七瀬 詩仁 5
「なにがそんなに嬉しいの、お前」
訝しげな目をこちらに向けつつ、嘉兄はお皿にいっぱいに盛ったカレーライスを俺の前に置いた。別に自分で嬉しい表情をしているつもりのなかった俺は、え、と言うしかなかった。
自分の分のカレーライスを盛り付けて、嘉兄は静かにテーブルに着いた。「いただきます」と嘉兄が手を合わせるのと同時に、俺も掌をくっつけた。カレーは俺の大好物だ。特に嘉兄の作ったカレーは、どんなカレー専門店にも勝る味をしている。と、俺は思っている。
いや、今はカレーを語っている場合ではなかった。美味しそうなカレーのビジョンと匂いにとろけそうになっている自分を奮い立たせ、俺今にやけてたの、と嘉兄に訊いてみた。嘉兄はさっさと首肯し、熱いカレーに息を吹きかけている。
「今っていうか、帰ってからずっとにやにやしてる。いい加減不気味だぜ」
「そんなに?」
「なんかいいことあったのか」
いいことあったのか、と聞かれて思い当たる節と言えばひとつしかなかった。確かにあれは嬉しかった。『ネコシロ』で『灰色ヒーロー』こと黒川智生が俺の金髪とピアスを褒めてくれたことだ。
学校ではどこにいても話題は『灰色ヒーロー』のことばかりで、正直鬱陶しいと思ってた。でも、あの人は悪い人ではないかもしれない。いや、弱い者いじめを見過ごせないからケンカして勝利し続けて、それで有名になってきてヒーローとまで言われているのだから、最初から悪い人であるはずがないのだが。
『灰色ヒーロー』の噂は、嘉兄の高校でも浸透しているのだろうか。気になったので訊いてみると、嘉兄は、カレーを乗せたスプーンを口に運びながら、ああ、と思い出したような声を伸ばした。
「あの学校、チンピラ多いからな。そのヒーロー、黒川だっけ。実際やられた奴も少なくないみたいで、すごい敵視されてるぜ。この前は五人掛かりで歯が立たなかったらしい」
まじで。驚きながらも、俺は平常を装って聞き流すふりをした。嘉兄は小皿にマカロニサラダを取りながら、でも、と言葉を引き継いだ。
「話によると、その黒川って奴よりも、ときどき一緒に歩いてる友達のほうがやばげだと俺は思うけどな。なんかクスリやってるとかやってないとか」
「え!?」
聞き流せないワードの登場に、声が大きくなってしまった。身も乗り出してしまっていて、手元のカレーとお茶をぶちまける勢いだった。嘉兄は瞬きを繰り返し、そこで俺は我に返った。呆けた表情の嘉兄から目を逸らし、俺は黙って椅子に座り直した。
「そういえば、その友達って辻ノ瀬の生徒らしいんだけど。お前、まさか知ってるの」
「今日、ケーキ奢ってもらった。黒川にも会った」
「え。ちゃんとお礼言えたか」
お礼くらい言えるわ。俺は嘉兄にまで内心突っ込みを入れなければならないのか。
クラスではみんな黒川のことしか話さないけど、ほかの学校では有塚のことも噂になっていたのか。それもヒーローなどとはほど遠い、真実なら明らかに法に触れている事柄で話が広まっている。言ったらダメだとは思うけど、嘉兄の通う高校は不良の受け皿だ。そこで触れ回る噂なのだから事実も虚偽も綯い交ぜになっているかもしれないけど、三橋は言っていた。有塚は煙草を吸うのだ、と。今日俺が有塚を尾行していたのも、もともとは三橋の言うことが本当なのかどうかを確かめるためだった。別に確かめてどうするつもりもなかったものの、ほかのみんなが言わないことを三橋だけが言い切るその根拠を知りたかった。結局それは達成されなかったけど、
三橋の発言どころか、クスリの話まで出てきた。どこまで本当なのかはかなり怪しいが、火のないところに煙は立たない。有塚は確実になにかやっている。有塚の人懐っこい笑顔の底には、やっぱりなにか蠢くものがある。
嘉兄がずっとなにか言っていたが、俺はほとんど聞いていなかった。最後に嘉兄は、スプーンを俺に向けてこう言った。いつの間にか、嘉兄はカレーライスを完食していた。
「友達のほうがやばそうなの、そういう話があるからってだけじゃなくてさ。そいつもケンカ、めっちゃくちゃ強いらしいぜ。ほとんどすることはないらしいけど、それこそ黒川なんてお遊びに見えるくらいに」