黒川 智生 11
樹がなにをしているのか、最初はわからなかった。わざとらしく足音を立てて近づき、俺に乗っていた男を引き剥がしたかと思うと、樹はそいつを思い切り床に組み敷いて殴っている。そう、殴っているということはわかった。それからどうなるのかはわからなかった。樹の拳には、これでもかというほどに躊躇いがなかった。ほかの男どもは、そんな樹の姿に凍りついている様子だった。こいつらヤクザのくせに、随分と情けないじゃないか。ぼうっとする意識の中で、身体を起こし、無理矢理脱がされたローブを纏い直し、傍に放られていた眼鏡をかけて、ぼんやりと俺は思考する。
振り上げた拳を、樹はぴたりと停止させた。硬直しているほかのふたりの男に、樹は顔を向ける。その直後、ふたりは、先を争うように部屋から飛び出していった。あんな奴らに犯されそうだったなんて、とんでもない事態だった。
再度、鈍い音がした。さっきからずっとしていた鈍い音だった。音の出所は、樹がいるところだった。樹は何度でも腕を引いた。樹は男をずっと殴っていて、そしてそれが続くとどうなってしまうのか、ここでようやく俺は理解した。足を縺れさせそうになりながらベッドを飛び降り、樹に飛びついて手首を掴んだ。樹は動きを止めた。男にもう一撃お見舞いするまで、寸でのところだった。
「それ以上やったら、死ぬ……!」
そう言うのが限界だった。樹が滅茶苦茶に殴った男は、既に頬が張れて鼻から血を流し、唇が青く変色していた。傍には、折れた歯の欠片も転がっていた。人間の顔がそんなふうに変形している様を、俺は初めて目の当たりにした。言葉で表現するより、ずっとグロテスクだった。口の端から血を滴らせる男の顔は惨状そのもので、見ているだけで胸が圧迫されて呼吸が詰まってくる。直視することができず、耐え切れず俺は男の顔から目を逸らした。
「死ぬ? そうだね」
樹は、いやにしらじらしくその単語を繰り返し、同意した。死ぬとわかっていてやっているのか。樹が暴力行為に及んでいる以上、そんなことは当然わかりきっている事実なのに、はっきりと樹が頷いたことで俺は驚愕してしまった。だって、つまり、樹は人を殺そうとしているということだ。いつも柔和な笑顔で接してくれて、キャラメルをくれて、声の綺麗なあの樹が。認識しただけで、背中から全身に電流のような寒気が走った。なんとか樹を止めなければならない。義務感に助けられ、俺は、樹の手首を一層きつく締め上げる。
「智生は、こいつが死んだらまずい?」
「お前、自分がなにしてるのかわかってるのか?」
逆に質した。無論、それは愚問だとはわかっていた。でも、訊かずにはいられなかった。そういう状況だった。
ほんの少しだけ、沈黙が流れた。樹は微かに目を伏せ、既に多少の返り血を浴びた自分の手を眺めていた。俺には、人差し指の絆創膏を見つめているように見えた。
「その疑問って、究極的にはこうだよね。智生は、俺が殺人者になるか、こいつとこいつの仲間にマワされまくるか、どっちがいいのかって話。まあ、たぶんどっちも嫌だと思うけど。どっちにしたって、智生は無関係ってことには、もう絶対にならないんだし」
もともとよく通る中性的な声の樹は、意図的に静かな声を発すると、本当によく通る。いや、その前に、樹は俺がマワされていたことを知っているのか。誰が見てもマワしとわかる光景だったから、そのことなのか。でも、少なくとも、部屋に入ってきたとき、樹は落ち着いていた。ほとんど裸の俺と、服を脱ぎかけた男が三人もいたのに、樹は目の色ひとつ変えなかった。ということは、やっぱり樹は知っていて、それで「助けにきた」と言ったと考えるのが自然かもしれない。俺が日常的に輪姦されていることを、樹はどこかで知って今日に至った。そして俺を助けにきた。もうそれ以外に、この現実を説明付ける等式は思いつかなかった。
「じゃあさ、更に逆に訊くけど」
樹は話を続けた。待つ以外に俺が選択肢があるはずもなく、俺は樹の声に耳を傾けた。
「智生が今ここで――いや、別に今って限定はしなくてもいいか。俺とやってくれなきゃこいつを殺すって言ったら、智生は俺を相手にしてくれる?」
え。思いがけない問い返しに、俺は、呆ける以外のリアクションを取れなかった。僅かに寂しそうな目をした後、樹は、柔らかく笑いかける。
「冗談だよ」
冗談? 本当に? 俺は固唾を飲み込んだ。無理矢理唇を奪われ、舌を入れられ、服の下をまさぐられた感触が、生々しく肌の上に蘇った。あのときの樹は自棄だった。俺だってそのときはわけがわからなかったし、戸惑ったし、怖かったけど、冷静になってよく考えてみれば、樹が正気でそんなことをする人間ではないことは俺自身がちゃんと知っていた。樹は、ただ、本当に俺のことが好きだっただけなのだ。俺はその気持ちに応えることはできないけれど、樹のその純情だけは、親友として、きちんと受け止めるべきだった。多少の時間をかけてでも、樹ならきっと待ってくれたし、答えによって俺との関係性を断ち切ったりはしなかったはずだ。
そこまで考えられるのに、俺は、なにも言えなかった。無言を保つ俺をどう思ったのか、樹はまた微笑んだ。
「俺、智生にやめろって言われたら、やめるしかなくなっちゃうから」
言って樹は、拳を下ろした。準じて、俺の手からも力が抜けた。樹は俺の身体を軽く押し、少しの距離を保つ。そして、樹は再度、腕を構えた。しまった、と俺が思った頃にはもう遅かった。樹は再び男を滅茶苦茶に殴り始める。咄嗟に止めに入ると、樹は、意外なほど簡単に大人しくなった。意味がわからなかった。男は苦しげな呻き声を漏らし、助けを懇願している。俺だってこいつにいろいろ無理強いされたし、何度も殺してやろうと思ったけど、思うことと実際に殺すことは全然違う。人を殺すのは絶対ダメだ。一応被害者の俺が言うのだから、誰がなんと言おうと、この男への私情の制裁は死であってはならない。いや、制裁だとか復讐だとか、そんなことは関係ない。人が人を殺すこと、それ自体が絶対にやってはいけないことだ。樹だってそれくらいわかっているはずだ。違う。わかっているから及んでいるのか。一度社会的な「タブー」に触れてしまった樹は、もう今更怖いものなんてないないのかもしれない。タブー? 当然のように脳裏に浮かんだその単語に、とてつもない疑念を抱いた。タブーってなんだ。樹が犯したタブー。男の樹が、男の俺に好意を抱いたこと? タブーというのなら、男の俺が男の客に、生活に困り果てていたとは言え、お金を対価に自分の意思で身体を開いていたことのほうがよっぽど該当するのではないか。その俺を、やり方が正しいかどうかは別として、樹はこうして助けにきてくれたのではないのか。俺は樹のなにを咎めて、なにを止めようとしていて、そもそもなにがどういう理由で、誰が一番の原因なんだっけ。急激にすべてわからなくなって、俺は身動きが取れなくなる。
か細く、樹は息を吐き出した。爪が白くなるほどに力を込めて握られて樹の拳は、振り上げられかけて緩く下がる。恐怖に慄いた男の呼吸音が、鈍く部屋に響いた。そのまま、数秒が経過した。樹は言った。
「ねえ、ちょっとでいいんだ。好きにさせて。やめろって言わないでよ。こうしてるのも覚悟の上だし、許されないこともわかってるし、このまま続けたら俺がどうなるのかもわかる。まあ、こいつを殺すかどうかは、本当はどうだっていいんだけど」
「智生も好きにしていいよ」。樹は、なんの脈絡もなく、当たり前のようにそう言った。いきなりすぎて意味がわからず、また俺は呆けるしかなかった。バカみたいな俺の表情から気持ちを汲み取ったのか、樹は笑って繰り返した。
「好きにして。警察を呼んでもいいし、救急車を呼んでもいいし、もししたいなら、俺を殺してもいいよ。好きにさせてとは言ったけど、終わるならそれでも全然いい。どうでもいいわけじゃないし、生きてたくないわけでもいいけど、終わりっていうなら抵抗もしない。どうせ俺は、社会的に死んじゃうからね。あ、警察はもう来てるかもしれないけど」
樹の奴、さっきからなにを言ってるのか全然わからない。俺のそんな気持ちこそ汲み取ってきちんと説明して欲しいのに、樹は、ただ柔和に笑ってみせるだけだった。樹の右目の下の黒子はずっと印象的だけど、今日は何故か一段と印象が残る。
俺はなにもできないまま、なにも言うことができないまま、またいくらかの秒数が経過した。樹は再度、溜めた息を吐き出した。男を放置し、樹は傍にあった紙袋を持った。その紙袋の存在を、俺は、すっかり忘れていた。この場にわざわざ持って来たのだから、その紙袋に、なにかしらの意味があることは明白だった。そして樹は、紙袋を俺に差し出した。なにからなにまで、俺には、まったく意味がわからなかった。
「これ、花菜ちゃんが選んだ智生のコート。今日、実は智生の家に行ったんだ。そしたら、俺が言い出したことではあるんだけど、成り行きで一緒にちょっと出かけることになって。さすがに黙って連れ出すのはいけないから、七時くらいに一応電話かけたんだけど、智生、出なかったから」
「七時?」
「そう。花菜ちゃんの誕生日、なんにもしてないから、なにかしてあげたくて。欲しいものなんでも買うよって言ったら、それを選んだ。あ、それ、キャラメルも何個か入ってるからね」
「七時って、今日の七時?」
「うん。どうしたの。俺だと思って出なかったんじゃないの? なんて厭味言っちゃうくらいだから、やっぱり俺、もうダメだな」
「別に厭味なんて思ってない」
「厭味だよ。苛々してるもん。こんな状況でも、俺、智生をそんな姿にして自由にできるこいつを羨ましいって思うんだよ。そんなのって、人間としてありだと思う? それも、セックスなんて絶対に二度とするもんかって決めてるのに」
堂々と樹の口から飛び出したその単語に、多少俺はたじろいだ。自分がやりまくっていたことだとしても、そんなにはっきりと発音されるとやっぱり戸惑う。本来なら、十代半ばを少し過ぎただけの俺や樹が経験していていいことではないのだ。まして俺は、十七になったばかりなのに。樹だってまだ十八で――それにその口ぶりからすると、望んでやったことでもない。ということは、たぶん、そのきっかけを作ったは俺だと思う。
俺と樹の違いを再三意識し続けてきたのに、こんなことで同じ立場に立つなんて。ここで立ち位置を共有するくらいなら、同列になど並びたくなかった。もう、わけがわからない。思わず両手を強く握り、下唇を噛む。うっすらと滲んだ血の味で、辛うじて俺は自我を取り戻した。樹に向き直り、口を開いた。
「なあ、樹。苛々してる自覚があるなら、ちょっと落ち着こう。頭冷やして、冷静になってさ。とりあえず暴力はダメだ。その人から離れて、外に運ぼう。そっちの人も」
うつ伏せに倒れたまま、ぴくりともしない木村に視線をずらした。死んでないよな。そう不安になっても、今のままでは確かめることすらできない。
「警察は俺も一緒に行く。こうなったのは、そもそものきっかけは俺なんだから。俺を助けに来てくれたんだろ? 俺だって悪いんだから、樹にだけ罪を背負わせるようなことは絶対に」
「そうやって優しくしないで。どんどんわかんなくなる」
「わかんなくなるってなんだよ。それって、したらいけないことしてるってわかってるからだろ。なあ、どうしてもそうしないと気がすまないって言うなら、俺、樹と」
「もう喋るな、俺を惑わせるな!」
突然放たれた、ぶつ切りの命令口調だった。苛々が頂点に達した。そんなオーラを剥き出して、樹は吐き捨てた。樹の口から命令の言葉を聞いたのは、長い年数付き合ってきて初めてだった。驚いたけれど、今俺が言おうとしたことを考えれば納得できた。軽率な言葉を生もうとした口を閉じ、俺は一歩退いた。だいたい、常識を逸脱したお坊ちゃんの樹の命令言葉を耳にしたことがなかった、ということ自体が奇跡だったのかもしれない。幼い頃、樹はいつも使用人の木村さんといたのだから、尚更それはそうだと言える。
口篭った俺を、はっとしたように息をついて樹は見た。俺は、ただ黙って樹に視線を送り返した。そうするしかなかったし、それしかできなかった。
「……ごめん。本当に。いろいろごめん、智生」
数秒間の無言を継続させた後、樹は静かに口を開いた。樹がなにについて謝っているのか、痛いほどによくわかる。だからこそ、ふたつ返事で許すことはできない。簡単に許してしまうことは、却って樹の感情を踏み躙ることとイコールであること。樹の気持ちを少しでも想像して察するなら、その結果に辿り着くのもおかしなことではなかった。
でも、俺は、こうも思う。もし、これから樹は――いや、今もう既に、と言ったほうがより正確かもしれないけれど。樹が誰にも許されないことを自分の意思でしようというのなら、俺だけは樹を許して受け入れてやりたい。受け入れてやりたい、なんて言い方は自分の傲慢っぷりに鳥肌が立つけど、それでも俺は、樹を独りにしたくない。樹に無理矢理コトを強要されかけたのは確かにすごくショックだっけど、その一件があったからと言って樹を嫌いにはなれないし、今こうして俺を助けに来てくれたことを考えれば、たとえ嫌いになっていたとしても多少は気持ちが揺らぐと思う。樹本人だって、たぶん、ここに来るために相当の覚悟を伴った。それだけのことを、樹は、こんな俺のためにしてくれるのだ。やっぱり、樹をここに放ってはおけなかった。
許したい、とは言っても、樹が及んでいるのは紛れもない犯罪行為なのだから、これを野放しにしておくのとはまた話が違う。樹をこれ以上行動させるのはダメだ。なんとしても樹を止めようと、そのための言葉を紡ぎだそうと、俺は口を開いた。樹が俺より早く喋った。
「ねえ。俺、さっき、好きにしていいって言ったけどさ。やっぱり、ちょっとだけ付き合って。大丈夫、智生には絶対なにもしない。智生の目の前で、酷いことしたりしないから」
「誰にも?」
「そこまでは約束できないけど」
言うと思った。なんとなく、樹はそんな答えを提示するような気がしていた。中途半端な自分の立ち位置を痛感した。俺は樹にそれなりに大きな影響を与えるけれど、決定的な変化をもたらすことはできない。でも、樹の完全なストッパーにはなれないけれど、俺がいないともっと大変なことを樹は起こす。自意識過剰でもなんでもない、それが今の俺の見る現実だった。いつもと同じ綺麗に澄んだ声で、いつもと同じように穏やかに笑う樹の目に、なにひとつの嘘も見受けられなかった。この状況で、なんでそんなふうに笑えるのか、俺にはわからなかった。今思えば、樹がいつもそうやって笑顔を保ち続けてきた理由も、俺は知らなかった。
「受け取ってよ。花菜ちゃんからのプレゼントだから。受け取って、着て見せてあげて。プレゼント用にしてるから、値札も取ってるし」
持ったままの紙袋を、樹は改めて差し出してくる。プレゼントを受け取っている状況ではないのに、受け取る以外に手段もなく、俺は、黙って紙袋を受け取った。少しの重みが手首にぶら下がると、お礼を言っていないことに気付いた。もらったのだから、ちゃんとお礼は言わなくちゃ。口を開きかけたところで、樹がまた笑った。俺を制した。「俺じゃなくて、花菜ちゃんに」。一瞬口篭ってしまったけれど、辛うじて俺は声を発した。「樹も一緒に見てきてくれたんだろ?」。樹は、ここで寂しげに瞳を曇らせた。その状態で、また笑った。
「これでもう寒くないね。よかった」
「……うん」
頷くしかできなかった。樹の内側に踏み込めなかった。俺は無力だ。自分の無力さが、ただひたすらに、俺は憎いと感じていた。




