1:ライラの朝
新しい生活が始まる。
何があっても前を向く。
きっと大丈夫。出来ることは、やってきた。
どうか、どうか――
ライラはぱちりと目を覚ます。眼前には、今さきほど唇を奪ってきた美しい女がいる。彼女は、悪びれもなくにっこりと微笑んでいた。
「お嬢様、起きて下さいませ。でないとチュウしちゃいますわよ。て言うかもっかいしても宜しいですか?」
「おはよう、起きてる。やっぱりさっきキスしたんだ」
侍女の肩を押して距離をとった。物心ついた頃にはもう、侍女達にキスで起こしにかかられていたため、いい加減慣れている。
「ああん、今日もつれないですわぁ」
当然のように覆いかぶさってくる侍女をひっぺがし、素早くベッドから下りた。もう少し惰眠を貪りたかったが、これ以上ベッドの中にいると貞操が危うい。振り返ると侍女が舌打ちしていた。毎朝のことながら怖い。
「兄さま達はもう起きてる?」
「まだですわ」
ならば廊下はまだ安全だ。兄達も隙あらば襲撃してきてキスの一つや二つをかましてくる。朝から出くわしたくない。
部屋に備え付きの洗面台で洗顔を済ませ、化粧水を含ませたコットンで肌を整える。裾に三重のシフォンレースをあしらったネグリジェを手早く脱ぎ、丁寧にたたむ。全体は無垢な白地、前身ごろにはレースが控えめに飾られ、肩紐は太く袖はなく、風が吹けばふわりと広がる。上等なシルクで作られており、最高級の肌触り。ライラお気に入りの一品だが、贈ってくれたのは長兄のアルフォード。ネグリジェから始まり、手持ちの部屋着から下着まで全て兄からのプレゼント及びセレクトである。多分普通でない。
ライラはハンガーにかけておいた真新しい制服を着て、茜色のネクタイを締めた。
「どうかな?」
「お似合いですわ」
侍女がにっこりと微笑んでくれる。
ライラ・トゥーリエント、十七歳。ここ魔界の東・淫魔族トゥーリエント伯爵家の娘。今日から《学園》に入学する。
人間界ではおどろおどろしく想像されている魔界だが、実際は人間界とそう変わらない。太陽も昇るし月も出る。気候は地域によって変わるが、一年を通してほぼ一定。魔族も恋愛はするし結婚もする。経済も成り立っているし、実のところ人間界にも進出している。大きく違うところを挙げるならば、魔形のものであること、魔力を持つこと、そしてその魔力が何よりも地位を左右するということだ。ライラの父、グイード・トゥーリエントは類まれなる魔力を有し、伯爵家を継いでいる。
グイードは政略婚で同じ淫魔・フルーレを娶った後、一人側室を設けた。長男のアルフォードと次男のファルマスはフルーレの子ども。ライラは側室の翠の子どもである。さらに翠は淫魔でも魔族でもなく、人間の女。ライラは半魔――しかも出来損ないの淫魔であった。
「今日から学園に通われるのですねぇ。このミリアン、感激ですわぁ」
「う、うん、ありがとう」
「お嬢様ったら、精気はいくら頑張っても絞り尽くせないほど無尽蔵にありますのに、魔力はあまりお持ちではなかったので……心配してましたわ」
「絞り尽つくそうとしたことがあったんだね」
「だってお嬢様の精気、とっても美味しいのですよ? そんなの生殺しですわ」なんて言いながら顔を近づけてくるので、とりあえず避けて無視をした。
ライラはトゥーリエント家に生まれながら魔力に恵まれなかった。そして淫魔の十八番《魅惑》さえも出来ない。《魅惑》というのは相手を一時的に虜にさせてしまう魔術で、力のある淫魔ならば相手を傀儡にすることさえ可能だ。
だからライラは出来損ないの淫魔。ただし、その代償なのか、ライラには《魅惑》が全くかからない。心配性の父が、幼少期のライラに《魅惑》の耐性を試した時に判明したのだ。例外の多いライラの性質――このことは絶対に口外してはならないと定め、トゥーリエント屋敷内だけの秘密となった。家族とごく一部の使用人しか知らない。
ライラは自分自身でも出来損ないの淫魔だと思っている。原因は性質や魔力だけじゃない。淫魔であれば基本的に見目麗しく妖艶なはずだが、ライラには色気が無かった。
例えば正妻フルーレ様は、眩い金髪で切れ長の青い瞳、張り出した胸とお尻に、引き締まったお腹とのラインが美しく、颯爽として力のある美人だ。
侍女のミリアンも淫魔。ふわりとした銀髪は胸元の毛先でカールされており、青く大きな瞳が注意を引く。侍女の着るワンピースの広い襟ぐりから、零れんばかりの胸がのぞいてはち切れそうだ。
(ん? ちょっと待って、何故シャツを着ていないの)
ライラが見ていることに気付いたミリアンが、さらに胸元を広げてきた。
「うふ。興奮してきました?」
「シャツを着てください」
やっぱりこの誘惑じゃ駄目ですかぁ、とぼやいているミリアンも相当に美しく可愛い。
鏡の前の自分を見る。そこそこ白い肌、平坦ではないが大きくもない胸、淫魔には珍しい深緑の眼。他の皆は金髪や銀髪であるのに、ライラだけは漆黒と言っていい黒髪。まるで異端のしるしのよう。眼と髪はずっとコンプレックスだった。
「今日はどんな髪型にしましょうか」
「ん、学校だし、簡単なポニーテールにする。大丈夫」
「でしたら、パールの髪飾りくらい付けられてはどうです? これくらいは許されるでしょう」
ミリアンが差し出したのは、中ぶりの真珠が横に五つ並んでいる飾り櫛。控えめで可愛らしくお気に入りの一品で、これは次兄ファルマスのプレゼント。兄達はライラの好みをよく知っている。
背中まである黒髪を簡単にくくり上げ、ミリアンに飾り櫛を挿してもらう。朝食を食べに階下へ降りた。
トゥーリエント家には食事をする場所が二つある。一つは来客時に使う広い食堂、もう一つは日頃家族が使うこじんまりとしたダイニングルームで、木目が美しい本チークのウッドテーブルは八人が座れる大きさだ。その部屋の片方にはソファがコの字に配置されており、キルトやクッションが置かれている。白い漆喰の壁、木目のあるフローリング、ほっと落ち着ける雰囲気のここを家族は居間と呼んでいる。家族団欒がしたいと父が作ったらしい。
ライラが居間に着いた頃にはもう先客がいた。
「おはようございます、父様、母様」
「おはよう」
「ライラちゃんおはよう~」
ライラの父でありトゥーリエント家当主のグイードと、母の翠が、隣り合わせに座って朝食を摂っていた。
ライラが母の向かいに座ると、キッチン付きの侍女が朝食を持ってきてくれた。焼き立てのパン、じゃがいものポタージュ、彩り野菜のサラダ、スコッチエッグとベーコン。お抱え料理長のヨハンは、この魔界で一番の腕だとライラは思っている。シンプルな料理でもとろけるように美味しいのだ。ヨハンが暇な時、たまに料理を教えてもらっているが、人間界で修行したこともあると言っていた。なんでも、人間の食への熱意は凄まじいのだとか。
それこそ昔、魔族は人間や魔物を食していたらしい。人間界に行った魔族が料理というものに出会って衝撃を受け、今では魔族もこのような人間の食事をしている。
いわゆる魔界食事革命である。人肉よりも各段に美味しかったとのこと。現代に生まれて良かったと心底思う。
「ライラちゃんは今日入学式ね。制服も似合ってて素敵」
「ありがとう、母様」
学園に通う生徒は決められた制服を着る。襟に紺の二重線が入った白いシャツ、グレー地にグレーのチェックが入ったジャンパースカート。ちょうど胸の下あたりで体にフィットするよう作られ、スカートにはブリーツが入っている。その上から紺のブレザーを羽織り、首元は男女ともネクタイを付ける。学園は五年制で、学年によってネクタイの色が違う。今年の一年生は赤色。この制服制度は人間界を参考にしたらしい。
「学園では様々な魔族と付き合わねばならないだろう。他家の淫魔ともだ。中にはよろしくない輩もいるはずだ。くれぐれも注意して――」
「グイード様、大丈夫ですわよ。お兄ちゃん達もいるんですし、何よりこの子の《怪力》にかなう者はなかなかいないと仰っていたじゃないですか」
「う、うむ、しかし――」
お父様は固めの銀髪を短く刈り込んでおり、シャープな顎のラインと鋭い目を持つ美丈夫だ。お母様はみずみずしい黒髪で、小さな顔に大きな黒い目、小柄で少女のようなのにどこか艶めかしい。生粋の人間であるがライラより色っぽかった。
ライラが出来損ないだからか、昔から父は過保護だ。ありがたくも思うが、少し心配し過ぎである。
「大丈夫だよ多分。何かあればすぐ報告するから」
「絶対、絶対だぞ。夕食の時間には帰ってくること、あと、男には特に気を付けるように」
「その心配はいらないと思うけど」
ライラのような出来損ないを、好き好んで寄ってくる男がいると思えない。
朝食を戴こうと、ポタージュを口に含む。鶏肉で出汁をとっているのか、深みのある味わいで自然と口元がほころぶ。サラダとエッグは半分ずつ食べ、残りとベーコンをパンに挟んで食べた。美味である。
今日も美味しかったなぁ、とお茶を啜っていると、料理長のヨハンが居間にやって来た。手には可愛らしい小花模様の巾着を持っている。
「おはようヨハン」
「おはようございますお嬢様。今日から学園に通われると伺っております、お弁当を作りました」
「えっ、ほんとう? ありがとう、すっごく嬉しい」
「喜んで頂けて良かったです。学園の食堂を使われたい時は控えますので、遠慮なく仰って下さい」
「ヨハンのお弁当が一番だけど、もし、そうしなくちゃいけない時は言うね。これで楽しみが増えた」
ありがとう、の気持ちをこめてヨハンに抱きつくと、ヨハンも抱きしめ返してくれ、つむじにキスをされた。
「学園、楽しんで下さいね」
「うん」
「何か嫌なことがあったら相談して下さいね。このヨハン、身を粉にして復讐してまいりますので」
「う、うん。そういうことにならないよう、頑張るよ」
ヨハンはたまにサラッと怖いことを言う。
ひょろりとした体躯で繊細そうな細面には意外と腕力があるらしく、ライラを抱きかかえたまま一回転。肩までつく銀髪は後ろでくくってあり、魅惑的な垂れ目で微笑んだ。毎日見慣れているライラでも、時たまドキッとする。
「ところで、学園までどうやって行くんです?」
「転移術はまだ自信がないから、エリックが連れてってくれるって」
「エリックっていうと、ああ、あのガキですか」
なぜだろう、笑っているのに目が笑ってない。
エリックは同じ淫魔で、家同士の付き合いがあるバーナード家の次男だ。年が同じことから引き合わされ、度々遊んでいた幼馴染。昔は意地悪されて苦手だったが、最近は出来損ないのライラが心配なのか、魔術を教えてくれている。
「今は意地悪されてないよ? なんか勉強とか、教えてくれるし」
「一緒に学園へ行けるかそれはそれは大層心配してましたからねぇあのガキ」
「う、うん……」
学園の入学資格が得られた時は、自分のことのように喜んでくれたのだ。きっと出来の悪い妹のように思ってくれているのだろう。
気付くともう待ち合わせの時間だ。
「では皆様、行ってきます」