[第1章]第1話 飢え
頭上から降り注ぐ大量の水は、正の全身を余すことなく濡らした。
「ギャハハハ! きッッッたねェなァ、おい! トイレの水を頭から被ってやがるぜ、コイツ!」
「バーカ。何言ってんだよ、ぶっかけたのお前だろーが」
男子高校生らしき二人組は正の目の前で耳障りな笑い声を上げる。
茶髪にピアス、派手な金属の装飾、そして下品な笑い方など今時分かりやすいぐらい不良やってますアピールがしつこい連中だ。
何が面白いのかは理解できないが、これで鬱憤が晴れたのならば良しとしよう。
連中の行為を気にも止めていない正は犬のように頭を振って水滴を飛ばす。
そう、気にする必要はないのだ。これはいつものこと。日常の一部を一々気にしていてはキリがない。
冷えた体を温めようと身体をさすっていると、天井から授業開始五分前を告げる鐘が鳴る。
「おっ、と。予鈴鳴っちまったな」
「そろそろ教室戻ろーぜ。おい、朝霧ィ。お前ここ掃除しておけよ。お前のせいで汚れちまったんだからなァ」
「ふはっ、ひっでェなお前」
ぽたぽたと前髪から水滴を垂らしながら正は頷くが、それを見届けない内に連中は下卑た笑みを浮かべながらトイレから出て行ってしまった。
正はその場から立ち上がると、文句一つ言わずに用具入れからモップを取り出す。
正自身もそうだが、トイレの床も酷い有り様だ。床どころか壁までびっしょりと濡れているし、連中の靴底が汚れていたのか足跡が至るところに残されている。
これを一人で掃除するのは骨が折れそうだ。しかし、手伝ってくれる者などいない。高校に入学したての正にはまだ友人と呼べる存在はいなかった。正は無言で清掃を始める。
これが朝霧正の日常だった。トイレや校舎裏に連れられては殴る蹴るの暴行行為に、陰湿な嫌がらせ。一言で言ってしまえば、正はイジメられていた。
清掃は思いの外早く片付いた。それでも生徒らが3時限目の授業を受けている間に掃除を始め、終わったのが4時限目の授業中ということは一時間近くかかったのだが、あの有様なら二時間以上は余裕で超えると考えていた。黙々と作業をこなしていたのが功を奏したのだろう。
制服も少しずつ乾きつつあった。今なら教室に戻っても床を汚す心配は無さそうだ。自身の机や椅子は仕方ないとして。
この格好、なんて言われるだろうか。そんな格好の奴を教室に入れるわけにはいかない、なんて言われなければ良いが。
正は教室の前に立つと控えめに扉をノックした。
「んっ? 君ィ、一体今までどこに行ってんだ。もう授業はとっくに始まっているが? しかもなんだね、その制服は。どうしたらそんなに汚れるんだ。はぁ、全く。これだから問題児は」
教師は正の言い分も聞かずに一方的に捲し立てる。教室の中には正を笑う者もいれば本気で呆れ果てている者もいた。
この場に正を庇う者なんていないということだ。
教師の小言を終え、正は自分の席に戻る。
授業に出遅れてしまった分を取り戻さなければいけない。残りの時間、正は自分の立場も格好も忘れて授業に没頭した。周囲の冷ややかな視線など気にもせずに。
正は自らこの立場を選んだ。
元々、先程の連中にイジメられていたのは正ではなく別の人間だったのだ。
その人を庇って連中に楯突くと、イジメの対象が正に変わり、トイレで行われていた惨状が日々続いていた。
歯向かうことはできる。しかし、もしも自分がイジメの対象から外されたら、また別の人がイジメられるだけだ。そうなっては元も子もない。
なら、このままでいいと正は考えた。
自分が我慢することで皆が満足するなら本望だ。これも人助けの一環なのだから、と。
人の助けになる事なら何でもやってきた。時には誰かの使い走りのような真似もしてきたし、誰に言われたわけでもないのに街や学校の清掃に勤しんだ。
その全てがただの善行で終わった。見返りなんて何も無いし、感謝されたとしてもそれは気持ちがこもっていない相槌のような言葉を貰っただけ。
それでも正は狂ったように善行を積み続けた。そうしなければいけない理由がある。
彼は、人を助ける欲求に飢えていた。
4時限目が終わり、昼食の時間が訪れる。正は弁当箱を持って教室を後にした。
いつもは教室でもそもそと昼食を取るのだが、今日は違う。
先程の一件で体を冷やしてしまったせいか、どうにも体調が優れない。一度保健室で見てもらった方がいいだろう。
保健室に辿り着いた正は先程同様、控えめに扉をノックした。
「はい、どうぞー」
先生の許可を得て正は扉をゆっくり開けると、薬品の臭いが鼻を刺激する。ここに来る度に何度も嗅いでいるが、いつまで経っても慣れない臭いだ。
「あら、朝霧君。──ち、ちょっと君どうしたのその服!」
正の汚れた制服姿を見た先生は驚愕からか上ずった声を上げる。
何て説明しようか迷っていたが、蛇口を勢いよく捻ったせいで水が大量に吹き出し体が濡れてしまった、そのせいで体調を崩してしまったかもしれない、と誤魔化して伝えると先生はあからさまに大きく溜め息を吐いた。
「はぁ……。あのねぇ、吐くならもっとマシな嘘を吐きなさい。どう蛇口を捻れば全身濡れるほど水が噴き出すのよ」
タオルを取り出してくれた先生はそれを正に投げ渡す。まだ生乾きの髪をそれで拭けということらしい。
「あとこれ。体温計」
頭をタオルで拭きながら、手渡された体温計を脇に挟む。
「濡れた体のまま授業受けてたら、そりゃ体調も悪くなるわよ。次からはいの一番にここに来なさい」
こくり、と正は頷く。
教師すらも味方ではない立場において、保健室は一番落ち着ける場所だ。自らこの立場を選んだとしても、やはり疲れるものは疲れる。
保健の先生も事情は把握しているはずだが踏み込んだ質問はしない。それが正にとってどれだけ救われているか。
ピピピ、と体温計のアラーム音が室内に響く。予想通りといったところか、やはり熱が上がっていた。
早々に昼食を済ませた正はベッドを借りたい旨を伝えると、先生は快く承諾してくれた。先生に感謝しつつ、正はふかふかのベッドに身を預ける。
昼間にも関わらず、激しい眠気が正を襲っていた。このまま横に身体を倒せば一瞬で眠ってしまいそうなほどに。しっかりと睡眠は取った筈なのだが、この眠気は一体。
だが、それを考えるよりも先に正の思考は停止した。もう1秒でも早く眠ってしまいたいと脳が考える事を拒否したのだ。
深い眠りに誘われるまま瞳を閉じた正は、辛うじて意識残していた合間に少女の声を聞いた気がした。
────勇者様、と。
◇
目を覚ました正はゆっくりと上体を起こす。窓の向こうへ視線を向ければ既に陽が傾いていることが分かる。
一体、何時間寝ていたのだろうか。よく眠れたおかげで体調も少しだけ改善された。取り敢えず先生にお礼を告げようと周囲を見渡すも姿が見えない。
ふと、手元に視線を落とすと一枚の書き置きが残されていた。
体調が良くなったなら帰りなさい、と。
どのみち今日の授業は全て終わっているだろう。部活にも入っていない正がこれ以上校内に残る必要はない。正はお言葉に甘えて真っ直ぐ帰宅することにした。
帰宅の際、下校途中の生徒や買い物帰りの主婦らに何度も奇異の視線を向けられた。汚れた制服を着た男子生徒が歩いていれば気になるのも当然だろう。
だが、そんな視線も正の視界には入らない。正の前髪は両目を完全に覆い隠すほどに伸びている。物理的に視界を遮っているのだ。
髪を切りたがらない理由はある。ただ単に散髪が億劫だからというのもあるが、人と目を見て話すと心の中まで見透かされそうで嫌だった。
人の視線を意にも介さず、正は最短ルートで帰宅する。寄り道などは一切しない。真っ直ぐ家に向かって歩き、周囲には目もくれずに辿り着いた。
扉を開けるとすぐに母の姿が目に入る。手に買い物袋があるということは、ちょうど今買い物から帰ってきたところなのだろう。
母──由梨は栗色の髪を触りながら、バツの悪そうな表情を浮かべる。
「おかえり、正。……学校は、どうだった?」
正は楽しかったよ、と答えた。
無駄な強がりだ。例え制服が汚れていなくとも、由梨にはお見通しだったろう。正が学校でどういう仕打ちを受けているのか、またそれに対して正がどういった行動を取っているか。正の事を深く知る由梨なら知らない筈はない。
それでも正は決して本当の事を口にはしない。それを口に出してしまうと、辛うじて耐えていた正の心は簡単に崩れ落ちてしまうだろう。
「楽しーわけないじゃん。どーせまたイジメられたんデショ。なっさけないなー!」
突然、会話に割り込んできた人物が現れた。部屋の奥から姿を見せたのは、正よりも幼い顔立ちの少女だ。
彼女は正の妹、弓。黒色のツインテールをまるで動物の尻尾のように揺らしながら遠慮のない言葉を口にする。
「弓っ!」
「怒んないでよー、ママ」
ぶー、ぶー、と頰をリスのように膨らませる弓。ちょっとした冗談のつもりで言ったのだろう。
正は気にしていないと弓をフォローするが、弓は分かりやすいぐらい顔を顰めた。
「……うっざ」
フォロー、のつもりだったのだが逆に弓の機嫌を損ねてしまったようだ。正は小さく首を傾げた。何が気に喰わなかったのだろう。いくら考えてもその答えは分からなかった。
「あっ、そんなことよりご飯ご飯ー! ママ、今日のご飯なにー?」
弓は由梨の手を引いて食卓に誘う。もう正の事など気にも留めていないようだ。
弓はだいぶ前からこうだった。兄である正の事を極端に嫌い、ばったり顔を合わせても口を開くことはない。
「ち、ちょっと待って弓。正もお風呂入って着替えたらすぐ来なさいね。ご飯作って待ってるから」
弓に腕を引かれながら由梨はそう告げるが、正が頷き返した時にはもう部屋の奥へと消えていた。
靴を脱いでいる最中、たたきに父の靴がないことに気がついた。まだ仕事から帰っていないのだろう。
最後に家族が全員揃って食卓を囲ったのは、いつだったか。正はぼんやりと考えていた。