6:次兄ファルマス
ライラに抱きしめられた狼は、されるがままにじっとしていた。尻尾はへたりと垂れ、ライラの様子を静かに探っている。
しばらくして、ライラは狼から身を離した。
「ありがとう。元気出た」
そのライラの微笑んだ顔を見て、狼は嬉しそうに尻尾を振った。鼻先を近づけて頬ずりをする。ライラは楽しそうに笑った。
「狼さんはいい匂いがするね」
ライラはひとしきり狼とじゃれあって満足すると、元気よく立ち上がる。
「そろそろ家に帰るね。ありがとう。またね」
ライラは狼の額にそっと口付けし、校門の方へ駆け出して行った。狼はライラの後ろ姿を見送り、また森の奥へと消えた。
学園敷地内は転移術を封じられているため、家に帰るには校門を出なければならない。ライラは数人で集まっている生徒達の間を駆け抜け、校門の外へ出る。深呼吸し、人差し指を前方に突き出してくるりと一回転。青白い光に包まれ、一瞬で消えた。
「あっ、ライラ!」
まだ帰宅していない生徒達の中に、ライラを待っていたエリックもいたが、逃げるように駆け抜けたライラは気が付かなかった。
中途半端に腕を伸ばしたエリックを、同級生達が訝しむ。
「ライラ? さっきの子、知り合いなのか?」
「幼馴染みたいなもん」
「もしかして、あの《箱入りお嬢》か? 全くと言っていい程社交界に出てこなかったトゥーリエント家の娘」
「んー、まあ、そうだけど」
エリックの声音が低くなる。
「黒髪だったよな? 淫魔で黒髪ってあり得るか?」
「だから今まで社交界に出てこなかったんだろ。あれじゃあ淫魔としての力もしれているだろうし」
ライラについて口々に話し出す同級生達の横で、エリックの表情はどんどん冷めていった。目が剣呑なものになっていることに、誰も気付いていない。
エリックは何も言わず輪を抜け、校門へと歩き出した。
「あれエリック、まだ聞きたいことが――」
「帰るわ」
エリックは背を向けたまま右手を挙げ、青白い光に包まれて消えた。
「ふぅ! ちゃんと帰れた!」
ライラは自宅前に立っていた。白と黒を基調とした、重厚なその屋敷がトゥーリエント家の本邸である。屋敷中央の上部には大きな塔を作り、その先端は高く空へ伸びている。左翼と右翼にも中位の塔を、また各屋根の端に金属製の装飾を空に向かうように作っている。その一つ一つに当主グイードによる魔術がかけられており、トゥーリエント家の守りを堅くしている。
ライラは転移術が成功したことにホッとし、門をくぐった。結界の中に入る、むにゅりとした感触がした。入ることを許されていない者は、ここで問答無用に弾かれる。エリックでさえ年間フリーパスではなく、毎回結界免除をして貰う徹底さだ。
重々しい玄関扉を開き、「ただいま」と口を開こうとした時、ライラは右の方向から突然に襲われた。身長の高いソレは嬉々としてライラに覆いかぶさり、勢いのまま玄関の地べたに押し倒す。ライラの両肩を掴んで額にキスを落とし――
「いきなり襲撃してこないで!」
ライラは右の拳を握り、覆いかぶさってきたソレのボディーを思い切り殴った。たったそれだけで、その者は吹き飛んで壁に激突し、重力に従ってぽたりと床に落ちる。ぶつかった壁にはヒビが入り、塗装が剥がれ、屋敷は少し振動した。しかしすぐさまグイードによる修復魔術が働き、壁は元通りに復旧する。
「痛てて……そろそろ手加減を覚えてもいいんじゃないかな、ライラちゃん」
「ファル兄こそ常識を覚えたらいいと思う」
「ライラちゃんが可愛いから我慢出来ない!」
そう言いながらライラに抱き着くのは、ライラの異母兄の一人であるファルマス。トゥーリエント家の次兄で、ライラの二つ上だ。ところどころオレンジ色を溶かし込んだような髪色で、少し癖のある毛を短く切っている。淫魔らしい色気は勿論、愛嬌があって、おおらかな雰囲気を持っている。優しそうな垂れ目で、瞳は湖のように澄んだ青色。体格は大きく、見た目以上に実際はがっしりとしている。美形ぞろいの淫魔の中でもトップクラスの美丈夫だ。
ただし、シスコンなのが玉に瑕。
ライラは慣れたもので、抱き着いてきている次兄を引きずりながら歩き進む。年々ライラの怪力が酷くなっていくのも、兄達のせいだと思っている。そして兄達も年々身体の耐久性が向上しているため――間違いなくライラのせい――加減なくぶっ飛ばす練習台になって貰っている。
「ファル兄、まさかさっきまで寝てたの?」
「だって起きたらライラちゃんもう学園に行ってるし。俺が送ろうと思ったのに」
「だからって寝すぎでしょ」
「休暇最終日なんだから、ちょっとぐらい惰眠を貪ってもいいだろー? で? 学園にはどうやって行った?」
「転移術で……」
「一人で? ヨハンとか? それとも別の奴?」
にこにこ笑いながらライラに尋ねるファルマスだが、その目は笑っていない。ライラはそれをちらりと横目で確認し、言いたくないなぁと思いながら口を開いた。
「エリックが送ってくれた……」
「チッ!」
ファルマスは盛大に舌打ちした。ライラは面倒そうにため息をつく。
「何でそんなにエリックを目の敵にするの? 喧嘩してたっけ? むしろ兄様達が一方的に苛めてなかった?」
「うーん、そんな頓珍漢なところもライラちゃんの可愛いところだけど、いざ学園に入学して狼の群れに放られた今、心配で心配で心配だよ兄ちゃんは……」
「狼の群れ?」
「あのガキ、どうせライラちゃんにベタベタ触ったりしたんだろ? お兄様が消毒してあげるからねー」
「結構です」
より一層ライラを抱きしめようとしたファルマスを振りほどき、ライラは華麗に回し蹴りをした。ファルマスが咄嗟に作った魔術防御壁に、重い打撃が響く。
「いい蹴りだね! その調子であのガキも蹴っておいで!」
笑みに輝きを増したファルマスに対し、ライラは呆れ顔だ。
そのファルマスが一つ息を吐き、表情を改める。兄らしい優し気な表情で、ライラの頬に手を伸ばす。ライラの透き通った深緑の瞳を見つめ、左目の下にある黒子を親指でさすった。
「ライラちゃんは……特別製だからね。兄様はこれでも心配してるんだよ」
「これでもかって言うくらい過保護だと思うよ」
ファルマスは微笑みながら、ライラの黒子に口付けを落とした。
「びっくりする程ライラちゃんの精気は美味しいから、それに誰か気付くんじゃないかとヒヤヒヤするなぁ。男とは喋らなくていいからね」
「そんな無茶な」
それに今のところ喋る相手は出来そうにない。淫魔族は嫌われているのかと、ファルマスに相談しようかとも思ったが、今日はやめておくことにした。「特にトゥーリエント家は」と言われたことは引っかかっているが、この屋敷の皆が好きだ。兄達のことも、好きだった。
「ありがと、ファル兄」
「お礼はライラちゃんからのチューでいいよ!」
「うん、ところで、そんなに私の精気って美味しいの?」
「ライラちゃん無視? そうだね、ライラちゃんの精気は俺がこれまで味わった無数の中でも断トツだよ」
「それシスコンフィルターかかってるよね。ん? ……無数の中?」
「兄ちゃんモテちゃうからなー」
妹から見てもさぞモテる容姿をしているので、嫌味でも何でもなかった。でも。
「ファル兄も来る者拒まずなの?」
「それでこその淫魔だろー?」
さも当然、というようにファルマスはウィンクをした。
「……」
「私を食べてって向こうから来るんだよ? 据え膳食べないと逆に失礼だろー。っつーか、男も多いしな……あいつら俺を精気測定器みたいに思ってやがる」
「う、ううーん……?」
ライラには分かりかねる感覚であった。男も多いというのはどういうことだろう。
「でも兄貴ほど爛れてないから。安心安全のファルマスで通ってるから」
「アル兄は爛れてるの……」
「一応言っとくけど、俺達とも《魅惑》は使ってないからね? なーんか結構疑われるんだよなぁ」
要するに疑われる程モテている、と。
こういうところが淫魔の嫌われる原因なんだろうか、とライラは思った。