黒川 智生 10
久しぶりに続き。
今年は小説もいっぱい書きたい。以前そうだったみたいに。
落選してからだから、書いてもさらすのはまた先になるだろうけど。
所定の場所に行くと、車はもう着いていた。ドアを開けて後部座席に乗り込むや否や、いきなり腹を蹴られた。車はすぐに動き出した。不意に与えられたダメージは相当大きく、さして広くもない車内では蹲ることもできず、俺は両手で腹を抑え込んだ。いつもの姿勢で座っているよりは、そうしているほうが楽だった。
「遅刻。社会人は時間が大切だって、前にも言っただろ。しかも連絡もなしとは」
迎えに来るとき、運転手のほかに、連中のひとりがいつも車に乗っている。男の言葉を無視して、俺は痛みが引くのを待った。一緒に来る奴はいつも違うのだが、こいつは中でも特別嫌いだった。以前に俺の腹を殴ったのもまさにこいつだし、各連中を観察したところ、一番手癖が悪いのもこいつだった。俺が車に乗ったところで、いきなり服を剥ぎ取られたこともあった。曰く、商品のチェック、ということだった。結局そのまま好きに使われた末、口に捩じ込まれた。さすがにこれには運転手もびびっていたが、かと言って取り乱すこともなかった。木村は冷静に運転を続け、俺の口を洗わせるために自分たちの駐屯所である事務所を経由し、何事もなかったかのようにホテルの駐車場に車を着けた。事務所のトイレで、俺は何度も吐いた。この上なく気持ちが悪かった。これから更に見ず知らずの男を何人も相手するなんて、絶対無理だと思った。思っても、逃げられるはずもなかった。何度も何度も嗽をして、意を決した。ここまで来てしまったのだから、やるしかないのだ。今までもやってきたことだし、今日はたまたま運が悪かっただけだ。あのときは、自分をそう奮い立たせるほかになかった。
ことを無理強いされるより、腹を蹴られたほうが数百倍ましだ。身体を丸めて、鈍く痛む腹部を庇う。息の詰まるような痛覚を少しでも遠ざけようと、頭の中で、無理矢理思考回路を叩いた。そういえば、いつも樹の傍にいた使用人の老人も木村という名前だった。木村なんてよくある名字だし、別に今まで気にもならなかった。ただ、あの木村さんは、俺や樹くらいの孫がいても不思議ではないくらい年を重ねている。もしかしたら、ではなく、もしそうだったら、と夢想した。お金持ちのお坊ちゃんに仕える執事の祖父と、ヤクザに脅されて最低な仕事の送迎をしている孫。地位の差は俺と樹くらいに、いや、俺の樹以上とも言えるかもしれなかった。子どもの頃、木村さん本人から、好きで有塚の使用人をしていると聞いたことがある。どんなシチュエーションでそうなったのかは覚えてないけど、木村さんが自分でそう言ったのがとても印象的だった。己の意思で有塚の走狗となる木村さんと、己の意思とは正反対に真っ黒な組織に浸る木村とでは、比べるのも不憫な程に歴然とした違いがあった。こんな孫なら、木村さんだってさぞ悲しむことだろう。
ホテルに入ってシャワーを浴びても、まだ部屋には誰もいなかった。奴らに客を取られるようになってからは、俺が先に部屋に入り、客の予めの返事次第で先にシャワーを済ませて時間まで待機する方式になっている。それまでは客とふたりでチェックインし、さっさとやることをやって金を受け取って終了、いう具合でお互い無駄なく仕事ができていたのに、今はすっかり間を持て余すようになってしまった。またこれがすぐに来る客ならいいが、平気な顔をして遅れて来る奴も当然いる(俺も人のことを言えないけれど)。更にここで最悪なのは、基本的に俺はマワされる役ということだった。そして、少数派ながら、遅刻とは反対に早めにドアをノックする奴がいる。人数が揃う前に、先にそいつに構わなくてはいけないときがある。もちろん、そういう客ばかりというわけでもなかった。人に言えない性癖から想像できる通りの人間もいるけれど、その逆で、だからこそ誠意のある人だっている。そんな客が遅れてくることはまずないし、たとえ早く着いたとしても、変な気を起こすことはない。待ち時間の間に世間話をしてくれたり、ジュースを買ってきてくれたりと優しい人もいるので、そういう人に当たったときは素直にラッキーと思うことにしている。
誰かひとりだけでも、まともな人がいればいいけど。ベッドに腰掛け、バスローブの袖を弄りながら、俺はそのときを待った。テレビを観る習慣はないし、携帯電話は取り上げられているし、暇潰しできるなにかがここにあるわけでもない。退屈な待ち時間は苦痛だった。こうしている間に帰宅して、家事のひとつくらいはこなせてしまう。これでも俺は忙しいのだ。時間の浪費は、非常に腹立たしいことだった。
せめて客が来る時間がわかっていればいいのだが、奴らは、意地悪でいつもそれを教えてくれなかった。たっぷり待たされるのはよくあることとわかっていても、今日は一段と酷かった。揃いも揃って、ドタキャンでもしたのだろうか。それならそれで問題ないどころか大歓迎だが、それにしたって、客の相手をするのは俺なのだから秘密にしているのは酷い。
時計の短針が九をオーバーした頃、軽快なノックの音が部屋に響いた。ようやく来たかと待ちくたびれた思いと、ついに来てしまったかと諦めた思いが俺の内側で交錯する。しかし、それを表に出してしまうのはご法度だ。一時間半以上待たされたことなどネタにする勢いで、頭も尻も軽い商売好きの少年を演じなければならない。とはわかっているものの、やはり限度というものがある。必要以上に無駄な時間を過ごしてしまったストレスが邪魔で、営業用スマイルも繕えないまま、俺は腰を持ち上げてドアへ向かった。俺が手を掛ける前に鍵が回り、ドアノブが半回転した。その一瞬、背中に嫌な寒気が走った。開いたドアの向こうから踏み入ってきたのは、見慣れた顔ぶれの三人だった。そのうちのひとりは、ほんの二時間くらい前、腹に一撃をくれた奴だった。なんでこいつらが入ってくるのだろうか。三人は下卑た話題を弾ませながら、当たり前のように部屋の奥へと進んだ。開け放したままのドアは、外側から閉じられた。施錠もされた。ドアのすぐ傍に誰かがいることは明白だった。
もしかして、そうなのかもしれない。予想すると同時に、全身に悪寒が迸った。震えが止まらなかった。自分自身で両腕を抱く形となった。ドアに背中がつくまで後ずさり、俺は息を呑み下す。
「どうしたんだよ。こっちに来たらいいのに」
一人が言った。俺は動けるはずもなく、辛うじて声を捻り出した。
「客は?」
自分でも情けなさすぎて笑えてしまうような、力なく弱々しい声だった。お世辞にも、世間の子どもたちが証するヒーローとは思えない声音だった。それを言えば、最初から俺に「ヒーロー」の通り名は過ぎたものだったのだけれど。
「客?」
別の一人にオウム返しにされた。頷こうとしたけど、俺はもう、頷くことさえできなかった。頷いたら大笑いされることは、既に確定してしまった。首を左右に振っても同じことだった。部屋のすぐ外に人を置いているのは、奴らにそういう意図があるからとしか思えなかった。
「こっちに来いよ」
いやに粘着質な声で、腹に蹴りをくれた男が言った。こっちに手を伸ばしている。自分以外の人間が拒否しようが抵抗しようが、他者の人格を踏み躙ってでも自分の意思だけを最優先して物事を運搬させるような、自己の欲望にまみれた汚らしい掌だった。
あんな手に触れられたくない。拒否する一心で命令に背いた。背いたところで、俺に逃げ場はなかった。なんでこんなことになってしまうのか、ちっともわからなかった。何度も何度も反芻した疑問の行き着く先は、現状においても同じだった。悪いのは、あの母親だった。無責任で奔放な男遊びを繰り返した挙句、身篭って、俺を産み落とした。本当に「落とした」。身体に付随していた重たい荷物を払い落とし、あの女は、どれほど歓喜しただろうか。想像するだけで虫唾が奔る。
ドアの向こうには見張りがいる。窓は奴らが陣取るベッドの傍だ。抜け道のない牢獄に近いこの部屋をなんとか脱したとして、誰か助けてくれるのだろうか。きちんとした対価を受け取って男と寝たのも、対価にならない対価を受け取って男をいっぱい相手にしたのも、全部このホテルだった。俺の顔を覚えている従業員だっているはずだった。誰がどこからどう見ても逆援としか映らない構図の中心にいた俺を、一体誰が保護してくれるのいうのか。自力で逃げ出すのは不可能と断定した以上、結局、俺は奴らの言いなりになるしかなかった。
頭ではわかっていても、身体が断固拒否していた。足が動かず、声も出なかった。そんな俺を揶揄するように、粘着質な声を発する男が言った。
「どうしたんだよ。こっちは気遣いしてやってるんだぞ。いつもいつも仕事漬けだから、たまにはプライベートで気晴らしさせてやらなきゃ可哀想だ、ってな」
プライベート、ということは、やっぱり金は発生しない。奴らは、単に俺を使って性欲処理をしたいだけだ。とんでもない話だった。そんなことまで耐えられなかった。あのとき、車の中で俺に無理強いしたのはひとりだけだった。揺れる車内で好き勝手に肌を撫でられ、触れられたくないところにも触れられた。精神的ダメージはかなり大きかったが、精神など既にずたずたに切り裂かれていた。そこに甚大な傷がひとつ増えようとふたつ増えようと変わることなどなにもないが、だからと言って、素通りできる痛みでもなかった。その証拠に、俺は直後に嘔吐を繰り返していた。
「来ないのか?」
わざとらしく、男の語尾が上げられた。身体が勝手に強張った。できることなら拒否したかった。対価を得てようやく耐えられるのがあの行為なのに、見返りがなにもないなんて信じられなかった。だって俺は、好きな人と致しているのではないのだ。仕事としてなら耐え忍ぶけど、そうじゃないなら考えられない。そもそもああいう行為は、本当に大好きな人とでなければ、絶対にしてはいけないことだった。生活に困りきっていたとは言え、恋人同士だからこそ許されるそれを、しかも初めてのことを金銭に変換した俺は最低だという自覚はあった。俺は最低な人間なのだから、論法はめちゃくちゃだが、嫌いな奴らの性欲処理の道具に成り果てても仕方ないと諦めることもできた。重要なのは、俺がその最低な人間に陥落した経緯だった。その経緯の発端において最もウェイトを占めているのは、今まさに俺を欲の排出口にしようとしている男どもの存在だった。この男どもさえいなければ、俺は学校に行けなかったとしても、そして決して贅沢はできなかったとしても、慎ましくも平和な日常を送れていた。唯一の家族である花菜の誕生日に、ほかの家庭の親が子どもにするそれを同じように、安っぽい髪飾りなんかではなく、素敵なプレゼントを買ってやれた。報酬を得て他人に身体を開くことなんて、絶対になかった。もしかしたら、人並みに恋してみたいとか、一方的な片想いだったとしても、好きな人がひとりくらいはいたかもしれなかった。現実世界は、ただひたすらにあらゆる意味合いで余裕がなくて、浮世に漂う恋に酔っている時間なんて少しもなかった。常に自分と花菜のことで手一杯だった。通りすがった拍子にチンピラを撃退していたのも、ターゲットにされている人間に、あまりにも最低だった俺の過去の追憶を重ねてしまうからだ。ヒーローだなんて、俺はそんな大層なものではなかった。
こいつらさえいなければ。こいつらさえいなければ。こいつらさえ、いなければ。俺はきつく奥歯を噛んだ。こいつらさえいなければ、すべてうまくいっていた。樹とのことも――樹がずっと俺のことを好きだったという事実は残っていたとしても、あんなに酷い関係崩壊は、たぶんしなかった。こいつらは俺を地面の底に叩き落したくせに、その地はまだ下に抜けていた。最低な奴らは俺を最低な人間にしたくせに、今度は無償で使える便利な男娼になれと迫ってきた。どうせコトが済んだ後、客を取られるに違いなかった。それが今の俺に明け渡されている、あまりにも酷い世界だった。
後ずさりを続けて、背中はとっくにドアにくっついていた。どうして俺が、こんな目に遭わなければならないのだろうか。潤む視界を嘲るように、男のひとりが歩み寄ってきた。手を引っ張られ、足が動いた。ベッドに無理矢理座らされると、眼鏡をはずされた。これでこいつはもうなにも見えないから、とあからさまに下卑たジョークをひとりが発し、ほかの面子が笑った。ひとりに両手を封じられ、ひとりがローブの襟に手をかけてきた。一気に肩からローブをずり下げられて、至るところに点々と内出血の痕が残る肌が剥き出しになった。汚いな、とひとりが大笑いした。その汚い俺の身体に自ら触れようとしているのだから、こいつらだって汚いじゃないか。
もう嫌だ。全部嫌だ。なにもかも嫌だ。面倒くさい。どうとでもなればいい。目障りな奴らの耳障りな声が、しっかりと耳の奥に浸透していく。「本当に上手いのかな」「上手いよ。そこらの女よりずっと。客も言ってるだろ」「早く試してみたい。顔も結構可愛いし、女と思えば普通にやれそう」。自分の意思とは無関係に言葉を、単語を、声質を判別する聴覚と脳を繋ぐ回線を、力任せにシャットダウンしてやりたくなる。耳を塞ごうと持ち上げた両手は、あっさりと掴まれてしまった。そのまま体重をかけられ、後ろに倒れた。打ち合わせたように、別の男が俺の手首を押さえつけにきた。舐めるように俺の全身に視線を走らせた後、どうやら一番最初に俺が相手にしなければならないらしい男が服を脱ぎ始めた。この男は、本当にそういう嗜好の人間なのだろうか。ローブから身体だけを引っ張り出され、いろいろ強要される最中、ぼんやりと俺は考えた。ウィンチェスター、行ってみたいなあ。ガイドブックの中に収まっていた綺麗な景色が、なんとなく目に浮かぶ。
突然、ドアが開いた。立っていたのは木村だった。よくは見えないけど、見た瞬間、なにかがおかしいような気がした。男どもはそれに気付いた様子はなく、品のない笑い声とともに木村を勧誘している。一番最初、心配してくれた木村も俺を犯すのか。もうどうでもよかった。どうせこの身体は汚れきっている。好きなように使えばいい。それより、この違和感はなんなのだろう。
「あ?」
男のひとりがぼやいた。俺の上に乗っている男だった。それに誘発されたように、ほかの奴らもなにか気付いたようだった。俺にはわからなかった。というより、よく見えなかった。
「後ろにもうひとりいる」
「誰だ?」
「誰って……いや、おい、あのガキ……」
最後に言葉を発した男が息をついた瞬間、木村の身体が床に投げ出された。抵抗なく、木村は顔面からうつ伏せに倒れ込んだ。違和感は、木村は自分の意思で立っていたのではなく、背後の人間に立たされていたからだとわかった。木村の背後に立っていた人間は、なにやらお洒落なロゴの入った紙袋を提げた、コートの下に着込むようなカーディガン姿の樹だった。樹は俺と視線を合わせると、にっこりと微笑んだ。
「助けに来たよ、『灰色ヒーロー』」
それはいつもとまったく変わらない、中性的で澄んだ綺麗な声だった。
「遅くなっちゃってごめんね。ちょっと買い物に時間かかった。でも、ヒーローって、だいたい遅れて現われるだろ。問題ないよね」
俺が今の智生のヒーロー。そう言って悪戯っぽく笑った樹は、軽く右手を上げて見せた。その人差し指には、薄い茶色の絆創膏が巻かれていた。




