19:レオナルドの葛藤 Ⅱ
ライラが近い距離にいると、レオナルドは匂いですぐ分かる。
授業合間の休み時間、選択科目の移動中にライラの香りがした。惹きつけられてやまないので、どこにいるのか探してしまうのも仕方ない。
薔薇園になっている中庭をコの字型に囲んだ廊下の隅から、対角線上にライラの姿が見えた。赤やピンクの濃厚な薔薇の匂いが立ち込めるなか、ライラの匂いは甘いのに凛と透き通るようにかぐわしい。少し辺鄙な場所にあるためか、今ここに他の魔族はいなかった。
もしもライラがこちらに気付いたら、さり気なく話しかけてみようか――と思っていた矢先、ライラがいる近くの出入り口から誰かが現れた。
「ライラちゃーん!」
銀色にオレンジ色を溶かし込んだ髪を持つ美丈夫が、ライラに抱きついた。銀髪ということは淫魔、しかもやけに体格が良い。抱きつかれたライラの方は、一瞬身を強張らせたものの、相手が分かったのか身を委ねている。
レオナルドは腹の奥がグラグラと煮えたような感覚がした。
美丈夫は身を離すと、今度はライラの頬を両手で掴み、鼻先にキスをした。レオナルドの瞳が、狼の金色のものへと変わっていく。
(誰だ、あいつ)
知れず、握った拳に力が入った。体の内に収めている膨大な魔力が滲み出そうとし――すると、ライラが右腕を振りかぶって美丈夫を殴った。美丈夫は慣れた様子で防御魔術を発動し、打撃を受け止める。レオナルドの方まで重い音が響いた。
(容赦ねぇ……)
「学園ではやめてって言ってるじゃん!」
「だってライラちゃんが可愛いからさ~」
ようやく美丈夫の顔がちゃんと見えた。淫魔の中でも美しく、かつ珍しいおおらかさを持つトゥーリエント家の次男だ。名前は確かファルマス。
兄だと知ってレオナルドはどこかホッとした。
(いつもあんなことやってんのか)
あんなこと、というのは親密すぎるスキンシップであり、その後の攻撃防御のやり取り、どちらもである。
二人は仲良く談笑しながら、回廊から出て行った。レオナルドに気付いたファルマスにちらりと見られた気もする。間違いでなければ、その目はとても鋭かった。
(シスコンか……)
ライラがいなくなったことで、薔薇の匂いが強くなった。
ライラ・トゥーリエントというのは至って無防備であるらしい。
放課後に入り、ライラはキャロンからお茶会部になるものに誘われていた。まだ同世代に慣れていないのか、突然の誘いに気が引けたのか、「今日は図書館に寄ろうと思って……」と断っている。何でも選択科目で取っている薬学で気になることがあるのだと。
(真面目だな)
「また誘ってもよろしい? 色んな情報も得られるからお勧めですの」
「うん! 是非また誘って……次からは心構えしておくから」
「心構えって……取って食われたりしませんわよ? ふふふ」
情報が得られるとか言っていたが、フォレストのような腹黒女子の集まりなのだろう。恐ろしい。
一人で歩いて行くライラを見て、ふいにレオナルドは不安を感じた。今日、ライラを一人で行かせてはいけないような――我ながら阿呆らしい。けれど先日のデヴォンの一件もある。
気になってしまうのなら、それを取り除く方がいいだろうと考え、レオナルドはライラを見守ることにした。
校舎から出て舗道された白い道を歩いていく。多くの生徒達が縦横無尽に歩いているため、何気なく歩いているレオナルドはライラを尾けているようには見えない。ライラの方もまさかレオナルドが尾行しているとは思わず、オリーブの木の角を曲がり図書館へ入って行った。
やはり心配し過ぎだ、ここまできたら大丈夫だろう――と思ったが、胸の内の不安はまだ消えない。ため息をついてライラを追った。
図書館は床や柱、棚やテーブル、椅子等全て木調で作られており、深い色合いで重厚な雰囲気を醸し出している。ぼんやり眺めながら歩いていたら、目的の書架を見失って迷うほどに広い。
館内案内図を確認したライラは吹き抜けの玄関ホールを抜け、階段を上っていった。吹き抜けの天井には、まるで海の底から覗いている気持ちを起こす、大海を描いた大きなステンドグラスが嵌っている。
(魔族の誰が考案したのか……まぁ、悪くない)
ライラに気付かれない程度の距離を空け、レオナルドも階段を上がった。
着いた四階でライラは早速本を選び始める。
(なんか俺ストーカーみたいだな……)
じっと眺めていると本当にただのストーカーなので、レオナルドも適当に本を選び始めた。薬学と魔力を組み合わせた魔術式の本に興味がわき、内容も興味深かったので一時夢中になる。
「おや? そこにいるのは一回生のライラちゃんー?」
軽薄な声にレオナルドの体が固くなる。デヴォンだ。三つ向こうの書棚でライラに声をかけている。
「あ、先生」
ライラの声には少しの警戒が交じっていた。
「勉強? 熱心だねー。ね、俺に協力してくれるのか、考えてくれた?」
「……協力って、何の協力なのかさっぱり分からないのですが」
「痛いことはしないよ? そうだなー君が望むのなら、気持ちイイことしてあげてもいいよ? 百戦錬磨の先生だから、それなりに期待出来ると思うよ~」
レオナルドは持っている本を破りそうになった。
「先生この前、私に魅惑かけようとしました、よね?」
(あいつ、単刀直入に聞いたな!)
「んー、やっぱり分かっちゃった? それで、どうして君はかからなかったのかな? 俺のお誘いにも興味ないみたいだし。おかしいなぁ、結構イケてると思うんだけど。それともやせ我慢?」
デヴォンの纏う気配が変わる。直接見なくとも感じる。またライラに魅惑をかけようとしているのだ。ライラが二度目も耐えきれる保証なんてない。レオナルドは急いでライラの元へと駆けた。細い肩を抱き寄せるようにして、デヴォンから引き離す。頭もぎゅっと引き寄せ、自身の胸に押し付けた。
「お前、またやろうとしただろ! もう見逃せねぇぞ」
「おおっと、またまたウォーウルフ君か。君、この子の騎士か何かなの?」
「誤魔化すな似非教師」
「似非教師とは! 確かにその通りかもね~。でもここ、図書館だから、静かにね~」
「てっめ」
「ハイハイごめんね。本気で魅惑かけようとしたんじゃないから。この子の耐性が強そうだから実験っていうか~まぁ、この前は研究協力の言質取ろうと思ったんだけど失敗しちゃったし。それに今回もかからなかったみたいだしね……本当に興味深い。じゃ、またねライラちゃん。俺、別にそこまで悪い奴じゃないから~ほどほどに信用してね」
デヴォンはペラペラ言うだけ言って姿を消した。教師には学園内の《転移》魔術が許されている。
レオナルドは苛立ちがおさまらないまま、腕の中にいるライラをぎゅっと抱きしめた。無自覚に。
苦しかったのか、ライラがトントンとレオナルドの胸を叩く。そこでようやく、レオナルドはライラを抱きしめてしまっていることに気付く。腕の中の華奢で柔らかな感触と、立ち上る甘美な匂いに、突然心臓が騒ぎ出す。
レオナルドはぱっと両手を離し、一歩引いた。ライラがはぁっと大きな息を吸う。
そして目の前にいるレオナルドに、少し顔を赤らめてにっこり笑った。
「また、かばってくれてありがとう」
狼ではなく、レオナルドに向けて花が綻んだように笑った。
ドキリと心臓が跳ねた自分を戒めるように、レオナルドは近くの書棚のへりにゴツンと頭突きをした。
「⁈」
突然の奇行に驚くライラに対し、レオナルドは涼しい顔を取り繕って向き直る。
「いや、別に、あいつが嫌いなだけ」
「うん。でも、私は嬉しかった。レオナルド君は、やっぱり優しいね」
その言葉の語尾には『やっぱり優しいね、私のことが嫌いなのに助けてくれるなんて』と続くのだろう。レオナルドは眩暈がしそうになった。
「あんたは……あいつに狙われてるだろうから、気を付けた方が、いい」
レオナルドはぼそぼそと喋る。
「そうみたいだね。何故そんなに興味持たれてるのか分からないけど……。ありがとう」
「あ、ああ」
両者の間で暫く沈黙が続いた。先に口を開いたのはライラだった。
「あ、あんなこともあったし、そろそろ帰ることに、します」
「そうだな。……校門まで、送る」
レオナルドは口走ってから後悔したが、ライラが嬉しそうにして頷いたので、言って良かったと思い直した。
ライラは二冊本を借りてから、玄関ホールで佇んでいるレオナルドに駆け寄った。頷いたレオナルドが歩き出し、それから特に会話することなく、微妙な距離を保ったまま校門まで二人で歩いた。
ライラがレオナルドに向き直り、背の高い彼を見上げておずおず口を開く。
「あの、今日はありがとう。また、明日……レオナルド君」
「……おう」
冷たく聞こえたかもしれない、と口に出した途端レオナルドは焦った。
ライラはほっとしたように笑い、拙い転移魔術でその場から消えた。
ライラが消えてようやく、レオナルドは体の緊張が解けた。
嫌いなはずなのに。
(なんだあの可愛い生き物……)
腕の中に閉じ込めたときの柔らかさが、頭から離れなかった。