有塚 樹 15
いつもはなんのこともない、チャイムを押すという行為が難しかった。ボタンに指を置いているのに、力を込めることができない。勇気を振り絞るというほどのことでもないのに、踏み出せない自分が情けなく、俺は奥歯を強く噛んだ。人差し指の絆創膏の下の傷は、とっくに完治している。適度に交換しつつ、絆創膏で処置した状態を保っているのは、自分への戒めだった。智生に噛まれて裂けた皮膚、流れ出た血液の様を、俺は、決して忘れてはならなかった。ツカサから送られてきたメールの添付ファイルをすべて印刷し、一言一句見落とすことのないように注意を払って文字を追い、画像を目に焼き付けた後に、その義務感は一層増した。最初は、自分を抑えることができず、智生との関係性を永久に失ったという、それを思い出すためだけの絆創膏だった。今では、自分のことで頭がいっぱいになりすぎて、取り返しのつかない結果を招いてしまったことを、自分自身に突きつけるための絆創膏だった。あのとき、智生は懸命に話をしようとしていた。俺に犯されながらでも、たくさんの他人の痕跡を辿られながらでも、必死に俺になにかを言おうとしていた。その口を執拗に塞いでいたのは俺だった。あまりにも痕の数が多いことを不思議には思ったけど、あのときの俺は、そんなことに構っていられなかった。今となっては、それもただの言いわけに過ぎないけれど。
十八時を回った現時刻、陽は落ちきって気温も下がりきっていた。吐く息が白い。悴む指は、秒数を追うごとに、感覚を麻痺させていく。寒い。こんなにも寒い夜だからこそ、いつものように自室に閉じこもっていればいいのだけれど、ツカサからの資料に目を通した後でそれは無理だった。あいつの情報網は、俺の予想を遥かに逸脱していた。教えた覚えのないPCアドレスに、俺の本名を宛名にして送られてきたメールもそうだ。有塚と俺がまったく無関係でないこと、俺がその血筋であること程度なら、ずっと前からツカサは把握していたかもしれないとして――なんの遊びのつもりなのか、例のファイルとは別個で、ふざけたファイルが一緒に添付されていた。とある一日の俺の記録だった。何時に起床して学校でなんの授業を受けて何時に帰宅して、部屋でどんなDVDを観て破壊して、と言う、自分でもよく覚えていないけれど、文章を読めば、その日のことをうっすらと思い起こせた内容の文章だった。そんな一日は確かにあった。向こうが俺の正体を把握していることは予測のうちだったけれど、そこまでとは思わなかった。でも、ツカサのその薄気味悪い冗談で、あいつの情報の正しさは立証された。
いても立ってもいられず、そうかと言って電話することもできず、俺は智生の家に来てしまった。来てどうするつもりなのか、俺自身にもわからなかった。この時間だし、智生はたぶんバイト中だ。終わっているとしても、たぶんすぐには帰ってこない。ドアの向こうにいるのは、俺が嫌いな花菜ちゃんだけだ。花菜ちゃんに会ってもメリットはないし、デメリットもないけどそれ自体を考えたくもない。
テレビもないこの扉の向こうで、花菜ちゃんは、一体なにをして時間を潰しているのだろう。不意にそれが気になった。智生としても、兄の目線なら、妹を家にひとり残して出かけるのは気がかりなはずだ。まして今は、智生の帰宅時間は以前より目に見えて遅くなっている。ツカサのデータによると、智生が車でこの近場まで送り届けられた時点で、午前一時を廻っていることも少なくないそうだ。仮に花菜ちゃんが先に寝ていたとしても、智生だって帰宅してすぐに就寝というわけにはいかないだろうから、布団に入るまでに、最低でも一時間弱くらいは要すると思う。とすると眠るのが二時過ぎで、六時半には起きて洗濯やら炊飯やらの用事を始め、花菜ちゃんのお風呂の世話をして、時間になれば『ネコシロ』へ向かってバイトして、夜になれば違うバイトをする。休日でも智生はひとりになる時間はないし、家にいれば、始終花菜ちゃんを見ていなければならない。智生の休息はどこにもなかった。
せめて花菜ちゃんがいなければ、智生の気持ちは楽になるのに。考えてはいけないそんなことを、また俺は考えた。想像の中の、花菜ちゃんという妹がいない智生は、実に溌溂と俺に笑いかけてくる。想像と呼ぶよりは、意味のない無駄な妄想だった。まず今更あり得ないことだし、花菜ちゃんがいなかったとして、智生が元気でいられるという保障はない。守るべき妹がいるからこそ、智生はなんでも必死にこなすのだ。花菜は俺の全部だから、と言って智生は笑った。その一言がなによりの証拠だった。それくらい俺にもわかっていた。わかりきっていることだった。だからと言って、勘違いして友達を力ずくでひん剥くような最低な俺に、気持ちの変化など起こるわけもない。
許してもらえるわけないけれど、一言謝らなければ。俺が今ここに立っているのは、これもまた自分勝手なことこの上ないけれど、その一心に衝き動かされたからった。謝罪したいとは言っても、智生は今ここにいないし、それこそ携帯電話に着信のひとつでも残しておいたほうが、より確実にコンタクトを取る方法だとは理解している。でも、電話ではいけないと思った。会って直接頭を下げて、今度こそ、可能ならでいいけれど、智生の現状を変える手助けをしたかった。救いたいなどと酔狂なことはもう望まないし、俺の手を借りたくなければ、ほかに頼れる誰かを探してもいい。例えば姉さんたち。三人の姉さんたちは、たて続けの姉妹の末に誕生した、しかも末っ子となった弟が可愛くて仕方がないようだ。特に一番上の姉さんなんて今は日本にいないけれど、間違っても俺の頼みを無視したりはしないだろう。姉さんたちも俺が人を遠ざけることをずっと気にしていたから、唯一の俺の友達の智生がピンチとなれば、きっと全力以上を尽くして動いてくれる。
でも、もし、それすらも拒まれてしまったら。ドアの向こうに智生いないとわかっているのに、その恐怖が、人差し指に込めようとする力を阻む。もう俺はそれだけのことをしてしまったのだから、むしろ拒まれることを前提とすべきなのに、まだ俺は智生が自分を友達として頼ってくれるなどと都合のいいことを考えている。幸せな頭だ。いくら家柄を疎んでも、高級ディナーを忌み嫌っても、お小遣いをお小遣いと認識せずに親の金と投げ捨てても、やっぱり俺はお坊ちゃんだ。自分にとって好ましい展開ばかりを夢想し、それが実現すると信じている。自分でも甚だ笑える、どうしようもなく世間知らずの幸せ者の脳みそだった。今ここに智生がいようがいまいが、このチャイムを押すことしでしか、俺は俺自身に誠意を表明できないのに。チャイムを鳴らす、たったそれだけのことなのに、怖くて踏ん切りをつけられなかった。
もう暗いし、また改めて出直そう。またしても都合のいい言いわけが頭を擡げた、まさにその瞬間だった。鍵が回り、ドアが軋んだ。なんの疑いもなく、扉は元気に開かれた。そこにいたのは花菜ちゃんだった。
「誰かずっと外に立ってたみたいだから、ちょっとだけ覗いてみたの。あんちゃんはまだ帰って来ないし、誰かなって。そしたらね、いっちゃんだった」
笑いかけてくれる花菜ちゃんに、俺は笑い返せなかった。ドアの向こうの住人が、逡巡した末に引き返そうとする俺を跳ねのけ、自ら通路を開けてくれたことは、俺にとって、善悪どちらに分類されることなのかを考えた。答えの代わりに導き出されたのは、そんなことに咄嗟の判断を迫られる俺自身の浅はかさと惨めさだった。脆弱な自分の精神を、容赦なくナイフで切り刻んでやりたかった。
「もしかして、キャラメル?」
にこにこと楽しそうだったけれど、なんで俺が訪ねて来たのかはわからない。そういう顔をしていた花菜ちゃんの目が、ぱあっと輝いた。はっとした。今日の俺はキャラメルなんて持っていないし、それに準ずる甘いお菓子も、当然持ち合わせていなかった。普段は会いにくる度にキャラメルとジュースを手土産にしていたから、花菜ちゃんの反応は至って妥当だ。俺はちょっと困ることとなった。今日の用件はキャラメルじゃなくて別のことなんだよ、と答えても花菜ちゃんはシンプルに「じゃあなに?」と頭を傾げるだろうし、キャラメルを持ってくるつもりだったけど忘れた、と言ってもおっちょこちょいだ。まあ、別にその反応で構わないけれど。気付かれないように浅く息を吐き出し、俺は、ようやく笑顔を繕った。
「そうだったんだけど、持ってくるの忘れちゃった。ごめんね」
「えっ」
「食べたかった?」
花菜ちゃんにとっては、キャラメルは生まれて初めて口にした甘いものだ。質問の返事は、当然イエスで返ってくるものと思った。ところが、返ってきたのは、俺の予想とはまったくずれたところに位置する言葉だった。花菜ちゃんは少し俯き加減に、遠慮がちに自信なく口を開いた。
「あんちゃん、最近あんまりごはん食べないから。いつもお仕事遅いのに、おなか減ってないからって。キャラメルなら好きだから、たぶん……」
「……」
なんと応じていいのかわからず、俺は口を噤むしかなかった。そりゃ複数の人間に好きに使われた後では、食欲なんて欠片もないだろう。俺は、たった一度、たったひとりの不細工な女と寝ただけで、凄まじい悪夢と嘔吐と頭痛に襲われた。しかも俺は「使われた」ではなく「使った」ほうだった。その条件でもあのザマだというのに、智生は俺と間逆の「使われた」ほうだからポジションは最低だ。腹を満たしている場合ではない。相手が何人ともなれば、人数分を回数に代えて死にたくもなる。
無意識に、俺は鎖骨の少し下に手を当てていた。コートとカーディガンと服の下に厳重に隠されて入るけれど、あの女は、よりによって痕跡を残していきやがった。下品に淫靡な肢体で俺に迫り、痕を灯し、同じものを俺にも要求してきた。愛撫の延長で噛み付き、食い千切って、解れた千切り目に残る歯型が俺の痕跡だと主張して大笑いできれば、あのとき、どれほど痛快な気分になれただろうか。想像の中の女は苦痛に泣き叫び、絶望と恐怖を宿した目で俺を捉えていた。現実では、女は恍惚として嬌声を上げていた。俺はこれほどまでに不快極まりないというのに、何故この女だけがいい気分を味わっているのか、まったくわからなかった。わからなかったけれど、お望みだというからなんでもしてやった。なんでもさせてやった。快感はあったし、声も出た。その度に、その悦びを遥かに上回る負の感情が、驚異的なスピードで全身を満たした。その連続で気が狂いそうだった。零れる声は利かない自制に抑制をかけるために滲むものだったのに、女はバカだった。あのあばずれは、俺が快楽に喘いでいると思い込み、一層激しい愛撫を繰り返すばかりだった。苛々すれば苛々するほどに、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
「私ね、キャラメル、買いに行こうと思ってたの。お金がある場所、知ってるから」
花菜ちゃんの声で、最低な記憶のコードが途切れた。なんの話をしていたのか、一瞬俺は考えた。
「でも、勝手に触ったら怒るかもしれないよね。あんちゃん、ときどき硬いお金と紙のお金を並べて、一生懸命考えながら分けてるの。硬いお金のいくらかを箪笥の中の封筒に入れてるけど、あれって貯金だよね。触ったら怒るかな、やっぱり」
「貯金……というか、ね」
無意識に繰り返してしまったその単語を、適当に俺は誤魔化しておく。花菜ちゃんの言う「ときどき」は、智生の給料日のことだ。その日から先の一ヶ月、必要になる費用を計算する智生の姿を、花菜ちゃんはよく見ているらしい。見ているだけでは「箪笥の中の封筒」に入れているお金が、一月乗り切った後に僅かに残る小銭だということはわからない。いくら貯まっていたのかまではわからないけれど、大した額にはなっていなかったと思う。その少ない「貯金」を崩して、智生は、花菜ちゃんに贈るプレゼントを買った。本当に俺は、とんでもないことを智生に言ってしまった。花菜ちゃんの髪飾りと引き換えたお金は、本当の意味で、智生が一生懸命働いて得たものだった。智生は、それを友達の俺に聞いて欲しかったのだ。今更後悔してもどうにもならないのに、ひたすら俺は自分を責めている。
キャラメルのひとつやふたつ、いや、十個でも百個でも。頭の奥で、遠い昔の記憶が蘇った。父さんに反抗して、木村に駄々を捏ねて、それまで入ったこともなかったコンビニに足を踏み入れて、適当に目についたお菓子を買ってもらった。なんの変哲もないキャラメルだった。結局、一粒も食べずに智生と花菜ちゃんにあげた。智生に初めて会った日だった。そんなもので喜んでくれるなら、俺はいくつでも用意する。
「一緒に買いに行こうか、キャラメル」
だから、無意識にそんな言葉を吐き出していたことは、自分ではごくナチュラルな流れだった。ところが、花菜ちゃんにとってみれば、俺のその発言は予想外極まりない提案だったようだ。大袈裟に目を丸くして、花菜ちゃんは言葉に詰まった。そんなに変なこと言ってないはずだけどな、と考えた矢先、俺は、あることを思い出した。ツカサが寄越したデータ、つまり『有塚グループ』と、智生のことで頭がいっぱいになりすぎていた。今更言うのはおかしいだろうか、と疑問に思うことはなかった。智生を満たせる花菜ちゃんのことは嫌いだけど、智生が大事にする花菜ちゃんだからこそ、俺だって大事にしたいと思う。そういう感情は、本当にぎりぎりで少しだけではあるけれど、辛うじて俺にも残っていた。
きょとんとした花菜ちゃんに、更に俺は言葉を重ねた。
「言うのすごく遅いんだけど、この前、十四歳になったんだよね。おめでとう。それから、明けましておめでとう。今年もよろしく」
手を差し出すと、花菜ちゃんの表情は、ぱあっと輝いた。花菜ちゃんは両手で俺の手を包み、ぐいっと玄関に引っ張った。不意のことで、引っ張られるままに俺は足を動かしてしまう。
「ごはん食べよう、いっちゃん。あんちゃんが作ってくれてるおにぎり、分けてあげる」
「え」
「みっつあるの。ふたつあげる。どうせひとりで食べたってつまんないもん。それからキャラメル買いに行く」
え、ともう一度言う前に、花菜ちゃんは俺の後ろに回ってドアを閉めた。しっかりと鍵を閉めて、俺の背中を押して、花菜ちゃんは楽しそうに頬に綻ばせている。お腹減ってないから、と断れる状況でもなかった。仕方がないので、靴を脱いだ。安っぽく薄い敷き布、というよりもただの薄い毛布を切っただけのような敷きものの上に、背丈の低い卓袱台がひとつ載っただけの、粗末な居間だ。狭い炊事場に押し込めた冷蔵庫と炊飯器、片手で数えるほどの調理用具が並んだ空間は、何度見ても俺の心に鈍い衝撃を刺す。俺と智生のこの違いは一体なんなのか、またそれを考えた。
嬉しそうな声で花菜ちゃんは俺を促すと、また満面の笑顔になった。成す術なく腰を下ろした俺に背を向け、花菜ちゃんは炊事場に立った。ポニーテールに結い上げた根元には、あの髪飾りがきちんと添えられていた。別に髪飾りが欲しいわけではないけれど、智生に自然にプレゼントをもらえる立場にある花菜ちゃんのことが、俺はやっぱり、少しだけ恨めしかった。ポケットの中で例のハンカチを握り締めた。堂々と智生のことを好きになれないこの身体を、これまでにないほど脱ぎ捨てたくなった。智生を普通に好きでいられる「妹」の立場を持った花菜ちゃんが、俺は、ただただ羨ましく思った。




