有塚 樹 16
目の前にあるのは、智生が花菜ちゃんのために作ったおにぎりだ。海苔が巻かれた三角形に圧縮された大量の米粒は、ぴかぴかと白く輝いている。ラップに包まれたそれを、花菜ちゃんは、とても嬉しそうに差し出してきた。差し出されたから受け取ったけれど、本当に俺なんかがもらっていいのだろうか。関係の修復は不可能とは言っても、だからと理由付けて智生を嫌いになることはできなかった。俺は変わらず智生が好きなのだから、その智生が作ったものを献上されるのは、やっぱり嬉しかった。その感情と同じくらい、俺はこれをもらってはいけないのだという自制もあった。
花菜ちゃんは、幸せそうな笑顔でラップを開封し、おにぎりを齧っていた。ひとりで食べても面白くない、と言っていたくらいだから、いつもの食事時間はもっと味気なく過ごしていることだろう。満面の笑みでおにぎりを頬張る花菜ちゃんを見つめながら、俺は暫し考えた。素直にもらっておいたほうがいいのか。俺如きが。ていうか、最近、おにぎりばかり食べているような。
「いらないの?」
「ん?」
「わたし、もう終わっちゃうよ」
きょとんとした表情で、邪気なく花菜ちゃんは訊ねてくる。俺は笑って誤魔化した。そうだ、素直にもらっておけばいいのだ。ふたつまでとはいかなくても、ひとつだけでも。選択はすぐに済むのに、いちいち感情が邪魔をする。余計なことを考える。思い通りにいかないと腹が立つ性分に、自分様々を感じてまた腹が立つ。どうしようもない悪循環だった。
「男の人って、なんでそんなにお腹空かないの」
花菜ちゃんの声で我に返った。振り向くと、花菜ちゃんは、素朴に疑問とばかりに首を傾げていた。
「あんちゃんがあんまりごはん食べなくなったのは最近だけど、よく考えてみたら、昔からそんなに食べてなかった。パンもアメも、わたしにくれてた。私にあげるために、自分は我慢してたのかな」
「なんでそんなこと考えるの?」
「あんちゃんはそうかもしれないけど、いっちゃんは違うから。あんちゃんのお誕生日のときも、からあげひとつしか食べてなかったでしょ。ジュースも飲まなかったし。わたし、ちゃんと見てたよ」
「いっちゃんは違うから」。その一言が、感情の底に突き刺さった。そうだ。俺は智生とは違う。こんなにも違うから、その業として、同性の智生に恋愛感情を抱いた。何度も自分で至った結論だった。もう憤ることはしないけれど、悲しくなる気持ちを抑えることはできなかった。
「食べるの、きらい?」
「嫌いかな。ついでに飲むのも。でも、おにぎりは好きだよ。率直に愛情が詰まってる感じで」
「いっちゃんは、ごはんのときもむずかしいこと考えてるの」
「ごはんのときも?」
「いつもむずかしい顔してるよ」
返事の言葉が、すぐには出てこなかった。俺が思うよりも、花菜ちゃんは、俺のことをよく見ている。
「ねえ、花菜ちゃん。その髪型」
やっとのことで吐き出せたのが、全然違う内容だった。純真な花菜ちゃんは、いきなり話題を変えられたことに不審な顔ひとつせず、首を傾げていた。俺もこれくらいピュアに、シンプルに、淀みなく生きることができたら。それが叶うなら、どれだけ幸せだっただろう。花菜ちゃんは、俺にとって、ただひたすらに羨望の対象でしかない。
「いつも綺麗に結ってるよね。自分でするの?」
「ううん。あんちゃんがね、朝おきたら結んでくれる。でもね、ここ何日かは自分でしてる」
「なんで?」
「髪が乾いてないから。前までは夜お風呂に入ってたけど、今は朝入るの。あんちゃん、先に寝てろっていうから。この前、電気つけて起きて待ってたら、なんで言うこと聞かないんだって怒られちゃった。あんなに怒らなくてもいいのにね」
「お風呂に入って、髪が乾く前に、智生、また出かけちゃうんだ」
「お休みの日は家にいるよ。でも話しててもよくうとうとしてるし、この前はずっと寝てた。ごはん作るから、一回だけ起きたけど」
花菜ちゃんから流出する情報は、まだまだほかにも数多く並び立った。聞くに堪えない話だったけれど、俺は、聞かなければならなかった。トイレに入って二時間近く出てこなかったこと、たまに早く帰ってきたら服のボタンを掛け違っていたこと、それを指摘したらまた怒られたこと、おにぎりに塩ではなく砂糖が混ぜ込まれていたこと、夜中、知らないうちに帰ってきていたと思ったら、壁にもたれてじっと座り込んでいたこと。声をかけたらまた怒られそうな気がしたから、花菜ちゃんは、気付かないふりをして眠ったらしい。どれもこれも、あのとき俺が早とちりせずに耳を傾けていれば、未然に防止できたであろう事柄ばかりだった。多数の男に夜毎輪姦されながらも、苛々しながらでも日常生活を続ける智生はすごいと思う反面、生きるための生活というよりは生活のために生きている亡霊のような様は、俺には異常としか捉えられない。そう、すべてのことは、俺がちゃんとしていれば、異常の域に達する前になんとかできた。いや、すべてとは言わない。俺にそこまでの力はない。
「今日も遅そうだね。花菜ちゃん、いつもひとりで留守番してて偉いね」
「偉くないよ。わたし、あんちゃんのお手伝い、なんにもできないから」
「俺だって、家の手伝いなんてしたことない」
「したことない、でしょ。わたしは『できない』なの。それに、いっちゃんはお金持ちだもん」
花菜ちゃんが発したその単語は、実になにげなく吐き出されたものだった。花菜ちゃんにもちろん悪気はないし、厭味もなかった。けれど俺は、背中から心臓にかけてを氷柱で貫かれたような、そんな衝撃を確かに受けた。花菜ちゃんが言ったそれは真実であり、俺自身が最も嫌う、俺自身の有り体だった。
「キャラメル、そろそろ買いに行く?」
また俺は話題を差し替えた。結局ラップすら剝がさなかったおにぎりを卓袱台の上に置き、花菜ちゃんを促す。俺が置いたおにぎりに目をやり、花菜ちゃんは、少し寂しげな顔をした。そんな顔をされると、俺もちょっと寂しくなった。あんまりお腹空いてないだけだから、と言おうとしてやめた。それは見え透いた嘘だったし、花菜ちゃんも花菜ちゃんなりになにか察する一言だと思ったからだ。こんなところで、花菜ちゃんに余計な感情を抱かせなくてもいい。
脱いでいたコートに袖を通しつつ、花菜ちゃんを見た。花菜ちゃんは立っているだけで、上になにも着ようとしなかった。なにげなく、俺は思ったことを素直に伝えてみる。
「外、寒いよ。コートかなんか着ないと」
「ない」
「え」
「持ってないの。去年のやつは破れちゃったから」
破れちゃったから、って、コートってそんなに簡単に破れるものだろうか。と疑問に思った瞬間、合点がいった。智生が着ているのがあの薄い素材の、暖かくもなんともないしないよりはましというだけのようなコートだから、花菜ちゃんのもそんな感じなのかもしれない。そうだというのに、今俺が着ているのは、バカみたいに値の張る品だった。別に俺が買ったわけでも選んだわけでもない、父さんとは別居中の母さんが勝手に見立てて送ってきたものだ。少なくともほかのコートよりは落ち着いたデザインだし、単純に暖かそうな内装でもあるので、いつも俺はこれを好んで着ている。
考えるまでもなく、どうするべきかはわかっていた。どうせカーディガンも着ているし、その下にはセーターも着ている。コート一枚なかったところで、さしてダメージは受けなかった。それに、どう足掻いても俺は男だ。年下の女の子である花菜ちゃんに寒い思いをさせ、自分だけが防寒具にぬくぬくと包まれるなど、男が廃るにもほどがある。さっさとコートを脱ぎ、花菜ちゃんに手渡した。
「これ着たらいいよ。俺、下にたくさん着てるから大丈夫」
「え、でも」
「ちょっと大きいと思うけど、着れないことはないから。寒い格好で花菜ちゃんを連れ回してたら、俺が智生に怒られちゃうよ。それにさ、花菜ちゃんの誕生日、俺、なんにもしてないから」
言うのは、少し躊躇った。でも、年下の女の子にしてあげるのだから、別に普通のことだった。気を取り直し、俺はにっこりと花菜ちゃんに笑いかけた。
「プレゼント、買ってもいいかな。ちょっとだけ街に行って、新しいコートでも探してみようか。キャラメルもそこで一緒に。いや、キャラメルだけじゃなくて、花菜ちゃんが欲しいものならなんでも」
「なんでも?」
「うん、なんでも」
「なんでも……」
花菜ちゃんは繰り返し、最後に小さく呟いた。俺のコートを両手で支えたまま、花菜ちゃんは、目線を落としてなにやら考え込んでいる。しばらくの間そうした後、花菜ちゃんは、顔を上げた。いいものを思いついた、と瞳が輝いていた。なにを思いついたのか、俺は率直に訊ねてみた。欲しいものがわかっているなら、最初からそれを売っているお店に行くべきだ。時間もそう早くないし、智生としても、いくらひとりではないとは言えども妹が外を出歩いているのは不安なはずだ。
花菜ちゃんは一歩前に出て、とてつもなく楽しそうに口を開いた。
「わたしの欲しいもの、なんでもいいんでしょ?」
「なんでもいいよ」
「じゃあね、わたし、あんちゃんのコートがいい。いつも寒そうだし、これみたいなかっこいいやつ」
いい提案でしょ、と花菜ちゃんは笑った。まさか花菜ちゃんがそんなことを言い出すとは思わず、俺は暫し呆気に取られた。自分の誕生日のお祝いに、兄のものを買いたいなんて。でも、兄想いの花菜ちゃんらしい発想だった。逆立ちしても俺にはできない、妹の花菜ちゃんだからこそ他意なくできるプレゼント。花菜ちゃんが思いついたのは、まさにそうとしか形容できない贈り物だった。
ふたつの拳を、ぎゅっと握り締めた。無邪気な花菜ちゃんを前にしても、いや、無邪気な花菜ちゃんを前にするからこそ、智生を堂々と愛せるその立ち位置が憎かった。
アダルトメディアを覗き込む度に智生と肌を重ねられたらと思ったけれど、俺は、別に智生と兄弟でもよかったのかもしれない。変な感情は発生しない、普通の兄弟でも。ただ、智生を普通に、特別に慕っていられる自分の役がこの手にあれば。力を込めすぎた拳を緩め、淡く息を吐き出した。俺の胸中で湧き出し続ける、現状を蔑む毒が少しだけ空気に溶ける。今更いくら望んでみても、今の俺を取り巻く世界に変化を来すことはできないことこそ、嫌というほどわかりきっている。
「それはいいね。きっと智生は喜ぶよ。花菜ちゃんが選んでくれたものなら、たぶん、なんだって」
たぶん、なんだって。そう、なんだっていい。自分の言葉を自分で噛み締める。なんだっていいのに、俺にはそれをする術がない。智生はきっと、花菜ちゃんが選んでくれたものも喜ぶだろうけど、親友が選んだものも喜ぶだろうに。智生と親友でいられた頃に、少しだけ勇気を出せばよかった。そうしたら、関係性を失っても、今よりはすっきりした気持ちでいられた。すっきりした気持ちで過ごせた。
「行こうか。完全に夜になっちゃう前に」
再度拳を固く握り、俺は、渾身の力を振り絞って笑顔を作った。花菜ちゃんは元気よく返事をして、拙い仕草で俺のコートを羽織った。




