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黒川 智生 12

 空気の重みに耐え切れず、俺は無意識に両腕を摩っていた。俯いていた視線を少しだけ持ち上げ、樹に焦点を定めた。樹は窓の縁に頬杖を付いて、どうでもよさそうな目をしている。樹の狙いがなんなのかはわからないけれど、目的があってこうしているなら、どうでもいいことなんてあるわけがないのに。疑問を感じても、口には出せなかった。樹は、もう俺と会話するつもりはないようだった。

 部屋を満たす気体が、俺の全身を圧迫する。抱いた二の腕に、思わず爪を立てた。バスローブを通じて肌に伝わる微量な痛みと混ざり合い、どうしようもない緊張感が毛穴から内側に流れ込んでくる。俺は樹がなにをする気なのか理解していないし、理解していたとしても、それが穏やかでない目論見であることは今更疑いようもない。木村に初めて客を取ってもらったときよりも、明らかに緊張している自覚がある。初めてのことを、初めての客相手に、初めて商売にした。服を脱ぐ前、脱いでいる途中、脱がされている途中、何度も何度も逃げたくなった。怖くもなった。そうか、この感情は、緊張と言うよりも恐怖なのか。自分の現状を、俺の思考回路は、妙に冷静に分析した。あのままだったら確実に酷く道具扱いされていた俺を、樹は助けてくれたのに、その樹を俺は怖いと思っている。どこまでも無様で自分勝手で、冗談でもヒーローなどという呼び名に相応しくない自分自身が浮き上がってきて嫌になった。

 なんだかんだ言っていても、俺は、樹とはかなり長い時間を一緒に過ごしてきた。その中で、樹が学校でいじめられているなどという話は、一度として聞いたことがなかった。俺が覚えていないのではなく、樹は本当にそんなことを教えてくれなかったのだ。俺だって厄介ないじめの餌食になっていたのだから、その辛さを共有できる相手が誰かひとりでもいたら、ましてそれが樹だったなら、絶対に記憶していた。俺の友達は、今も昔もずっと樹だけだったのだから。

「智生」

 脈絡なく名前を呼ばれ、はっとして俺は顔を上げた。樹は相変わらず頬杖を付き、興味なさそうな目をしていた。もうこっちに話を振ってくることはないと思っていた分、俺は面食らった。そんな俺の驚きようには一言の言葉もくれず、樹は軽く息を吐き出した。

「いろいろ本当にごめん。もう楽になれるよ。楽にしてあげる」

「楽になれる?」

「殺すって意味じゃないから安心して。殺すにしても、それは智生じゃない。俺は智生だけは絶対、指一本触らないから」

 殺す。また物騒な単語が出てきた。ただでさえ耐えがたいその台詞が、樹の口から出てきたことはより一層耐えがたかった。両手を握り締めてなんとか堪え、渾身の厭味を込めて俺は言った。

「樹が誰かを殺すって言うなら、俺はそれだけで嫌だ。俺の目の前で、酷いことしないんだよな」

「できる限りは」

「できないこともあって、それをこれからするってことか。俺の目の前で」

 突き詰めると、樹は黙った。黙ったということは、樹は肯定したということだった。やっぱりそうだった。樹がここに呼んだのは父親だけだから、父親に対して、樹はなにか考えていることがある。しかも、ここまでの文脈だと、樹はたぶん父親を殺す気でいる。

 なんでだ。あらゆる思考と感情を振り払い、押しやって、圧倒的な存在感を放つ疑問符が頭のど真ん中に君臨する。なんでこんなことになってしまったのだろう。なんでこんなことにならなくてはいけなかったのか。ここまで来てしまったら、もう探るだけ無意味な原因を探ってしまう。言うまでもなく、その答えはくっきりと輪郭を持ってここに存在している。俺がいけなかった。すべて俺がいけなかったのだ。むしろ俺は樹を巻き込んだ。どうしようもない自責の念が、これでもかとばかりに脳内を埋め尽くしていく。俺のせいなのだ。俺が逆援なんてしてしまったから。母親の借金の取り立て役のこと、完全にお金に困ってしまったことを、素直に樹に相談していればよかった。妙な固意地や一方的な劣等感に押し潰されず、最初から樹を頼っていれば、こんなことにならなかった。そうしたら、夜遅くまで、家に花菜ひとりを残しておく必要だってなかった。もしくは、あのとき、親が警察の重鎮だという詩仁が心配して声をかけてきてくれたとき、自棄にならずに大人しく話を聞いてもらう判断ができていれば。少なくとも、今の状況よりはましなことになっていたはずだった。

 静かな空間に、ノックの音が反響した。俺は顔を上げた。樹は頬杖をやめて、冷静にドアを見つめていた。

「確認するけど、父さんひとりだよね。もし誰か別の人がついてるなら、今すぐ出て行ってもらって。言うこと聞いてくれないなら、人質殺しちゃうから」

 声と言葉遣いは綺麗だけど、言っていることはとんでもない。樹は腰を上げ、俺の傍に立った。物騒な宣言はしても、樹は俺だけは絶対に殺さないつもりでいるらしい。とりあえず今は人質役として、妙な抵抗をせずにじっとしておくべきだ。樹を止められるタイミングを見計らい、そのときだけ動いたほうが着実だ。絶対に樹を人殺しにさせてはならない、まして親殺しなんて、なにがなんでもどんな理由があろうとダメだ。

 数秒を挟んで、樹の父親は返事をしてきた。

「私ひとりだ。入るのを許可してもらえないか」

「本当にひとりなんだね」

「信じさせてやれないんだな。不甲斐ない父親で、本当にすまない」

 樹の親父さんの声は、きちんとまっすぐな芯が通っていた。けれど、どこか頼りなくやるせなかった。樹を盗み見た。樹は微かに瞳を震わせ、唇を震わせ、なにか言いたそうにして口を噤んだ。樹と俺の視線がぶつかった。樹は眉を下げて、呆れたように笑った。

「なんで謝るんだろうね。俺にずっと嫌われてることわかってただろうに、今更意味わかんない。智生はわかる?」

「俺の父親、誰なのかすらわからないんだぞ。俺にお前の親父さんのことなんてわかるはずないだろ」

「そうだね。ごめん。まさか謝罪されるなんて思わなかったから、ちょっとびっくりしちゃって」

 いいよ、入って。樹は少し声を張り、そう返した。ゆっくりとドアノブが回り、樹の親父さんが現われた。仕事中に無理矢理飛び出して駆けつけたような、乱れたスーツ姿だった。顔は特に憔悴しているでもなく、まるでこうなることを知っていたかのような冷静な瞳を湛えて樹を見据えていた。如何にも大財閥のトップと言わんばかりの、圧巻の存在感やオーラがあるとも言えなかった。つまり今の瞬間の樹の父親は、称号や経歴というものはなんの意味も持たない、単に樹の父親でしかないということだった。

 テレビや雑誌に何度か公表されているという話は聞いたことがあるけれど、俺は、このタイミングで初めて樹の親父さんを見た。左右の違いがあるだけで、目の下の黒子が樹と瓜二つだった。

「じゃあ、父さん。いきなりだけど、要求を呑んで。智生の母親の借金、チャラにして」

「え?」

 反応したのは俺だった。樹がなにを言っているのかわからなかった。そりゃ有塚は日本の三大財閥のひとつだし、その中でもかなり強大な権力を持っていることは俺も知っている。日本の経済をほとんどを牛耳っているのが有塚で、だからこそ、母親が金を借りた先は有塚の組織だったかもしれない可能性も、俺だって一度も考えなかったわけではなかった。

 でも、だって、あいつらはヤクザとしか言いようがない連中だった。実際に身体を売り始める前から、俺に執拗に商売を迫っていたくらいだった。あのヤクザと有塚を結びつけるなんて、そんなことは今までしたことがなかった――いや、もしかしたら、自分で気付かなかったけれど、意識してそうしていたのかもしれない。だって有塚は、あまりにも多くの事業に権限を持っている。そういう企業だからこそ、少しくらい黒い一面があっても、今の世の中、特別おかしいこととも思えなかった。

 と、いうよりも。なにも言わない樹と樹の親父さんを交互に見つめ、俺もまた口を閉じた。俺が母親に代わって金を返している先が樹のバックだなんて、そんなこと、俺が認められるはずがないじゃないか。ただでさえ、自分と樹の差を認識して惨めな気持ちになることが多かったというのに。それを認めてしまったら、俺の精神は絶対に保たなかった。樹だって、本当のことをずっと知っていたら、俺に対して気丈な振る舞いはできにくかったと思う。

 俺の輪姦のことも、借金の返済先のことも、花菜のことも、樹は一体どこで知ったのか。いくら心うちで樹に問いかけてみても、当然、樹から答えを聞きだせるはずもなかった。

「父さん、ずっと知ってただろ。智生の母親の借金、出先は有塚の金融会社だったって。それもヤクザまがいの、売りは十代の少年専門違法風俗店の後ろにいるチンピラ連中が取り立てしてるところ」

 樹の親父さんは、口を閉じたままだった。樹は続けて言う。

「自分で滅茶苦茶言ってるのはわかってる。智生の母親がそこから金を借りたっていうのは、紛れもない事実なんだし。その本人が蒸発してて、いろいろ巡って支払い義務が実の息子の智生にいったっていうのも、わかんなくはないんだけどさ。でも、智生は俺とほとんど同い年だよ。もう十分苦労したし、苦しんだし、挙句の果てには輪姦までされてるんだから、もういいじゃん。許してあげてよ。お願い」

「樹、俺、ちゃんと全部責任を持って返す」

「返せないだろ」

 俺の言葉を、ぴしゃりと樹は撥ねつけた。とても冷たい語調だった。予期せず突き刺された零度の言葉に、俺は思わず小さく跳ねてしまった。

「返せるわけないじゃん。現実見てよ。身体を売って、少しは稼げてるつもりになってるかもしれないけどさ。支払いに時間がかかる分、永遠に利子もついてくんだから。高校どころか義務教育だってまともに行ってない智生に、将来どんな大仕事ができるっていうんだよ」

 こいつ、なにを言い出すんだろう。酷いことを言われているのはわかる。けれど、怒るというよりは、樹が突然なにを言い出すのかわからなくて、俺は唖然と口を開けていた。

「『ネコシロ』で社員にしてくれるって話もあるみたいだけど、社員になったところで手取り十数万がやっと。今とほとんど変わらない、底辺の生活が続いてくだけじゃん」

「底辺?」

「そうだよ。自分でわかってるだろ」

「そりゃ、わかってるけど……でも、そんな言い方しなくたって……」

「うん、そう。こんな言い方しなくたっていい。こんなこと言わなくてもいいんだ。わかってるよ。ああ、そう、わかってる。わかってるんだよ、なにもかも!」

 対話が続いた最後、樹は声を荒げた。ぐしゃぐしゃと髪を掻き毟り、頭を振って、樹は喘いだ。どうしようもない自分の感情に、打ちのめされているようだった。樹は突然ポケットに手を突っ込み、なにかを取り出した。ケースから取り出された形で、乱雑に押し込まれた錠剤だった。樹はそれを口に押し込んだ。意味がわからなくて、度肝を抜かれた。硬直する俺を他所に、樹の親父さんが駆け出した。咄嗟の表情で樹の後ろに回り、樹の背中を叩こうとしている。樹はそんな親父さんを押しのけた。それと同時に、樹の喉が動いた。

「市販の頭痛薬。合法だから大丈夫。飲んだら安心するんだ」

 軽く息を切らしながら、樹は言った。平然とした口調だったけど、全然平然とした雰囲気ではなかった。こいつはまずい。早くなんとかしなくちゃいけない。そう思うけど、樹の行動は、あまりにも予想外だった。飲んだら安心する、と言い切るあたり、樹は以前から薬を飲み続けている。俺は、樹のことを全然知らない。

「で、どうなの、父さん。智生の借金、なかったことにしてくれるの」

「そんなことでいいなら、いくらでもする」

 間を挟まず、樹の親父さんは答えた。樹はかなり疲れた顔をしていたけれど、ここで少しだけ笑った。

「じゃあ、次の話。本当はこっちが本題なんだけどね」

 樹は俯いた。あくまで明るい口調で喋る樹が、俺にはとてつもなく痛々しく見えた。さっきとは反対側のポケットに手を突っ込み、樹は切り出した。

「父さんは、俺のこと愛してる?」

「もちろん」

「俺が今から父さんを殺すって言っても?」

 やっぱり。穏やかではない単語を含んだ台詞に、身が竦みそうになった。けれど、竦みそうになったのは俺だけだった。樹の親父さんは毅然と樹を見つめたままで、なんの身じろぎもなく直立を保っていた。

「もちろんだ」

 あっさりと会話が連続し、そして途切れた。樹は顔を上げた。あっけなく返ってきた親父さんの反応に、戸惑っている様子だった。

 態勢を立て直し、樹はにっこりと笑った。

「俺、父さんのことずっと嫌いだったよ。俺の話ほとんど聞いてくれなかったし、認めてくれてるふうでもなかったし、智生のことよく思ってもないし、仕事ばっかりで全然遊んでくれなかったし。母さんとも不仲極まりないし。しまいには、嫌だって言うのに女まであてがってくれて。こんなにいっぱい悪口言われても、まだ俺のこと好きなの?」

「当たり前だ」

「じゃあさ、俺が大事な智生のことも、大事だと思ってくれるよね」

「……そうだな。全部父さんのせいだ。すまなかった」

 言って、樹の親父さんは、樹に向かって深く頭を下げた。その後、俺に向かっても同じ角度で頭を下げた。俺はどうしたらいいのかわからなくて、黙るしかできなかった。樹を見やると、再度、樹は目を見開いていた。父親に謝罪されることは、本当に樹の予測の範疇の外の出来事のようだった。樹はたじろぎ、一歩下がった。

 突然、樹は乾燥した笑い声を転がした。無理に笑っているような、力のない笑い声だった。ついさっきまでと、樹の様子は少しだけ異なっていた。俺は相変わらずなにも言えず、ただ樹を視界の中心に置いているだけだった。

「ねえ。冗談よしてよ。なんでさっきから謝ってばっかなの。俺、父さんを本気で殺すつもりなんだけど。嘘じゃないよ。父さんを殺さないと、もう自分で自分をどうにもできない。なのに、謝らないでよ。わかんなくなってくるじゃん」

「父さんを殺すのか」

「そうだよ。そう言ってるだろ。それが本当の目的なんだから」

「結局ずっと一緒にいてやれないんだな。本当に謝るしかできない、悪い父親だ」

 自嘲っぽく、樹の親父さんは口元を緩ませた。殺すなら今すぐ殺していい、樹の親父さんは、そういう目をしていた。諦めた雰囲気でもなく、自棄になった雰囲気でもなかった。樹の親父さんは、純粋に優しく、少し困ったように眉を下げているだけだった。なんなんだ、これ。俺はどうしたらいいんだろう。樹は本当に、この親父さんを殺すのだろうか。情けない俺は、樹と樹の親父さんを交互に見つめるしかできなかった。樹はなにも言わず、ただひたすら目を見開いて、親父さんを凝視していた。

「離れて」

 やがて樹は、一言だけそう発した。樹の親父さんは頭を上げた。今度は樹が下を向いていた。樹はもう一度「離れて」と発した。樹の親父さんは、無言で数歩、樹から距離を取った。

 樹は片手で顔半分を覆い、カーディガンのポケットに突っ込んだもう片方の手を握り締めた。

「なんなんだよ。意味わかんない。バカじゃん。俺、あんたを殺すって言ってんだよ。わかんないの。なのに、なんでそんな仏サマみたいに構えちゃってんの。息子に殺されるのが嬉しいってわけ?」

「樹」

「嫌だ。呼ばないで。もう俺、どうかしそう」

 親父さんの声を、樹は遮った。

「なんでなんだよ。父さん、そういう人じゃないよ。俺のこと育ててきたのも、会社を継がせるためだけのくせに。跡取りのためだけの長男なのに」

「そんなことない。けど、お前がそう思うならそういうことだ。そんな思いをさせてすまない」

「だからそうやって謝るなって言ってるんだよ!」

 今までの樹の苛立った声とは、比べものにならないくらいに張り詰めた声だった。俺はびっくりしたけれど、さすがと言うべきなのか、樹の親父さんは動じた気配すらもなかった。

 携帯電話が震える音がした。音の位置からして、樹ではなく樹の親父さんのものらしかった。樹の親父さんは携帯電話の電源を切り、樹に一歩歩み寄った。

「殺さないのか?」

 樹の親父さんは、静かな口調で言った。樹は肯定も否定もせず、無言の状態を保っていた。更に一歩樹との距離を詰め、樹の親父さんは柔らかく声を発する。

「帰ろう、樹。帰って、父さんと話をしよう」

 樹は、まだ答えなかった。ポケットに突っ込んだままだった手を出した樹の視線の先は、その手の中に収められたナイフだった。刃を柄に収めたそれは、俺には、本来剥き出しだったはずの牙を巧妙に隠し続けていた樹の精神の具現化のようにも感じられた。

「帰ろう」

 再度、樹の親父さんは言葉を紡ぐ。樹は、ここでようやく反応を見せた。首を横に振り、樹は低く応じる。

「今更すぎる。俺、ここまでのことやってるんだよ。それも、有塚の名前公表して」

「そんなことはどうでもいい」

「よくない。本当にバカなんだね。有塚だけじゃなくて、俺、木村の孫にも酷いことしたんだよ。帰れるわけないじゃん」

「じゃあ帰らなくていい。別の場所で、ふたりでゆっくり話そう。凝縮三倍、砂糖もミルクもなしのブラックコーヒーが好きだったな」

 樹の親父さんが言い終えたのと同じタイミングで、樹は息をついて目を丸くした。樹のその表情がどういう意味なのか、父親のいない俺にもすぐにわかった。樹はずっと父親が自分の好みを知っているはずがないと認識していて、それが今覆った。あまりにもわかりやすい、本当に中学生が絵に描いたような簡単な構図だった。簡単な構図だったけれど、今この段階に至るまでに、とてつもない感情と時間と疑心を消耗し続けてきた。そういう「内側のこと」を、三度、樹が親父さんから目を逸らして零した一滴の涙が、はっきりと照明していた。

「それ、もっと早く言って欲しかった。女なんかいらないから、もうちょっとだけ早く言ってくれてたらよかった。そしたら、俺、まだ間に合った。今更言われたって遅い」

 なにげなく、俺は壁の時計を確認した。まだ十時にはなっていなかった。樹が俺を助けにここまで来て、一時間経っていないということだった。俺には、先の見えない大変な長い道のりだったように思えた。

 遅くない、大丈夫だ。そう言って、樹の親父さんが歩み寄ってきた。もう遅い、大丈夫じゃない、と震える声で言う樹を、親父さんが背中から抱き寄せる。樹は、親父さんの腕の中に、すっぽりと収まった。ああ、よかった。寄り添う父子の姿に安堵して、俺は胸を撫で下ろした。樹は父親を殺さなかった。俺の出る幕はなかった。拍子抜けしたけど、なによりだった。

 事件は事件として扱われるけれど、少なくとも、樹と親父さんの間の溝は、これで少し埋められた。樹にはそれなりの警察の対処がされるし、樹が名前を出してしまっている以上、『有塚グループ』は無事では済まない。でも、今だけはそんな事情を考えず、友達とその父親の前進を祝福したかった。ずっと辛い思いをしてきた樹なのだから、それくらいは許されてもいいと思う。ほかの誰もが許さなくても、俺だけは許して認めてやりたい。たとえ、それが理不尽で自分勝手で救いようなくどうしようもない、ただの子どもの我儘に過ぎないとしても。

 一気に全身から力が抜けて、俺は傍らのベッドに腰を落とした。その瞬間、目は伏せていた。鈍い声が耳を抜けたのは、まさにそのときだった。

 驚いて顔を上げた。視界に飛び込んできた赤色に視線を引っ張られ、その先を辿った。樹の親父さんの白いワイシャツが、腹から真っ赤に染まっていくところだった。

 親父さんの腹からナイフを抜くと、樹はその刃先を見つめた。目を見開き、膝をついて、樹を見上げる親父さんに、樹は目をくれなかった。

「言ったじゃん。今更遅いって」

 樹の乾いた声は、乾いた空気を伝って一瞬で部屋中を満たした。口から血を零しながら、樹の親父さんは微かに問うた。樹は、掴みどころのない平坦な口調で答えを述べる。

「俺はもう、既にそういう人間になっちゃってるってこと。父さんの本心を知っても、俺ってこの程度のこういう人間。ごめんね、父さん」

 それと、もうひとつ。樹は言葉を次いだ間に、樹の親父さんが倒れた。意味がわからない。ふたりとも和解して、納得したように確かに見えたのに。なのに樹は、予定通り父親を刺した。混乱する脳内を、必死に俺は制御する。

 助けなきゃ。樹と血の繋がったこの人を、俺は絶対に助けないといけない。駆け寄ろうとした俺を、樹は片手で制した。その手を俺は押しのけ、樹の親父さんに手を伸ばした。樹は、俺のその手を更にはたき落とした。

 構っている暇はない、と樹を睨みつけた。樹は動じず、どういうわけか口元を綻ばせた。

「ここまで付き合わせてごめん。見ててくれてありがとう。今までの分全部、本当にありがとう。それじゃあね、さよなら」

 さよなら? 突然出てきたお別れの挨拶に、一瞬、俺は立ち尽くした。さよならってなんだ。突飛過ぎる現実に直面してなにも言えなくなった俺を他所に、樹はまた親父さんに向き直った。血をたくさん流しながらも、樹の親父さんには、まだ意識があった。

「父さんもごめんね。バカで悪いこんな息子で。さよなら。ありがとう」

 またの「さよなら」。その単語をここで樹が発した意味を、バカな俺は、すぐには理解できなかった。未だ生暖かく血が伝う刃先を、樹は自分の胸に向けていた。「さよなら」も「ありがとう」も、どうしてそういうことになるのも、その刹那に理解した。ダメだ。やめろ。念じても、どうにもできなかった。叫んだかもしれなかった。俺が動いたその頃には、刃は既に樹を貫いていた。ぼたぼたと鮮血を床に落とし、親父さんと同じように、樹は膝を折って崩れた。その姿に、樹の親父さんが、目を大きく開ききった。力の抜けた樹の身体が音をたてて床に落ちるのを、俺は、見ていることしかできなかった。


もう少しで終わるよ。

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