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七瀬 詩仁 2

「藤君、ごきげんよう!」

 廊下側の窓から身を乗り出し、有塚は優雅に手を振った。無意識に俺は時間を確認した。確認などしなくても、今が昼休みであることはわかりきっていた。有塚の機嫌よさそうな顔を見ると、時計を見上げる癖がついてしまった。

 藤は無言で席を立ち、有塚に挨拶をする生徒たちの間を縫った。藤が窓から離れるよう合図をすると、有塚は素直に一歩退いた。この人は、藤とやり取りは成立すればなんでもいいのだろうか。ここから藤がなにをするか、頭のいい有塚には察しがつくだろうに、気持ち悪いくらいに奴は笑顔を保っている。

 勢いよく窓を閉めて鍵をかけ、ついでなのか藤は教室の出入り口まで施錠した。ガラス張りの向こうで、あははは、と有塚は笑った。俺は、この人のことがいよいよ理解できない。

 藤が席に着いたのを確認してから、近場の生徒が窓と出入り口を開放した。その生徒にお礼を述べて、有塚は何事もなかったかのように教室に踏み込んでくる。あんた高等部だろ。どれだけ暇なんだ。

「いきなり拒絶なんて酷いじゃないか、藤君ったら」

「拒絶される要因がわからないなら、あなたは救いようのないバカってことになりますが」

「俺がバカか。確かにそれは言えてるかも」

 意外なことに、有塚はあっさりと肯定した。それに対し、複数のクラスメートが突っ込んでいる。有塚は頬を緩ませるだけだった。ほかのクラスメートが指を追って有塚のスキルを数えている。辻ノ瀬学園内でのテストの成績、全国模試の結果、当たり前のように万能なスポーツと堪能な英語とフランス語。音楽技術。まるで小説から飛び出してきたような天才。いや、有塚の場合は、幼い頃から骨の髄に染み込むほど勉強を重ねてきたという話だから秀才と呼ぶのが正しいか。

「みんなすごいことみたいに言ってるけど、実際すごいとは思うけど、有塚さんはそういうふうに育てられただけでしょ」

 俺の脳内を読み取ったかのように、三橋はぼそりと呟いた。こいつが突然読心術を試みたような発言をするのは別段珍しいことでもないので、さして俺は驚かなかった。そんなことより、今日の三橋は漫画を読んでいないしゲームもしていない。真面目になったのではなく、先生に不真面目がばれた。ざまあみろ。

「それを考えると、忠勝君はやっぱり天才なんだろうね」

「頭のいい人間同士が引き合ってる?」

「引き合ってないじゃん。有塚さんが一方的に忠勝君に付き纏ってるだけじゃん」

「言えてる」

「有塚さんってさ、自虐趣味なの?」

 俺が知るか。すかさず言ってやりたくなかったが留まった。どう考えてもそんな言葉に繋がる会話ではなかった。三橋の脳内回路が気になる。訊ねてみると、三橋は頬杖をついて答えた。

「頑なに笑顔なのが自棄っぽいかな、と思って」

「俺が似たようなこと言ったら、有塚さんのこと好きなの、とかお前ほざいたよな」

「そうだったかな」

「お前友達いないだろ?」

「七瀬こそ友達いないから僕に構うくせに」

「最低限お前よりはいる」

 ああそう、と三橋は受け流した。いちいち癪に障る態度を取るが、こいつはそういうキャラだ。慣れというのは強大である。

「ねえねえ藤君。藤君はさ、恋愛についてどう考えてる? やっぱり男は女と、女は男と付き合うべきだって思う?」

 単純にして直球な有塚の質問に、教室中がざわめいた。藤は有塚に視線を向けず、鬱陶しそうに答える。

「そりゃ普通はそうでしょう。同性婚は今の日本じゃ認められてないし」

「もう嫌だな、藤君。結婚の話はしてないだろ。確かに現代日本じゃ同性婚はできないけど、お互い同意してさえいれば恋人の関係になるのはありだと思わない?」

「それ、誰との仲を妄想して言ってるんですか」

「内緒かな、そこんところは」

 テンション高く藤に迫った有塚は、同じテンションで笑って締める。教室の空気が再度沸いた。空気読めよ藤、とお調子者がキーの高い声を飛ばした。なんなんだ。いい加減でこの雰囲気が鬱陶しいが、有塚の声はやっぱり綺麗だと思った。男だと思って聞けば男だけど、女だと思い込めば女に聞こえないこともない。それくらい中性的な声なのだ。ちゃんと正常に変声したのか、無駄に心配になってきてしまう。

 有塚と『灰色ヒーロー』が幼馴染であるということを除けば、この二人はなんの結びつきもない。でも、有塚を見るとどうしても『灰色ヒーロー』を連想してしまう。それは俺だけではないはずだ。

 『灰色ヒーロー』は、悪い奴から助けてくれるといういい噂だけで防護されているわけではなかった。よくない噂と称するほどのことでもないが、なんでも『灰色ヒーロー』は安い、というかぼろくて狭いアパートに脳に障害のある妹と二人で暮らしているらしい。もともと未婚の母のもとに生まれつき、放蕩癖のあるその母親はふらふらと男を渡り歩いた末に二人目を出産、つまりそれが妹なわけだ。要するに『灰色ヒーロー』の妹は半妹である。そして当の母親はまた別の男とさっさと蒸発、実質的には『灰色ヒーロー』とその半妹は捨てられた子どもである、と。

 ここまでよくできた、いや、ベタな悲劇があるものか。俺の率直な感想はそれだった。この物語のソースは三橋だが、こいつがそんな趣味の悪い創作を語る口とも思えないので、信じるか信じないかで言うなら俺は信じている。単に俺は三橋から聞いたというだけで、その三橋も噂で聞いたと言うだけだから信憑性は怪しいけれど。『灰色ヒーロー』に憧れるギャラリーどもは、深く考えることなくそのエピソードを鵜呑みにして悲劇性に酔っているというわけだ。実際、目撃者情報によると『灰色ヒーロー』の自宅は外装の剥がれたアパートで、兄妹以外の誰かが住んでいる空気はないそうだ。『灰色ヒーロー』が近場のスーパーでキャベツや卵、洗剤などをカゴに入れている様子も確認されている。ソースはやっぱり三橋だ。ここまで来ると、全部お前が『灰色ヒーロー』を尾行して広めた話じゃないのかと問い質したくなってくる。

「ねえ、七瀬」

 出し抜けに名前を呼ばれた俺は、気の向くままに三橋に一粒キャラメルを分けた。三橋は当たり前のようにそれを口に含み、きちんと噛んで吞み込んだ。

「みんなは智生さんに夢中だけど、有塚さんにも噂があること知ってる?」

「ホモ?」

「それは周知の事実だね」

 冷静な返答に、ノリの悪い奴だなと改めて認識しながら俺は三橋を促した。三橋は細い黒髪を指で弄りながら、噂というか紛うことなき真実なんだけどね、と前置きをする。

「有塚さんね、煙草吸うんだよ」

「え、本当に」

「見たもん、僕。ズボンのポケット見て。四角く膨れてるでしょ。あれ、煙草の箱」

 言われるままに俺は身を乗り出し、有塚の腰を凝視した。確かにちょっと四角形に膨れているようには見えるが、いや、あれは携帯電話だろ。となれば反対側なのか。執拗に藤に絡む有塚の死角側を覗くのは、この場所からだと不可能だ。どうしても真偽を確かめたい俺は席を立ち、有塚の周りをぐるぐる廻る。藤以外アウトオブ眼中だと思っていた有塚が、いつも通りの優しい笑顔を向けてきた。不覚にも少しどきっとしてしまった。

「どうしたの、七瀬君。そんなに俺のことが気になる?」

「いや、あの、三橋が有塚さんが煙草持ってるって言ってて」

 なに動揺してるんだ、俺は。でも上手く隠せた。クラス中のブーイングを無視し、自分の立ち回りに満足して俺は三橋を見やった。有塚もそっちを見た。三橋は涼しい顔をして文庫本に目を落としている。

「三橋君、ね。ふーん、そう。綺麗な顔してなかなかじゃん」

 なにやら意味深長な一言を放った後、有塚は邪気なく目を細めてみせた。ここでギャラリーの一部が沸いた。藤と有塚をくっけたがっている一部とは違う、また別の集団だ。有塚のホモ疑惑は藤にモーションをかけ続けるために発生している必然の兆候だが、女子の熱い視線に晒され続けていることも同義の類の文句が言える。容姿も家もスキルも声も、有塚は完璧だ。誰もが生まれ持つことを一度は夢想したであろう能力を、有塚は本当にすべて生まれ持った。これでモテないほうがどうかしている。となると不思議なのは、やはり有塚が頑なに彼女という存在を拒むことになってくる。これこそ根拠のない噂でしかないが、以前、有塚は某雑誌の人気モデルに詰め寄られたこともあるらしい。そして振った。中学生なんだから、ヒーローがどうだとか煙草がどうだとかそんなことよりも、こっちの話題のほうが余程気になるのが普通なような。

「煙草なんて吸わないよ、俺。三橋君の勘違いかな」

「嘘」

 短く答えた三橋に対し、有塚はにっこりと笑った。我儘を誤魔化す猫みたいな構図だった。冷えた空気が教室を包む。なんだ、この間は。ニ秒後、堺が言った。「有塚さんが煙草なんか吸うわけないだろ、お前の見間違いだよ、三橋」。特に責めた口調ではなく、冗談を言っている雰囲気だった。クラス中が同意した声を飛ばした。俺もそうだけど、三橋だけが笑っていなかった。呆然と立ち尽くす俺とは違い、三橋は無表情だった。有塚の笑顔の裏側を、三橋だけが知っているかのような澄ましぶりだった。



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