11:彼女との関係 Ⅰ
彼女と出会ったのは入学式の後だった。
他を騒がせることに愉しみを覚える魔王が馬鹿みたいな魔力を発し、殆どの生徒が気絶したなか、レオナルドは平然としていた。むしろこの程度で気絶する者が多いことに驚いていた。
騒然となった講堂を出て、暇つぶしに周囲の森を探索しようと試みる。
レオナルドは狼の姿で駆け回ることが好きだった。本来の大狼の姿になってしまうと色々と大変なため、専ら狼の姿をとることが多い。
狼の姿に変身し、森を駆けまわる。そこは広く、奥に行くほど暗かった。特に手入れもされていないようで、独自の生態系が発達していた。魔獣の気配も感じたが、それらはレオナルドに恐れをなして影を潜めたようだ。
ふと、かぐわしい香りに気付く。嗅いだことのない匂いで、己を惹きつけてやまない魅力的な香り。どうやら学園の方から漂っているらしく、レオナルドは匂いの元へと駆け出した。
辿り着いた先には女がいた。学生服を着ていることから同級生だ。今この場所にいるということは、彼女はあの魔力に耐えたのだと推測する。そいつは一人でにこにこしながらお弁当を食べていた。余程美味しいのだろう、幸せそうだ。能天気な笑顔を見ているとこちらも幸せになってくる――と思っていたとき、向こうがレオナルドに気付いた。
そいつはビビっていた。ビビるくらいならすぐに逃げろよ、と思わないでもない。ただ、そのあと、ビビりながらも本気で、狼の自分に対して「綺麗」だと言い放った。正直嬉しかった。
そのあとも喋りかけてくる。この魅力的な――狼の本能が舐めまわしたいと疼いている――香りは、間違いなく彼女のものだった。撫でられると一層気持ちがいい。
こんな気持ちになったのは初めてだった。
友達になりたいという訳の分からん申し出も了承し、眠たそうだったので体を貸すことも許した。そいつは無邪気に喜んで、危機感もなくレオナルドに寄りかかって眠り始めた。仕方ないので外敵から守ることにする。それが眠っている間、甘く蕩けそうな匂いが周囲に充満し、レオナルドは酩酊しそうになった。
(同じクラスだったらいいのに。いや、それはそれで大変かもしれないな)
オリエンテーションに間に合うよう、ぐうぐうと眠っている彼女を起こし、教室へと向かわせる。自分も遅れる訳にはいかないと、木の上から校舎の屋上へと跳躍し、変身を解いて教室へ向かう。ガラリとドアを開けると、教室内が静まり返った。おおかた魔力のケタ違いに慄いているのだろう、レオナルドにとってよくあることだ、いつもなら気に留めない。しかし、今回は一つ注意をひいた。
あの匂いがする。
まさかと思えば、隣の席にはさっき出会った彼女がいた。レオナルドは驚きと喜びに固まってしまう。
「は、はじめまして」
そう言われて、はっとする。彼女の緑の瞳は深く吸い込まれそうに綺麗だった。整った顔立ちはあどけないのに、左目の下の黒子が色っぽい。無垢そうな桜色の唇、珍しい黒髪は柔らかで艶やかだった。碧い湖にひっそりと咲く花の精のような、一度気付けば惹きつけられてやまない印象がある。
人型の姿で会うと、その体の華奢さがよく分かる。甘美な匂いは、狼の姿でなくとも濃厚に感じられた。今すぐ、その細い腕を引っ張って腕の中に閉じ込めたい――とまで思う。
これが運命というやつなのかもしれない。
そう、思っていた矢先。
「私、ライラ・トゥーリエントといいます。これから宜しくお願――」
背後から超物理的魔術でふっ飛ばされたような衝撃だった。
淫魔。それも、よりによってトゥーリエント家。目に血が滲んでくるような怒りが沸いてくる。裏切られたような気持ちだった。
「俺は、お前ら淫魔が嫌いだ」
レオナルドは抑えることなく悪意を発した。たじろぎ、困惑したライラを眺めながら駄目押しする。
「特にトゥーリエント家は」
酷く傷ついた表情が見えたが、構うものか。狼のときも、今も、無性に惹きつけられるこの香りはきっと《魅惑》によるものだろう。
(俺としたことが――《魅惑》になどかからない筈なのに。どう見ても魔力は低いだろうに、《魅惑》において魔力値は関係ないのか?)
右隣のライラの顔は青ざめていた。その様子は演技ではなさそうである。
(単に恐怖しているのか、《魅惑》をかけていたことがバレて身を竦めているのか、判断が出来ないな)
もしも魔力を隠しているのなら、厄介なレベルである。流石トゥーリエント家というところだろう。
オリエンテーションの間もずっと、ライラからは堪らない匂いがした。性懲りもなく《魅惑》をかけてきている彼女に苛立ち、なのに体はうずうずする自分に腹が立った。
苛立ちがおさまらないままオリエンテーションは終了し、レオナルドは早々に教室を出る。このまま帰宅するか図書館へ寄ってみるか迷っていると、ふと、ライラの匂いがした。敏感に反応する自分がまた腹立たしい。
その匂いが森の方へ向かっていることに気付く。
(まさか)
レオナルドの予想通り、ライラは狼に会いに行っていた。
少し逡巡した後、レオナルドは近くの屋上へひとっ跳びで上がり、不可視の魔術をかけると、狼に変化して森へと飛んだ。
昼の時と同じ場所で、ライラは膝を抱えて座り込んでいた。俯いているので表情は見えないが、泣いているように見えた。狼の本能がすぐさま駆け寄れと言う。気付かぬうちにライラに近寄ってしまい、気付かれる。
「あっ……狼さん」
ライラはほっと笑った。安心した笑みだった。腹立たしい筈なのに、心の片隅が喜んでいる。
(俺は、こいつらが、憎い――)
ライラがレオナルドの方に近寄ってくる。その分、数歩後ずさりした。
「……? お昼に会った狼さんだよね?」
(俺みたいな狼がそんなにいる訳ないだろ)
「もしかして、私のこと忘れた?」
(馬鹿にすんなよ)
「だよね? じゃあ、何で……」
ライラの表情が固まる。そして一歩後ずさり、顔が悲しみに歪んだ。
「もうここに来るなっていうのなら、そうする」
教室で青ざめていた顔よりも、酷かった。
そんな顔を見たい訳じゃなかった。
(今、ここで――)
帰してしまっては、絶対にいけない。
狼の本能のまま、ライラに突進して押し倒した。その勢いのまま、頬をすり寄せる。ライラがふわりと笑い、狼の体を抱きしめる。
レオナルドは、素直に安堵した。