有塚 樹 3
部屋着に着替えるのも面倒だったので、とりあえずブレザーだけ脱いで勉強机の椅子に引っ掛けた。ネクタイを取ってシャツの襟元を緩め、カーディガンを羽織った状態でベッドに向かう。狭いよりも広いほうがいいから、という単純な発想で買い与えられたセミダブルのベッドのシーツは綺麗に整えられている。そんなに頻繁でなくてもいいのに、シーツは毎日取り替えられる。背中から倒れ込むと、一瞬だけ救われたような気分になる。要するに気持ちがいい。そうして眠ってしまったことが過去に何度もあった。
でも今は寝るつもりはない。寝返りを打ち、ベッドの脇にある小さな棚の上段の引き出しを開けると、そこには大量の男性誌が詰め込まれている。さすがにこんなものを堂々と俺が買うわけにはいかないから――そこだけは『有塚グループ』の子息としてちゃんとしなければならないような気がしている――チャット仲間に送ってもらった。藤君は俺に冷たく「友達いますか」なんて言うけど、ちゃんとこういう悪友はいる。残念でした。心の中で、俺は小さく藤君に舌を出す。
寝そべったままページを繰っていると、身体の奥からくすぐったいような気持ちになった。写真の中のくりっとした二重目蓋の女は可愛いとも思うし、抱き締めれば引き締まった肉厚な肢体と温い体温がすごく心地いいのだろうな、とも思う。妄想だ。この肉体を力いっぱい愛でてみたい。写真の中の彼女の身体を指でなぞる。欲は燻る。けれど、俺の内部は滾ってはこなかった。興味はあるのになにかが違う。
静止画だからいけないのか。今日も俺はその結論に達した。男性誌を適当に放り投げ、薄型テレビの電源を入れて、ハードに入れっぱなしのディスクを再生した。ベッドに座ってじっと待つ。裸の男女が無意味に絡み合うだけの映像が垂れ流された。こっちも悪友経由で手に入れた。見れば見るほどに罪悪感が募った。これもくだらない。十分ともたずにテレビの電源を落とした。どうしようもない脱力感と、瞬間的な苛々が爪先から脳天まで駆け抜けた。手に持っていたリモコンを床に投げつけた。どうせこのくらいでは壊れないとわかっていた。
ストーリーとしてはどうなのだろう。ちょうど読みかけの小説がある。これもまた何度も通った過程だった。小棚から文庫本を取り出し、しおりを挟んだ部分から目を通した。いい具合にそれが始まる。生々しい描写、曖昧な状況説明。なんと美しく、羨ましく、醜く、劣悪な生命活動か。こんなものはあり得ない。ページを破いた。滅茶苦茶に破いた。ページだけでは飽き足らず、ブックカバーごと表紙も八つ裂きにしてやった。また今日もダメだった。
ベッドに倒れ込んだ。深い溜息が零れ落ちる。広いベッドに横たわる度、口には出せないそれを思い浮かべてしまう。思い浮かべるだけなら普通の男子高校生だ。そんなことは嫌というほどわかっていた。また溜めた息が漏れた。
ズボンのポケットに手を突っ込んだ。小さく折り畳んだハンドタオルに挟んでいるのは、赤のチェック柄の可愛らしいアメの包装紙だった。かなり昔のものだけど、フィルム製のそれは色褪せることもなく、過去のままの姿を維持している。あの頃の智生は、キャラメルではなくアメばかり食べていた。理由は簡単だ。キャラメルは噛んで吞み込んでおしまいだけど、アメは噛まずに舐めていれば長く味が持続する。空腹時の誤魔化しにもなる。そのへんに転がっている小銭をかき集め、ときどき家の大人の財布の中身を失敬しつつ、こっそり近くのお店に調達に行っていたと智生から聞いている。智生は笑って教えてくれた。
『あのときは必死だったんだよ。なにか腹持ちするものをって思ってたけど、一回食べて終わりじゃ次困るだろ。アメがいちばん妥当だった』
包装紙を両手で包み込み、そっと胸に引き寄せた。ずっとアメを舐めていた当時の智生が、俺に分けてくれたものだった。俺と一緒だった木村にもくれた。木村は嬉しそうな立ち振る舞いでそれを受け取った。俺が包装紙を捨てなかったことに意味はなかった。屋敷内部の人間と、うちの財閥に関わりのある人間以外からものをもらったことがなかった俺の、なんとなくの気まぐれだった。少なくともそのときは、五年も六年も年先の未来で、当時の記憶を持ち歩くことになっているとは想像もしなかった。そのときの俺にとっては、智生は間違いなく「友達」でしかなかった。
性的な映像や雑誌を眺めてしらけているわけではないし、自分の身体そのものに違和感を覚えたこともないから、間違いなく精神的にも俺は男だ。女の裸なんて別段進んで見たいとも思わないけど、女の裸を見ないことには自分の性別を確認できない。女の裸体を目の当たりにすれば、一応セクシャルな気分にはなる。そうなれば安心できる。その安心感が俺にはどうしても必要だった。けれどいくら安堵してみても、胸の奥の違和感だけは拭い去れなかった。違和感が拭い去れない理由など、考えるまでもなく自分でよくわかっていた。
身体を起こしてベッドに座り直した。右手に包装紙を握り締め、左手でリモコンを拾って再度ディスクを再生した。強制終了したシーンから動画が進行し始める。男と女が肉体を擦りつけ合い、あまりのおそましさに鳥肌が立つような行為を貪っている。気持ち悪い。歯軋りしつつ、俺はその様を目に焼き付けた。行為そのものも気持ち悪いし、こんなものを見て男であることを認識しなければならない自分も気持ち悪いし、そういう商品だとは言え、第三者のプライベートを覗き見ている現実も気持ち悪かった。
けれどその気持ち悪さの定義は、すべての場合に引用されるわけではなかった。だから俺は、吐き気を催すようなその醜態を見続けることができる。画面の中の男が俺で、組み敷いているのがあの不細工な女ではなく、智生だったら。いつだったか、無意識に俺は登場人物を置き換えた。興味のない男女が身体を重ねるのを眺めているから不快なだけであって、俺と智生がお互いに望んで、ああいうことができたとしたら。それはものすごく素敵なことのように思えた。それを妄想したとき、やり場のない違和感が消滅した。俺は智生とあれがしたい。自分がそう望んでいることをはっきりと自覚した。もちろんそんなことは、口が裂けても誰にも言えなかった。
ドアをノックされた瞬間、心臓が飛び跳ねた。反動でテレビの電源を落とし、咄嗟にアメの包装紙をズボンのポケットに突っ込んだ。びりびりに引き裂いた小説をベッドの下に押し込みながら、立っているのは誰なのかを訊ねた。しわがれているけど、芯の通った声で名乗りが返ってきた。木村だった。ほっと一息ついて、俺はドアの施錠を解除した。木村なら、しゃかりきになってなにもかも隠蔽する必要はなかった。まあ一応隠しはするけど。俺がドアノブを引くと、木村は丁寧に頭を下げた。老人なのに木村の背は高い。百八十センチはあると思う。腰も背中も、当然曲がってなんていなかった。
「お帰りなさいませ、樹お坊ちゃん。お出迎えに居合わせなかったことを謝罪いたしたく、お部屋までお伺いしました」
「ああ、うん」
応じると、木村は「では」と再び低頭した。用事は本当にそれだけのようだ。木村にも仕事がある。わざわざ挨拶に来たのは木村がこの屋敷の使用人長で、俺が雇用主の息子であり直に雇用主に摩り替わるからだ。そういう体なのだ。わかってはいるけど、俺は木村を呼び止めた。
「今忙しいかな。いや、忙しいのはわかってるよ。でも、ちょっとだけ話せない?」
「私とですか?」
「こんな屋敷にいる人間、木村以外話したくないし大嫌い」
木村と向かい合っていると、つい本音が口をつく。吐き捨てるように言ってしまった。木村は困ったように眉を下げて微笑んだ。木村はいつも俺をあやすように笑ってくれる。同じことを木村以外に言ったとしたら、きっと父さんの耳に入って叱られる。手を上げることはないと思うけど、父さんが放つオーラは壮絶だ。無言でも俺を精神的に追い詰める。
「では、コーヒーでもお持ちしましょうか」
木村が言うと、勝手に自分の頬が緩んでいくのがわかった。そんなのいらないからと首を振り、木村の手首を引っ張って部屋に招き入れる。きっちりとドアに鍵をかけた後、一応施錠のチェックをしてから俺はベッドに腰掛けた。木村は立ったままだった。立場上仕方のないことだ。俺が合図をするとここでも木村は頭を下げ、そしてようやく俺の隣に腰を落ち着けた。
木村になら、なにを話してもいい気がする。ふとした甘えが頭の中で沸き上がった。
「お父様とお話されていたようですね。樹お坊ちゃんにはまだわかり辛いかもしれませんが、お父様は、お父様なりに樹お坊ちゃんのことを気にかけているのですよ」
いきなり木村が口火を切った。突然その話をすることになるとは思わず、俺はひっくり返りそうになった。
「誰か言ってた? それとも見てた?」
「いいえ。ただ、お坊ちゃんはお父様と話された後はいつも以上に疲れたように見えますので。今日もそのパターンかと」
「そんなこと言うのって木村だけだろうね」
「私は樹お坊ちゃんご自身に、一定の距離を許されているようですから」
おどけた木村の物言いに、思わず頬が綻んだ。この場所で唯一、俺が心の底から信頼を置ける人間。いるとすれば、それは木村しかあり得なかった。気分が軽くなったのは、安堵したその一瞬だけだった。自分の表情が曇るのがわかる。木村に嘘は吐きたくない。そうかと言って、べらべらと喋り倒せる内容でもなかった。智生のことではなく父さんのことだ。木村の言うことは信じたいし、信じるに値することだとは思うけど、父さんが俺のことを気にかけているとは腐っても思えなかった。父さんが俺に求める必要性は『有塚グループ』の跡取りという一点しかない。小さい頃に養子に出ている三人の姉が、その事実を証明してしまう。ずっと無理矢理教育されてきた俺の中で、父さんに対する不信感はそのまま殺意に変わっていると言っても――いや、それは過言だ。今まで俺の自由を奪い続けてきた男のために、先の人生を棒に振るなんてあまりに愚かだ。
話題を変えよう。そう思い至った。俺はいつでも話題を変えている。これは逃げか。これは逃げだ。解せたからと言ってなにかが変わることもない。
「ねえ、木村」
呼びかけると、木村は微笑んで応じてくれる。それじゃあ俺は、これからなんの話をしようか。勉強の話。つまらない。友達の話。俺にもう友達はいない。学校の中等部に足しげく通うのは、俺の俺に対する誤魔化しの象徴でしかない。キャプションに藤君という役が立っただけだ。智生の顔が脳裏に浮かんだ。執念で振り払い、次の議題を探った。なにが出てきても消え失せた。最後に将来の話が残った。唾棄したくなった。『有塚グループ』の人間なんて、俺も含めてみんな死に絶えてしまえばいい。
俺の世界はバカげている。冷えた頭の奥に立つ、精神世界で暮らすもうひとりの俺がぼやいた。『お前の世界はバカげている』。
「木村はずっと有塚の屋敷で働いてるよね。家族はいる?」
「私の家はこのお屋敷です。ならばその家族は、この家に住まう皆でしょう」
「そういう使い古された冗談みたいなのじゃなくてさ」
というか、使用人の立場の木村がこの家の人間を家族と言うなんて。俺は別にいいし、音の上なら、その論理なら俺と木村は家族ということになる。それは素直に嬉しかった。でも、父さんが聞いたらどう思うだろう。考えたくもないのに、父さんの顔が脳裏をよぎった。腐っても親なのだから仕方ないと思う反面、自分の中に深く根付く父さんの存在が心底憎かった。
「家族ならいますよ」
「えっ」
あっさりとした回答が突然返ってきた。完全に自分の世界に浸っていたがために、普通に予測できていたはずの返答にも上手く応じることができなかった。俺はしどろもどろに声を詰まらせるばかりだった。それを面白がるように、木村は軽く目尻を下げていた。
「なにもそこまで驚かれることはないでしょうに。私に孫がいるのがそんなに不思議でしたか?」
「孫までいるの? いくつの?」
「お坊ちゃんより二歳上ですから二十歳ですね。高卒ですぐ地元企業に就職して、今でも元気にやっております」
「ああ、そう……なんだ」
出てくる言葉はそれしかなかった。木村が既婚者である可能性を考えたことがないわけではなかったけれど、なにぶん木村は、俺にもの心がついた頃には既にこの屋敷で俺の世話係を任されていた。一日のほとんどすべてを俺の子守りに費やしていたし、自分の家に帰っているような素振りは微塵もなかった。もちろん木村は俺の祖父だと言っても全然おかしくない年齢だし、現に二十歳の孫がいると発覚した。ずっとこの屋敷で働いていたとは言え、それが結婚していないことには繋がらない。家族の形は人それぞれだ。
家族の形は人それぞれだと確かに認識しているのに、自分の家族を受け入れられないのは何故なのか。自分のことなのに、自分でわからなかった。
前触れなく智生の姿が脳裏を掠めた。でも、だってそれはそうだと思う。結婚と言う儀式は、お互いがお互いを好きだと認めて共に望んで行う儀式なのだ。本来そうあるべきだし、そうでなくてはならない。
「あのさ、木村。木村が結婚したのって、それってさ」
お互いが心の底から望み合って結ばれた婚姻なのか。当たり前の答えが返ってくるはずのその問いかけの途中で、木村が胸ポケットに手を突っ込んだ。白い手袋越しに取り出されたのは、使用人同士で連絡を取り合うための無線だった。木村がその小さな機械に向かって喋っていたり、聞こえる音声に集中している姿を、俺はずっと昔から見慣れている。
「すみません、お坊ちゃん。お話の続きはまたの機会に」
木村は腰を持ち上げ、深々と俺に頭を下げた。ベッドに座ったままの俺は、つられて少しだけお辞儀した。失礼いたします、丁寧な去り際文句と共に、木村はドアノブの向こうへ消えた。ドアの閉まる静かな音が、いやに大きく部屋に響いた。取り残された俺は特に思うこともなく、黙ってベッドに倒れ込んだ。バカみたいにベッドは気持ちがよかった。寝るのは好きだ。寝ている間だけは、悪い夢でも見ない限りは、なにも考えることなく過ごせる。運がよければ、都合のいい世界に浸っていられる。
あとは、隣に智生がいてくれたら。考えないようにすればするだけ、その願望は膨れ上がった。頭を振ってもなにもしても、一度形作られた妄想は消えなかった。わかっているだけに辛かった。わかっているからこそ、どうしようもないことだった。智生さえ今ここにいてくれたら、もうなにもいらないのに。ポケットの中のアメの包装紙を抱いて、今日も俺は、あり得ない妄執を引き連れて眠りに落ちる。