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有塚 樹 2

 屋敷に帰ると、通例の如く使用人たちが仰々しく俺を出迎えた。荷物を持ちますと申し出てくるのもまた通例だ。厚かましいけど、彼らも仕事でそうしているのだから、あまり冷たいことはできない。大丈夫とだけ告げて、そそくさと俺は長い廊下を抜けた。さっさと自分の部屋に篭って鍵をかけたかった。今日はそれが叶わぬ望みだと言うことに気づいたのは、珍しく父さんと鉢合わせしたからだった。なんでこんな時間から父さんが家にいるのだろう。一瞬考えた後、旦那様は今日は代休を取られました、と今朝木村が言っていたことを思い出した。運が悪い。吐き捨てて舌打ちしそうになったのを懸命に堪えた。

「そろそろ帰る頃だと思っていた。出迎えに行くところだったんだ」

「そうなんだ。ただいま」

 先に「おかえり」と言えないのだろうか。歩いていた理由なんて後でいくらでも聞けるのに。本当は「ただいま」なんて挨拶はしたくなかったけど、変な意地で反抗しても後が面倒になるだけだ。俺が口を閉じた後、父さんは「おかえり」と言った。

 出迎えに行くところだった、ということは、父さんはなにか俺に用があるということだ。この父さんが意味もなく人の帰りを待つなんてことはあり得ないと俺は知っている。たとえ相手が血肉を分けた息子だったとしても、この人のルールに例外はない。

 父さんは手近にいた使用人を呼びつけた。上品な返事とともにやってきたそのメイドに、父さんは勝手に俺の荷物を部屋に引き上げておくよう指示した。メイドは頭を下げ、失礼しますと断ってから俺の鞄を両手に取った。俺が拒絶したところで、屋敷の主とその息子では優先されるのは主のほうだ。俺は笑顔を作ってメイドにお礼を述べておいた。如何にもそうしてもらってとても嬉しい、と言うふうに。

 父さんの書斎に招かれ、言われた通りにソファーに腰を下ろした。アンティークのテーブルを挟んで父さんと向かい合う形になった。俺は、この人の目を長い間は直視できない。かと言ってあからさまに目を合わせないのも不自然なので、分相応に目線の高さを低すぎない位置に設定しておいた。

「最近、学校はどうだ?」

「どうって?」

「勉強は頑張ってるのか、という意味だ」

 一応訊ねてみたけど、やっぱり父さんの意図するところはそっちだった。俺が残り少ない高校生活を楽しんでいるかとか、有意義に過ごせているのかとか、そういうことではなかった。予想通りだけど、俺にとってはあまりにつまらない現実だ。わかってはいても幻滅してしまう自分も嫌だ。でもそんなことは悟られないように、俺は笑って答えてみせる。

「頑張ってるよ。この前の全国模試の結果見ただろ。あれって教科ごとにも平均点と順位が出るんだけど、俺、英語と数学は一桁キープで」

「頑張ってるならいいんだ」

 話をぶつ切りにされ、父さんが声を重ねた。そこで目線を高く保っておくのも辛くなった。でも、実際には少し俯き加減なくらいだ。膝の上で、父さんにばれないように拳を強く握り締めた。父さんなんて大嫌いだ。早く死んでしまえばいいのに。早く死んでしまえ。心の奥で、俺は何度も目の前の男を呪う言葉を吐きかける。

 メイドのひとりが二人分の紅茶を運んできた。静かに俺と父さんの前にカップを置き、頭を下げて書斎を出て行く。あの女がこいつを殺してくれれば。俺が命令すれば殺すだろうか。酷く残忍な妄想が、無意識に頭の隅で展開した。小気味よいその妄想を、自我で俺は振り払った。

 甘すぎる紅茶で喉を潤しながら、父さんが俺に本当に問いたいことはなんなのかを考えた。無論、考えるまでもなく、想像はついている。

「智生君とは上手くやってるのか」

 ほらきた。絶対それだと思っていた。というか、父さんがわざわざ俺を書斎に招いてまで問い質したいことと言えば、それくらいしかなかった。予想のクリーンヒットに、俺は少し愉快な気分だった。智生が自分で言っていた通り、この屋敷の人間は、智生のことをよく思っていないのだ。智生に両親がおらず、学校に行かずにバイトを重ね、脳に障害を持つ妹の世話をしていることが気に入らなくて仕方がない。テレビすらない汚いアパートで生活をしているその子どもが『有塚グループ』の次期社長の友達であることが許せない。その筆頭がこの父さんだ。どこをどう思考回路を屈折させれば、智生のことを汚らしいと罵ることができるようになるのか。温室でぬくぬくと育った俺なんかより、余程社会を知っているのが智生ではないのか。父さんと同じ血が流れているのに、俺には父さんがまったく理解できなかった。いや、理解はできる。つまり、裕福なお家柄の倅なら、同じく裕福なお家柄の倅とだけ交友を、というわけだ。直接口で言わないだけで、父さんはいつも俺にそう圧力をかけてくる。

 『有塚グループ』なんて滅びてしまえばいい。激しい憎悪を、俺はまるごと笑顔に変換する。

「智生とは上手くやってるよ。俺、智生のことは親友だと思ってるけど」

「お前ももう十八だ。私は樹をひとりの男として見ている。樹の人間関係に口を出すつもりはないが、最近、智生君は外でケンカばかりしているそうじゃないか」

「智生は弱い者の味方をしてるだけだよ」

「お前には、将来会社を引っ張って行ってもらわないと困る」

 会社なんてどうでもいい、と一言言えたらどれだけ楽か。実現されないことを想像するのは無意味だった。要するに、父さんは風体を気にしているだけだ。将来社長になるべく成長してきた俺が現実に社長となり、その未来の内側で、学校に通わなかったために学のない大人と認識されてしまう立場の智生と尚も親しくしていること。それを本来深く関わるべき身分の人間が知ったらどう思うかということ。まるで智生が望んで学業の道を放棄したかのような言い回しだ。小さい頃から父さんに反感を抱いていた俺は、金持ちの友達は作ろうとしなかった。父さんは、智生という存在が俺に纏わることで会社の価値が下がると思っている。無論、訊いてもさすがにそんなことは言わないだろうけど。

 紅茶を飲み干し、勉強するからと言って俺は腰を浮かせた。もちろん、部屋に引き上げても勉強する気などさらさらなかった。学校の勉強なんて、ほとんどもの心がつく前から教育されていた俺にとってはあまりに簡単すぎる。常にトップは難しくても、常にトップクラスの成績でいることは容易かった。

 書斎の扉に手をかけたところで、父さんが俺を呼び止めた。まだなにか話があるらしい。面倒だけど、面倒な顔はしなかった。首を傾げて、純粋に疑問を感じている息子を演出した。

「お前、恋人はいるのか」

「は」

 予想外にもほどがある。意味がわからず、俺は目を丸くした。随分突然の話題だが、父さんは変わらない厳格なオーラを纏い続けている。

「いるのか、いないのか」

「いないけど、急にどうしたんだよ」

「樹もそういう年頃だからな。深い意味はない。訊いてみただけだ」

「父さんは俺に恋人がいてもいい? 俺、お金持ちのお嬢様は選ばないかもしれないよ」

 冗談っぽく言ってみたけど、父さんは笑わなかった。無表情な人だから、今更驚くことはなかった。

 本当は「自分に選ぶ権利があるなら」と言ってやるつもりだった。けど、やめた。それは明らかに牙を剥き出しているし、貴方のことが嫌いですとアピールしているようなものだ。父さんもバカではないから、というか、バカだったら今日まで『有塚グループ』の繁栄を維持し続けることなんて無理だろうから、俺が密かに実の父に対して敵意を向けていることに気付いていないとはさすがに考えない。ばれているからと言って、今ここでその溝を深める必要はなかった。

 俺の縁談はきっと、俺の意思よりも会社の持続と影響が優先される。今のところ許婚はいないけど、年月が経てば、この父親に、どこか大きな企業の顔も知らない社長令嬢と形だけの見合いを組まれる。双方の親の同意と形式の本人承諾を以って役所に婚姻届を提出し、そして俺も父親となる。なんて順調に敷き詰められたレールだろう。俺はただ、父さんの言う通りにして、無心にそのレールの上を歩いていればいい。自分ではなにもしなくていいし、決めなくていい。誰もが羨む最高の人生だ。

 書斎を出ると、一気に疲労が押し寄せてきた。通りすがった使用人が、俺の目を見ず頭だけ下げた。無意識に口角が吊り上がった。最高の気分だった。この家に生まれたことが俺の、いや、人として生を受けた時点で与えられる可能性の中で最大の巡り合わせなのだ。俺は幸せだ。もう十分満喫した。もう終わりにしてしまいたい。

「もう俺なんかと関わらないほうが――」いつかの智生の声が鼓膜を震わせた。言葉を最後まで認識するのは、俺が自分の意思で拒否した。

 辿り着いた自室のドアを開け、内に篭った。後ろ手で鍵をかけると、全身から力が抜けた。息が切れている。走ってきたのかもしれない。もう覚えていなかった。

 勉強机の上に、メイドに預けた鞄が置かれてあった。ただっ広い部屋のただっ広い勉強机に安置された鞄が構成する風景は、どうしようもなく侘しかった。



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