七瀬 詩仁 15
二階までで階段を離れたのは、挨拶くらいして帰るかと思ったからだった。有塚のお見舞いのために、藤と三橋と三人でここまで来ていたのだ。さっきも一応手は振って別れたけれど、一応もう帰るからと声をかけておくくらい、別に普通のことだと思う。だから、黒川を見たのは偶然だった。黒川は、手に缶ジュースを二本持って、廊下の隅に配置された白い長椅子に座っていた。
事件に直接関係のない俺がお見舞いに来ているのだから、直接関係している黒川が有塚の様子を見にここまで来ているのは、不思議なことではなかった。考えるまでもなくそうわかるのに、俺は何故か不思議な気持ちになった。有塚の命を救ったのは黒川とは言え、黒川が有塚に人質扱いされていたことも紛れもない真実なのだから、俺だったらそうできるか、という置き換えの図式を瞬時に構築し、そしてノーの答えを出してしまったからかもしれない。少し時間が経てばイエスと言えたかもしれないけど、直後では、とてもではないけど事件関係者と顔を合わせたくない気がする。
「黒川……さん」
不意と疑念と不思議の感情が入り混じり、思いがけず、もの足りないボリュームで俺は呼びかけた。呼びかけたというか、思わず名前を口にした。当たり前のようにため口を聞いていた俺が言うのも妙だけれど、本人を前にして、年下の俺が堂々と呼び捨てるのもおかしい。いや、でも、有塚には既にしてしまっていることではあった。それはそれだ。年長者を呼ぶ際にくっつけるお尻尾を、ぎりぎりのところで俺は間に合わせる。
呼ばれたことに気付き、黒川は顔を上げた。前に見たときと同じ、薄い茶髪と赤縁の眼鏡だった。違うのは、薄く擦れたコートではなく、見るからにしっかりした作りの黒いかっこいいコートを着ていることだった。でも、少し疲れた顔つきだった。その疲弊した表情で、黒川は笑った。最初に俺に笑いかけてくれたときと、根底の同じ笑顔に見えた。
「来てくれてたんだな、詩仁。樹のお見舞い」
黒川は言い、自分の隣を軽く叩いた。空席になっているそこに、俺はおもむろに歩み寄った。すとんと腰を落とす。黒川は落ち着きなく缶ジュースを持ち直しながら、無理に明るく作ったような口調で訊ねてくる。
「ひとりで来たのか」
「友達と三人で来た。さっきまで屋上にいて、俺はもう帰るから有塚さんに声かけようと」
「そっか。ありがとな」
ありがとな、って。予想外にもほどがあるその一声に、俺は戸惑った。仮にも自分は被害者、友達は加害者の立場で、そんなこと普通に言えるものなのか。などとは訊けず、もちろん戸惑ったままでもいられないので、別の質問を俺はしてみる。
「黒川さんはひとりなの」
「智生でいいよ。二歳くらいしか違わないし。親のことは憎んでるけど、自分の名前はけっこう気に入ってるんだ。そこんとこは同じだな」
詩仁でいいよ、と俺が呼びかけたときと同じことを、この人は俺に言った。なにげなく発した俺の言葉をちゃんと覚えていてくれたことに、なんとなく俺は気恥ずかしくなった。
「じゃあさ、智生はひとり?」
言い直して問いかけてみると、智生は少し寂しそうに微笑んだ。力のない、ヒーローという異名に似つかわしくないその微笑に、なにか俺は引っかかりを覚えた。
「今はもうひとりだな」
「今はってなに。妹は一緒に来てないの」
「妹じゃなかった、ってことは、もう噂で広まってるのかな。いや、もう俺なんかに誰も興味ないかな」
いやにゆっくりした口調で、のんびりと智生は言った。俺は、少しだけ胸が痛くなった。智生が自覚している通り、もう誰も『灰色ヒーロー』に興味なんてない。みんなの興味は、まるごと『有塚グループ』の崩壊とその中心人物、企業の新しい後ろ盾である『上条財閥』と『萩原提携』の待遇、資本金、その他諸々の方面へと分散してしまった。中高生、中でも中学生の憧れの的だった『灰色ヒーロー』が身体を売っていた事実もすっかり割れてしまい、その理由がまったくもって知られていないわけではないにしろ、注目されるのはその所業ばかりだ。誰ひとりとして、ヒーローの本当の気持ちなど汲もうとすらしていなかった。学校の連中は学校の連中で、『有塚グループ』の御曹司様の有塚樹の情緒不安定や薬物異常摂取の事実、食を拒む癖、気性の荒さ、ほか綿密に隠し通されてきた素顔のギャップに興味津々だ。新学期はまだ始まっていなくても、情報社会のこのご時世、クラスメートの動向は嫌でも目についてしまう。
「誰も興味ないなら、むしろそっちのほうが都合いいんじゃないの。こう言い切るのにはさ」
一瞬、智生は不思議そうな顔をした。俺は前を向いて、自分の思うことを素直に口にした。さすがに目を合わせて言うのは、ちょっとだけ照れてしまう。
「自分で妹だって思うなら妹だろ。花菜ちゃん、だっけ。花菜ちゃんも智生のことを兄だって思うなら、確かに智生は兄だと俺は思う。他人がなんだかんだ言わないんだから、こういうときこそ自分の主観で決めつけたっていいよ」
「優しいんだな。そんなこと言ってくれるの、たぶん詩仁だけだ」
「花菜ちゃんにも訊いてみたらいいじゃん。簡単だよ、俺は兄だと思うか、って一言言ったらいいだけだし」
「花菜は『萩原提携』の社長さんが引き取った」
耳を疑った。突然すぎて驚いてしまい、変な声を出してしまうのを制御するのが大変だった。智生はそんな俺の様子を見て、ちょっと楽しそうに頬を緩ませた。
「だから、今はもうひとりなんだよ」
無論、言っていることは、全然楽しくなんかなかった。なんで、と問いかけて口を噤んだ。今そんなことを訊ねるなんて、人間の道理からはずれていると思った。智生の今までの生活、これからの生活を考えれば、そして資本家が実は親類でその人が引き取りたいと願うなら、智生が下した決断は、むしろ正しいことのような気がした。少なくとも世間よりは智生の気持ちを蔑ろにしていない自信があるのに、そんな答えしか出せない俺自身が、智生にとてつもなく申しわけなかった。
「いいんだ。俺、『萩原提携』の社長さんがずっと花菜を探してたこと、知ってたんだから。知ってて帰さなかった。誘拐にされなかっただけましだ」
「誘拐? 誘拐なんてそんなの」
『萩原提携』の社長が、人を探しているという噂。あれは本当だった。一連の事件の延長線上で、明らかになったことだった。でも、まさかその探している姪っ子が、黒川の妹だとは思わなかった。有塚はこの話を知らなかったけれど、真相を知って有塚だって驚いたと思う。
黒川は常に妹のために一生懸命だっただけだと言うのに、誘拐なんて酷すぎる。とんでもない単語が智生の口から飛び出したことに、俺は思わず抗議しかけた。智生は寂しそうな顔をしているくせに、同時に、これでよかったんだと安堵しているような目もしていた。どれが智生の本心なのか、いや、どれも智生の本心なのか。複雑に入り組んだ感情を読み取り、俺は途端になにも言えなくなった。
「花菜に納得してもらうの、すごく苦労したけどさ。それなら一緒に来て欲しいとか駄々捏ねて。行かないって言うと自分も行かないって言うし。俺だってできれば花菜と離れたくなかったけど、一緒にいたいっていう気持ちだけじゃ無理だ。本当言うと、いつまでこんな生活を続けられるのかって不安になってた部分もあったんだ。それに花菜は女の子だし、信頼できる女の人が家族にいなきゃならない。社長さん、俺のことも一緒に引き取るって言ってくれたけど」
「じゃあ一緒に行ったらよかったじゃないか。借金だってチャラになってるんだろ? 行ってこれからも花菜ちゃんの兄として振舞うのが、花菜ちゃんだって一番嬉しかったはずじゃ」
「俺だってちょっとはそう考えた。でも、それって調子よすぎる気がして」
一拍置いて、智生は言う。
「樹にも申しわけないだろ」
「なんで智生がそんなこと言ってるのか、俺、わかんない。妹が大事じゃないのかよ」
「大事だよ。それと同じで、親友だって大事だろ」
智生がひとりぼっちを選択しなければ、有塚に申しわけのない結果になるというのか。よくわからない。困惑を隠せない俺に、智生は、突然缶ジュースを一本差し出した。とりあえず俺は受け取った。林檎ジュースだった。
「癖でふたつ買っちゃったんだ。樹はこんなの飲まないし、俺もふたつはいらないし。やる」
「それは、まあ、嬉しいけど」
「うまいこと入れ違いになってたみたいだけど、俺も、さっきまで樹のところにいたんだ。で、ちょっと席外していろいろ考えてて、もうそろそろ帰ろうかと思ってた。樹のとこに行くから、詩仁、一緒に行くか」
それは別に構わない。俺だって、もともと有塚のところに行く予定だった。うん、と俺が返事をするのを、智生はきちんと待ってくれた。そして、嬉しそうに笑ってくれた。その笑顔は現実世界のどの部分に通じて保たれているものなのか、俺には、よくわからなかった。




