18:レオナルドの葛藤 Ⅰ
レオナルドは迷っていた。行くべきか、行かざるべきか。
昼休みに入り、ライラとキャロンは昼食を持って教室を出て行った。そのときキャロンがレオナルドを見て、意味深に笑った。狼の姿でのこのこやって来るのかさぞ見物ですわ――といったところだろうか。
正直言えば、行きたくない。……いや、行きたいのだが。
隣の席にいるライラの存在に、体が疼いてしょうがない。顔を見たいけれどずっと横を向くのもおかしい。それにライラはなかなかこちらを見ようとはしない――そもそもレオナルドが悪いのは分かっている。こちらを見られないような原因を作ったのは自分だ。あれだけ脅して威圧したのだから。
目を合わせたところで求めるような笑顔は向けて貰えない。嫌悪や憎しみがないのも知っているが、狼のときのような笑顔を見ることは出来ない。
もしも今、嫌悪を向けてこられたら……と考えると、胃が重たく感じた。それとももしも狼のときのように、信頼しきった表情で抱き着いてきたら、人型の腕で抱きしめ返せたらどんな心地がするのだろう、と考え……何馬鹿な想像をしている、と自分で自分を殴りたくなるレオナルドだった。
ライラとゆったり過ごしてきたあの癒しの場所へ行けば、キャロンに勝ち誇ったような笑みを向けられるだろう。腹立たしい。でも行かなければライラがきっと悲しむ。
結果、二人が談笑しているところに狼姿を現すことになった。案の定キャロンはしたり顔だった。
ライラの横に、少し距離をおいて伏せる。ライラがわざわざ狼の方ににじり寄り、頭から体にかけて毛並みを撫で始める。甘やかな匂いが近づき、狼の本能は満足気だ。ライラの手つきも気持ちいい。されるがまま、目を閉じた。
「ほんっと、ライラに懐いてますのね」
キャロンが皮肉げに言った。レオナルドは無視を決め込む。
「懐いてるっていうか……触らせて貰ってるんだよ~」
控えめに言うライラに気を良くする。そう、触らせてやっているのだ。
そうしたレオナルドの態度にキャロンが苛立ったのだろう。
「ライラはその狼の正体、気になりません?」
「正体?」
ライラが狼をちらりと見やる。
「……何か秘密を持ってるの?」
狼は片目をぱちりと開けてライラと目を合わすと、またすぐ閉じた。冷静に見えるといいが、レオナルドの心臓は凄まじい勢いで早鐘を打ち始めている。
否定しない狼に、ライラはそれが本当だと理解する。
「もしそうなら、狼さんが自ら教えてくれるまで、秘密でいいや」
「ライラは優しいですわねぇ」
クスッとキャロンが笑った。その笑い声には「命拾いしましたわね、レオナルド・ウォーウルフ」という言葉が含まれている。レオナルドには分かる。
(くっそ、信条には反するがこの女殴りてぇぇぇ)
尻尾をぼすんと振り下ろした。
また別の日には。
「ねぇ、私ずっと思ってたのですけど……ライラの精気ってどうしてそんなに美味しそうなのです?」
「……えっ?」
これはレオナルドも唖然とした台詞だった。キャロンはまるで淫魔のようなことを言う。
「少し、食べてみたいのです……」
キャロンは少し上目遣いになり、懇願の表情を作る。地面に手をついて、上半身だけライラの方へ寄っていく。
「あ、あの、キャロンちゃん。キャロンちゃんって、大猫族だよね? 淫魔じゃないよね?」
「純度百パーセントの大猫族ですわ。……もしかして、精気を食べるのは淫魔だけだと思ってますの?」
「え、違うの?」
これもまたレオナルドは吃驚した。そんなことも知らないのか。ライラの周りは何を教育しているんだ――淫魔だらけで育ったからそうなるのか? こんな甘い匂いをしているのに、家族は注意しなかったのだろうか。
「淫魔ほど精気を食べることも、それを自身のエネルギーに変換することも出来ませんけど、魔族だったら精気は好物ですわよ?」
「そ、そうなんだ……」
つくづく無知だなぁ、と肩を落とすライラに、狼のレオナルドが慰めるように尻尾で彼女の背中を撫でる。
「そこの狼だって、勝手に食べてると思いますけど」
『してない』
苛ついたレオナルドは、つい喋ってしまった。勝手に精気を頂くような無粋な輩と思われているとは。金色の瞳でキャロンを睨み付ける。
「……あら、ごめんなさい。てっきり」
キャロンは素直に謝った。「案外ちゃんとしてますのね」とポツリと呟いた。
「ええと、キャロンちゃん、どうぞ」
キャロンはライラの首元へと顔を近づけ、その柔らかく白い素肌をぺろりと舐めた。そのようなところを舐められると思っていなかったライラは「ひゃっ」と可愛らしい声をあげる。聞いているレオナルドが何故か恥ずかしくなった。
ライラの首筋を舐めたキャロンは頬を赤くした。まるで強い酒でも呷ったような赤みだ。手を広げてぱたぱたと顔を仰ぐ。驚いた表情でライラを見た。
「す、すごいですわ。ものすごく濃厚で、幸福感に酔うように甘くて……ええと、何て言うんでしょう、とにかく、すごい」
「あんまり良くなかった?」
「逆ですわ! これは、中毒性がありますわ……でも私には濃厚過ぎて、た、倒れそう……」
「えええ! ごご、ごめんねキャロンちゃん! 大丈夫⁈」
「ライラが謝ることは何一つないですわ……」
『そのとおり。そいつが悪い』
「うるさいですわ狼。でもライラ、これ、注意した方が宜しいですの……狙われるかもしれません」
「狙われるって?」
「この味を知ったら……貴方の精気目当ての輩や、よからぬことを企てるような輩も……。ご家族から何か言われてはいませんの?」
それはレオナルドも気になっていた。
「兄様や屋敷の皆は、男共に注意しろってうるさい。関わり持たなくていい喋らなくていい、とか言われてる。何かあったら容赦なく拳を振り下ろせ、そして俺達を呼べって。過保護でしょう」
「まぁ、そう言いたくなるのも分かりますわ。だからあんなことが……この前の魔術基礎演習のことですけど、お兄様達に鍛えられたのですね?」
「兄様達にそういう意図があったってのは最近知ったんだけどね。だって兄様達が一番精気奪っていくんだもん」
「その気持ちも、分からなくはないですわ……ましてや淫魔ですものね……」
ライラは狼に振り返った。
「狼さんも私の精気食べてみる?」
狼はびくっと耳を立てた。
「不用意にそういうこと言わない方が宜しいですわよライラ」
「だって狼さんだもん」
どうする? と首を傾げるライラに、レオナルドはすぐにでも押し倒して飛びかかりたくなった。
(いやいやいや、獣か俺は)
『……今日は、やめておく』
「そっか。私、精気有り余ってるみたいだから、試してみたいときは遠慮なく言ってね」
さぞかし甘く美味しいのだろう。下手すると酩酊状態になりそうだ。それを、キャロンの目の前で晒すようなことはしたくない。
(何より、始終こいつを求めるような、中毒になるのが怖い)
「今日は、ねぇ」
未だ顔を赤くさせたキャロンが狼を見下ろしていた。