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「個室、あいていますか?」
彼のリードに任せたまま連れてこられたレストランで、彼が店員と交わす言葉に何となく耳を傾ける。わざわざ個室なんて、アキラには本当に「ちゃんと」話したい何かがあるのかもしれない。思い出話しとか突発的衝動とかじゃなくて、本当に「何か」が。
あの頃に関する何か、それはあの当時のことなのか、その後の私の知らない期間で起こった変化によることなのか。
彼との別れを過去の事に出来るまで、私はいろいろ思い悩んだ。当時は感情でいっぱいいっぱいだった事柄を、長い時間かけることで「仕方がなかったのだ」と思い至った。その経過でずいぶんいろんな感情や考えが渦巻いた物だ。
当時、私が抱いていたのは「怒り」だった。アキラがどんなに悪かったか、どんなに私が傷ついたか、彼が私にした非道さをアキラにぶつけたい、思い知らせてやりたいと思うことがいっぱいあった。
アキラもまた、あの頃の私のようにぶつけたい何かを抱いてるのかもしれない。だから再会した今……。
そこまで考えて、それはない、と考え直す。
だってアキラにそんな悪感情は見えない。手放しで再会を喜んでくれていた。だからきっと悪い内容でじゃない。それでも、不安のような何かが胸を過ぎった。
だって辛かった気持ちは消えたわけじゃないから。わざわざ思い出すようなことをほり返したくない。
話しをしても「仕方なかった」って理性のまま、私は笑っていられるかな。
視線の先には、すっかり落ち着きのある大人になった彼がいる。
真っ黒な髪をきちんと整え、着崩すことなくスーツを着て、落ち着いた態度と言葉遣いで店員と話す姿。付き合っていた当時の彼とは、ずいぶん印象が違うのを不思議な気持ちで眺める。
なのに「行こう」と振り返って柔らかな表情で手を差し延べてくる姿は、彼なりに私を大切にしてくれていただろう昔の姿に重なる。
九年前別れてから、長い間腹を立てていた。思いやりも考えも足りなかった彼を恨んでいたと言ってもいい。
なんで分かってくれなかったの、と、思いだしては彼をなじった。悔しくて、腹立たしくて、なのに好きで、忘れられなくて、だから憎くて憎くて許せなかった。
けれど時間というのは、確かに人の心を癒やしていくのだ。そして、その間に重ねた経験もまた、許せるだけの心と、人の心を理解するという術を育てていた。
私も彼も、子供だった。
あの頃の私には思いやりがないと思えた彼の行動や、考えが足りないと思えた彼の生き方。でも本当にそれだけだったのか。あの頃の彼にしてみれば、彼なりに私を大切にしてくれていて、彼なりに頑張っていたのではないだろうか。
そう思えるようになった時点で、私には話すことがなくなっている。だからもうなじりたいとは思わない。誰にだって、頑張った結果、人の気持ちを知らず踏みにじることはあるのだ。苦さの残る、まさに青春の思い出というヤツなのだろう。
そう思えるようになったのはここ最近の話なのだけれど。
だから私に話すことはない。じゃあアキラは何を思って話したいと言っているのだろう。彼にとって私は過去のことになっていないのだろうか。
「サラ、なに頼む? 好きそうなのある? 無理矢理誘ったから、奢らせてくれな」
メニューを渡されながらのいたずらっぽい笑顔は、私の知ってるあの頃のアキラの笑顔と変わらない。きらきらの金髪で、楽しそうに笑うこの笑顔が好きだった。私にとって自由と憧れの象徴だった。でも今は大人の精悍さがあって髪も黒いせいか落ち着きもあって、……今の方がかっこよくて好きかも。そう感じるのは私も大人になったのだろう。
「たっかいの、頼んじゃうよ?」
すまして言えば、アキラがにやりと笑う。
「この値段帯でサラの胃袋程度じゃ痛くもねぇよ。なんてったって、今年一級建築士の資格、とったし」
「……は?」
突然さらりと爆弾落とされた。一級建築士がどんな資格かなんて知らない。でも、けっこう難しい資格だったんじゃないかな、ぐらいには知っている。
あのアキラが? 一級建築士?
「……ほんとに?」
失礼を承知で、思わず真顔になってしまう。
「ほんと。……俺も、まさか受かると思ってなかったから、びっくり」
ははっと肩をすくめながら笑ったアキラは、すごく穏やかな目をした。
「サラのおかげだよ」
「……え?」
「サラとの付き合いがなかったら、俺はこんな生活をしていなかった」
そうつぶやいたアキラは、ふっと視線を落とし、それからふらふらとさまよわせ、水の入ったグラスを手に取ると軽く口を付け、またふらふらと視線をさまよわせた。
「いや、あ、注文する物、決めた? ほら、お前、和食系好きだったろ? ここ、女向けの、ちまちましたの何種類も料理がのってる、ほら、こういうのとか……」
……あ、これ、照れてる。
こみ上げる笑いをかみ殺して、話を合わせてあげよう。
「うん。そうだね、あ、釜飯のセットとかおいしそう……」
一緒にメニューをのぞき込んで流されたふりをしながら顔をちらりと確認する。
確認して。それから、とうとうこらえきれず笑いが漏れた。だって、アキラの耳、赤くなってる。
「……笑うなよ。さっきの話は後だ、後! ……落ち着いて話したいから、だから、その、まず注文をだな……あー、もう、だっせぇな、俺」
照れ隠しに髪をかき上げて、しかめる顔が懐かしい。
「ううん。アキラのそういう、ちゃんと言葉で伝えてくれるところ、好きだったよ。今も変わってないんだね。うれしい」
「……やめて、サラさん。恥ずかしい」
へにょっと情けない顔になって、両手で顔を覆い、悶えながらうつむくアキラに、私はとうとう声をあげて笑った。
「俺、今、建設屋サンしてんだ。ほら、バイトしてたろ、土建の作業員。あそこの親会社に就職して。サラといた頃は、こんなスーツ着る仕事するようになるとか思わなかった。つっても、普段は作業着で、今日は会社の付き合いがあって珍しくスーツだっただけだけどな。サラは?」
運ばれてきた料理を前に、改めてアキラが話を切り出した。
「私は、事務の仕事」
アキラみたいな立派な資格を使うような仕事はしていない。なのに彼は「おお」なんてわざとらしく声をあげて、まぶしそうに私の頭のてっぺんからテーブルで隠れる手元までを眺める。
「やっぱサラって、きれいなOLのおねーさんって感じだよな」
「……なに、それ」
「あの頃の俺、そういうきちんとしたサラにすげぇ憧れてて、でもってたぶん、コンプレックス持ってたんだよ」
目の前の料理をつつきながら苦笑気味に話す姿に、あの頃知り得なかった彼の本心を知る。私の生真面目さを「すげぇな!」なんて手放して褒められてはしても、ひがむような言動を彼はしなかったから。
「だから、あの頃サラの言葉、むかついて反発してたんだろうなぁって、今なら分かる。あの頃の俺、すげぇヤなヤツだった。きっと俺が思ってた以上に、サラに嫌な思いさせてたんだろうなって……気がつくのに何年もかかったけど、会えたら謝りたいって、ずっと思ってた。俺、バカだから、ほんとに、分かってなかったんだ。勉強なんてあれ以上やりたくなかったし、短期契約のバイトの延長みたいな仕事で一生やっていけるって、本気で思ってたんだ。サラが心配してくれてたの、うっとうしいなんて切り捨てるような、ほんとにバカだったんだ……」
ごめん、と、姿勢を正して、アキラが頭を下げた。