黒川 智生 9
上手く力の入らない足が向かっていたのは、いつもの通り道にある本屋だった。なんの変哲もないその本屋は、出入り口前のたったひとつのカウンターを右手にして、広くもなく狭くもない空間をたくさんの書籍で埋め尽くしている。店員が無機質に来店の挨拶を投げかけてきた。俺はそっちに目をくれず、視線を伏せたまま通過した。
今までの生活に本を楽しむような時間はなかったし、読む本を買うだけのお金の余裕もなかった。あまり学校に通っていないし、正直なところ、文字を目で追うこと自体が得意とは言えない自覚がある。仕事にも当然文字は付き纏うが、書籍となるとその意味合いはまったく違う。読まなくてもいい文字を敢えて読むのが本なのだから、それはやはり俺の不得手そのものだった。
そんな俺が、ここ最近、よくこの本屋に立ち寄るようになったことには理由があった。理由がなければ、本屋になど来るはずがなかった。顔を一切上げなくても、目的のものが店内のどの辺りにあるのかは、とっくに把握できている。無言で足を進め、所定の位置で動きを止めた。ここで、やっと顔を上げるという選択肢が生まれる。持ち上げた俺の視線の先の書架にあるのは、海外旅行のガイドブックコーナーだった。
数ある諸外国名を見渡し、指を伸ばして、適当に引っかかった一冊を抜き取った。今日はイギリスのガイドブックだった。雑にページを繰り、目に留まった見開きをチェックした。ウィンチェスターという街の紹介だった。名前だけなら、どこかで聞いたことがあった。文字通りのウィンチェスター大聖堂、ウルヴァジー城の見物、古い町並みの散策などがお決まりの観光コースだそうだ。ご丁寧なことに、ロンドンからバスでかかる時間まで記載されている。コーチ利用、というのはよくわからないが、とりあえず、ロンドンからバスで向かうとニ時間を要するらしい。割りと距離があるのだなと、俺はひとりで小さく頷きながらページを繰った。
観光スポットやホテル、飲食店と目玉料理の特集その他を超えると、必要最低限の会話を成立させるための英語の例文と日本語訳が記されたコーナーに差し掛かった。各地の写真がたくさん掲載された観光案内もいいけど、俺としては、こっちの会話分が紹介されているページのほうが好きだった。英文の上にルピのカタカナ、下に日本語訳で構成された一文を、指でそっとなぞってみる。同時に、口の中でカタカナを発音した。もちろんネイティブな響きなどわからないから、自分でそれっぽく聞こえるようにアレンジするだけだ。どの単語をどんなふうに言えば、その国で本当に使われている音に近づくのか。今日の場合は、どの部分を強調してどの部分を和らげれば、より本場に通じる英語となるのか。想像していろいろなパターンを試してみるだけで、十分すぎると言ってもいいくらい楽しかった。
「ねえ、次はどの国に行く?」
隣で声がした瞬間、ほとんど反射的に俺はガイドブックを閉じた。睫毛を伏せて息を殺した。どこかの学校の制服を着た、俺と同い年くらいの女の子が、母親と思われる女性の腕を引っ張っていた。
「私、今度はアジアのほうに行きたい。ヨーロッパのほうじゃなくて。英語とか英語に似た感じの言語じゃなくて、全然違う言葉を聞いてみたい」
「それもいいけど、会話がすごく難しくなっちゃうよ」
「だから行きたいの。私、いろんな言語に興味あるもん。実際に聞くのが中学からずっと習ってる英語ばっかりってのもつまんないし。発音だって授業でも何度も習うし、違うのがやりたいの」
盗み聞きしたわけではなかった。すぐ隣で展開されていたものだから、会話の内容が耳に入ってしまっただけだ。女の子は意欲をアピールするように似たような言動を繰り返し、英語圏内の国に行きたがっているらしい母親の意見を跳ねつけている。そのうちに母親が折れ、なにか話しながら別の旅行ガイドのコーナーに移って行った。今度の会話内容はわからなかった。俺にとって、幸せそうな母娘の対話など、限りなくどうでもいいことだった。どうでもいいことと決しているはずなのに、胸の奥でなにか不燃物が積もり積もっていくような、重たく陰鬱な、気付けば俺はそんな気持ちを引きずっていた。
人は人だ。頭をひとつ振って、気を取り直して再度ガイドブックを開いた。店内の時計に目を走らせると、時刻はすぐに確認できた。『ネコシロ』でのバイトが終わったのは六時過ぎだった。奴らが否応なく紹介してくる別のバイトまでは、まだ少し時間がある。家に帰ると外に出たくなくなるし、奴らが家まで来ても困る。花菜の顔を見せたくないし、花菜に奴らを見て欲しくもないし、隣に住んでいる人や大家さんとの対面も避けたい。外をぶらついて時間を潰すのも無趣味な俺にはなかなか辛いけど、それでも事態を今より悪くするよりはましだった。戸締りについてはしっかりと言い聞かせてあるし、出かける前に花菜の夕食の準備さえしていれば、わざわざ帰る必要はなかった。いつも花菜のお昼を用意して家を出ているのだから、夕食の準備が増えた程度、全然苦ではなかった。それよりも、遥かに気持ちがだれるのが洗濯や食器洗いと言った細かい家事だ。これはもう、帰ってから片付ければ済む話だと割り切るほかになかった。一番問題になってくるのは風呂だが、最悪、朝一番に世話してやれば問題ない。言うのはよくないけど、花菜だけならなんとでも誤魔化せる。
ガイドブックから情報を得る限り、外国はとても魅力的だった。日本のものではない土地や言葉、人、自然その他諸々、どれを取っても非常に興味深い。次から次へと疑問が生まれ、好奇心に結びつく。海を超えて他国へ渡るには、やはり飛行機が一番いいのだろう。飛行機に搭乗するには、パスポートが必要だったはずだ。パスポートとはなんなのだろう。身分証明になるものがあれば、俺でも作ってもらえるのだろうか。どこで作ってもらうのだろう。ダイレクトに空港なのか、それとも役所を通すのか、なにか別の機関があるのか。お金はどのくらいかかるのか。俺の身分証明で、花菜の分も都合をつけてくれるだろうか。パスポートの発行にあたって、当然なにか紙に書くことになると思う。家の住所は書けるけど、電話はないから携帯電話の番号でいいかな。親の名前はどこにも書かなくていいかな。未成年でも大丈夫かな。あと、身分証明になるものは、免許証や保険証以外になにがあるのか。調べることはたくさんあった。
やりたくもない行為を強要されるのは辛いけど、辛抱すればお金を受け取れる。どう考えても労働に見合わない少額の報酬だが、それでも、まっとうに働くよりは遥かに割りのいい時給だった。今まで通りの質素な生活を心掛けていれば、海の向こうに渡るために必要な金額はすぐに貯まる。行っただけではどうしようもないから、必要額が確保できた後も同じ生活を続ける貯蓄の色付け期間は必須だ。でも、それだって少しの間だけで、それまで耐えることができたのだから、プラスαの時間を耐え忍ぶことだって可能だと思う。俺は平気だ。『ネコシロ』のみんなにはお世話になっているし、店長には特に恩知らずなことをすると自分でも思うけれど、もう俺にはほかに術がなかった。
客にジュースをぶっかけ、正当な反論だったとは言え八つ当たりに近い暴言を浴びせ、そして店長に頬を張られたあの日のこと。厨房の奥の応接間まで腕を引かれ、店長と俺は、机を挟んで向かい合った。俺は顔を上げることなんてできるはずもなく、終始下を向いていた。問い詰められても、口を割るつもりは一切なかった。男の俺が写真と動画で脅されているからと引け腰になってしまうなんて、女々しいし無力な自分を痛切に感じて嫌にはなる。でもその戦法は、奴らがそこまで考えているかどうかまでは知らないが、地元で多少名が知れてしまっている俺だからこそ、効果覿面の手法になっている。なにもしなくても有名な自分が、女ではなく男と交わって、金まで受け取っているなどと知れたらどうなるか。それも奴らのことだから、さも俺が望んでそうしているというふうに触れ回るに違いない。形に残る媒体では、どう見てもそうとしか取れない構図になっている。好きでやっているという演出も、仕事のうちだった。俺がそうするに至った経緯を説明したところで、世間には言いわけにしか聞こえないだろうし、そこでまた噂は一人歩きする。黙っていても苦行、曝しても苦行だ。『ネコシロ』だって、きっと被害を被る。クビになったとして、そんな汚い商売をするガキを、どこの誰が雇ってくれるのだろう。働かないとお金を得られない。お金を得られないと生活ができない。そうなったら、花菜はどうなる。ただでさえ、ろくなものを食べさせていないのに。脳の障害の原因のひとつにはなっているかもしれないけれど、花菜は十四歳になったというのに、まだ初潮の兆候ひとつないのだ。周りの同年代の子がどうなのかはわからない。以前、ふと気になって、ここで本を探して少し読んだ。十七歳の俺がそんな本を開けていることは、さすがにちょっと恥ずかしかった。でも、花菜には母親がいないのだから、俺がしっかりしなくちゃならない。周期が来たら、どう対応したらいいのかも知っておく必要がある。とりあえず赤飯を用意するらしいけど、赤飯ってどうやって炊けば――いや、それは特にどうでもいい。とにかく、それとなく花菜に体調を訊ねてみたが、どこも痛くないし、変わったこともないようだった。
店長は、俺が十八になった時点で、バイトではなく社員として起用されるように本社に話をつけてくれていた。本当はすぐにでもと訴えたが、さすがにそこまでの希望は通らなかった、と店長は苦笑した。俺も知らなかったことだし、店長自身も誰にも言っていなかったのだが、随分前から本社に通って、俺の正式な採用を頼み込んでいたそうだ。そして、先月ようやく許可が下りた。これまで通りに作業に従事して、特別大きな問題を起こさなければ、十八になったその日から社員としての勤務を認める。まだ一年先の話ではあるけれど、本社では既にそういう話になっているということだった。
向かい合った俺に店長が話したのは、それだけだった。なにを聞かれることもなく、客に取った態度を咎められることもなく、もう今日は帰っていい、明日は休んでいいから明後日からまた頑張れ、と言われただけだった。口を開きかけた俺に、店長は、明日は有給にしておくからと言葉を被せた。喋るタイミングを逃し、俺は唖然と呆けていた。なにを聞かれても喋らないでいようと心に決めていたくせに、俺は、なにが起こっているのか問い詰めてくれない店長を疎ましくも感じた。同時に、社員起用の話だけをして俺を解放した店長に感謝の念も抱いた。俺のそういう噂くらいは耳に入っていただろうに、なにも言わずに雇い入れを続ける姿勢の店長は偉大だった。そんな尊敬できる人だからこそ、俺はもう、店長に甘えていてはいけなかった。あの日の事件は、いくら店長が口止めしても、従業員と客を通じて本社に伝わってしまう。ブログに書く奴がいるかもしれないし、書かなくても知り合いに面白いエピソードとして聞かせる奴がいるかもしれない。損害は、大袈裟に言えば全国規模だ。そうなったら、店長のことだから、俺に代わって本社に頭を下げに行くに違いなかった。この通りだから、黒川智生の社員起用の話は取り消さないでくれ、と。
英文の上に書かれたカタカナを指で追いかけながら、俺は、口の中でカタカナ英語を復唱した。こんなことで英語を学習した気持ちになっているのはバカバカしいけど、こんなのは気休めにもならないとわかっているけど、俺は他国の言語を知らなければならなかった。お金を貯めて、花菜を連れて、日本の外に出るために。日本ではない違う国に行って、国の人間もほとんど知らないような田舎町に移って、働いて必要最低限の賃金を得て、贅沢をせずに花菜とふたりで静かに暮らす。ごく最近抱いた、俺の将来の夢だった。本当は名前も知らない国に行って、その中の名前も知らない町を選んで、とにかく目立たず周囲に溶け込んで暮らしたかった。けれど、日本語しか喋れない俺が、いきなりそういう場所で生活していくのは無謀だった。日本と国交のある英語圏内の国を選ぶのがベターだった。英語は世界で最もポピュラーな言語だし、その英語を現地で日常会話に支障をきたさない程度に訓練してから、名前も知らない国に移り住む。気の長い話だし、結局は金銭的な事情で叶わないことが目に見えている夢だが、理想も希望もなく、言われるがままに身体を差し出し続ける生活よりはずっとましだ。幸いなことに、お金を受け取っている。少しだけ辛抱して、準備を整えて、なにもかもを投げ出して、花菜と一緒に国外に逃げる。腐った母親の呪縛から、ヤクザから、俺を蔑むすべてから。樹に会えなくなることは、花菜はとても悲しむと思う。でも、もうそれは仕方のないことなのだ。樹と俺は、最初からお互い親しくなるべきではなかった。超がいくつついても足りないくらいのお坊ちゃんの樹と、父親不明で母親が蒸発、その借金を肩代わりさせられている極貧の俺とは、住む世界が違いすぎていた。俺と花菜が、キャベツやもやしを塩胡椒で炒めただけのおかずばかり食べていること。それを樹が知ったらどう感じるだろう。コンビニで百円出せばお釣りがあるようなキャラメルひとつが、どれだけ貴重なおやつになっていたのか、樹は知っているだろうか。樹のことだから、自分と俺の違いを嫌になるほど考えたはずだ。その結果以上に、俺と花菜は樹より下層だ。あまりにも下層なのだ。今まで親友でいられたことが不思議なくらい、俺と樹はなにもかもが違う。いや、実際、親友ではなかった。友達がヤってお小遣いを稼いでいたら、俺だって軽蔑する。どんな理由があったにしろ、ほかに手段はなかったのか、相談できる相手はいなかったのかと思う。まして恋する相手がそんなことをしていたら、そりゃ怒り爆発するだろう。樹にあんなことをされたのはショックだった。今思い返してみると、樹の心境は嫌になるほど想像できる。理解もする。でも。
「話を聞いて欲しかっただけなのにな……」
独り言が零れた。だって、本当にそうなのだ。樹なら俺を助けてくれると思った。大人を頼る勇気のない俺に代わって、大人にすべて伝えてくれると思った。確かに俺は脅されていたけど、樹は有塚の次期当主となることが確定しているのだから、その力でなんとかしてくれる。他力本願と言われれば認めるしかない。でも、そうやって言い換えていたらきりがない。少しくらい親友を頼りにすることの、一体なにが変だというのか。次から次へと湧き出る自分を忌む感情を跳ね除け、ようやく俺は、樹に打ち明ける決心をしたのだ。その結果があのザマだった。
樹は逆援のことしか言わなかった。本当に俺が言いたかったのは、逆援を含めて事情を話し、そうして輪姦されたことだった。もちろん、代金を受け取ってしまったことも。頃合があれば、花菜に贈ったプレゼントのことも。全部隠さずに話したかった。だって、親友ってそういうものじゃないのか。
樹は、輪姦のことは把握していなかった。把握していたら、力ずくで俺を組み敷くよりも、まずそこを言及しただろうし、だいたい俺を犯す発想もなかったと思う。樹は、金持ちの自分に一言相談すればいいものを、黙って勝手に逆援していた俺、その話をする素振りを見せた俺が本題を置き、違う話を始めようとしたことに激昂した。マワしを知った上で及ぶ行為とは考えにくかった。
無意識に溜息が漏れた。考えても仕方のないことなのに、考えてしまって心が痛む。全部仕方がない。どうしようもない。自問する度、俺はその答えを用意した。ほかに説明しようがなかった。だから、納得するしかなかった。どうせ納得してもしなくても、今の俺の世界は変わらない。だからこそ、全部を捨てて、知らない場所で、新しい世界を生きたかった。家族である花菜だけを連れて。
何度か英文を目で追い、次のページに移行したときだった。ポケットの中の携帯電話が震えた。店内の時計に目をやると、立ち読みを始めて一時間が経過していた。そんなに居座ったつもりはないけど、一文一文、じっくりと読み込んで、何度も口の中でリピートしていた。経過時間は妥当なところかもしれない。
携帯電話は依然として震えていた。時間が時間だし、出先のわかっている着信なのだから、取る必要はなかった。ガイドブックを書架に戻し、入店したときと同じように下を向いて自動ドアに向かった。ありがとうございました、という事務的な挨拶が背中にかかった頃、携帯電話の振動が止まった。夢が叶うまでの、ほんの少しの辛抱だ。自分に言い聞かせ、俺は、既にバイトで疲れきっている足を引きずった。




