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「……サラ?」
すれ違ってから、何拍かおいて耳に届いた声。
それは、心の奥に今も残るとても懐かしい人の声と、よく似ていた。
そんなはずはない、という想いが真っ先に浮かぶ。だって、ここは私たちの過ごしたあの町から遠く離れている。なのにこみ上げるのは、期待だったのかもしれない。
振り返れば、本当に懐かしい彼が、大人の顔になってそこに立っていた。
うそ。
幻じゃないかと目をしばたかせ、勘違いじゃないかとその顔から彼との違いを探そうとする。
「やっぱり、サラ、だよな。……久しぶり」
彼の驚いた表情がうれしそうな笑顔へと変わる。
アキラだ。
懐かしい笑みだった。金色だった髪は真っ黒になっている。だから印象は全く違うのに、でもやっぱり太陽のような朗らかな笑顔だった。
「……ほんとに、アキラ?」
「だいぶ、変わっただろ」
彼は照れくさそうに笑いながら黒い前髪を軽く引っ張ってみせる。
「すれ違った時、全く分からなかった」
だって、私の知っているアキラは、いつでもやんちゃで自由で、自分勝手で、社会に縛られることを嫌っていた。なのに目の前にいるのは、黒髪にスーツ姿の社会に縛られて普通に働く社会人にしか見えない。
私の知るアキラは私の黒髪を好きだというくせに自分は金髪にこだわって、周りに侮れたくないとでもいうように派手な服を着けて、優しいくせにいつも周りを威圧しようとしていた。本人がそこまで意識していたとは思えないけれど、少なくとも、私にはそう見えた。
「俺もサラと一緒にいた時は、こんな大人になる自分なんて、これっぽっちも考えてなかった」
そう言ってアキラは、くっつけた親指と人差し指を目の前にかざす。
「なあ、元気にしてた? 俺、サラに会えて、すっげぇうれしい。仕事帰り? なあ、時間ある?」
勢い込んで目をきらきらさせて話しかけてくる姿は、あの頃にも時折見せていた、興奮している時の仕草。
戸惑いはあった。もう十年近くも前に別れた人だ。会ったところで今更話すことなんてないだろうにという気持ちもあった。でも高校時代、誰よりも好きだった人だ。過去の人になってからも、心のどこかに引っかかるように忘れられずにいた人。けれど心に残るわだかまりは過去の物だ。
なのにこうして再会してみれば、よみがえってくる爽やかな海風の記憶。それは甘くて、にがくて、切なくて、彼と出会った海辺の思い出が体一杯に広がり、きゅっと胸を締め付ける。
今更話すことなんて、ない。でも……。
応えに困窮しながら、ちらりと彼を盗み見ると、悲壮なぐらい必死な顔をしてこっちを見つめていることに気付く。
「大丈夫、特に予定はないよ」
飾らない彼の表情が警戒心に似た戸惑いを解き、自然と口元がほころぶ。
途端に彼が悲壮な表情から一転、破顔する。
「よかった! じゃあ、飯食いに行こうぜ!」
「え?」
夕食はこれからだ。でも、ただでさえアキラとの再会に戸惑っているのに、急に誘われると大丈夫か不安になる。
また、あの頃のように話せる気がしない。だって、別れは苦い物だったから。
もう心の整理は付いている。苦い別れさえも忘れたフリして、あの頃は楽しかったねって笑って流せるほどに。でも、それは立ち話ですむなら、の話だ。
傷つけ合って別れた人と、改まっての食事は、傷ついた過去が疼きそうな予感がした。
「あ、もしかして、もう食ってる? ……あのさ、俺、サラに会ったら、言いたいことあって、その、ゆっくり話したい」
私の不安を感じ取ったのか、彼の満面の笑みは、すっかりしぼんでいる。
「言いたいこと?」
「うん、だからどっか……。えっと、あのさ、俺、今サラが普通にしゃべってくれて、すげぇうれしい。……ありがとな」
「え、なに、急に」
きっと、私の不安がバレたんだろう。恥ずかしくなって彼の気遣いに気付かないふりをする。傷つけるつもりはないよって、さりげない思いやり。昔はもっと直接的な気の使い方だったな、なんて、その優しさにあの頃好きだった気持ちを一つ思い出す。
「あー、だからさ、道端で話すの恥ずかしいだろ、だからちょっと付き合ってくれよ!」
耳まで赤くなって、アキラが私の手を掴んで歩き出す。引っ張られながら思わず笑ってしまう。
懐かしい。
手を繋ぐのを恥ずかしがる私を、あの頃もこうしてアキラが繋いでくれた。うれしかったけど、恥ずかしくて、何も言えなかった。
付き合ってた頃の続きのような、くすぐったい感覚がした。手を引かれてどんどん歩いて行く。落ちた沈黙は気恥ずかしさこそあったけれど気まずさはなくて、昔手を繋いで歩いた記憶がぽつりぽつりとよみがえる。
………あ、嫌なことも思いだした。
良いこともあれば、嫌な思い出もある。だって、ケンカ別れしたんだから、当然ね。
「……ねえ、アキラ?」
「うん?」
「彼女とか、いないの?」
「え!」
すごく焦った様子で立ち止まったアキラが、顔を真っ赤にして振り返る。
「な、なんで、突然、そんな……っ」
この焦りよう。あやしい。
なんなのほんと。この人、懲りてないの。ううん。そもそもアキラは、自分が悪いとは思ってなかったんだった。今度は嫌なことが次々とよみがえり、イライラしてきた。
「……いるのね。じゃあ、こんな勘違いされるようなことしちゃダ……」
「いないし!」
その必死さがあやしい。いないならどうしてそんな風に焦るの。
疑わしい目つきに気付いたのか、アキラが慌てて言い訳をする。
「本当にいないから! それらしい子もいないし、勘違いさせてる子もいない!」
最後の言葉には「あの頃と違って」という副音声が聞こえた気がした。
「じゃあ、なんでそんなに焦るのよ」
「いや、だって、お前………」
「なに?」
にらみつけると、一瞬言葉に詰まったアキラが、もごもごと歯切れ悪く、よくわからない言い訳をはじめた。
「いや、だって、その、期待したっていうか……その、サラが、俺に彼女がいるかどうか、気になってくれたのかと思って、その……」
何なの、はっきりして。
と、にらみつけたまま返答を待つと、彼は黙り込んで、ぐっと眉間に皺を入れた。
「…………あー!! もう! サラは、彼氏とかいねぇの?!」
「え、今はいないけど」
最後の彼と一年ぐらい前に別れて以来、そういうのとは遠ざかっている。そもそもいたらちゃんと断るし。そうじゃなくて、アキラのこと聞いてるのに。
「……そっか! じゃあお互い問題ないし、行こうぜ!」
上機嫌になったアキラが、にこにことしながらまた私の手を引き歩き出す。
勢いに負けてしまった。話が流されて結局あの焦りがなんなのか改めて質問するのは聞きづらい。とりあえず、彼女はいないみたいだし、まあいいか。




