[プロローグ] 過ちを犯す前の話
これは昔の記憶だ。
いつの記憶だったか朧げになるほど、ずっと昔。
「正は将来何になりたいの?」
淀みのない綺麗な黒色の髪の少年、正の目の前には一人の女性がいた。
栗色の長髪をゆらゆらと揺らし、優しげな表情を浮かべながら女性は正に問いかける。
「んーとね、正義の味方!」
女性の問いかけに対して正は一切の迷いもなく答えを返す。その表情はとても晴れやかだった。
正義の味方はずっと考えていた正の夢だ。
今よりも幼い頃、正は自分よりも大きな大きな体格の大人に誘拐された過去を持つ。
その時の記憶は思い出すだけで泣き出してしまいそうになる程のトラウマだが、同時に父親が命懸けで助けに来てくれた掛け替えのない思い出でもある。
あの時の父親の姿があるから、正は正義の味方になりたいと口にするようになった。
「そっか……正義の味方か。うん、正ならきっとなれる気がするな」
「ほんと!」
「うん、ほんとほんと。正はとっても優しいから、きっとパパのように困ってる人を助けられる存在になるだろうなぁ」
女性の言葉の一つ一つに大きなリアクションで喜びを表現し、終いには瞳をキラキラと輝かせていた。
「ぼく頑張るよ! それでね、パパのように強くなってママやにーちゃん、弓と……それとねーちゃんも! みんなぼくが守ってみせるからね!」
「ふふ、正がおねーちゃんを守ってくれるの?」
女性がくすくすと笑いを零すと、正はむぅっと頰を膨らませる。
今の言葉に嘘はない。本気の本気だった。
「もー、笑わないで!」
「あはは。ごめんごめん、もう笑わないよ」
正はぽかぽかと女性のお腹の辺りを叩く。これはこれで気持ちの良いものだが、これ以上揶揄って正が泣き出しては困る。女性は素直に謝ってその場を収めた。
「んー、でもね。正がおねーちゃんのことを守りたいと思うのと同じで、おねーちゃんも正のことを守ってあげたいな」
「……え、おねーちゃんも?」
守りたい相手から逆に守ってあげると言われて混乱する正。
お互いに守ると言い合う関係は果たして正常なのか。まだ幼い正には理解し難いものだった。
「おねーちゃんはいいの! ぼくに守られてて!」
「もう、強情だなぁ」
女性は苦笑いを浮かべるが、満更でもない様子だった。
「正……。正はずっと、そのままでいてね。心の優しい男の子のままでいて」
女性の手が正の頭に伸びる。優しい手付きで頭を撫でられて、正はうっとりと表情を綻ばせる。
「うん」
「正がそのままでいてくれるなら、私はきっと──」
正は赤くなった顔を隠すように俯いていた。そのせいで気付くことが出来なかった。
女性の肩が震えていたことに。
確か、こんなやり取りをした時期だっただろうか。
家族の関係に亀裂が生じ始めたのは。