9:学園生活 Ⅱ
予鈴が鳴る。待っている狼は現れない。
「……。そんな日だってあるよね」
そう呟き、ライラはトボトボした足取りで教室へ向かう。着いた頃は本鈴ギリギリで、左隣のレオナルドさえ席に着いていた。その彼と目が合ってびくついたライラだったが、いつもの射殺されるようなものではなく、訝し気で少し困ったような色だった。いつもの雰囲気と違うことに首をひねる。何にせよ、敵意でなければ十分だ。
(明日は狼さんと会えるかな)
意気消沈した面持ちで、その日は終了した。
学園生活五日目。
珍客が来た。
「ライラー、『人間界史』持ってない? 俺忘れちゃって」
ライラのクラスに堂々と入ってきたのはエリックだった。入学以前からその優れた容姿で有名な彼の登場に、クラスの女生徒達が色めき立つ。その反応にびっくりしたのはライラだ。
(エリックってモテるんだ……)
女生徒達の反応に気にすることなく、エリックはライラの席まで近づくと、返答のない幼馴染の頭を小突いた。
「ね、聞いてんの」
「あ、ごめん。貸すよ、貸す」
バーナード侯爵家次男と接点を持ちたい男子生徒達と、イケメンとお近づきになりたい女生徒達が、二人の親密そうなやり取りに注目している。エリックは気分が良さそうにニコニコしているが、ライラはとても焦っている。
クラス中からの視線を浴びているこの状況から、ライラは逃げ出したかった。
ライラが机の中をガサゴソしている間、エリックは自分に向けて鋭い視線を送ってくる魔族に気が付く。窓際に座るレオナルドは、横目でエリックを睨み付けていた。普通ならば慄く威圧感に対し、エリックはにっこりと微笑み、正面から見返す。
その笑顔を横から見た女生徒は「はふぅ」と変な声を出して机にしな垂れかかっていた。
「あったよ。明日までに返してね」
そんなやり取りを知らないライラは、頭を上げて教科書をエリックに手渡す。それを受け取ったエリックがニコリとした。嫌な予感がする、と身構えたが遅かった。
ちゅ、と。
何の脈略もなく、エリックがライラの額に口付けを落とした。
「ありがとー」
ライラには声にならない悲鳴が聞こえた。
咄嗟に、振りかぶりそうになった右腕を左手で掴んで抑える。でないと、教室でエリックをふっ飛ばしてしまう――
『馬鹿じゃないの馬鹿じゃないの馬鹿じゃないの! 何してくれてんのおおおおおお!』
ギロリと睨み上げ、目で話す。
『ごめんごめん、いつもの癖が』
『いつもも癖もないでしょーがっ!』
エリックはへらへら笑いながら教室を出て行った。興味津々といった体で、残されたライラに注目が集まるが――その隣のレオナルドがいつもに増して不機嫌なため、皆口を噤んだ。一人を除いて。
「ねえ、エリック・バーナードと仲がいいんですの?」
「……えっ⁈」
ライラの前の席に座る女生徒が、振り向いて尋ねてきたのだ。自分が喋りかけられると思っていなかったライラは、驚いて反応が遅れる。
「……突然喋りかけてごめんなさい」
「あっ、ううん! 全然! エリックとは、仲はいいのかな?」
「恋人じゃありませんの?」
「断じて違う」
「……そうですの。ごめんなさい、突然こんなこと聞いて」
「ううん。私も聞いていい? エリックってモテるの?」
「知りませんの? 侯爵家に付け加えてあの容姿ですもの、相当モテますわ。社交界では毎回目立って……そうでした、貴方は社交界に出ていないのでした」
目の前の女子は、ライラが社交界に出るべき身分にも関わらず、出ていないことを知っている。ライラはその発言を特に気に留めず、エリックについて驚いていた。
「へぇー、エリックそんなにモテるんだ……」
「貴方、あの方を身近に前にしても何も感じませんの? 吸い込まれそうな美しさですわ」
「え……そうなの? 幼い頃から知っているからか、規格外の兄様達に見慣れているからかな、何も感じないです」
屋敷に仕えてくれている淫魔族の皆もとても美しい。それにライラにとっては、エリックよりもヨハンの方がぐっと魅力があると思える。
「そういえばトゥーリエント家には二人ご子息がいらっしゃると……私はまだちゃんとお会いしたことがないのです」
「兄様達は進んで夜会とか出ようとしないから……。たまに出てるみたいだけど。学園には二人ともいるから、いつか会うかもしれないね。でも関わらない方がいいよ」
女生徒は目をぱちくりとさせた。
「関わらない方がいい……とは?」
「兄様としては最高だけど、異性としては危険」
「まあ」
女生徒はクスリと笑った。
「わたくし、キャロン・フォレストですわ。ご挨拶が遅れてしまってごめんなさい」
「ライラって呼んでね。出来れば仲良くしてくれると、嬉しい、です」
「なら、わたくしのことも名前で呼んで下さいな」
「キャロン、ちゃん?」
「はい、ライラ。宜しくお願いしますわ」
初めてお喋り相手が出来たライラは、これまでクラスメイト達に見せたことのない笑顔を浮かべた。狼と戯れているときの、無邪気な笑みだ。キャロンは初めて見るライラの天真爛漫さに少し頬を赤くさせ、はにかんだ笑みをみせた。
昼休み、いつものように教室を飛び出したライラは、森の入り口で狼を待つ。
報告したいことがあってうずうずしている。
(今日は来てくれるかな。ようやく、お喋りする相手が出来たこと、言いたい)
「ヨハン、今日も美味しいです。ありがとう」
毎日お弁当を持たせてくれるヨハンに感謝を捧げながら、最後にとっておいた蓮根の挟み揚げを咀嚼していると、森の方からサクサクと音がする。
現れた水色の狼は、ためらうことなくライラの傍まで寄ると、身を寄せるように伏せた。前足は、ライラの投げ出した右脚に沿うように触れているし、右腕のすぐ傍に狼の頭がある。ライラはこの接近にいたく感動した。
(か、可愛い!)
食べ終えたお弁当を片付け、狼の毛を流れに沿って撫でる。狼は気持ちよさそうに目を閉じた。
「狼さん、私にもとうとうお喋りする相手が出来たよ! 友達、かは分からないけど」
ご機嫌な声である。ライラはハイテンションのまま続ける。
「友達になってくれるかもしれない!」
狼がぱちりと目を開けて、ライラを眇めた。
『お前、一人も友達いないのか』
突如、声が聞こえた。低音で心地よい、男の声だ。
「んんん?」
『おい』
「んんんん?」
狼から発せられているような気がする。
『俺だ』
「……狼さんが、喋ってるの?」
『他に誰がいる』
狼は前足でライラの脚を叩く。手加減はしているようで、痛くはない。
「しゃ、喋れたの? 何で今まで喋らなかったの?」
『……信用出来る奴か、見定めてた』
そこで狼が視線を外した。申し訳ないと思っているのかもしれない。その狼に対し、ライラは破顔した。
「じゃあ、今は信用してくれてるんだね! ありがとう」
狼の首に腕を回して抱き着くと、すぐさま狼が狼狽えたように言った。
『離れろ』
「はーい」
ライラは素直に離れる。狼は一度立ち上がり、くるりと半回転すると、ライラと向き合うように地面に伏せた。
『それで、友達』
話の続きをするようだ。
「狼さんがいるよ?」
『俺はいれるな』
「屋敷の皆を外せば……い、いないかな」
ライラはサッと目を斜め下に向けた。自分でも、少なすぎだと思っている。だが、社交界にも出ていないので仕方ない。ライラの行動範囲は、屋敷とその周辺の森と、度々連れて行ってくれる人間界であった。家族と屋敷の皆がいてくれて、ライラのこれまでの人生は満ち足りていた。
『同じ淫魔族にはいないのか?』
その狼の質問に、ライラはこてんと首を傾げる。
「私が淫魔って、よく分かったね?」
『!』