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違う、と、とっさに声をあげた。
実際の所、別れた当初はまさしくアキラが謝ったとおりの内容で腹を立てていた。先のことも考えず、その日暮らしな生活を選ぶなんてバカだと。心配してたのに、せっかくご両親が上の学校に行かせてくれるっていってるのに、自分からその機会を捨てて、肉体労働の仕事に就きたがるだなんて、バカだ、と。
でも、長年暮らしていると、いろんな人に会う機会があった。いろんな考えに出会う機会があった。そして、ふと思った。私は、私の物差しでアキラを計りすぎてたんじゃないかって。
私にとっては、学歴があって、収入が安定した外からの評価が悪くない仕事に就くということが「楽で、幸せな環境」だった。
でも、私にとってはそうでも、アキラにとってその環境が「苦痛な環境」であるとしたら?
もちろん、長期的な目線で見たら「今は苦痛でも、後が楽だから」ということになるかもしれない。でも、本当にそうなるかどうかなんて、分からない。一生苦痛かもしれない。それをアキラが恐れていたとしたら?
あの頃、私は、アキラがどんな気持ちでその道を選択したかなんて、考えもしなかった。考えなしのバカだとしか思わなかった。
私にとって、ちゃんとした学歴と就職を選ぶのは「常識」だった。選べないのなら仕方がない。でも、選べるのなら人生の選択肢を増やすために上を目指すべきだと、それが当然だと思っていた。そして、それを「あたりまえ」としてアキラに押しつけた。当然のように「それじゃだめだ」と説得した。
あの時の私の言動は常識的に見て「正しい」だろう。でも、「正しさ」は必ずしも、人を幸せにしない。
「あれは、アキラだけが悪かったわけじゃないよ。私だって、言い方が悪かったから。頭ごなしに、上から目線で言ってたこと、私も、後悔してたよ。自分だけの価値観で、自分だけの正しさを振りかざして、アキラの気持ちを間違ってるって、決めつけてた」
「サラの悪かったトコなんてない。ちゃんと、心配してくれてるの、後から考えても分かったし」
「……言葉上は体よく、ごまかしてたしね。でも、アキラのためなんて正論をただぶつけてただけの私は、すごく傲慢だった。アキラの気持ちなんて、考えれてなかったんだよ」
口論した過去が脳裏を過ぎる。「サラとは違うんだよ!」と、吐き出した時の、アキラの表情は、傷ついていなかったか。古い記憶では、もうそれを思い出すことは出来ないけれど、きっと私もこの人を傷つけていた。
「私こそ、ごめんね」と苦く笑えば、アキラが首を振る。
「……だとしても、俺には必要な言葉だった。あの時のサラの言葉があったから、専門学校行こうと思えたんだ」
専門学校にちゃんと入ったんだ。そうだよね、資格とるからには、学歴とか実務経験とかいるのだろう。
学校、行ったんだ。
苦言を呈すことが彼のためになると思っていた。でも、私の言葉は彼を頑なにするばかりで、彼のためには言わない方がよかったんじゃないかって後になるほどに後悔していた。彼を傷つけただけだったんじゃないかと。余計に「世間の常識」を嫌わせてしまったのではないかと。
でも、アキラが私の言葉のおかげって、言ってくれた。それが、すごくうれしい。
「勉強……すごく嫌がってたよね」
「うん、すげぇ嫌だった」
アキラが、おかしそうに笑う。
「よく行く気になったね」
「当然、なかなかならなかったよ。勉強なんて、絶対しねぇって思ってたし。だから高校卒業してからは、サラが知ってるとおりの仕事してたよ。孫請けの土木作業員な。そこで一緒に働いてたおっさんがさ、上の学校行っとけ、何か資格とっとけって、しつけぇの。五十過ぎたおっさんの実感って、すげぇのな。面倒だから嫌だとかってその時は流したんだけどさ、その時、サラの言葉、思いだした。サラが心配してたのは、こういうことかって。年食った自分とか、学生時代って想像付かないじゃん。でも、五十のおっさんに言われて、このおっさんの姿が俺の三十年後かよって。腰痛い肩痛いって言ってんのに、肉体労働するしか仕事がないって。分かってたはずなのに、急に怖くなった。「選択肢を広げるため」って言ったサラの言葉の意味、はじめて分かった。俺、あと四十年、こんな事して生きていくのかなって。体動かなくなったら、俺どうなんのって」
アキラには、良い出会いがあったんだ。きっと私が言わなくても、アキラは気付いただろう。
よかったと思う反面、ちょっと悔しくて口をとがらせる。
「……それ、私のおかげじゃなくって、そのおじさんのおかげじゃん」
「ば、ちげーよ! そりゃ、おっさんに言われたのがきっかけだったけど、でもサラと会ってなかったら、俺、おっさんの言葉とか、ジジィのタワゴトって、気にもしなかったと思うし! 俺は先のことなんてどうでもよかったけど、もしサラと一緒にいたかったら、そんな不安定な男じゃダメだったんだって気がつい……」
まくし立てて、それから我にかえったアキラが引きつった笑顔を浮かべてお箸を持った右手で顔を隠しながら「恥ずかしぃ……なに力説してんだ、俺……」とうつむいた。
ついでに私の顔も赤くなる。
別れた後も、アキラも、私と一緒にいたかったと思ってくれてたんだ。恥ずかしい。うれしい。
あのころの気持ちが胸一杯によみがえる。
私も、ずっと一緒にいたかったよ。ありがとう。あの頃、ほんとに私のこと大切に思ってくれてたんだね。別れた後も、思いだしてくれたんだね。
「……そっか、うん、そう言ってもらえると、私も救われるな。アキラを傷つけただけじゃなかったかって、後悔してたから。私の言葉、無駄にしないでくれて、ありがとう。職場で良い出会いがあって、よかったね」
顔を覆ってるアキラから変なうめき声がもれてる。
「ああ、もう! サラって、ほんと優等生だよな!! あの頃バカと付き合ってくれてた理由がほんと分かんねぇ!」
アキラは茶碗を持つと、そっぽ向いてがつがつとご飯を口の中に搔き込んだ。
「アキラは優しかったよ。型にはまるしか出来なかった私には、すごくかっこよく見えたし、憧れてた。自分にはできない事するアキラのそばにいるのは、楽しかったよ。すごいなって、ほんとに思ってた」
彼と目が合わないのを良いことに、ついでとばかりに恥ずかしくてなかなか言えなかったことを伝えておく。
嫌なだけの別れの記憶を、塗り替えたかったのかもしれない。
良いことだっていっぱいあったよ、大好きだったよ、悪い出会いじゃなかったよねって。アキラにも思って欲しかった。
「……マジで言ってる?」
「うん。マジで」
「あー、もう、なんで俺、サラと別れちゃったんだろう……俺、あの頃の自分のバカさ加減に、後悔しかないわ」
わざとらしい、大げさな落ち込みように、思わず笑ってしまう。
「笑わないで、サラさん」
弱ってますって感じの表情に、笑いが止まらない。
うん、私も、いっぱい後悔したよ。傷つけ合って別れたけど、嫌いで別れたわけじゃなかった。腹も立ったし憎くもあったけど、それは、全部、全部、好きだったからだ。