33:なすべきことⅠ
少し鬱蒼としているくらいの、何の変哲もない森だった。《謀りの森》は名前こそ怪しいが、魔界中央部と同じく安定している気候の地域であり、学園と似たり寄ったりの森林が広がっている。風に揺られてざわめく木々に、時折聞こえる魔鳥の鳴き声。珍しい植物や鉱石が取れることもない、ただの森である。
ファルマスは数歩前に進み、そっと手を伸ばした。宙に浮かせた掌で何かを確かめ、一人で頷く。
「直径三マイルってとこかな――二人とも、ちょっとそこ動かないでね」
そう言うと、後退してアルフォードとレオナルドよりも後ろの方に陣取った。ボディバッグに入れた小さな木箱から煌めく石を取り出す。透けた橙色をした五つの石を掌にのせ、ファルマスが何事か呟くと、一つは掌の宙に浮き、残りの四つは勢いよく飛んでいった。「“囲め囲め、其は愛しい兎、我は其を捕らえる者――”」ファルマスの詠唱が始まる。
「……」レオナルドはその様子を興味深げに眺めている。
「うん! 説明してあげましょうか狼君。ファルマスが持っている石は南西のあたりで採れる夕輝石ですね。事前に自分の魔力を詰めておいたものでしょう。それを使って、シュタイン家が張っていた結界をさらに覆う結界を張っていますね。奴らを逃がさないように、《転移封じ》のはずです」
「ほんと、器用だな」
「そうなんですよ。僕が大雑把だからですかねぇ、そういうのはファルの役割になってますね」
レオナルドがふぅんと頷く。ファルマスは詠唱を終え、遠い所を見つめながら微調整しているようだ。
「それで、僕に敵意を隠さない狼君? 何か言いたいことがあるなら聞きますよ、もうしばらく暇でしょうから」
レオナルドは胡乱な目でアルフォード見た。彼は余裕たっぷりに微笑んでいる。そういうところが――ムカつくというか胡散臭いというか、どこか敵わない感じがして腹立たしいのかもしれない。
「まず姉貴に聞こうと思ってたんだけど……あんた、姉貴を弄んでんのか?」
予想外なことに――アルフォードは驚いたような、キョトンとしたような、気の抜けた顔をした。
「いや、いや、いや。どちらかと言えば、振り回されてるのは僕の方じゃないかな」
「はぁ? え? あんたが振り回される?」
「そうそう。現状、都合のいい男ってとこですね。まぁ僕は、僕だけの人魚姫を、諦めるつもりなんてサラサラないですけど」
「ぼくだけのにんぎょひめ……?」
その呼称が姉を指していることは分かるのだが、身内がそんなに甘く呼ばれているところなど想像すると寒気がした。しかも、よりにもよって、最高に美しいこの淫魔にである。姉を思い出しているのだろう、彼の瞳に仄暗い愉悦が見えた気がして、レオナルドはもう関わるのはやめようと思い始めた。
「たぶん、君がそう思うに至った、僕の人魚姫ちゃんを傷つけた魔族は別にいますよ。――まぁ、フォロー役は僕がいるので、君は安心してライラをオトせばいいです」
「……はっ?」この期に及んでレオナルドは狼狽えた。
「え、隠してるつもりだったんですか? にぶいのはライラだけですよ。ライラのは……にぶいと言うより、また別ですが……」
森に強い風が吹き抜ける。頭上を覆った雲が、大きな陰をつくった。
アルフォードが言わんとしていることは、レオナルドにも何となく分かっていた。
「なんか面白い話してるだろ~。こっちの結界は終わったわ。次は向こうの結界を破るから――なるべく感づかれないようにするから、すぐ突入出来るよう準備しといて」
両腕を上げて体をほぐしながら、ファルマスが二人の間を抜ける。そして振り返ってにやりと笑った。
「俺はね、ライラのボディガードとしてはなかなかいいんじゃないかと思ってるね、レオ君のこと」
「ライラの学年で考えれば、適任は君あたりになるんでしょうかねぇ。純粋に力勝負だけ考えたらの話ですよ? ライラの好みとかは別ですからね?」
(俺もうこの兄弟ヤダ。……でも)
アルフォードはおそらく嘘は言っていない。平然と嘘をつくタイプだろうが、姉の件に関しては本当だろうと思う。そもそも彼がレオナルドに嘘をつくような理由もない。とてつもない魔力と力を秘めた大狼族を相手にしても、彼が怯むことはないだろう。
(だとしたら俺は、……ほんとに、短絡的な阿呆だったんだな)
いけ好かない淫魔がいることは事実だが、あの姉が淫魔に弄ばれたというのは思い込みの勘違いで、ライラに対して酷く当たったのもただの八つ当たりだ。
情けない。
「……合格点にいるだけ、重畳だと思っときます」
アルフォードが面白がって微笑む。「急に殊勝ですねぇ」
ファルマスは次の作業に取りかかっていた。何かをなでるように、中空で右手を動かしている。左手が何かを摘むような動作を繰り返す。
「案外綻びてるなぁ。この結界、ずいぶん更新してない気がする。もう開けるよ、二人とも見える?」
ファルマスの前方周囲に、細く青白く光る線が数本蠢いている。「ええ」「なんとなく」二人の返答を聞いて、ファルマスは地面にしゃがみ込み、鎧戸を開けるように光る線の束を持ち上げた。
「くぐれ!」
二人が低姿勢で駆け抜けると、ファルマスはマントを翻すように結界内に入り、本来あったように結界を閉じた。「成功かな?」
「……すげぇ器用だな」
レオナルドの心の底からの称賛だった。
「さてここからは狼君、僕らを乗せて疾駆してもらえるかな」
「……単に本性を見たいだけの気がしてきた」
腕組みしているファルマスが頷く。「ぶっちゃけそれもある」
軽く息を吐いて、レオナルドは天を見上げた。彼の身体をとりまくように、蒼く白い無数の光のホログラムが輝きながら螺旋を描く。その煌めきはどんどん大きく、巨大になっていく。
光が霧散すると現れたのは、美しく気高く、畏怖の念すら呼び起こすけだもの――澄みきった泉を思わせる水色の大狼である。大きさは二階建てコテージ程あるだろうか。金色の瞳が二人を見下ろす。
「か……カッケー」
ファルマスは目をキラキラさせながら喜んでいるし、アルフォードは小さく拍手している。
レオナルド自身、本来の大きさであるこの本性になったのは久しぶりであった。内の中の狼が喜んでいる。この姿は、単純な魔力だけをはかると一番火力が高い。気分も清々しい。難点なのは、本能が強くなってしまい、理性が遠のくところである。
『行こう。軽く走るから、しっかり掴まれ』
「本気で走れば振り落とされる、と?」アルフォードがにたりと笑っている。
『当たり前だ。なめんな』
「流石に冗談です。ファルマス、方角はあっちへ真っ直ぐでいいんですかね?」
ファルマスは大狼に乗ってうきうきと嬉しそうにしている。「ああ。でも、道案内しようか?」
『大丈夫だ。この姿だと、目も鼻も利く。森のものじゃない匂いも、魔獣じゃない魔力も、微量だが感じられる。もう一つ結界があるようだ。走るぞ』
水色の獣が、森の奥へと迷いなく駆けていく。




