有塚 樹 16
細く情けなく呼吸している、床に倒れている男を一瞥した。智生には滅茶苦茶に殴っていたように見えただろうけど、実際にはそうではなかった。鼻の頭は外しているし、眼球そのものへの攻撃も避けた。一応、死なないように加減はした。とは言っても、この状態で放っておけば、そのうち死ぬ。今この場で死ぬことのないようにしただけで、適切な治療を施さなければ結末は同じことだった。部屋のドアの前に立っていた男――ツカサの情報によると、木村の実の孫は、背後から衝撃を加えて気絶させただけだから、とりあえず死ぬことはないはずだ。本当は、智生を陵辱した男と同じようにしてやるつもりだった。木村の孫に恨みはないけれど、そうしないと、俺が木村の意識を切り離すことができなかった。俺は木村を裏切るのだから、最も木村が精神的ダメージを受けることをする必要があった。でも、どうにも木村の顔が頭にちらついた。結局意識を落とさせただけで、それ以上のことはできなかった。こんなことをしてまだどうにかなる、最終的には周囲がなんとかしてくれると思っている自分の甘さ、骨の髄に染み込んだお坊ちゃんの都合のよさが嫌になった。できないのだから仕方ない。計画を変えて、気絶した木村の孫は、部屋に踏み込むついでの脅し代わりに利用することにした。部屋の連中は、あの慄いた表情からすると、俺が既に一人殺害しているように見えたと思う。小物ヤクザだ。俺が男を殴っているところに、智生が止めに入ってくるのも予想通りだった。コトの運びは、今のところ順調だった。
横目で見やってみると、智生は俯いていた。紙袋の持ち手を握りしめ、きつく唇を結んでいる。冷静になっているのか、俺が怖くて仕方がないのか。その恐怖は、人殺しまがいである俺と、率直に言うとレイプ犯まがいの俺の、どちらに向かう恐怖なのか。或いは両方か。確かめる気はないし、別にどれが真実でも構わない。
ポケットから携帯電話を取り出した。屋敷から七件、見慣れない番号、たぶん警察関係者から四件、父さんから十一件の着信履歴が残されている。三人の姉さんたちからの着信、メールもたくさんあった。でも、父さんのアクションが一番多かった。そのことに、特に驚きもしなかった。父さんだって一人の父さんだし、むしろあの男からの連絡が最多でなければ俺の計画は破綻してしまう。ここまでは問題ない。サイレントモードをオフにして、バイブモードの設定し直す。警察関係者の番号を呼び出した。耳に当てると、すぐに応答された。
「人質を取りました」
一言、無機質に告げた。智生が勢いよく顔を上げた空気と、通話口の向こうのどよめいた空気が一挙に俺の全身に流れ込む。構わず、俺は続けた。
「人質は俺の友人です。言うことを聞いてください。少しでも不穏な動きをしたら、即刻この人質を殺します。後で人質の家族も殺します。皆さん、俺が十八歳の子どもということはおわかりとは思いますけど」
一度口を噤み、相手方の反応を窺った。信じられない、といった表情で智生は俺を凝視していた。智生にそんな顔をされるのは辛いけど、俺だってもう引き返すわけにはいかないのだ。歯を食い縛り、俺は次の言葉を吐き出した。
「ガキだと思って見くびらないでください」
もちろんハッタリだ。大人数で突入されたら、一発で終わりだ。でも、向こうはとっくに俺が有塚の長男だとわかっている。現在進行形の事件の犯人は、有塚の長男。たったそれだけの情報で、大人にとっての条件はかなり変わる。俺にとっては有利なことだ。俺のことはさっさと調べ上げるだろうから、俺の勉強の成績や家での生活、考え方、その他諸々割れる。学校も父さんの会社も、今頃大騒ぎしているはずだ。警察の上の奴らは、過去に金で揉み消された俺が起こした傷害事件が浮き彫りになることを気にするだろうし、マスコミはそれを暴こうとする。なんと言っても、俺は有塚の長男なのだ。その辺のガキが起こした立てこもり事件とは、まったくわけが違う扱われ方をされる。今まで嫌い尽くしてきたこの自分の肩書きを、ここにきてフル活用することになるとは。あまりの皮肉に、自分で笑えてきてしまう。
「俺は今、二○六号室にいます。俺が暴行して自分で動けない人間が二人いるので、必要な処置をお願いします。俺と人質は、今からこのホテルの最奥の部屋、四一八号室に移動します。怪我人はとりあえず死なないように力加減はしてますから、そちらの移動は五分後に開始してください。いいですか、間違いなく言うことを聞いてください。二人を運び出すこと以外は許しません。こちらの移動が終わり、そちらも指示されたことをきちんと実行したと判断すれば、こちらからまた連絡します。失礼します」
「人質ってなに」
親指が通話を切断すると同時に、智生は問いかけてきた。予測できていた展開だった、けれどどうにも気分が重たい。軽く息を吐いてから、俺は智生に向き直る。
「なんだよ、殺すって。お前正気か? 俺と花菜を殺すって言うのか。さっき、酷いことしないって言ってた」
「そう言うしかないだろ。とりあえず、俺が人質として無理矢理連行したことにしないと」
「俺を助けに来てくれたんじゃないのか? 俺のヒーローなんだろ?」
当たり前のように智生はその単語を、疑問系で発した。ヒーロー、というたった四文字の音の繋がりを、俺は、口の中で噛み締めた。俺が自分で自分を称した。だから智生も、俺をそう称した。不可思議な点はひとつもなかった。
「お前、なにするつもりだ」
智生の質問に、用意できる答えはなかった。口篭る俺に、智生は一瞬、詰めよりかけた。詰めよりかけただけで、なにも言わなかった。普通ならなにか言い続けそうなものだけれど、そして智生が黙ってしまったことに少しの寂しさを感じたのは本当だけど、今だけはこれ以上の最良の展開はない。智生にはなにも言わないで欲しい。俺は智生の声なら聞いてしまう。もう俺は引き返せないのだから、余計な心の揺らぎは避けたい。
廊下に出て、誰もいない通路を進む。二歩遅れて、智生がついてきた。智生は裸足だった。俺は振り返り、スリッパ持ってこようか、と一応声をかけた。智生は無言で首を横に振った。俺はそれ以上なにも言わず、自分のスリッパの音だけを響かせて足を進めた。
「誰もいないんだな」
階段を上っていると、智生が口を開いた。静かで低い声だった。俺は軽く頷いた。
「フロントの人を脅して、ここの一階以外には誰もいなくなるようにした。智生がいた部屋と、部屋の前にいた見張り役ひとりを除いて。ナイフ突きつけて、言う通りにしなければ、まずこの場にいる全員を殺して、その後客も従業員も皆殺しにするって言ってね」
「よくそんなので言うこと聞いてもらえたな。今のご時世、大人数を相手にナイフ一本で皆殺しなんて芸当できると思うか。何人かに後ろから押さえつけられて終わりだろ」
「俺が有塚の長男ってことを主張して、ガキだからって甘く見るなって言って適当に物騒なことを嘯けば聞いてくれるよ。幸いなことに、俺、成績いいからね。全国模試なら、悪くても上位二十人に入るくらいには」
つまり、俺には、爆弾のひとつやふたつくらいは作って設置できるだけの能力はある。それもひとつの脅しになる。そういう意図を込めて、成績の話をした。智生は特になにも言わなかった。智生のそんな反応に、俺が不満を覚えるはずもなかった。
実のところ、俺だって驚いている。智生が言ったことは本当にその通りで、よくこんなことで言いなりになってくれた、と自分でも思っているのだ。あまりにも簡単に計画が計画通りに進む。予定外があったとすれば、木村の孫を前にして思い切れなかったことくらいだ。それすらも臨機応変で立ち回り、智生がいる部屋に辿り着けた。俺の中に根ざした木村の存在感はあまりにも大きいけれど、こうなった以上、ひたすら無視を決め込むしかなかった。何度でも念じて、自分に言い聞かせた。俺はもう引き返せないのだから、やると決めたことをきちんと最後までやり抜くしかない。
四一八号室に着いた。先に智生を中に入れて、後に俺が続く形を取る。ドアを閉め、施錠はせずに、傍にあった机に付属していた椅子に腰かけた。突っ立っていた智生も、俺がなにか言う前にベッドに座った。外の様子などまったくもってどうでもいいのか、智生は、わざと窓際に落ち着いている俺に一瞥すらくれずに俯いたままだった。手に持っていた紙袋は、静かに床に置かれた。
壁にかけてある時計を見やった。そろそろさっきの番号に連絡を入れてもいい頃合だけれど、その前に、少しだけ智生と話がしたかった。ズボンのポケットの中で携帯電話が震えていた。一定時間の後もバイブは持続していたから、メールではなく電話だった。指先で操作して呼び出しを遮断し、相手方に、こちらの応じる意思はとりあえず皆無であることを伝えた。誰が電話をよこしているのかまではわからないけれど、応答を拒否していることがひとりに伝われば、俺に連絡してくるほかの奴らにもそれがわかるはずだ。こちらからまたすぐにかけると言ってあるのだから、俺のせいで大変なことになってしまったことはわかるけれど、少しだけ辛抱して待っていて欲しい。
「智生」
「俺のせいか」
名前を呼んだだけで、智生は低くそう返してきた。どう考えても穏やかでないムードだった。それは当たり前のことだった。智生にとって俺はヒーローでもなんでもなく、ただの犯罪者なのだから。
「俺のせいだよな。俺が金もらってやりまくって、やられまくってたから」
「智生のせいじゃない。確かに一度は智生を助けたけど、それも俺が俺のためにやったことだから。謝るのはこっちのほう。巻き込んでごめん」
「樹が樹のためにやってること、っていうのは、人に言えないようなことはなんにもしたことがないような俺のままで、その俺が今もここにいなかったとしても、変わらず起こってることなのか」
「そういう問答はきりがない。最終的には、全部自分が悪かったって結果になりがちだね。やめたほうがいい」
「最悪の気分だな。しゃぶってたほうが数百倍まし」
「誰のを?」
「誰のでも」
間髪を入れずに返された智生の言葉に、俺は一瞬、息が詰まった。わかっていたことではあるけれど、ただわかっているだけと実際に聞くのは違う。無意識に拳を握り締め、そして解いた。俺は詫びるしかなかった。詫びたところで、今更どうにもならなかった。
頭上に降り積もる妄想と苛々と激昂と諦念を振り払うべく、俺は長く息を吐き出した。そんなことをしても、楽になる感情はなにもなかった。それもまた仕方のないことだった。窓辺に頬杖をつき、俺は、いつも通りの口調で言った。
「智生は、なんで施設のお世話にならなかったの」
「は」
お前がなにを言い出したのかわからない、といった表情で、智生は口を開いた。まあ、なんの脈絡もなく突然そんなことを言われたら、普通はそういう反応になるだろうなと俺は呑気に構えている。突飛な質問に冷静な対処をされたほうが、質問者としては拍子抜けだった。
予想に沿った智生のリアクションが少し楽しくて、俺は嬉々として話を続ける。
「ならなかった、というか、今でもその気になったら施設に入れるよね。この前十七になったところだし、場所によっては二十歳くらいまでは面倒見てもらえるし。この辺りでも、ちょっとバス使えば孤児院あるけど」
「いきなりなに言ってんだよ。なんで急にそんな話に」
「施設に入ったら、自分と花菜ちゃんがまったくの他人だってことがばれちゃうから?」
俺の言葉が途切れた直後、智生の瞳が小さく揺れた。
たたみかけるように俺は言う。
「ばれちゃったら、智生と花菜ちゃんは一緒にいられないもんね。いられたとしても、兄妹じゃない。花菜ちゃん、今現在の『萩原提携』の社長と直接の家族ではないけど、その血筋のお嬢様なんだろ」
「なんだよ。なに言い出してんだよ。お前、本当に頭がおかしく」
「とぼけないでいいよ。俺、全部知ってる」
智生の声を途中で切り、俺は、飽くまでいつもの口調で伝えた。智生は目を大きく開けて、なにか言い出しそうに口を動かしている。でも、実際にはなにも言わなかった。言えなかったのかもしれない。俺は続けた。
「俺も相当酷いけど、智生も相当酷いね。『萩原提携』の社長さん、ずっとひとりで必死に姪っ子を探してるってさ。脳に障害があるために『萩原提携』に相応しくない、そう言われて虐げられて放置されて家を飛び出して、それから姿を消した、たったひとりの姪っ子をさ。社長さんと姪っ子の面識はほとんどないって話だけど、家族だからほっとけないんだろうね。あの社長さん、すごいよ」
「……『萩原提携』の血筋なんて、最初は知らなかった。俺と同じで、望まれずに生まれてきて、親もいなくてどこにも居場所なんてなくて、だから一緒にいようと思ったんだ。あの女、俺がぼろアパートに花菜を連れて帰ったときもなにも言わなかった。家族にも平然と娘だとか言ってて」
「どうして。智生のお母さん、智生には全然興味なかったんだろ」
「知らない、そんなの。でも、そのこととあの女の家族がずっとお互いに他人状態だったこと、みんながみんなに興味がなくて、なにも知らなかったことが幸いした。俺は花菜と兄妹ってことでずっと一緒にいられたし、誰もそれを疑わなかった。花菜が萩原の一族だってわかってたら、あいつら、なんとか花菜をだしにして金を搾り取ろうとしてたと思う」
ツカサが書き連ねた通りの内容を、智生はなぞるように告白してくれる。あいつの情報網は疑う箇所などどこにもない、まさに完璧の砦だ。智生に気付かれないように、視線を落として俺は小さく口角を吊り上げた。あいつを敵に回すと厄介どころではなく、空恐ろしいことがよくわかった。まあ、あいつの性格の悪さを考えると、こちらがまったく考えつかないような理由と理屈で勝手に敵に回ってしまう可能性も、なきにしもあらずなのだけれど。
「智生は、どこで花菜ちゃんが萩原の人間だって知ったの」
「会って少し、まだあの女と一緒に住んでた頃。最初は、花菜っていう下の名前しか教えてくれなかった。名字はないって言ってた。俺も小さかったし、しばらくは気にしなかった。花菜を連れてよく近くの公園にも行ってたし、家族が探してるならそのとき見つけてくれると思ったし。でも、家族らしき人は誰も花菜を迎えに来なかった。やっぱり気になって、もう一度訊いた。花菜はやっぱり名字はないって言ってた。根気強く訊いたら、やっと教えてくれた。もうあの家には帰りたくないって言ってた」
「花菜ちゃんのこと、『萩原提携』の社長さんが探してることは知ってたの」
「噂程度に。花菜に話したこともある。でも、花菜が俺といたいって言ってくれてた。どんなに貧乏でも、毎日おかずがキャベツかもやしくらいしかなくても、もう今までずっと一緒にいたから俺と一緒がいいんだって。花菜がいなければどれだけ楽かって何度も考えたことあるけど、俺だって花菜がいたから今まで頑張って生活できてた」
「でも、それって結局花菜ちゃんのためにならないってわかってたんだろ」
びく、と、智生の肩が僅かに震えた。その反応も、俺の予測通りだった。花菜ちゃんが萩原の一族と判明した時点で、智生は何らかの形で萩原に連絡を取るべきだったのだ。話しようによっては、直接『萩原提携』の社長と顔を合わせることもできたかもしれなかった。ほかの家族が捨て置いた子どもである花菜ちゃんを引き取りたいと言うくらいなのだから、花菜ちゃんが萩原の屋敷に戻ってさえいれば、社長さんがいろいろな計らいをしてくれたと思う。もしかしたら、智生のことも考えてくれたかもしれない。偽りとは言え、智生は花菜ちゃんの兄として通っていたのだから、養子として受け入れてくれた可能性すらあるのだ。最初からそれをあてにするのもおかしな話だけれど、ともかく、智生は選択を誤った。テレビもパソコンもないアパートで寝て、学校に行かずにバイトをして、母親の残した借金を肩代わりさせられて、必死に生活をして。母親がお世話になった金貸しがろくでもない組織だったために身体まで売り飛ばし、ようやく得たお金でやっと生活できると安堵したら、今度はそのろくでもない組織に商品として目をつけられて好き勝手に客を取られ、挙句の果てには報酬なし、組織のメンバーの性欲処理のためだけに呼び出されて輪姦される。不可抗力もあるし、どうすることもできなかった面が多いことも事実だけれど、どう考えても俺は、智生が花菜ちゃんのために正しい道を切り拓いてきた結論には至れなかった。
智生は目を見開いて俺を見つめ、やがて唇を噛んで視線を下げた。そして、再度少しだけ、顔を元の位置に戻した。智生は、消え入りそうな声で呟いた。
「寂しかったんだ」
静かな口調は、静かな室内によく響いた。同じトーンで、智生は言った。
「俺だって誰かと一緒に家に帰ったり、お菓子を食べたり、話したりしたかった。親だっていて欲しかった。でも母親はあんなのだし、父親は誰なのか全然わからないし、そんなのだから友達できないどころかいじめられてたし、本当に寂しかっただけなんだ。花菜は俺を必要としてくれたし、懐いてもくれた。全然血の繋がってない子を妹だって言ったから、いじめは余計酷くなったけど、それに耐えられたのだって花菜がいたからなんだよ」
「俺はいじめ、ひとりで耐えたよ」
「それは樹ができたことだろ。俺にはできなかった」
勢いをつけて、智生は顔を上げた。如何にも俺の言葉が気に入らない、気に入らないから思わず反論してしまった、と言った風体だった。俺が応じる前に、智生は、小さく息をついた。はっと我に返った様子で、智生は微かに眉を顰めて俺を見つめた。智生からすれば俺が不思議だったようだけれど、俺にとっては、智生は全然不思議ではなかった。智生がそういう表情の変化を見せることも、俺には軽く予想できていたことだった。
「なんで樹がいじめられるんだ。俺と違ってちゃんと親がいるし、捨て置かれてもない。とんでもない大金持ちで、勉強もできて、運動もできて、目も悪くなくてそんなに綺麗な声なのに」
「ちゃんと親がいるっていうのは、ちょっと違うけど。母さんと父さんはずっと別居中だし。でも、褒めてくれてるんだよね。ありがとう」
「茶化すな、バカ」
ある時期まで、俺も学校で酷いいじめに遭っていた。そんな話は、今までに一度も智生にしたことがなかった。俺が漏らしたその一言に、智生は大袈裟なまでの反応を見せる。穏やかな話題ではないけれど、好きな人が自分に興味を持ってくれること自体は、素直に嬉しかった。となると、多少の意地悪もしてみたかった。知りたがる智生に答えは示さず、俺はただ笑ってみせた。俺にいじめを受けた経験があることが余程衝撃的だったのか、智生は呆然と俺を見据えていた。
俺も智生も、一言も言葉を発さない空間だった。外側は騒がしいけれど、この内側は確かに静寂だった。心地のよい無音が途切れてしまうのは名残惜しいけれど、いい加減で頃合を見計らう必要があった。脅しているとは言ってもほぼ出任せで、こうしている今の間にでも、大人たちが数を揃えて突入してくるかもしれないのだ。そりゃ有塚の長男が相手となれば、くだらないハッタリでも少しは時間稼ぎになるだろう。こっちだって、そうと踏んで勝負に出ている。俺に有塚の名がなければ、こんな穴だらけの無茶ぶりな行為に及んではいなかった。だからと言って、子ども騙しのハッタリ戦法で、いい大人をいつまでも誤魔化し通せるとも思っているわけでもなかった。そのうち力技で強行され、そうしたら俺に勝ち目がないことも重々承知だ。だから、その前に、俺にはやり遂げなければならないことがある。
智生との会話は終わった。携帯電話を操作して、外との連絡用の番号を呼び出した。一コール鳴り終わらないうちに通話が始まった。軽く息を吸い込んで、ポケットの中のアメの包装紙を包んだハンドタオルを握り締めて、俺は要求した。
「有塚草次――俺の父親を、ひとりでここに向かわせてください。今すぐに、必ずひとりで。四一八号室で待ってますから」




