の中はぐちゃぐちゃにかき乱されて言葉が出てこない。

 「ああ……妹の方が意識を失ったら次は姉の方。きっと最初の一本くらいなら我慢するんじゃないかしら……でも徐々に痛みと恐怖に耐えられなくなってくる。どんな顔をするのかしらねぇ。ああもう楽しみで仕方ないわぁ」

 ゆっくりと、まるでカウントダウンでもするかのように、未だ目を覚まさない二人とその下の樒の方へと恐怖が近づいてくる。

 「それを二人が死ぬまで続けて、あなたは姉と妹の血で真っ赤に染まるのよ。まるでこの地面に広がる紅葉のようにね」

 樒の口からやっと出てきたのはまるで獣のような呻き声だった。激しい怒りと焦燥感のあまり、無理だと分かっていてもロープから脱出しようと暴れる。しかし、体に縄がこすれて痛いだけで何の意味もなさなかった。

 それでも何かをせずにはいられない樒は体に力を入れ続ける。

 樒が暴れるせいで木や地面に振動が伝わったのか、周りの木で寝ていたのであろう鳥たちが一斉に飛び立った。

 怒りと、憎悪と、悔しさに満ちたまなざし。しかしそれすらもブドウにとっては樒の心が自分の好みに合うように味付けされている証拠にしかならない。

 樒はいつの間にか言葉にならない叫び声を上げながら、体をさらに激しく動かす。

 あまりの激しさに木が揺れ動き、数枚の紅葉がひらひらと舞い落ちてくる。

 樒には分かっている。あかり一つ設置されていないこの森には昼にこそ誰かが紅葉狩りに訪れることはあっても、夜に人が訪れることなどない。また、近くには工場が数件建っているだけで、人なんて住んでいない。だから、どれだけ叫んでも助けが来ることなんてないはずだ。夜の森という、近づきがたい雰囲気を放つこの空間に、助けなんて来るはずがなかったのである。

 ただ一人――吹上向日葵とその魔剣、シオンを除いては。

 「先輩に‼ 触れるなあああああああああああああああ!!!!!!!!!」

 夜の森に鬼のような怒声が響き渡った。

 その声がしたのは、樒の後ろでもなく、前でもなく、右や左でもなかった。

 その声の主は、あろうことか真上から、つるされた二人の前を通過するように、樒の目の前に降ってきたのだ。

 いったいどれほどの高さから落下してきたのか、着地の衝撃で落ち葉が舞う。

 オレンジ色の旋風の中で、樒の目には確かに紫色に光る妖しくも美しい少女の姿が見えた。

 向日葵は一瞬だけ、樒の無事をちらりと横目に確認する。

 そして、すぐにブドウの方へと視線を戻したかと思うと、

 「殺す‼」

 そう叫んで、女子中学生というよりは人間の限界すら超えるようなスピードでブドウへと切りかかった。

 流石のブドウもいきなり自分と獲物との間に現れた敵に驚いたようで、その顔からはあのいやらしい笑みが消えている。

 「殺す‼ 殺す‼ 殺す‼ 殺す‼」

 もはやブドウなんかよりもよっぽど狂っているのではないかといった様子で、向日葵はブドウめがけてひたすらにナイフを振り回す。

 ブドウは必死の形相で向日葵の猛攻をしのぎつつも、時折反撃のすきを見つけると、ナイフで切りかかろうとする。しかし、不思議なことにブドウが反撃に出ようとしたその時には、向日葵はもうすでにブドウの反撃の届かない位置に回り込んでいるのだ。

 ナイフでの斬り合いなど映画の中でしか見たことのない樒にですらはっきりとわかるほどに、向日葵は圧倒的だった。

 そして、勝負はすぐに決した。

 最後に金属と金属の激しくぶつかり合う音が聞こえたかと思うと、ブドウの持っていた武骨なダガーナイフが向日葵の持つ細くしなびやかなナイフにはじかれて宙を舞ったのだ。

 宿主の手から離れたその魔剣は空中で回転しながら樒の横の地面に突き刺さった。

 向日葵はすぐさま宿主の首を片手でつかむと、そのまま地面に押し倒してナイフを振り上げる。

 本体であるダガーナイフが離れたからか、宿主の体は向日葵に簡単に組み伏せられている。

 向日葵が躊躇なく振り上げたナイフをそのまま突き刺そうとしたとき、樒は思わず叫んでいた。

 「ちょっと待って!」

 樒の声に、向日葵はぎりぎりのところでナイフを止めると、険しい顔で樒の方を振り返った。

 「何ですか、先輩。すいませんが話なら後にしてください。今はこいつにとどめを刺すのが先決です」

 冷たく言い放つ向日葵に、樒は一瞬怖気づいてしまう。

 「いや、でも……」

 自分でもどうして向日葵を止めたのか分からなかったが、樒は何とか言葉つなげる。

 「でも、宿主の人間に罪はないだろ」

 本当はそんな理由ではない。恐らく、もっと醜い何かだ。

 「……先輩はやっぱりやさしいんですね」

 その言葉はいつものそれより無機質に聞こえる。

 「でも、一度魔剣に心を食べられた人間はその心を取り戻すことはできません。もう、この人は死んでいるんです。今はもう、この人間の体も含めてブドウという魔剣なんです。それに、ブドウを殺すにはこの体を破壊するか、この体に魔剣を刺して心を食べるしかありません」

 「でも――」

 なおも樒は食い下がろうとしたが、向日葵の言葉がそれを許さなかった。

 「それに何より、私はお姉ちゃんを殺したこいつが! 私から先輩も奪おうとしたこいつが許せない‼」

 樒の頭の中に、レストランで、姉のことを大切に思っていたことだけは信じて欲しいと泣いていた向日葵の姿が想起される。

 次の瞬間、樒が何かを言う前に向日葵はそのナイフを深々と宿主の体に突き刺していた。

 一瞬だけ、まるで魂でも出てきたのかと思うような光が見えたかと思うと、すぐに消える。きっと、宿主の中に巣食っていたブドウの心がシオンによって食べられたのだろう。

 向日葵は眼もとを袖で拭くと、こちらを振り返り疲れた様子で歩いてきた。

 まだ魔剣の力は解いてないようで、その髪と目は夜の闇の中で妖しく光っている。

 向日葵は二人を吊るしていたロープをナイフで切ると、二人を丁寧におろして地面に寝かせ、樒のロープを切り始める。

 そして、樒のロープを切り終わったかと思うと、そのまましなだれかかるように樒へと抱き付いてきた。樒のロープを切り終えた瞬間に魔剣の力は解いたのか、その髪はもう夜の闇に溶けてしまいそうな漆黒で、その体は先ほどの戦いをしていたのが嘘だったかのように華奢だ。

 「先輩、私……ちょっと疲れちゃいました。頭、撫でてください」

 樒は思わずいつものようにあしらおうとしたが、向日葵の泣きそうな声と、震える肩がそれを許してはくれなかった。

 樒は月明かりに浮かぶ紅葉の木を見上げながら、向日葵が落ち着くまでその頭をなで続けた。



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