妖怪奇譚
「い、嫌!嫌です!許して、下してください!」
「すまない…それはできん。もうこれしか方法がないんだ!もうこれ以上、村のものを死なせるわけにはいかんのだ!そのためには贄を差し出すしか…!」
「そんな…」
一人の娘の手足を縛り、長い棒に括りつけ逆さにした状態で、何人もの男性が森の奥深くへと進んでいた。
森は暗く、手に灯した松明があってもまだ危なげだ。
娘は首だけを動かし、進む方向の先を見た。
しかし、暗すぎて視界に映るのは漆黒のみ。足元でさえ覚束ないこの先に、自分は置き去りにされるのだと、娘は顔を真っ青にして震えあがった。
娘は必死に抵抗するも虚しく、屈強な男たちには敵わなかった。
ことの始まりは、娘たちの村に突然発生した流行病だった。
症状は無く、今まで普通に働いていた者たちが大人子供関係無く次々と倒れ、死んでいった。
死んだ者たちは皆、一様に唐突に訪れた死に対応できず、驚愕に目を見開いたまま死んでいく。
症状のない病に村人は恐れ戦いた。
次は自分かもしれないと村人たちは働くのを止め、家に篭りただその時を待つばかりだった。
その時、村で一番年老いた老人が言ったのだ。
「これは土蜘蛛様様の祟りに違いない。80年前にも土蜘蛛様の祟りで何人もの村人が死んでしまった。贄を、贄を差し出すのだ」と
捧げるのなら一番美しい女を、と選ばれてしまったのが娘であった。
運の悪いことに、常なら羨ましがられるものも、この時ばかりは哀れまれる。
先頭の村長らしき男が、棒に括られた娘を担ぐ男どもを振り返った。
「さあ、ここだ。娘を下せ」
そっと娘が下された。娘はもう何も言おうとしない。
「土蜘蛛様、土蜘蛛様、どうか村の流行病をなくしてください。贄はここにございます。どうか、どうか」
村長は地面に頭をこすりつける勢いで土下座した。しばらくすると、地響きのような低い声が、森中に木霊した。
『……じき、治まるだろう』
それを聞いた村長は、ばっと顔を上げたかと思うとまた頭を下げ、有難う御座います、有難う御座いますと何度も繰り返した。
置き去りにされた娘は、声も上げずに泣いていた。
縄で手足を縛られた状態のまま、必死に声をかみ殺して。
去り際、同情したような目線を娘に向けていた男たちも、何も言わずに去って行った。
娘は流行病が治まるための贄だったから。
永遠に枯れることは無いのではないかと思うほど、娘は泣き続けていた。
しかし、娘は次の瞬間泣きながら叫ぶこととなる。
長く細い、白い糸が体に巻き付いてきたのだ。
土蜘蛛はその長い糸で人間の体を縛り上げて殺してしまうのだという。
娘はきつくなっていく糸にとうとう声を出して泣き出した。
しかし、決して逃げようとはしない。
そもそもこの糸から逃げられるとも思えなかったし、娘は贄だ。娘が逃げればあの恐ろしい流行病はいつまでたっても終わらない。
娘は恐怖に泣き出し、震えながらも、決して抵抗はしなかった。
『なぜ、逃げようとしない。抵抗しない』
すぐにでも己を締め殺すと思っていた糸は、しかしあっさりと解け地面に落ちた。
その際、娘を縛っていた縄もほどけてぽとりと落ちた。
聞こえるのは、先ほどの地鳴りのような土蜘蛛の疑問。
娘は土蜘蛛の機嫌を損ねないよう、恐怖で呂律の回らない舌で必死に答えた。
「そ、れは、私がつ、土蜘蛛様の贄だからです」
『我の、贄か』
「さ、左様でございます。土蜘蛛様、どうぞ流行病をお静めくださりませ」
『……。…腹が減ったな』
「え?」
『腹が減った』
その言葉に、また娘の体は強張った。次に言われるであろう言葉を予想して。
『食べ物を取ってきてくれ。そここらに、果実や木の実が生っている』
予想とは違う答えに、娘は一瞬固まった。が、土蜘蛛の、どうした?という言葉に慌てて、今すぐ持ってまいりますと返し、その場を後にした。
『………まさか、贄を持ってくるとはな』
一人残った土蜘蛛は独り言ちた。
そもそも、土蜘蛛に娘を食べる気など最初からない。
ただ、縛って脅かして、抵抗したところで糸を解いてやろうと思っていたのだ。
そのまま娘が逃げ出すことを願って。しかし、娘は逃げ出すどころか抵抗すらしなかった。
その事実に、ただ土蜘蛛は驚くばかりである。そこまでして村を救いたいのか、と土蜘蛛は罪悪感にかられた。
娘の村の流行病は、決して自分が祟りで起こしたものではないからだ。
ただ、原因を知っているだけ。
土蜘蛛は深いため息を吐いたが、娘が戻ってくる気配に気づくと自分の姿を変えてみた。
娘と話がしたかったからだ。自分の元に留まる必要などないと教えてやりたかった。
土蜘蛛は、黒髪の青年へと姿を変えた。意識をしたわけではないだろうが、なかなかの美丈夫である。
「お、お待たせいたしました…」
「ああ、すまない」
娘は不思議そうに顔を上げた。上げても、娘には土蜘蛛の姿は影になって見えない。
しかし、地響きのように低い声が、人間のようによく通る声になっていたら、誰しも不思議に思うだろう。
「姿を変えたのだ。土蜘蛛の姿のままでは、お前は怖がってなかなか話せない」
そう言いながら、土蜘蛛は娘のすぐそばにまで移動してきた。
最初は恐れていた娘も、土蜘蛛に害意がないとわかると、ほんの少しだけ警戒を解いた。
「お前たちが言う流行病。あれは、本当の流行病ではない」
「…え?」
「あれは、お前たちの土地を管理している土地神が起こしたのだ」
「な、なぜ土地神様が!?土地神様とは、私たちをお守りしてくださるのでは…」
「世間一般にはそうだが、お前たちのところの土地神はそうではない。あくまで管理だ。お前たちの村は人口が増えすぎた。このままいくと、人間は森を解体し、動植物を意味もなく狩り、自然の摂理を壊しかねない。手っ取り早く、人を減らそうとしたのだろう」
「し、しかし、村の一番の長者が、80年前にも土蜘蛛様の祟りがあったと…」
それを聞くと、土蜘蛛は悲しそうに顔を曇らせながらも、しっかりと頷いた。
「確かに、80年前のそれは土蜘蛛の祟り。しかし、我ではない。その当時森を住処としていた土蜘蛛が、戯れにしたものだ」
娘はことの大きさに眩暈がした。ふらついた体を土蜘蛛が支える。
思わず強張った体に土蜘蛛は苦笑して、大丈夫だと言った。
「我は生者は食わん。だが、腐る前の死者は食らう。所詮私も妖怪だ」
娘は不思議そうに首を傾げた。気味悪がる前に疑問が浮かんだのだろう。なぜ生者は食べないのか、と。
「…人の泣き顔と悲鳴が嫌いなんだ。特に女のそれは大嫌いでな。苦手と言ってもいい。とにかく嫌なんだ」
拗ねたようにいう土蜘蛛がおかしくて、思わず娘は笑みをこぼした。それを見た土蜘蛛も安心したように微笑む。
「やはり、いいな」
「…?」
「人の恐怖に歪んだ顔よりも、笑顔の方が数倍いい」
そう独り言ちるように言った後に、土蜘蛛は真っ直ぐに娘を見た。
「そろそろお帰り。もうお前が死ぬことはないだろう。もう相当の人間が殺されたはずだ。土地神も、無闇矢鱈と殺すことはまずないだろう。贄はもう必要ない。お帰り」
優しく諭すように言う土蜘蛛を見て、なぜか娘は首を横に振った。
「それはできません。土蜘蛛様」
「なぜだ?もう流行病は起きぬぞ?」
「たとえ治まっても、私があの村へ帰ることは許されません。何故ならば、皆、私が贄として土蜘蛛様に食されたことにより、流行病が治まったと思っているからです」
娘の言葉で、気が付いたように土蜘蛛は…あ、と声を漏らした。
確かに、娘がここえ来たとき、土蜘蛛は確かに言ってしまったのだ『…じき、治まるだろう』と。
それは土地神の事を考えていった言葉であった。
しかしこれでは、確かに村人たちが約束が受理されたと思っても不思議じゃない。
土蜘蛛は、やってしまったと言わんばかりに遠くを見つめた。
そのまるで人間のような仕草に、娘はくすくすと笑った。
それを見て不思議そうな顔をした土蜘蛛に、娘は怯えていた頃とは打って変わって笑顔で述べた。
「土蜘蛛様、土蜘蛛様は優しい妖怪ですね。そんな優しい土蜘蛛様なら、身寄りのない私を拾ってくださいますでしょう?」
小首を傾げながら言う娘に、土蜘蛛は思わず苦笑を漏らした。
「賢い娘だ。ならば、手始めにお前の名を聞こう」
「紫媛と申します。土蜘蛛様」
「紅來」
「え?」
「我の事は、紅來と呼べ。我の真名だ」
土蜘蛛がそういうと、娘は嬉しそうに頷いた。妖怪にとって、真名を教えるというのは自分自身を差し出すのと同じこと。紫媛はそれを知っていた。
真名で、妖怪を自在に操ることも、退治することもいとも容易くできる。
その真名を教えてもらった意味を理解したからこそ、紫媛は嬉しそうに微笑んだのだ。
二人は長い間、その場で寄り添っていた。
これから長い時を共にするお互いを、深く深く刻み付けるかのように――――