22:秘密が暴かれるとき Ⅱ
狼が消えて、男が現れた。ライラはその男の体をまたぎ、その顔を挟むようにして両手を地面に着いている。
「くっ……」
男が若干呻いて目を開けた。澄んだ水色の瞳がライラを射抜く。
隣の席の大狼族、レオナルド・ウォーウルフだった。
(……逃げよう)
とりあえず訳の分からない事態に対処するときは二択しかない。立ち向かうか逃げるかである。ライラは混乱する頭で後者を取ろうとした。
だがそうはいかない。
自分の腹の上に跨るライラの脚の、わずかな動きでそれを察知したレオナルドは、ライラの両手首をがっしり掴んだ。
「逃げんな」
ライラの目が泣きそうに歪む。
「ってかこの状況、どちらかと言えば逃げるのは俺の方だろ……」
「そ、そっか」
「……」
「に、逃げないから、手を離してもらえませんか」
そこでようやく、ライラに覆いかぶさられた状態であることに――人型の自分に対して――気付いたレオナルドが急いで手を離す。ライラがそろりと体から降り、レオナルドはむくりと起き上がった。地面を見つめたまま「ごめん」と呟く。
「……それは、どういった意味で」
「どういっ……? えーと、俺が、あの狼だってことを、黙っていて……」
「……本当に、狼さんは、レオナルド君、なんだね?」
一言一言区切るようにライラが言った。レオナルドの罪悪感がズシンズシンと重みを増していく。教室での威圧感はどこへやら、今や正座をして項垂れていた。
「……私のこと、からかってた?」
「違う」
「……そう」
すんなり言葉を受け止めたライラにレオナルドは驚く。混乱しているだろう彼女に何と言えばいいか分からない。この件に関しては、レオナルドに殆ど全ての非がある。キャロンのように、魔力を視て狼と同一人物だと、一回生なのに分かる魔族の方が稀だ。キャロンは探索や分析系がよほど得意なのだろう。
「なんで、こんなことしたの?」
「それは……」
ライラの声音が糾弾するものでなく、不思議そうに問うたものだったので、レオナルドは返事に困った。
なぜ?
入学式後の邂逅、ライラがトゥーリエント家の令嬢だと知った後では、わざわざ狼になって会いに行かなくても良かった。嫌っているのだから。
しかし。
「……ほっとけなかったから」
「なにそれ」
ライラが小首を傾げた。くそ可愛い。
ほっとけなかったというのは嘘ではない。けれど本音は、単純に会いたかったからだった。ライラの匂いが、存在が、本能のレベルでレオナルドの狼を惹きつける。
こんなこと言える訳がない。
「お前は、怒ってないのか?」
「……。今は、びっくりしてる。落ち着いたら怒るかも」
もし正体がバレたなら、どんな反応や報復が待ち受けているのだろうと恐れていた。しかしこれは想定外である。あまりに軽くて気が抜ける。
そうか、馬鹿なのか。
「お前さぁ……どんだけ」
俺を許すんだ、と内心呟いた。
「このことキャロンちゃんが知ったらどうなるだろう?」
「あいつは知ってる」
「え⁈」
キャロンもこのような形で早々にバレるとは思っていなかっただろう。レオナルド自身も思っていなかった。まさか、変身が解けてしまうとは……ライラのキスに驚いて。不覚にも程がある。
「……騙してたような形で、ごめん」
筋は通さないと、とレオナルドはライラにちゃんと向き直って頭を下げた。ライラが小さく「うん」と頷いたのを聞いて頭を上げる。お互い気まずい表情をしていた。
レオナルドは少しだけ迷った。ライラの放つ《魅惑》について追及すべきか。ライラの中で驚きが勝っているのか、怒っているようには見えない今がチャンスかもしれない。
「なぁ、ひとついいか」
ライラは首を少し傾け、視線で先を促す。
「お前、なんで俺に魅惑を使ってるんだ?」
「……はい?」
腹の底から不可思議だという声がした。
「しらばっくれんな。魅惑使ってるだろ? それとも本当に無意識……か?」
「私が、魅惑を? してないよ」
ライラは訝し気にレオナルドを見る。そのライラからは変わらず甘い匂いがする。レオナルドを誘いかけてならない甘美さ。
内なる狼は、この状況に苛立ってきた。
「無意識だって言うんなら、教えてやる……!」
狼の本能に従った結果、レオナルドは華奢なライラの肩を掴み、押し倒した。そんな展開を予期していなかったライラの体は簡単に草地に転がる。先程とは攻守が逆の態勢で、ライラは伸し掛かってくるレオナルドの顔を見た。
目が、獰猛な色を湛えている。
「ちょ、ちょっと待って」
片手をレオナルドに向けて突っ張ったが、意も介さず当人はライラへと顔を近づけていく。
「半分とは言え淫魔だろ」
「意味が分かんない」
「魅惑をする意味くらい、分かってるだろ。誘いにのってやる」
「だから、違……!」
ライラの声に焦りが滲んだ。
ああ、俺の頭も焼ききれてんな、と思いながら、レオナルドは焦ったライラの声を満足気に聞いた。
(もう魅惑なんてしてこないように、ビビらすだけ、だ)
身を屈めてくるレオナルドにライラは必死で対抗するが、レオナルドの体は動かない。想像以上に力強いと感じたライラは、本気の力でレオナルドを跳ねのけようとした。
「嘘……」
ライラが呆然と呟く。兄達だったら簡単に跳ねのけられた――むしろ投げ飛ばせたのに、レオナルドには通用しない。こんな事態は初めてだった。こうなったら殴るしかない。けれどそれも通用するだろうか。
レオナルドは何か勘違いしている。
「無自覚に魅惑なんぞしてたらこういう痛い目に――」
ライラの首元に顔を埋めたレオナルドが、襟からのぞく首筋をべろりと舐めた。
「ひぃっ」
「っ! ……これはヤバイ」
ライラはゾワリとした感触に悲鳴をあげ、レオナルドはその味に一瞬息を止めた。
「お前――、お前――」
レオナルドは別にライラの精気を頂くつもりはなかった。嘘のようだが、舐めただけで勝手に流れ込んできた。
(これは、美味すぎる)
押し倒した状態のまま、焦りか恐怖か羞恥か分からないが顔を真っ赤にしたライラを見下ろす。
これぐらいビビらせて止めるつもりだった。
なのに、目を少しだけ潤ませて見上げてくるライラを見てしまうと、その決意が揺らいだ。
(ヤバイヤバイヤバイヤバイ誰か止めてくれ)
離れなければ、いやでも離れがたい。むしろこのまま貪ってしまう。俺の理性どこいった――と、レオナルドは自身と闘っていた。
「私は、魅惑なんて、してない!」
ぎらり、とレオナルドを睨み上げたライラは、右腕を渾身の力で振り上げた。ドズッと重い音がして、レオナルドの体が左側へと転ぶ。その隙に起き上がり、臨戦態勢をとった。
「ぐっ……」
左脇腹を押さえながらレオナルドが呻く。自業自得だ。
「さっきのは、あんまりだよ! い、いい人だと、思ってたのに……!」
「お前、ほんとに淫魔か……?」
隙をつかれたとはいえ、レオナルド・ウォーウルフにここまで損傷を与えるとは。しかもライラの構えを見るに、更にやり合うことも辞さないようだ。
「半分ね! 何か勘違いしてるようだけど、本当に魅惑なんてしてないから!」
「いやでも、無意識にしてるぞお前」
「絶対にしてない」
「何でそう言い切れる」
「言い切れるもんは言い切れるの!」
「でも現に――」
レオナルドは一瞬で距離を詰め、臨戦態勢でいるライラのすぐ目の前に立った。殴ろうか迷うライラは拳をぎゅっと握る。ほんの少しだけ身を屈めたレオナルドは、低い囁き声を落とす。
「ものすごく甘い匂いがする」
ライラはぞわっと背筋に毛が立つような感覚がした。
「そんなのは、知らない」
「他の淫魔から感じたことない程、甘い」
「き、気のせいじゃないの」
レオナルドは面白くなってきた。さっきからぷるぷる震えているこの反応、緊張しているらしい。それに、殴ろうか迷いながら手が出せないようだ――馬鹿だな、殴ればいいのに。
手を伸ばして、白い頬を包んだ。体がびくりと揺れ、戸惑った目をレオナルドに向ける。
(どうかしている)
親指で目の下にある黒子をなぞる。無垢な顔立ちに、ここにだけ蜂蜜を落としたような、甘く幼気な色気がある。
(キスされるかもとか、危機感はないのかコイツは)
「れ、レオナルド君……あのう……」
「なに?」
レオナルドの口から信じられないくらい甘い声が出た。ライラの頬が赤く染まる。
「わ、わ、わ、私――」
「うん」
あわあわと開閉させる唇を塞いでやろう、と思ったとき、意外な台詞を耳にした。
「私、魅惑が出来ないの。そもそも」
「……は?」




