37:ここからⅠ
結界の外に出て、レオナルドは何度かの《転移》を使用して自宅へ帰った。
ウォーウルフ家の屋敷は少し変わっている。自然派の美術館と称すのが近いだろうか。がっしりとした木造建築の中にガラス張りのドームが覗いていたり、壁から突如うねりを帯びた巨木が突き出ていたりする。小高い丘のような、一つの森のような様態であり、無造作に自然そのまま放置したようでいて、きちんと整っているような、不思議な調和が取れている。狼のねぐらなのである。
巨木が左右から倒れかかるようにして重なった門をくぐる。玄関を抜け、近くにある呼び鈴を揺らし、叫ぶ。
「サツキさーん! 今、手ぇあいてるかー?」
少しして、目の前にドロンと白い煙が上がった。現れたのは、白い割烹着を着た綺麗な女だ。赤地に矢絣模様の和服を下に着て、足元は黒いローファーブーツ。頭にはきつね色の獣耳がピョコンとついている。
「はぁい坊ちゃまおかえりなさ……きゃあ! 女の子お持ち帰り!」
「いや違うから……。……んん、違うことはないのか……?」
「あれ? 様子がおかしいですね。怪我してます?」
横抱きにされたライラをサツキが覗き込む。百人が見れば百人が美人だと思うだろうサツキは妖狐である。高く通った鼻梁、薄く儚げな紅い唇、大きなアーモンド型の瞳は薄紅に色づいている。溌溂としたなかに艶やかな妖しさをもっていた。
百年前、魔界が別の異界と層が重なり繋がったとき、そこにいたのが妖達である。人間界で、異形であるお互いの存在は知っていたため、なんとか戦闘には至らずに今日まで共存できている。魔族とは少し創りが違うが、魔力を巡らせ使うところは同じである。
サツキはウォーウルフ邸で家政婦をしているのであった。
「そんなところ……。着替えとか回復とかお願いしたいんだけど、頼める?」
「ええ! 何だか色んな汚れや匂いもついてるみたいですから、全部まるっと綺麗にしますね、お任せあれ! それとそうですね……この、足のやつはどうしますか?」
鎖の千切れた足枷である。重そうなそれが両足首にガッチリと嵌ったままだ。
「これは……外せる?」
「んん……どうでしょう。彼女さんに傷がつかないようには、ちょっとサツキには無理ですね。これ、変な感じがしますし」
「だよなぁ。これはこのままで、頼みます」
「坊ちゃんも色んな匂いがついてますね。サツキは奥の浴場を使いますので、坊ちゃんはいつものお風呂にどうぞ。服も後で回収しますから置いといて下さい」
「うん。じゃあ、お願い」
レオナルドからライラを抱き受けたサツキは、横抱きにしたまま軽やかな足取りで奥へ向かった。妖狐は戦闘能力が高く、サツキも例に漏れないが、何より彼女は家事魔術の達人である。彼女が綺麗にすると言ったら、ライラの肌も服も何もかもがピカピカに磨き上げられるだろう。
レオナルドは靴を脱ぎ置き、のんびり歩いて自室に入り、黒地の七分丈クロップドパンツを出した。ルーズなラインに裾が少し絞られているデザインは動きやすくて気に入っている。衿ぐりの大きな藍色のTシャツも引っ張り出した。ストレッチがきいている素材で、肌触りも気持ちいい。
お風呂では念入りに体を洗った。ヘルムの地下室に充満していた泥のような甘い匂いが纏わりついていたからである。檜風呂に浸かり、心地いい温もりと香りに包まれる。上がった頃には通常通りの匂いである。
お風呂から出て自室には戻らず、屋敷の中央部に設計されているドーム型の温室に寄った。屋敷全体の屋根をくり抜くように天井がせり出しており、燦燦と陽の光が降り注ぐようになっている。中は小さな森が広がっているような仕様で、ウォーウルフ家全員の憩いの場である。レオナルドは中でも気に入りの大木にひとっ跳びで登り、枝に腰をおろした。
考えることが多いとき、大変なことがあったとき、悔しいとき、悲しいとき、レオナルドはこうやって大木に寄り添い、心を無にする。自分の心が凪ぐまでそうしている。内の中にいる狼の、燃え滾る本能を鎮めて向き合っているのだ。
レオナルドは、ライラに言いたいことがあった。
〇
「くっそ! 調子乗んなよこの女!」
ヘルムの屋敷で地下への秘密階段を発見したとき、下から聞こえた怒鳴り声。その後の声もレオナルドにはちゃんと聞こえた。
「お前みたいな淫魔の出来損ない、誰も必要としてねぇんだよ! 大人しく俺らの役に立ってろや!」
「誰も必要としないことぐらい、知ってる」
ライラは、小さくはっきりと呟いていた。その声は諦観も哀しみもなく、ただ無色だった。
〇
自室に戻ると違和感があった。甘やかで瑞々しくて胸の奥がほんのり色づくような匂いがする。
濃い色合いの無垢材のフローリング、壁と天井は白い無垢材で作られており、個室もそうだが屋敷全体が森の中の基地のような雰囲気がある。あたたかみのある絨毯を敷き、小さなローテーブル、机に椅子、一面の壁半分を占拠している本棚、勿論全て木材で作られている。部屋の隅には大きなベッド。毎日レオナルドが眠るそこに、小さな先客がいた。
いつもはまとめている髪は下ろされ、そこにだけ優しい光がおちているような空気をまとい、目を閉じている。学園の制服は着ておらず、袖のない白いワンピースを着ているだけだ。華奢な肩が露出し、白い手はお腹のあたりで組まれている。ふんわりとしたスカートから丸い膝小僧が見え、ふかふかしたベッドに横たわっている。肌には汚れも傷跡もなく、あの地下牢の不愉快な匂いも消えていた。両足首の足枷だけが、今日あった出来事の名残である。
彼女が眠るまわりには、薄紫の小さな花と赤い花びらが、囲うようにして散らされていた。可愛らしく、少し神聖な心地すらする。レオナルドは知っている。ベッドの上に紫と赤の花を散らすのは、大狼族の新婚初夜で行う風習だと。
ごくりと唾をのんだ後、さび付いた機械を動かすように踵を返した。
「サーーーツーーーキーーー!」
「あら、どうされましたか坊ちゃん」
「何やってんだ、あれ!!!」
「よくなかったですか?」
小首を傾げてレオナルドを見上げるサツキだが、瞳の奥でにんまり笑っているのが分かる。
「クラスメイトなだけだから!」
「あら。でも、家に女の子連れてきたの初めてじゃないですか。お姉さまにも、もし坊ちゃんが女の子を連れてきたときは丁重におもてなしするよう言われていますし」
「だからって、あれはないだろ! あれは!」
「坊ちゃんってなかなかの初心……ぷっくく……くくく……」
「笑うな!」
耐え切れなくなったサツキはお腹を抱えながら笑い声をもらす。
「彼女の体の傷は治しておきましたよ。体力も魔力もすっからかんだったみたいで、体を洗っている最中もほぼ寝てました。服は今洗って乾燥中です。代わりに着てもらっているものはお姉さまのもので、好みじゃないって着ずに眠っていたワンピースなんですよ。もうサイズ的に着られないでしょうし、よければ彼女が貰って下さい。そうそう、華奢にみえてねぇ、なかなか煽情的なところがあったんですよ、聞きたいです?」
「いらない!」
サツキに言いたいことを言ったレオナルドは自室へ引き返す。その背中をサツキがにやにや笑いながら見ているだろうから振り返らない。




