5:前途多難
ライラはゆらゆらと体を揺すられる感覚がした。自分がもたれかかっているふわふわの物体が動いている――と気付いた時、ぱちりと目を覚ました。太陽の位置はそれほど変わっていない。
「寝てた! 昼休み終わっ……ってなかった。セーフ」
狼は、やっと起きたか、とでも言いたげな視線を送っている。ライラはもたれかかってから直ぐに眠ってしまったようだ。狼は律儀にその姿勢を保ち、寝心地の良いベッドとして提供してくれていたらしい。
「ありがとう。優しいね」
狼は鼻をならした。尻尾はぺしぺしと地面を叩いている。
「そろそろ教室に行かないとだなぁ……ずっとここにいたいなぁ……」
狼は鼻面をライラの体に当てて、ぐいぐいと押した。行け、ということらしい。
「い、行きます、ちゃんと行きます。だから、また会ってね」
狼はライラの顔をぺろりと舐めると、森の方へ踵を返し、一瞬のうちに視界から消えた。ザッと木々が揺れる音が聞こえたのでおそらく跳躍したのだろう。驚くほど速かった。
「行っちゃった。綺麗な狼だったなぁ……使役獣ではなさそうだったけど、この森に棲んでるのかな」
ライラは狼の消えていった方を見つめた後、鞄を拾って教室のある校舎へと向かった。自分がいる場所が敷地内でも外れた場所だと気付き、駆け足になる。
若干息を切らして教室に着くと、既に殆どの生徒は教室に集まっていた。入ってきたライラに皆少し注目し、目をそらす。ライラはほっと息をつき、学籍番号で指定されている席に着いた。黒板から一番後ろ、窓から二番目の席だ。右隣りには既に男子生徒が座っていて、三人で集まって談笑している。左隣はまだ来ていない。
教室を見渡すと、いくつかのグループが出来上がっていた。入学前からの知り合いだという雰囲気も多い。
(どうしようかな……。いや、でも、全員が全員知り合いとかは無いと思うし)
ライラは少し心細くなった。
教室の後ろのドアが開く音がし、強い気配を纏った者が後ろを通り、ライラの左隣の机に鞄を置いた。その纏う気配に、教室が静まり返る。強者の気配を本能的に悟ったのだ。
ライラもそのただ者でない気配に気づき、そっと左を見た。同じく、気配の主もライラを見る。
背の高い、藍色の髪を持つ男だった。襟足はすっきりとしているが前髪が長めで、そこから覗く眼光が鋭い。綺麗な水色の瞳をしている――と束の間ライラは魅入った。すっと通った鼻筋、とがった顎、ライラの周りにいる淫魔族とは別の荒々しい色気を放っていた。淫魔にも負けない整った美しい顔立ちをしているのに、恐ろしい威圧感がある。淫魔の美しさは他の者を吸い寄せるとすると、彼の美しさは他を圧倒させるものだった。
ライラとその彼が見つめ合う。教室の者もその二人の動向を窺っていた。
「は、はじめまして」
ライラが恐る恐る口にすると、彼はふと我に返ったかのように目を瞬かせた。
「……はじめまして」
そんなに怖い魔族じゃないかもしれない――ライラは少し安心して、自己紹介をした。
「私、ライラ・トゥーリエントといいます。これから宜しくお願――」
「トゥーリエント?」
言葉途中で不機嫌な声に遮られる。ライラはびくりと肩を揺らした。水色の瞳をした彼は、不機嫌さを隠そうともしない顔でライラをねめつける。
「トゥーリエント伯爵家か? 淫魔の」
「はい、そう、です」
彼が大きく舌打ちをした。目元をゆがめ、ライラを睨みつけた。その威圧感にライラの肩が縮こまる。
「俺は、お前ら淫魔が嫌いだ」
教室内がしんとした。
純粋な嫌悪をぶつけられて、ライラは固まる。
「特にトゥーリエント家は」
彼はそう言うと、一切ライラの方を見なかった。教室の注目も霧散していく。ただ、実力者であろう彼からこのような宣言を受けたライラに、関わろうと思う者はいないだろうとライラは悟った。――そしてその予感は見事的中する。
ライラは椅子に座ったまま青ざめた。そのまま彼の方を向いていても怒らせてしまいそうなので、机に突っ伏す。前途多難だ。
(アル兄、ファル兄、エリック、淫魔って嫌われてるの?)
ライラは泣きたいような気持ちだった。
教室でのオリエンテーションが終わり、本日はお開きとなる。自己紹介もあったため、淫魔嫌いの彼の名前も分かった。レオナルド・ウォーウルフ。ウォーウルフの名前が出た時の皆の反応から、有名なのだろうとライラは判断した。貴族名鑑ちゃんと覚えるべきだったな、と反省する。
その隣のレオナルドは誰より早く教室を出て行った。誰とも慣れ合う気はないという意思のような、むしろ、ライラのいる場所にいたくないから、とも思われた。
レオナルド以外の生徒は教室に残り、それぞれ親交を深めようとお喋りしたり、履修について相談し合っていたが、ライラは避けられていた。先程の、レオナルドとの一件だろう。危うきものには近寄らず――レオナルドに敵意を持たれている者に、わざわざ近づこうとはしない。それ程までにレオナルドからは強者の気配がした。仕方ない。
ライラはそっとため息をつき、そろりと教室を出た。ライラの後ろ姿を心配そうに見る者もいたが、近づこうとする者はいなかった。
ライラはその足で、敷地の外れ、狼と出会った森へ向かった。辺りには誰もおらず、さわさわと木々が揺れる音だけがする。森の奥に目を凝らしながら、呼んでみる。
「狼さーん!」
森は静かなままだ。ライラはそれから数度呼んでみたが、狼は現れなかった。
「もう帰ってるかな……?」
それでもライラは名残惜しく、木の根っこに座って鞄の中身を広げた。オリエンテーションで説明のあった履修表だ。一回生は殆ど必修教科が組まれているが、選択教科も存在する。兄達やエリックにも相談しようと思いながら、渡された冊子等を読んでいく。
(本当なら、教室で友達になれそうな子と、喋ったりしたかったけど……あの雰囲気じゃ無理だよね)
当面、レオナルドの不興を買いそうな行動は慎むだろう。いきなり一人ぼっちだ。
ライラは不安に胸がぎゅっと苦しくなったが、目を固く瞑ってやり過ごす。半魔であることを理由にとやかく言われるのではないかと覚悟はしていたが、淫魔だからという理由で敵意を持たれるとは思っていなかった。
(あれは、純粋な嫌悪だった。存在自体が許しがたいというような)
レオナルドが、淫魔を嫌いという理由でライラを嫌悪するのなら、それは仕方ないのだとライラは思う。ただ、ぶつけられた嫌悪に傷ついてしまった。心の中で折り合いをつけるために、ライラはぎゅっと身を小さくする。脚を山折りにして両手で膝を抱え、顔を俯ける。
ライラが暫くそうしていると、森の方からガサリと音がした。顔を上げると、昼間に会った水色の狼が佇んでいる。
「あっ……狼さん」
ライラはほっと笑ったが、狼はその場で立ち尽くしている。ライラは立ち上がり、狼に近寄ったが、狼は数歩後ずさりした。
「……? お昼に会った狼さんだよね?」
ライラは立ち止まって確認した。狼は静かな金色の瞳でライラを見返すだけだ。
「もしかして、私のこと忘れた?」
狼は苛立ったように前足を踏み鳴らした。馬鹿にするなとでも言いたげだ。
「だよね? じゃあ、何で……」
はた、とライラはレオナルドから受けた嫌悪を思い出した。そして、世間知らずのライラが知らない領分で、この狼もライラを嫌うことにしたのではないか――と考えがよぎる。
ライラは一歩後ずさり、ほんの少しだけ顔をゆがませた。
「もうここに来るなっていうのなら、そうする」
狼は、そのライラの表情を見て目を瞠ったようだった。昼間とはうってかわって天真爛漫さは抜け落ち、翳りと困惑と悲しみがあった。
ライラが更にもう一歩後ずさった時、狼が突進した。真正面からぶつかり、ライラはバランスを崩して尻餅をついた。そのライラに覆いかぶさるように、狼は鼻先をライラの首元に近づける。そのまま頬をすり寄せるような動作をした。
ふわふわとした温かい心地に、ライラの頬が緩んだ。
(拒絶された、訳じゃない)
ライラはそのままの体勢で狼を撫でた。狼はされるがままを許している。ぎゅっと抱きつくと、お日様のいい匂いがした。
「柄にもなく、落ち込んでたみたい」
ライラはポツリと呟くと、狼を更に強く抱きしめた。