第一話 猛毒
秋といえば何を想像するだろうか。読書の秋、食欲の秋、などなどと色々な意見が聞かれることだろう。では今、紅葉きらめく美しい森の中にひっそりとたたずんでいる岩槻樒が一体何を想像するのかといえば、それはもちろん目の前に広がる紅葉の秋であり、そしてもう一つ、別れの秋だ。
思えば父がいなくなったのも秋だったし、飼っていたペットが失踪したり死んでしまったりしたのも秋だった。カードゲームを卒業したのも秋だし、休日の朝にやっている仮面ライダーや戦隊ヒーローものを見なくなったのも秋だったような気がする。そんなどうでもいいことを頭の中でこじつけながら、樒は最後の一つを口にする。
「お前と別れるのも秋なのか……楓」
楓とは樒の眺めている木に色づく赤とオレンジの葉のことではなく、彼の幼馴染みの女の子のことだ。もっとも、悲しみに暮れる樒の瞳にその色が映っているのかは定かではない。
ちょうど十日前、樒の幼馴染みである吹上楓がこの森の奥にある紅葉の木から転落し、死んだ。まるで枯れた葉が枝から落ちるように、彼女は地面の落ち葉と同様の存在となった。
一緒にいた彼女の妹が言うには、この森で一番高い木に登って紅葉の広がる森を眺めようとしていたらしい。その名にふさわしく、秋に色づく葉っぱたちが大好きな彼女は一緒にいた妹の制止も聞かずに木に登り、そして転落死したのである。
樒はその話を聞いて久々に泣いたが、今はもう涙は枯れ果てている。
もとより悲しいことへの耐性は強い。もはや慣れているといってもいい程の人生からすれば、この事件も予定調和だとすら樒は思う。冷酷な人間だと思うかもしれないが、樒の心の中はこれまでのつらい経験から既に闇でいっぱいだった。
そしてその心の闇をさらに深くして、樒は足を動かし始める。目的地は今よりも森の奥、この森で最も大きい紅葉の木がある場所。つまり、彼の幼馴染みが死んだ場所だ。
地面の上に積み重なる紅葉の不思議な感触を靴で感じながら、樒は歩く。
本当ならば学校に行かなければいけない時間なのだが、なんとなく感傷に浸りたい気分だったので、樒は学校をサボってこの森まで足を延ばしていた。
いや、感傷に浸りたいなどという生易しい言葉は不適当だろう。死に場所を求めている――そう言ったほうが正しいのかもしれない。
恋人というわけではなかった。友達と呼ぶのもなんだか嫌だった。それでも、樒にとって彼女はなくてはならない存在だった。かけがえのない存在だった。いや――。
「過去形……じゃないか」
今も、彼女はかけがえのない存在だ。代わりなんてない、唯一の理解者。そんな彼女が死んでしまって、樒はこれからどうしようというのか。
その答えが、きっとこの森の奥にある。
多分、樒はこの先の、彼女が死んだ場所で自分も死ねば、楽になれる。
悲しみにあふれた人生に、生きていてもしょうがないような人生に、終止符を打てる。
ただそれだけを想って、いっそ夢見心地に、学校をサボった樒は森へと足を運んだ。
森の奥に行くにつれて、踏みしめる紅葉の感触が分厚くなってゆく。死体でも埋まっているんじゃないかと思うくらいに、踏みしめる落ち葉は重厚だ。
しばらく歩くと、目的地へとたどり着いた。周りの木よりもひとまわり大きなその木は、よく見れば枝が一本折れている。きっとあそこから落ちたのだろう。樒はその枝をよく見ようと近づいた。
一歩、また一歩と死に場所と決めた大木へ近づく。
ぼんやりと、さながらゾンビのように歩く樒の視界の端で、彼の意識を呼び覚ますように、何かがきらりと光った。
いつだったか、楓がこの森でお気に入りのペンダントをなくした時の記憶がよみがえる。
「学校サボって、一緒に探しに行ったっけ」
それで、確か今みたいに日の光が反射したのに気付いた樒が見つけたはずだ。
気になった樒はゆっくりと木を中心に移動する。そうしてその目に映ったものに樒は驚いた。
木の根元のあたりに、まっすぐと天を目指すように剣が突き刺さっていたのだ。
美しく大きな刀身は木の幹のようにしっかりとその身を支え、まだ見ぬ剣先は地面に深々と突き刺さっている。そしてカエデの葉のような形をしたつかの部分は周りの景色に合わせるように赤やオレンジに色づいていた。
まるで咲き誇るように地面に刺さるその美しい剣に樒は目を奪われる。
思わず手を伸ばしその持ち手を掴んだ瞬間、樒とその剣を囲むように紅葉の葉が吹き荒れた。
樒は驚きのあまり剣から手を離そうとしたが、どういうわけかその剣を握った手は意志に反して動こうとしない。
「な、なんだよこれ!?」
困惑する樒の脳内に、声が響いた。握った剣から音が出ているわけではないのに、その声の主はこの美しい剣だと不思議と分かる。
『初めまして、私は魔剣。いきなりだけど、あなたの心を食べさせていただくわ。そして、心を失ったあなたは私に体を乗っ取られ、魔剣である私に心を食べさせる人形になるの』
突如起こった不思議な現象に理解の追い付かない樒をよそに、頭の中の声は楽しそうに告げる。
『さぁ、あなたの心はどんな味がするのかしら? 食べやすくておいしいとよいのだけれど。それじゃあ……いただきます!』
その宣言とともに、樒の体の中に何かが入り込んできた。強い風が体の中で吹き荒れるような感覚の中で樒は心が食べられるということが一体どういうことなのかをなんとなく理解した。
「ああ……心がなくなるのなら……この悲しい気持ちも全部消えてくれるのか……それはそれで、いいかもな……」
樒がどうでもよさそうにそう呟くと、体の中で暴れまわっていた何かが急に外にはじき出されるように吹き飛んでいき、目の前の剣が激しく光った。
あまりのまぶしさに、樒は思わず目を閉じる。
光がやんだ後、樒の耳に、女の子の呻き声のようなものが聞こえた。
「お、おええ」
樒は恐る恐るまぶたを開く。
樒の前には先ほどまでの紅葉色の剣はなく、代わりに紅葉色の少女が木の幹に片手をついて苦しそうに唸っていた。もう片方の手は自らの口を気分でも悪そうにふさいでいる。
紅葉色の少女、と形容したのはその服が赤とオレンジのふわふわとしたワンピースだったからで、そしてなによりその長い髪の毛が周りの木々に負けないくらい美しく紅葉色に色づいていたからだ。
あの声の言う通りならば、樒は今心を失っているはずなのだが、全くそんな感じはせず、そして突如目の前に現れた少女も不可解だ。
樒の頭は全く今の状況について行けず、とりあえず目の前で今にも吐きそうな少女に声をかけた。
「あの、大丈夫?」
「ちょっと、今は吐きそうだから話しかけないで……」
こちらを振り返らずに少女はそう言った。
「分かったよ」
急に起きた出来事のせいで何だか先ほどまでのナイーブな気持ちが薄れていた。
なにより、人のいる場所で自殺しようとは思えない。
困った樒は先ほどの現象はなんだったのかとあたりを見回す。
しかし結局何も見つからず、女の子を放っておいて帰ってしまおうかと考えていると、紅葉色の少女は少しだけ青ざめた顔でこちらを振り返ると、突如怒りの言葉を投げ掛けてきた。
「ちょっと、あんたの心の中一体どうなってんのよ。闇が深すぎて食えたもんじゃないわ。全くもう、あんなもの胃が受け付けないわよ!」
突如訳の分からないことを言いだした目の前の少女に、樒は疲れた様子でため息をつく。
「はぁ……なんかよく分かんないけど大丈夫そうだし、僕は帰るよ」
そう言って振り返り、森を出ようと歩き出す。なんだか気分がそがれた。それこそ、心を食べられたように、暗澹としていた気持ちが霧散した。驚きや誰かとの接触はその時の気分くらいなら変えてくれるらしい。もっとも、心の中に渦巻く深い闇だけはちっとも晴れないが。
「なんだってこう、僕は変な人にばかり絡まれるんだろう……春になるとあんな人が増えるって聞くけど、やっぱぶっちゃけた話、ああいう人に季節とか関係ないよな……」
ぶつぶつとつぶやきながら数歩ほど歩いたところで、樒は肩を掴まれてそのまま無理やり振り向かされた。目の前には、先ほどより顔色がよくなった少女がいる。
「ちょっと、どこ行くのよ?」
とりあえず森を出るということ以外考えていなかった樒は適当に答える。
「立ち読みとか? いや、まぁどこでもいいんだけど」
「そんなことはどうでもいいのよ!」
「いや、自分で聞いといて……」
「うっさい」
「…………」
めんどくさそうな人に絡まれちゃったなぁ、と樒が心の中で呟いていると、目の前の少女は掴んでいた樒の肩を離す。そして、いらいらした様子で樒の方を見ながら、腕を組んだ。
よく見ると目の色までもが髪の毛と同じように紅葉色になっている。
「とにかく、あんた名前は?」
やはり初対面だったのか、と思いながら樒は自分の名前を告げる。
「岩槻樒だよ。そっちは?」
「私は紅葉」
「紅葉か、そのまんまだね。それで、苗字は?」
ここで、紅葉と名乗る少女は不思議そうな表情をして見せた。
「苗字? そんなものあるはずないじゃない」
言っている意味が分からず、思わず「え?」と声に出してしまう樒。
「あのねぇ、私は魔剣なんだから両親から引き継ぐ苗字なんてないの」
それを聞いて樒は心底面倒くさそうな様子でため息を吐いた。
「はぁ……思ってたより痛い人だったか……」
「ちょっと、何よその目? もしかして頭のおかしな人間だとか思ってないでしょうね?」
「いやいや、僕もそういう妄想をしてた時期はあるから、気持ちは分かるよ。でも、そういうのは早めにやめないと後々後悔するからやめといた方がいいと思うけどね」
「つくづく失礼な奴ね……」
こめかみのあたりをぴくぴくとさせながら紅葉は言う。
「いや、つくづくっていうほどまだ話してないと思うんだけど」
「うっさいわね! だからさっきの剣よ! あんたがさっき手に取った大きくて美しい優雅な剣、それが私なの」
自らを誇るようにその平均的な胸に手を当てて紅葉は言ったが、樒の反応は鈍かった。
「ああ、あの剣のことか。君の仕業だったんだ、あれ。どうやったのかは知らないけど、びっくりして迷惑だからやめといた方がいいよ」
紅葉はひきつった笑顔で腕を組み、再びこめかみをさらにひくつかせた。
「あんたがそこまで言うならこっちにも考えがあるわよ……さっきはお腹壊しそうだったから諦めたけど、もういいわ。あなたの心がどれだけ刺激物であろうが、かけらも残らず食い尽くしてやるわよ!」
紅葉がそう叫んだ瞬間、彼女の周りに落ち葉が舞い始め、彼女の体が赤く光り出した。そして樒が瞬きをした瞬間にその姿は光の塊となり、樒の右手に集まっていく。光は次第に剣の姿を形作り、ついには先ほどの剣へと姿を変えた。
どんなトリックを使ったところで不可能だと思える光景に樒は言葉を失う。
剣から響くように、樒の頭の中に声が聞こえた。
『さあ、これで信じたかしら? でも今更後悔したって遅いんだからね。あんたは何の抵抗もできずに私に心を食べられて、私のために人を襲う奴隷と化すのよ!』
紅葉がそう言い終えた途端、樒の中で、最初に剣を手に取った時のように、風が吹き抜けるような感覚が走った。
しかしその感覚も束の間、次の瞬間にはその風は樒の中からはじき出される。そして目の前では紅葉が地面につっぷしていた。
「うっぷ……やっぱ無理……胃がもたれる……」
「えーっと、その……大丈夫?」
「ごめん、ちょっと今吐きそうだから話しかけないで……うっ……」
「う、うん……分かった……」
それから数分後、体調の戻った紅葉から樒は詳しい話を聞いた。
「……つまり、紅葉は魔剣で、魔剣は持ち主の心を食べて操り人形にすることによってさらに人を襲って心を食べるってこと?」
二人は地面の落ち葉を絨毯にして座り込んでいる。
信じられないような話だが、今の樒にとってその真偽は割とどうでもよかったので適当に信じておく。
「そういうこと、だから私の持ち主となったあんたは心を失った人形になるはずだったの。なのに……あんたの心、闇を抱え過ぎてとても食えたもんじゃないのよ」
怒ったように紅葉はそう言うが、樒としては知ったことではない。
「いやいや、そんなこと言われても……っていうか魔剣でも食えないって僕の心ってどうなってるわけ?」
「私が聞きたいわよ……一体どんな人生送ってきたらあんな心になっちゃうわけ? ……なんかこう、苦みと酸味と辛みの塊みたいな味がしたんだけど……うっ……思い出したらまた気持ち悪くなってきた……」
紅葉は再び顔色を悪くしてげっそりする。
「まぁ、なんとなく話は分かったから、そろそろ帰ってもいい? なんか関わっても危なげな予感しかしないし」
樒は立ち上がると、紅葉に背を向け、別れの挨拶をする。
「それじゃあ、適当に新しい持ち主でも見つけてよ。じゃあね」
しかし残念なことに樒の肩は紅葉によって掴まれ、強制的に歩みをとめられた。
「ちょっと待ちなさいよ」
「な、なんだよ、僕の心は食べられないんだろ? だったらさっさとほかの持ち主でも探せばいいじゃないか」
振り返って樒はそう言うが、引き留めた紅葉は何だかばつの悪そうな顔をしていた。
「そうしたいのはやまやまなんだけど……持ち主は変更できないの」
「へ?」
「だーかーら、持ち主は変更できないの」
「それは、なんというか……残念だったね。ってわけで、さよなら」
頭の中のセンサーがものすごい勢いで危険信号をキャッチし始めたので、樒はそそくさとこの場を立ち去ろうとする。しかし、あえなく樒の肩は紅葉に捕まった。しかも、先ほどより掴む力が増している。
「待ちなさいよ」
若干低いトーンでそう言われ、内心ビビる樒。
「は、はい」
頭の中で警報が鳴り響く中、恐る恐る樒は振り返ると、そこには何故かにっこり笑顔の紅葉がいた。しかしよく見ると薄められたまぶたからわずかに覗く瞳は全く笑っていない。
「責任、とってよね」
ところ変わって樒の部屋。どこか人目のないところで落ち着いて話がしたいということになったので、場所を考え結果こうなったのだ。制服を着ている樒が平日の昼間からあまり外をうろちょろできないということもある。
もちろん初対面の女の子をいきなり部屋に連れ込むのもどうかと樒も思ったが、紅葉も気にしていないようだし、自然と場所は樒の部屋に決まった。
家には誰もおらず、今は樒と紅葉の二人だけだ。
紅葉はナチュラルに樒のベッドに腰かけていた。樒はというと勉強机の椅子に座っている。
「で、僕にどうしろっていうの?」
「そりゃあ、もちろん、あんたに心を食べる手伝いをしてもらうしかないわね」
「いやだよ、そんなの……犯罪の片棒を担げって言ってるみたいなものじゃん」
心を食べる手伝いというのが具体的にどんなことをすることなのかは知らないが、とりあえず食べられた人は無事ではなさそうに思える。
「大丈夫、別に法を犯すわけじゃないから大丈夫よ」
「ふーん、じゃあ、どうやって紅葉は心を食べるの?」
「簡単よ、あんたが剣の姿をした私で人を切ればいいの」
「全然大丈夫じゃないし……」
剣の姿をした紅葉は長さが一メートル以上あった。そんなもので人を切るなんて完全に法的にアウトだ。
「だから大丈夫よ。魔剣に切られたら心を食べられるだけで体に傷を負うわけじゃないから。まぁ、やろうと思えば実際に体を切ることもできるんだけどね」
「それじゃあ、見た目は体をすり抜けるような感じになるってこと?」
いやいやそれでもだめだろ、と心の中で樒は突っ込んだ。
「そうね、実際に試したことはないからよく分からないけど多分見た目的にはそうなるでしょうね。それが嫌なら体ごとバッサリいっちゃってもいいわよ。私、切れ味には自信があるから」
得意げにふふん、と鼻を鳴らす紅葉だが、樒としてはそんな自慢をされても困るだけだ。
「いや、それだと一層犯罪性増してるから。ていうかそもそも人の心を食べる手伝いなんてしないよ」
そう樒が当たり前のように言ったとたん、紅葉の様子が急変した。驚いたように目を見張って、樒の方を見ている。
「え……それ、本気で言ってる?」
「そりゃあ、もちろん。だって心を食べられてた人間って、生きた屍みたいになるんだろ?」
これは森で詳しく話しをきいたときに紅葉が言っていたことである。具体的にどうなるのかは樒には想像もつかないが、とにかく本人にとって嬉しいことではないのは確かだろう。
「そ、そりゃあ……そうだけど……でも、そうしたら、私の食べるものが……」
心配そうに樒の方を見つめる紅葉だが、樒としては仕方のないことだ。
「じょ、冗談よね? これってあれよ? 拾った犬に餌をあげないで虐待してるようなもんよ?」
相当焦っているのか、自分のことを拾った犬呼ばわりし始めた紅葉に、樒は困ったように頭をかく。
「いや、そうは言っても人間を襲うわけにはいかないし……」
「な、なによ! そんな無責任なこと言うなら最初から拾わなきゃよかったじゃない! ちょっと私が綺麗だったからって手を出して、都合が悪くなったらすぐに捨てるだなんて!」
そう叫んでベッドに倒れこみ枕に顔をうずめる紅葉。
「なんか語弊のある言い方だな……いや、確かにきれいな剣だったから思わず掴んじゃったんだけどさ、こうなるとは思わないって、普通」
とりあえず言い訳してみた樒だったが、紅葉は枕に顔をうずめながら、「き、きれいってそんな……えへへ」と言って体をくねらせていた。
「あと、あんまりそういうことしないでくれる? 一応、恥ずかしいから」
魔剣というよく分からない物体なものの、見た目は美少女な紅葉に枕に顔をうずめられては、思春期真っ只中高校一年生の樒には気恥ずかしさがあった。それに、今にもスカートがめくれて中身が見えそうだ。
樒の言葉を聞いたせいか、紅葉の動きがぴたりと止まった。そして、真剣な口調で尋ねてくる。
「ねぇ、本気で私にほかの人の心を食べさせてくれないの?」
急に声のトーンが下がったことに若干樒は驚きながらも答える。
「そ、そりゃあ無理だよ」
「ほんとに? 私よりほかの人が大事なの?」
「ねぇ、なんでさっきからちょっと重い系の彼女みたいになってるの?」
「そっか……じゃあ、しょうがないよね」
紅葉はそう言うとゆらりとベッドの上に立ち上がった。窓から差し込む日の光が逆光になっていて、表情が見えない分余計に怖い。
「ちょ、ちょっと待って、何する気? 怖いんだけど……」
「ほんとはこういうことしたくなかったんだけど……今度こそいただきます!」
そう叫んだ紅葉は光の塊になったかと思うと、樒の手の周りに集まり大きな剣を形作る。そして樒の中に何かが侵入してきたかと思うと、案の定すぐにはじき飛んでいった。
人の姿に戻った紅葉が油汗をかきながら口元を抑えて倒れこんでいる。
「うっ……やっぱ無理。何あれ……絶対食べ物じゃないわよ……ちょっと口つけただけで吐きそうになるもの……」
「学習しなよ……もう三回目でしょ……」
呆れと安心を半々にしていう樒。
「うっさいわね……時間たつとやっぱいけるかもって思っちゃうのよ……もう絶対チャレンジしないけど……うっ、気持ち悪い……」
「はぁ……そんなにお腹が減ってるなら何か作るよ。ちょうど僕もお腹すいてたしね」
朝に学校へ行くふりをして家を出てから数時間が経過し、時刻はすでに十二時を回っていた。学校に行っていれば今頃購買部でパンでも買っていたころだろう。
「へ? あ、うん。ありがとう……」
「何か苦手なものとかある?」
「えっと……その、刺激物っていうか……辛いのとか、胃に悪そうなのはダメ……」
「もとから胃は弱いんだ……分かったよ。できたら呼ぶから適当にくつろいでて」
そう言って樒は自分の部屋を出て扉を閉める。
「なによ……あんなに心は激マズなのに意外とやさしいとこあるじゃない」
扉の向こうで紅葉がそう呟いたのが聞こえた。
樒はキッチンにつくととりあえず冷蔵庫の中を確認する。中には牛乳、ヨーグルト、チーズにケフィアがたくさん詰め込まれていた。
「いや、毎回思うんだけどなんでうちってこんなに乳製品多いの? ケフィアが乳製品なのかはよく分かんないんだけどさ」
ヨーグルトやケフィアだけというわけにはいかないので、冷蔵庫の奥の方を物色していると、まだあけられていない卵が一パック見つかった。賞味期限を確認すると、なんと明後日だったのでこれを使おうととりあえず樒は卵を取り出す。
樒は冷凍庫の中からちょうど二人分冷凍してあったチキンライスを取り出すと、それを解凍してオムライスを作り始めた。
樒の家族は樒を入れて四人で、母親、姉、妹がいる。父親はおらず、母はほとんど仕事で家を空けているために、食事は基本的に自分たちで作っていた。ゆえに樒は中学生のころにはすでに家事全般をこなすようになっていた。
しかしそれでも最近は妹もまた家事全般ができるようになったため、ほとんどまかせっきりになっている。姉はというと高校三年生で今は受験真っ只中なので勉強に忙しいらしい。
母親はしばらく帰ってこれらないと言っていたからいいとして、残る二人の姉妹が学校から帰ってきたらどうしようかと考えながら、樒は温めたチキンライスにいい感じに焼けた卵をかぶせる。
適当にケチャップを掛けた後、二階にいる紅葉を呼んで二人でリビングのテーブルについた。
紅葉はなんだか嬉しそうな顔でスプーンを構えると、元気よく「いただきます」と言ってオムライスを食べ始めた。
その様子を見ながら、樒はぼんやりと思いだす。
楓の大好物がオムライスだった。いつも『オムライスは色合いが紅葉に似ているから好き』と、そんな、よく分からないことを言っていた。今振る舞っているものだって本当は楓のために作っておいたものだ。
「んー、おいしい! 結構やるじゃんあんた」
「そうかな? っていうか、なんだか食べる前から嬉しそうな顔してたけど、オムライス好きなの?」
「うん、なんとなくね。ほら、卵が黄色でケチャップが赤、中のチキンライスはオレンジでさ、何だか紅葉みたいじゃない? だからかも」
「……あはは、どういうことだよそれ」
そう言いながら樒は自分の作ったチキンライスに口をつける。すると一瞬だけ塩のような味がした。
「分かんないかなー……って、樒? どうしたの?」
樒のぼやけた視界には、不思議そうな顔をする紅葉が映っていた。なんだか彼女の周りで光がきらめいているように見える。
「ん? ああ、いや……これを作ってる時に玉ねぎ切ったからかな……はは」
「ふーん、玉ねぎ切ったことないからわかんないけど、そんなに効くのね。いきなり泣き出したからびっくりしちゃった」
「ごめんごめん、僕のことはいいから早くオムライス食べてよ。せっかく作ったんだから冷めないうちにさ」
「言われなくてもありがたくいただくわよ。それにしても、あんたの心を食べようとした後だから余計においしく感じるわ。なんだか人の心でも食べてるみたい」
そんなことを言いながら、紅葉は本当においしそうにオムライスを頬張っていた。
食事を終えた二人は樒の部屋に戻り再び話し合いを始める。
「それで、これからどうするの?」
「うーん、私もあんたがオムライス作っている間にいろいろ考えたんだけどね、あんたが私に心を食べさせてくれないっていうなら……私があんたの心の闇を取り払ってあげる。そうすればあんたの心がきれいになって食べられるようになるでしょ」
一応筋は通っているように聞こえるが、樒としてはなんだかなぁといった感じだ。
「さあ、というわけで早速私に何でも相談しなさい。特別にこの私が悩みを聞いてあげる」
ふふん、と偉そうに樒のベッドに腰かけて胸を張る紅葉だったが、やはり樒は乗り気ではない。
「いや、相談なんてするはずないじゃん」
「なんでよ? あんなに心に闇を背負ってるのに悩みがないだなんてありえないでしょ。遠慮せず言いなさいよ」
目の前の少女は自分の言っていることが分かっているのだろうか? と樒は心配に思った。
「いやいや、そりゃあ悩みなんて数えきれないほどあるけど、自分の心を食べようとしているやつに相談なんてするはずないだろ。しかも万が一解決されようものなら心を食べられちゃうかもしれないんだし」
ようやくそのことに気が付いたのか、紅葉は困ったような顔をする。
「うーん、じゃあどうすればいいのよ」
「いや、僕に聞かれても……でもまぁ、僕の心を食べられるようにするとかの部分は黙っておいて、僕にお悩み相談を持ち掛ければよかったんじゃないかな」
そうすれば少なくとも今よりは樒は何かを相談しようと思ったかもしれない。
そして樒は一言、小声で付け足す。
「まあ、全部解決なんてできるはずないけどね」
「え? なんか言った?」
「ううん、いや何も」
「そっか……あー何も言わずに悩みを解決しようとすればよかったのか……ん? ということは」
紅葉は何かを思いついたように立ち上がると、部屋の片隅に置いてあったテニスのラケットを手に取った。ちなみに硬式である。樒は中学二年の夏までテニスをしていたのだ。
「今からこれであんたの頭を殴って記憶を奪えば……」
突如恐ろしいことを真顔で言いだした紅葉に、樒は改めてこの少女が本気で心を食べようとしていることに気付く。そうだ、紅葉は見た目が美少女でもその正体は魔剣なのだ。人間と同じ物差しで測ってはいけない。言ってしまえば、何をするか分からない。それこそ、樒の心を食べるためなら手段を択ばないのかもしれない。
「いやいや、そんなうまくいかないから! 下手すれば死んじゃうからね!」
椅子から転げ落ち、床の上を後ずさる樒の、恐怖の叫びを無視して、ラケットを持ったまま無表情で近づいてくる紅葉。しかし紅葉の足は、あと少しでラケットが届きそうな位置でぴたりと止まった。
「なんてね、あはははは! あんたビビり過ぎだって! ほんとにそんなことするはずないでしょ」
ラケットで殴られなかったことに安心しながらも、樒は目の前で爆笑する紅葉を睨みつけた。
「うるさいな……お前が僕のトラウマを刺激するからだろ」
「え? なに? もしかして似たようなことが前にもあったの?」
目をキラキラさせながら聞いてくる紅葉を見て、樒はしまったと思った。
「ほらほら、私に相談してみなさい。聞いてあげるから」
「いいよ、別に話してどうこうなるわけじゃないし。それにもう終わったことだから」
それを聞くと、紅葉は心底つまらなさそうにベッドにどかっと腰をおろした。
「あんたに人を襲わせるのもダメ、あんたの心をきれいにして食べやすくするのもダメ。じゃあどうしろっていうのよ」
「素直に諦めてよ」
そうは言ってみるものの、紅葉は諦める気など毛頭ないようで、なおも食い下がる。
「人を襲うって言っても不意打ちで切りつけるだけよ? 別に争いになるわけじゃないし、それに一度心を食べてしまえばもうその人間が誰かにそのことを話すこともないわ。そんな心すら残らないように私が食べつくしてあげるもの。絶対にばれることはないし、万一誰かに見られたとしても、外傷はないわけだから絶対にあんたが捕まるようなことはない。そりゃあ、ちょっとだけ私のために時間と手間を割いてもらうことにはなるだろうけど、その埋め合わせくらい頼んでくれればなんだってやるから」
これまでとは違う論理的でまじめな言い方。しかしそれでもやっていることは変わらない。心を食べさせる手伝いとは極端に言ってしまえば殺人の手伝いをしているようなものだ。
「それでも、やってることは殺人と一緒だ。ばれなきゃいいなんて、そういうわけにはいかないよ」
「むぅ……あんな心してるくせになにいい子ぶってんだか」
そう唸りながら紅葉は再び困ったように考え込む。
「まぁ、その話は後にしてさ、とりあえず今は僕の姉と妹が帰ってくる前に色々決めときたいことがあるからそっちを話し合おう」
「なによ決めたいことって」
「そりゃあもちろん、お前をどう説明するかとか」
「そんなのありのままに説明すればいいじゃない」
樒の中にはいきなり魔剣だなんていう突拍子もないことを説明するのも億劫だが、それ以上にそんな彼女をこの家に住まわせてほしいと頼むことがいやなのだ。
「なぁ、一応確認しておくけど、家とかないんだよね?」
「ないに決まってるでしょ」
「だよね……」
いくら魔剣とはいえ、見た目は可愛い女の子だ。野宿させるわけにもいくまい。ということは当分ここに住んでもらうしかないわけで、そうなると流石にずっと姉と妹に隠すこともできないだろう。だったらもう初めから何もかも説明した方が良いようにも思えた。
しかしそれはそれで、形はどうあれ同年代の謎の美少女を家に連れ込んだ挙句一緒に住むといわなければならないのだ。めんどうくさいことになりそうなことこの上ない。
「そうだ、さっきみたいに光の球になって僕の中に入っておくこととかできないの?」
紅葉が人間から剣の姿に変身するとき、光の塊のようなものになっていたはずだ。
「うーん、できないことはないけど、あれって少しエネルギー使っちゃうからやりたくないのよね。樒がそのエネルギーのために心を食べさせてくれるっていうならいいけど」
ニヤッと笑って交渉を持ちかけてくる紅葉だが、当然樒は了承しない。
「うーん、それは無理だな……普通の料理じゃダメ?」
「だーめ、今の状態、つまり人間の姿を保つためには人間と同じ食べ物を食べるだけでもいいんだけど、私は魔剣だからね。あくまでも本来の食料は人間の心よ」
「それじゃあ――」
――結局話し合いは平行線のままお互いの妥協点は見つからず、樒の妹が帰ってくる時間となった。姉の方は学校で難関大志望者のための特別授業があるらしく、最近はいつもより遅い帰宅となっている。
「ただいまー」
玄関の方から樒の妹である胡桃の声が聞こえてきた。
「胡桃のやつ帰ってきやがったか」
とてとてと階段を軽く駆け上がってくる足音が聞こえる。足音は樒の部屋の前で止まり、軽くノックする音が聞こえた。
「お兄ちゃーん、可愛い妹が帰ってきたよー」
樒が紅葉をどうしようかと慌てていると、当の紅葉はベッドの上で笑いをこらえていた。
「自分のこと可愛いって、おもしろいわねあんたの妹」
「実際可愛いんだからしょうがないだろ」
真顔で樒がそう言うと、先ほどまでの笑いはどこへやら、紅葉がベッドの上で引いていた。
「え? なに? あんたもしかしてシスコンってやつ?」
「違うよ、あくまでも客観的に見て可愛いんだよ。うちの家族はなんでか僕以外顔が整ってるんだ」
「へー、じゃあ見てみよーっと」
紅葉はそう言ってベッドから立ち上がると、ドアの方へ歩き始めた。
「ちょっと待って、紅葉のことは姉ちゃんが帰ってきてからいっぺんに説明するから今はまだ僕の部屋じっとしてて」
紅葉は若干不満げだったが、「分かったわよ」と言うと樒のベッドの上にうつぶせに寝転がった。
「なんかもう私疲れてきちゃったから、ここでゆっくりしてるわ。お姉さんが帰ってきたら呼んで」
そう言って片手を上げ、ひらひらと手のひらを振る紅葉。
「ちょっとー、お兄ちゃん、とりあえず開けるよ」
ドアの向こうで待っていた胡桃が待ちきれなくなったのかドアを開こうとする。樒は胡桃よりも先に素早く自分の体で部屋の中を隠しながらドアを開け、自室から出た。
目の前には中学生の妹。目は大きく口は小さい。背は中学生にしてはかなり小さいので今でもよくお人形さんのようだと親戚からは言われている。
「いや、とりあえず開けるよってなんだよ」
「だって、部屋の中から声聞こえたから電話中なのかなって思って」
「いやいや、だったら大人しく廊下で待ってろよ」
「私はせっかちなのー」
と言いながら胡桃は頬を膨らませる。このあざとい行為がわざとであることは樒も気付いており、なんなら樒が気付いているということに胡桃も気付いていた。それじゃあなんで胡桃が可愛いアピールをしているかといえば、そこは樒にも分からない。
「はいはい。それで、帰ってきて早々何の用だ?」
「えーっとね、今から晩御飯の買出し行くんだけど、一人じゃ寂しいからついてきて欲しいなーって」
てれてれとそんなことを言う胡桃だったが、樒には完全に言葉の裏が読めている。
「なるほど、荷物持ちか」
「そうとも言うかな。じゃあ、行こっか」
れっつごー、とこぶしを振り上げながら樒に背を向け廊下を歩き出す胡桃。彼女の黒いツインテールが左右に揺れるのを見ながら、樒がつぶやいた。
「僕に拒否権はないの?」
近所のスーパーで樒は胡桃の後ろをカートを押しながらついて行く。家に一人で残している紅葉が気になったが、多分今頃ベッドの上でゴロゴロしているのだろう。
「あれ? 一人? あいつは一応魔剣だし一本?」
「どしたの? お兄ちゃん」
かわいらしく首を傾げながら尋ねてくる胡桃。
「いや、何でもないよ」
「ふーん、変なお兄ちゃん。……変なお兄ちゃん」
「いや、何で二回言ったの?」
「かわいくない? 『変なお兄ちゃん』って台詞」
「あーはいはい、可愛いよ」
てきとうな感じの褒め方でも胡桃は嬉しそうな顔をして、話題を変えた。
「ところでお兄ちゃん、今晩は何が食べたい?」
「なんでもいいよ」
特に好き嫌いはない樒なので、適当にそう言ったが、胡桃には不満だったようだ。
「もー、なんでもいいが一番困るんだから。せめて『お前が作る料理ならなんでもいいよ』とかにしてよね」
「言わないよ、そんなこと」
「じゃあ何がいいの?」
再び頬をぷくーっと膨らませながら不満そうに聞いてくる。
「お前が作る料理ならなんでもいいよ」
「言ってるじゃん……って、もーごまかさないでよ」
今度は「ぷんすか」と言いながら樒の前を胡桃は歩く。
「いやいや、自分で『ぷんすか』とか言うなよ」
「ぷんすか、ぷんすか、ぷんすか、ぷんすか」
最近はあざといとか通り越してただのバカになってきている気がして心配な樒であった。
ぼーっとしながら胡桃の後ろでカートを押していると、いつの間にかリズミカルになっていた胡桃の「ぷんすか」がやんだ。どうしたのかと見てみれば、胡桃は何やらキムチ鍋のもとと書かれたパッケージを眺めている。どうやら今晩の食事が決まったらしい。
「秋といえば山菜って韓国の偉い人が言ってたし、今日は山菜を使ったキムチ鍋にしようか」
「無理やりすぎるだろ……韓国の偉い人って誰? 聞いたことないよ」
「いいのー、最近は少し寒くなってきたし、っていうかお鍋って作るの楽だし」
最後のが本音か、と樒は判断する。しかし樒も作ってもらっている立場なので文句を言う資格はない。と思っていたが、ふと紅葉のことを思い出した。紅葉は辛いものはダメだと言っていたのでキムチ鍋は避けたいところである。
「あー、胡桃、鍋にするのはいいんだけど、こっちのトマト鍋っていうのにしてみないか? ほら、秋といえば山菜ってイタリアの偉い人も言ってたじゃん」
「いや、そんなの聞いたことないよ……ていうかトマトって山菜なの? まあ、お兄ちゃんがトマト鍋の方がいいっていうならそうするけど」
そう言うと胡桃は手に取ったキムチ鍋のもとを棚に戻し、隣のトマト鍋のもとをかごに入れた。
「あとは具材だね」
胡桃はそう言うと、鼻歌を歌いながら野菜コーナーへと向かう。
「なんだか今日はご機嫌だな」
「そう? あれかな、久しぶりのお兄ちゃんと買い物に来れて嬉しいのかも」
一体何のポイント稼ぎなのか、かわいらしいことを言ってくる胡桃だったが、樒の態度は変わらない。
「最近は忙しかったからな」
そう言うと、胡桃の鼻歌がやみ、代わりに少し悲しげな声で言葉が発せられた。
「うん……楓さんのこととかでね……」
樒と楓は家族ぐるみの付き合いだったので、当然楓と胡桃も知り合いだ。胡桃はどちらかといえば年齢の近い楓の妹の方と仲が良かったので楓とそこまで深い仲だったというわけではないが、思うところもあるのだろう。
「その……お兄ちゃん、私はさ、お姉ちゃんみたいにお兄ちゃんのことならなんでも分かるってわけじゃないけどさ、それでも、つらかったら言ってね。何かができるかは分からないけど、家族なんだからさ」
「ああ、でも大丈夫だよ。僕なら大丈夫だ」
樒はこれまで経験した数えきれないほどの悲しい出来事を思い出しながらそう言った。
しかし、樒はその経験を妹に相談したことなどない。さっき自殺しようとしたときでさえ、誰にも言わずに森へと向かった。
樒には前を歩く胡桃の顔は見えない。しかし樒には分かってしまうのだ。今胡桃がいったいどんな顔をしているのかが。それは不幸体質な兄をただひたすらに憐れむ顔である。それが心配という感情につながっていることだけが唯一の救いであり、樒が自分を嫌いになる理由でもあった。
胡桃は野菜売り場につくと、いつものように時折樒に甘えながら、トマト鍋の材料をかごに入れた。そしてすぐ隣のコーナーにあった鶏肉にも手を伸ばし、鍋の材料をそろえるとレジへと向かう。樒はその間、可愛い妹アピールをしてくる胡桃を適当にあしらったりしながら買い物かごを乗せたカートを押していた。
材料をそろえてレジへと向かいながら、樒は帰ってからのことを考えてげんなりするのだった。
土鍋の保温力とはすごいものだ。火から離し、テーブルに置いた今でさえもぐつぐつと煮えたぎる音が聞こえてくる。人間ならば誰しもその音を聞いているだけで食欲を刺激されてしまうだろう。いやはや、食欲の秋とはよく言ったものである……などと頭の中で現実逃避をしていた樒だったが、やはりテーブルの向かい側に座る姉の視線からは逃れられなかった。
名前は真弓、高校三年生で弓道部の部長だ。成績優秀、眉目秀麗、才色兼備、文武両道、適当にいい意味の四字熟語を言っていくと大抵当てはまる完璧超人である。少しくすんだ色の黒髪を後ろで一つに束ね、いわゆるポーニーテールという髪型をしている。
今の状況を説明すると、樒の可愛い妹が作った料理を学校から帰ってきた美人な姉と共に囲んでいるところである。樒の隣には人間離れしたオレンジの髪と瞳が嘘みたいに似合っている紅葉が座っており、二人の向かい側には胡桃と真弓が座っていた。紅葉の紹介はすでに終えており、今はその後の気まずい沈黙の中なのである。ついでにいうと、魔剣が心を食べることなどの話は伏せておいた。その辺を話してしまうと色々と話がややこしくなりそうだと考えたのだ。
胡桃はどうしていいか分からずにそわそわとしており、真弓はつり目なのに覇気のない不思議な瞳で樒をじっと見つめている。隣の紅葉はというと、瞳をキラキラさせながら目の前のトマト鍋を眺めていた。
紅葉の説明を終えてからというもの、胡桃は姉の真弓の様子をうかがって何も言わず、真弓の方も樒をじっと見つめるだけで何も言わない。
樒は全くどうしていいか分からず、早くトマト鍋食べたいな、などと現状から目を背けていた。
流石の土鍋もいつまでも熱を保てるわけではないらしく、いつの間にかぐつぐつという音は消えていた。そしてまるでそれを合図にするかのように、真弓がようやく口を開く。それは樒の予想とは全く異なり、紅葉とは関係のなさそうなことだった。
「卵とチキンライス、なくなってたけど、その子とオムライスでも食べたの?」
そう尋ねる真弓の瞳はどこかうつろなのに、つり目がちなせいか、弱さなどは微塵も感じさせない。そしてその何でも見透かしているような目と言い方が、樒はなんとなく苦手だった。
「うん……そんなことよく気づくね」
ようやく会話になったことで安心する樒だったが、真弓が何を言いたいのかが少し気がかりだった。
「まあそりゃあ、ね」
真弓がそう言ったのちに、一瞬だけ紅葉の方を見たのを樒は見逃さなかった。
「それで、この紅葉っていう子のことだけど、別にいいんじゃない? 泊めてあげても。私と胡桃は別に反対しないし、お母さんも反対はしないと思う」
「ありがとう」
一応樒はお礼を言っておく。トマト鍋に心を奪われていた紅葉も、はっと我に返ると、樒の後に続いた。
「お、お世話になります」
「そんなかしこまらなくてもいいですよ。ささ、トマト鍋、冷めちゃう前に食べてください」
胡桃はそう言って取り皿と箸を紅葉に差し出した。紅葉はそれを受け取ると、嬉しそうにトマト鍋へと箸を伸ばす。誰よりもおいしそうな顔でばくばくとトマト鍋を食べる紅葉を胡桃は満足そうな顔で眺め、真弓は相変わらず何を考えているのか分からない顔で黙々とマイペースに箸を進める。
樒は早くもなじみ始める紅葉を見ながら、初めて食べるトマト鍋のおいしさに感動していた。
食事が終わると、お風呂の設備を説明するためにと真弓に促されて、胡桃は紅葉と共にお風呂場へと向かった。ついでにそのまま一緒に入ってくるそうだ。樒はというと、キッチンで洗い物の最中だ。
そしてどういうわけか、その後ろでは彼の姉が壁にもたれかかって樒の方を見ている。
後ろからの視線に耐えられなくなった樒は、振り返らずに皿洗いを続けながら声をかけた。
「姉さん、どうしたの?」
「いや、ちょっと心配になってね。……何が心配なのかは自分でもよくわからないんだけど」
基本的に自信家で、それを裏付ける実力を持っている姉にしては珍しくはっきりとしない物言いに、樒は怪訝に思った。
「いつも言ってるじゃん、心配ないよ。僕は大丈夫だ」
「……そう。だったら言うけど、あの子、楓ちゃんにそっくり。髪の色と目の色で最初は気が付かなかったけど、そこを除けば同一人物だってくらい似てる」
樒はその言葉を聞いて思わず手を止めていた。
「そういえばそうだね、言われるまで気付かなかったよ」
「うそはやめなさい」
流石は姉、樒の嘘が見抜かれなかったことなんてほとんどない。
樒は姉に対する言葉を見つけられず、とりあえず止まっていた手を動かした。キッチンに再び食器どうしのぶつかる音が空しく響く。
無心で食器を洗っていると、いつの間にか洗うものはなくなっていた。後ろにいた姉もいつの間にか姿を消している。秋も深まり気温も低くなっているせいか、冷水に浸し続けた樒の手はかじかんでいた。
樒がお風呂に入れるのは姉の真弓が入った後になるだろう。それまで何をしようかぼんやり考えながら樒は自分の部屋へと戻る。
部屋の扉を開けると、中にはパジャマ姿の紅葉がいた。
「あ、お風呂ありがとね。あとこのパジャマも。よかったわ、ちょうどいいサイズのパジャマがあって。聞いたわよ、なんでもよく幼馴染みが泊りに来てたとかなんとか。胡桃ちゃんはいいって言ってたけど、本当にいいの? 勝手に使っちゃって……って何ぼーっとしてんのよ」
「あ、ああ……その、思わず見とれちゃってね」
なんとか冗談のように肩をすくめながらそう言ったが、紅葉の反応は薄い。
「ふーん、まぁ結構可愛いしね。ま、私は剣の姿が美しいから、この姿もまた必然なんでしょうけど」
そう言って自らのパジャマ姿を見せびらかすようにくるりとターンして見せる紅葉。今彼女が着ているパジャマは真弓が昔使っていたもので、両親がよく出張に出かける楓が樒の家に泊まりに来た際に着ていたものだ。姉の趣味が出ているおとなしめなパジャマである。
「ねぇ、ところで樒、私ってどこで寝ればいいの?」
「ん? どこって、この部屋で寝ればいいじゃない?」
と、当然のようにそう言ったところで、樒は自分がとんでもないことを言っているということに気が付いた。いつも楓が泊りに来た時は樒の部屋で寝ていたために、思わずそう言ってしまったのだが、紅葉は今日会ったばかりで、魔剣とはいえ見た目は可愛い女の子である。
一応、言っておくと、楓がいつも樒の部屋で寝ていたのはやむを得ない事情があるからであり、その事情とは樒の部屋以外に寝るところがなかったからだ。姉の真弓と母は絶対に自室に家族も含めて人を入れることはなく、胡桃の部屋には決まって楓と一緒に泊まりに来る彼女の妹が泊まるのだ。そんなこんなで胡桃のシングルベッドに三人も詰め込むわけにはいかず、楓はいつも樒の部屋に泊まっていたのだった。
だからといってまあ、お互いに思春期真っ盛りの学生だったことに変わりはないので、全くいかがわしいことがなかったとも言い切れないのだが、そこについては触れないでおこう。
樒が自分の失言をなんとか弁解しようと頭を回転させていると、当の紅葉は何も気にする様子もなく「それじゃあ遠慮なく」と言って樒のベッドに倒れこんだ。
樒が予想外の展開にぽかん、としていると、紅葉は枕を抱え込むようにしてうつぶせになりながら言った。
「はぁ、なんでかしらね、このベッド、すごく落ち着くわ。私、このベッドで寝たい」
「好きにしろよ、でも、僕も一緒に寝ることになるけどいいの?」
先ほどの様子からそういうことは気にしていない様子の魔剣だったが、一応樒はそこも確認しておいた。
「いいわよ。なんなら三人くらいは入れそうな広さだし。ってかなんでこんな広いの?」
「いや、うちの母親曰く、『男の子のベッドなんだから大きくなくっちゃ』って」
紅葉は今度は仰向けに寝転がり、面白そうに笑った。
「何よその理論、どういうこと?」
「体が大きくなることを見越して、だそうだよ」
ちなみにもう一つ、男のベッドなんだから二人で寝られるようにしとかなくてはならないという理由もあったが、そこは言わないでおいた。
「成程ね、そして杞憂に終わったわけね」
樒の身長を確認するように樒のつま先から頭まで視線を移動させながら紅葉がそう言ったので、樒も一応言い返す。
「何言ってんだ、僕はまだ高校一年生なわけで、まだまだ伸びしろはある」
しかし紅葉はどうでもいいというようにけだるげにベッドの上で手のひらを振りながら言った。
「はいはい、剣の姿の私に見合うよう、たくましい男になることを願ってるわよ」
「ああ、そういえば結構大きかったね」
「それに美しいし、切れ味も抜群なのよ。すごいでしょ」
「ああ、すごいすごい。使わないけどね」
「言ってなさい、必ず心を食べさせてもらうんだから……あ、今気付いたけど『必』っていう字って『心』を切ってる感じがしない? ほら、斜め上からスパッと。やっぱりあんたはもう私で人を切って私に心を食べさせるしかないのよ」
「言ってることめちゃくちゃだよ……」
「うっさいわね、つまるところ漢字を作った昔の偉い人が私に心を食べさせなさいって言ってるんだから大人しく従いなさいよ」
「いや、全然言ってないから。雑に僕を納得させようとしないでよ」
と、樒が言ったところで、部屋のドアの向こうから真弓の声が聞こえてきた。
「お風呂あがったから入っていいよ」
「うん、分かった……ってわけだから。暇だったらそこら辺の漫画でも読んでていいよ。あと、母さんの部屋と姉ちゃんの部屋には絶対入らないでね。昔父さんが両方の部屋に入ったことがあってね……」
樒はそこまで言って部屋を出た。
「ちょ、ちょっと! 最後まで言いなさいよ! あんたのお父さんどうなっちゃったのよ⁉」
部屋の中から紅葉の叫び声が聞こえたが、樒は気にせずに階段を降り、お風呂場へと向かった。ちなみに、とある事情で岩槻家には今現在父親がいないのだが、その事情と父親が自分の妻と娘の部屋を覗き見てしまったことは関係ない。
脱衣所に入ると、そこにはどういうわけか真弓がいた。
「あれ、なにやってるの?」
「髪を乾かしてるだけ」
そう言って真弓は鏡の前でドライヤーのスイッチを入れる。岩槻家の脱衣所は残念ながらそれほど広くはないため、高校生といえど二人の人間がいると少々狭く感じる。扉を一枚隔てた向こう側にあるお風呂場は樒が余裕で寝転がれるくらいに広いのが不思議なところだ。
「お風呂、入らないの?」
ドライヤーの音がうるさい中、不思議と真弓の声は通って聞こえる。
「いや、姉さんいるし、流石に高校生にもなれば姉の前で服を脱ぐのにも抵抗があるといいますか……」
「ドライヤーの音で全然何て言ってるか分からないけど、言いたいことは分かる」
「いや、それって聞く前からなんで僕が風呂に入ろうとしないか分かってたってことだよね。ってまあ、これも聞こえてないんだろうけど」
「聞こえてる」
「聞こえてんのかよ!」
「うそ、聞こえたのはそのつっこみだけ」
「はぁ……で、どうしたの?」
いつもなら真弓は髪を乾かし終わってから樒を呼ぶので、今回はきっと何か訳があってこういう状況にしたのだろう。基本的にいつも放っておいてくれる姉なのだが、たまにこんな風に仕組むように会話の場を設けるのだ。
「そんな構えなくてもいいから、とりあえずお風呂に入る準備でもしながら聞きなさい。ほら、服脱いで」
「分かったよ……」
家族だからそこまで恥ずかしがることもないといえばないのだが、一応思春期真っ盛りな樒は、真弓に背を向けて服を脱ぎはじめる。真弓も樒には背を向けているため、恐らくこれで見えないはずだ。それに、何を考えているか分からないが、頭の良い姉のことだ、樒には到底思いつかないような考えがあってのことかもしれない。
樒が服を脱ぎはじめると、真弓が話し始めた。
「今まではね、樒のことなんでも分かってるつもりだったけど、今回ばかりは不思議なことが多すぎてよく分からないっていうのが正直なところ。だから、確認しておきたい……あの紅葉って子は、楓ちゃんじゃないんだよね?」
それは樒も気にしていたことだ。髪や眼の色こそ違えど、その姿はあまりにも幼馴染みの楓に酷似している。
「違うよ。性格も、しゃべり方も……そもそもあいつは人間ですらないじゃないか。魔剣だって自分でもそう言ってる。姉ちゃんも見ただろ、あいつが紅葉色の剣に姿を変えるところ」
言葉ではそう言っているものの、正直樒は自信がなかった。紅葉の言う通り、樒の心は闇にあふれている。悲しみに満ちたその人生から、魔剣が口を付けられないほどに膨大な負の感情をため込んでいる。そんな樒が、魔剣という得体のしれないものを家に置くだろうか? 自分に関係のない、赤の他人が目の前でどんなにひどい目に遭っていようが見捨てられるくらいには、樒の心は深く闇に染まっているはずではなかったか?
ドライヤーの音が相まって思考は乱れ、姉の静かに通る声が聞こえた。
「そうね……それが分かってるのならいい……ただ、チキンライスと卵がなくなってたのが気になってね」
「……ほんと、何でも知ってるんだね、姉さんは」
「樒と胡桃のことならね……お姉ちゃんだから」
真弓はそう言ってドライヤーの電源を切ると、樒に背を向けたまま脱衣所の出入り口へと向かった。そして何故か、扉の前で方向転換して樒の方を向く。ちなみに樒はすでに服を脱ぎ終えて素っ裸である。
「あれ? なんでこっち見てるの? っていうかそういえば何で脱がせたの?」
「弟の成長確認」
真顔でそう言いながら、真弓はその焦点の合っていなさそうな目で樒の体をじろじろと見る。
「ちょっ! どこみてるの⁉」
樒は大慌てで脱衣所からお風呂場へと駆けこみ、扉を閉めた。
脱衣所の方から、真弓の声が聞こえる。
「テニス辞めた割にはまだ意外と筋肉残ってるね、もしかして鍛えてる?」
「さぁね……」
どうせ分かっているんだろう、と心の中で呟きながら、樒はとりあえずとぼけておいた。
そして樒は真弓が脱衣所を出たことを確認したのち、日課である筋トレを風呂場で行うのであった。
樒がお風呂からあがり、リビングで一息ついてから自分の部屋に戻るころには既に時刻は十時を回っていた。高校生なら別にまだ起きていても不思議ではない時間だが、あいにくのところこれといってなんの趣味もない樒には夜にやることなどなく、友達とメールなどのやり取りをすることもない。樒には友達がいないのだ。いたことはあるのだが、死んでしまった。
今の樒の人間関係を説明しようとすれば、その狭さから容易に説明できるだろう。まずは家族――母と姉と妹が一人ずつ。そして家族ぐるみの付き合いとして吹上家くらいだ。
「なーんかさ、胡桃ちゃんって真弓さんとあんたには似てないよわね」
樒が自らの交流の狭さについて考えていると、ベッドの上で漫画を読んでいた紅葉が話しかけてきた。樒が入浴している最中に読んでいたのだろう、ベッドの上には読み終えた漫画が何冊か転がっていた。
ああ、そういえば魔剣とかいう謎の生物が今日、自分の交友関係に追加されたていたな、と思いながら、樒は返事を返す。
「そうだね。僕と姉さんは基本的にテンションが低いけど、胡桃はいつも明るいかな」
ちょうど読み終わったのか、紅葉は漫画を本棚に片付け始めた。
「テンションが低いって言っても、真弓さんとあんたじゃ種類が違うわね。真弓さんは落ち着いてるって印象で、あんたは暗いって印象だわ」
紅葉は特に悪気はなさそうにそう言う。樒もそのことには反論しなかった。自分でもそう思っているのである。
「そろそろ寝ようか。紅葉のせいで今日は疲れたからね」
紅葉がベッドの上に散らかしていた漫画を片づけたのを見て樒がそう言う。
樒がベッドの奥の方に横になると、本棚の方から、両手を腰に当ててしかめっ面をした紅葉が歩いてきた。
「なによ、私だって疲れたわよ。あんなまずいものに三回もチャレンジしたんだから」
そう言って紅葉はごく自然にベッドの中に入ってくる。
見た目がよく一緒に寝ていた楓と似ているせいか、それとも相手が魔剣だからか、樒は特に緊張することはなかった。
樒は電気を消し、眠りにつこうとする。目を閉じると、どっと疲れが押し寄せてきた。そして楓と一緒に寝ていた時に似た安心感の中、樒の意識は沈んでゆく――はずだったのだが、樒は急に体の上に気配とわずかな重みを感じ、目を開けた。気配、と言ったが、正確にはベッドの沈み具合が急に変わり、自分の上に何かが覆いかぶさってきたのを感じたのだ。
目の前には、紅葉がいた。仰向けに寝転がる樒に襲い掛かるように、両手と両膝をついて樒に覆いかぶさっていたのだ。
紅葉はあくまでもその正体のよく分からない魔剣などという物体なのだ。何をしてくるかなど予想もつかない。それなのに何の自衛もせず一緒に寝るとはうかつすぎたか、と樒は一瞬心配したが、紅葉は樒が起きることを想定していたようで、樒が目を開けたのを見ると薄く微笑んだ。
樒は戸惑いながらも問いかける。
「ど、どうしたんだよ」
戸惑う樒を、まるで楽しむかのように微笑する紅葉は、そのつややかな唇を開く。
「ねぇ、樒、人間の時の姿の私って、結構可愛いわよね。それでね、あんたがお風呂に入っている間に考えたんだけど……」
紅葉はそこでいったん言葉を飲み込み、少し溜めたかと思うと、急に樒に抱き付いてきた。その体を押し付けるように、紅葉は急な出来事に混乱する樒に抱き付き、耳元でささやく。
「もし樒が私に心を食べさせてくれるのなら、私は何だってしてあげる。樒の望むことなら――なんだって」
紅葉の考えていることを理解した樒は、思わず紅葉のからだを抱きしめていた。
樒の耳元で、紅葉の口が勝ち誇ったようにゆがんだのが分かった。樒は自分でもよく分からない複雑な心境の中、震える声で言った。
「やめてくれ……お願いだから……そういうのは、やめてくれ……」
紅葉は、樒の予想外の反応に戸惑いながら、ならどうして抱きしめてくるのかとでも言いたげな表情だ。樒にだってわからない。心の底から拒絶しているはずなのに、震える両腕は言うことを聞かない。
「わ、分かったから離して……ちょ、痛い」
痛がる紅葉の声を聞いて冷静さを取り戻した樒は、「ごめん」と謝りながら紅葉から背を向けるように壁の方を向き、紅葉から離れるために体を少しずらした。
もし彼女の姿が仲の良かった幼馴染みのそれではなかったら、逆に自分はあのまま籠絡されていたのだろうか? そんなことを考えながら、樒は先ほどほんの少しだけこぼれ出た涙に気付く。それが枕に作った染みが、樒には歪なハートに見えるのだった。