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‐祈り‐

作者: 葛城アモン



 アルミ缶は高く売れた。

 金に換えられる瓶は多少重くても押し車に乗せてもって行った。

 半日も街を回れば、公園の段ボールハウスに帰って、明日の朝が迎えられるだけの、酒と食料と、運がよければ煙草まで買えた。 

 

 老人はそうやって生きてきた昨日までの生活が、信じられないほど、何か遠いものに思えた。

 

 相変わらず、すれ違う人には顔をしかめられ、道端の犬に狂ったように吠えられる、そんな汚い姿をしていても、昨日までとは打って変わって、目を輝かせ、白い息を吐きながら遅くまで夜の街を歩き回った。

 

 あの通りの角にある取り澄ました店のショーウィンドで、ひときわ高いところに飾ってある、あの赤いマフラーを買うにはまだまだ金が足りねぇ。

 

 老人は手袋を脱ぐと、もうところどころめくれて、人差し指に何とかくっついているだけのバンドエイドを、愛しそうに眺めた。

 老人の節くれ立った指には不釣り合いな、かわいい花柄のバンドエイド。それを剥さぬようにそっと手袋をはめると、急に冷たさを増した風に、手をこすりあわせ、息を吹きかけて、また手押し車を押して歩きだした。

 

  急がねぇとクリスマスが、もうすぐそこまで来てるんだからなぁ……。

 

 

     ※ ※ ※

 

 

 二週間前の夕暮れ時、老人は公園で犬に襲われた。

 

 手に持った買い物袋が狙われたのか、激しく吠え立て、飛び掛かられて、あっという間に今晩の夕食を奪われてしまったのだ。

 

 老人は広場に倒れたまま、悠々と遠ざかっていく、ピンと伸びた野良犬の尻尾を眺めていた。

 

 パンはくれてやってもいいが、酒なんぞ何の役にたちはしないだろうに……。

 

  土埃を払い、ところどころに出来た擦り傷を公園の水飲み場で洗っていると、すぐ近くの木の陰から少女がこちらを見ているのに気がついた。

 次の瞬間、老人は金縛りにあったように棒立ちになると、息も継げず、終いにはガタガタと震えだした。

 

 狂っちまったんだなぁ……。

 起きてるうちから幻を見るようじゃ先が知れている。あの子が、あの子が今、目の前に立っているなんて……。

 

 無意識に老人は手を差し出した。

 すると少女の顔がわずかにほころんで、ためらいがちにゆっくりとちかづいてきた。 

 幻は一瞬にして消え、目の前には見ず知らずの少女が一人、不安そうに老人の顔を見上げていた。

 

「おじいさん、これ……」

 

 少女は、犬との一幕を一部始終見ていたのだろう。ポケットから一枚のバンドエイドを取り出した。

 老人は思いがけないこの好意に何と言っていいのかわからず、呻くようにもごもごと何かつぶやいた。

 

 少女は安心したのか、その顔に満面の笑みを浮かべると、クルリと身をひるがえし駆け出した。

 公園の出口に着くと、少女は振り返り、一回大きく手を振って夕暮れの路地に消えていった……。



    ※ ※ ※

 

 

 夜、決まって買い物をする雑貨屋の主人は、赤レンガを石ノミで乱暴に削ったような顔の、必要なことさえ口にしない無愛想な大男だった。

 

 老人はそのほうが有り難かった。金と引き換えに、酒と煙草と食料を嫌がらずに袋に詰めてくれれば、それだけで十分だった。親しい世間話など、老人にとってはお互いが不愉快になるだけの悪習にすぎない。

 

「あんた、あの娘と親しいのかい」

 

 老人は最初それが主人の声だとは気付かなかった。顔をあげると、主人がジッと老人の顔を見下ろしている。

 

「あぁ、そうだが」

 

 老人は《あの娘》が、あの少女のことだとすぐにわかった。

 あの少女と公園で初めて会ってからもう10日になる。 

 朝晩、見かければ手を挙げたり、会えばおずおずと挨拶の言葉を交わしたりする間柄になっていた。

 

 老人は主人の目にためらいの影が通り過ぎるのを見た。

 怒鳴られるにしろ、なじられるにしろ、こんな時はじっと待つことが得策だ。人間、時間さえかければ、言いたいことは胸にしまっておけなくなるものだ……。

 

「あの娘、親に虐待されてるらしい。あんた気付かなかったか?」

 

 老人は思いがけない話に、呆気にとられ、ただじっと主人の彫刻のような顔を見つめ返した。

 

 あぁ、確かに、時折顔に痣ができていたり、手に包帯をしている日があった。見かけによらず活発な子だとばかり思っていたが……。

 

「母親しかいない片親だが、その女がまたヒドい淫売でな。とっかえひっかえ男を連れ込んでくるし、その男とよろしくやってるあいだは、雨が降ろうが雪が降ろうが、あの娘は外に放り出されるらしい」

 

 そういやぁ、あの日も、吐く息が白くなるように寒い夜に、薄いセーター一枚しか着ちゃいなかった……。

 

「俺たちも何とかしてやりたいとは思うが、あの娘も妙に大人びてるというか、街の人間に懐きやしねぇ。不思議とあんたとは馬が合うようじゃないか。あの娘の笑った顔なんて初めて見たよ。じいさん、精々、仲良くしてやってくれよな」

 

 主人はそれだけ言うと、後ろの棚から缶ビールを数本取り、紙袋に詰めてカウンターに置くと、無造作に老人の方に押しやった。

 

「こりゃ、俺のおごりだ」

 

 

    ※ ※ ※

 

 

 冬の寒さは身体ばかりか心まで凍らせる。

 歳をとればとるほど、春がきても夏がきても、溶けない塊が心の中に居座って、冬がくるたびに大きくなる。

 

 40年前のあの冬の日。

 妻と娘は、クリスマスの買い物に街に出かけた。

 雪の中をお揃いのコートを着て、白い息を吐きながら、あれやこれやクリスマスの夜の他愛ない計画を、楽しげに話していたに違いない。

 酔客を乗せたタクシーがカーブを曲がり切れず、凍った路面に後輪を滑らせ、老人の大切な家族と車とを隔てる、薄っぺらなガードレールを突き破るその瞬間まで……。



    ※ ※ ※

 

 

 店員は、クリスマスの夜に薄汚れてボロボロの格好をした老人が、くしゃくしゃの紙幣と小銭をカウンターにぶちまけ、綺麗に飾られたショーウィンドウを指差して、あの赤いマフラーをプレゼント用に包装しろ、という声に、最初悪い冗談だと思った。

 

 恐ろしいことに、それが真実だとわかると、何度も老人に念を押し、紙幣と小銭を数え、信じられないといった顔で、不躾な溜め息をつくと、やっと包装にとりかかった……。

 

 

 公園に向かいながら、老人は何度も呪文のようにつぶやいていた。

 あの少女は死んだ娘と似ているというだけだ。あの子がプレゼントを受け取る道理はない。アパートのドアの前に置いて帰ろう。それがいい。それがいいんだ。あとはあの子の手に届くよう神に祈りゃいい。それで満足しなきゃなぁ……。

 

 老人が突然、何かにぶつかったように動きを止め、ゆっくりと粉雪が舞う夕暮れの空を見上げた。

 雪が、薄汚れた頬や唇、驚いたように見開いた瞳にさえ舞い降りて、涙のように溶けていく。

 

 神様なんていやしねぇ…… 

 

 老人は胸を押さえ、突然の発作に立っていることが出来ず、歩道に膝をついた。空気を吸おうにも肺はピクリとも動かず、目の前の街並みが急に暗さを増して、クルクルと回り始めた。

 

 神様、こりゃあんまりだ……

 

 老人はうっすらと雪化粧をした石畳の歩道に、吊り糸を切った操り人形のように倒れこんだ……。

 

 

    ※ ※ ※

 

 

 老人は少女の枕元にマフラーを置くと、起こさないようにそっと顔を覗きこんだ。

 少女は薄いシーツに包まるようにして浅い寝息を立てている。泣いていたのか、瞼が赤く、睫毛の先が濡れて光っていた。

 

「じいさん、これで気が済んだかい?」

 

 突然うしろから声をかけられた。

 驚いて振り向いた老人の目の前に、少し崩れた感じの、遊び人風の男が立っていた。

 男は部屋の隅のテーブルに浅く腰掛けて、腕を組み、ジッと老人を見つめている。

 

「あんたは誰だい?」

 

 老人が尋ねると、男は退屈そうに肩をすくめた。

 

「ミカエル、と言いたいところだが、下っ端には名前なんてないのさ。ただの《天使》てとこだな。じいさん、あんたの行いを鑑みて、どうやら天国行きが決まったらしい。それでおれが迎えにきたというわけさ」

 

 老人は男を見、娘を見、自分の足元に視線を落として、納得がいったのか、ヒドくがっかりした様子で顔をあげた。

 

 あぁ、あの時、わしは死んじまったのかぁ……。

 

「納得がいったのなら、さっさと行こうか。向こうに着けば懐かしい顔にも会えるってもんだぜ」

 

 その時、夢でも見たのか、少女が小さく呻いて寝返りをうった。

 今まで見えなかった左の頬に、たぶん叩かれた時についたに違いない、小さな赤い腫れ痕があった。

 

「わしはあんたとは行かねぇ。この子を放って行けるわけがねぇ。わしはこの子のそばにずっとついていてやるつもりだ」

 

 老人は辛そうに少女の顔の傷をみつめながら言った。

 

「じいさん、死んじまったら何も出来やしねぇじゃねえか。見てりゃ、余計辛くなるばかりだぜ」 

 

 男はうんざりだ、とばかりに手をひらつかせ、聞こえよがしに溜め息をついた。


「わしにだって出来ることがあるはずじゃ」 

 

 老人の堅い決意を感じ取ったのか、男は呆れたとばかりに手を広げ、壁に掛かったカレンダーに視線をうつした。 

 そして、今まさに気付いたとばかりに、大袈裟な動作で驚きの声をあげた。

 

「おいおい、今日はクリスマスじゃねえか。参ったなぁ。おれも天使の端くれだからなぁ。じいさん、あんたにひとつプレゼントをやるよ」

 

 老人はわけがわからず、何か言おうとしたが、男が手をあげてそれを制した。

 

「生きることは辛い。生きて誰かを守ることは尚のことだ。濡れ手に泡の幸せなんて望んじゃいけねぇ。奇跡なんてこの世にはありゃしないのさ。じいさん、あんた、そこんとこよくわかってんだろうな」 

 

 老人は呆気にとられながらも、しっかりとうなずいた。 

 

「それならいい。じゃあ、受け取りな」

 

 男は片頬をあげてニヤリと笑うと、老人の目の前で、パチンと指を鳴らしてみせた。 

 その途端、老人の意識はまた深い闇の中に落ち込んでいった……。

 

 

    ※ ※ ※

 

 

 頬にあたる歩道の石畳の冷たさに、老人は目を覚ました。

 冷えた身体を苦労して揺り動かすと、遠巻きに老人を取り囲んでいた街人が、不謹慎にも何かがっかりした様子で、一人また一人と離れていった。 

 

 わしは生きているのか?

 ありゃ、夢だったのか?

 

 老人は雪にまみれたボロ雑巾のような格好で、何とか立ち上がると、今まで大事に抱えていたプレゼントの代わりに、一枚の紙切れを握り締めていることに気がついた。

 

 かじかむ指でその紙を開くと、その短い文面を、一度ならず二度三度と、その意味が理解出来るまで、何度も何度も読み返した。

 

 あぁ、あぁ、神様。わしは生きます。精一杯生きてみますとも……

 

 少女は明日から赤いマフラーを巻いて街に出るだろう。今年の冬はずっとそうして過ごすに違いない。そして、わしはそれを眺めて過ごすことになる。

 春がきて、夏がきて、また冬がきたら、わしが今度はかわいい手袋を買ってあげるとしよう……。

 

 老人は身体の雪を払うと、はやる気持ちをどうすることも出来ず、クリスマスソングの鳴り渡る街を、少女の住むアパートに向けて足早に歩き始めた。

 

 老人の握り締めた広告にはこう書いてあった。

 

 

 《急募! 当アパート、住込みにて管理人求む》……と。

 

 

 

 

  



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sent from W-ZERO3



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[一言] 読ませていただきました。 表現や情景描写は、非常に見習いたいと思うところが多くありました。 ただ、読点が非常に多い印象を受けます。読点は文章を読みやすくする役割がありますが、あまり文を切りす…
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