有塚 樹 13
アメの包装紙を包んだハンドタオルを、何度も俺は握り直した。ぎゅっと力を入れていれば、もちろんそこに智生の温度などあるはずもないけれど、少しだけ救われていくような気がする。あのときの智生は、俺よりとても小柄だった。ひとつ年下だったから、その分小さいのだと勝手に納得していた。だけど実際は、まあ幼い子どもだったし、確かに一年の差は大きかったのかもしれないけれど、智生が酷い家庭環境で暮らしていたことの影響――最早被害と呼ぶべきかもしれない。智生の身体が小さかった理由は、そっちのほうが明らかに多くの割合を占めていたのだと俺は思っている。我儘で食事を摂らなかった俺とは真逆に、智生は、智生と花菜ちゃんは、子どもを庇護するはずの家の大人からまともにご飯をもらえず、ほとんどアメだけで空腹を誤魔化して生きていた。当然、そのとき の智生はそんなこと口にしなかった。話してくれたのは智生が十三歳になる年、俺はもう誕生日を迎えていたから十四だった。「叔父の家を出た。もう帰らない」。例の公園で偶然会ったとき、九歳の花菜ちゃんの手を引いた智生が語ってくれた。今日まで続いてきたのだから明日からも続けていくというような、当然のことと言わんばかりの、なんでもない口ぶりだった。智生も花菜ちゃんも、大層な荷物など持っていなかった。俺には信じられなかった。というか、たぶん、その場で誰がその姿を見ていても、きっと信じられなかったと思う。後で帰るんだろ、と俺は言いかけた。実際には言わなかった。漠然と、それは今更言ってはいけないことだと感じた。
もう一度、ハンドタオルを持ち直した。その瞬間、自分がどこかわからない場所を歩いていることに気付いた。いつ電車を降りたのだろうか。切符はちゃんと買っていたんだっけ。買った記憶はない。どこでどうなって現状に至っているのか、なんてどうでもよかった。目に見える景色はすべて、色鮮やかで無色透明の風景の羅列でしかない。そんなことより智生のことで頭がいっぱいだった。
エピソードが語られることもないし、そこに居合わせたわけでもない上に、凄まじく温室育ちの俺がわかるはずもないことだけど、智生はずっと苦労してきた。脳に障害のある妹を自分ひとりで守りつつ、働いてお金を得て、日々の生活をして、それだけで智生と俺を含む同年代の子どもとの違いは歴然としている。まして親に代わって借金を返済するなど、あまりにもナンセンスだった。世界に神など存在しないことは、この現実で、呆れてしまうくらい証明されてしまっている。いや、そう形容はしても、端から神なんて信じていないし、だいたい信じる神もいない。もし本当に心優しい神サマがいるのなら、俺はどこにでもあるような家庭に生まれたはずだ。家柄も父親も疎むことなく普通に生活して、飲食行為も普通にこなして、自分の性別を確かめるためだけにアダルト雑誌を広げることもない。気に入らないからと言ってそのメディアを破壊することもなく、薬を飲みまくることもなく、夢の中で親友を殺すことなどなく、まして現実で、親友に親友以上を妄想することもなく。俺は普通の生活ができていたはずだった。俺は「普通」が欲しかった。もしくは、今の自分を取り巻くすべての環境が維持されていたとしても、俺は女であるはずだった。女の身体を知った今では、以前よりも強大に、その必要性を痛感する。この現実は、正しい世界ではない。智生が男であるのなら、俺は女であるべきだった。どこかで世界はなにかを間違えて、そのお鉢が、たまたま俺に回ってきた。簡単な話だった。間違いは正されなければならない。正す術が見当たらない。だって俺は結局、最後まで順応の男だった。
セックスなど二度とするものか。二度と目にするものか。心地のいい脱力は、そのままイコールで空しさと絶望に置き換えられた。親の金と権力のもとに育てられ、自分自身のスキルなどなにひとつとして持たない俺の、唯一の自慢が声だった。声の根源さえも自ら切り開き、原型を留めないほどに粉砕して死ぬことを、確かな輪郭を持って夢想した。ならばこれは、致死概念の行き着く先か。目に映る絶景は、下を海として、上を空として構築されている。狂気的なまでに清々しい青い空、果ての透ける向こうになにひとつとして見出せない。まるで俺の持つ世界のようだ。型式に嵌まった形容は実によく的を射て、不覚にも俺は笑っていた。もう笑うことなんてないと思っていた。零れた笑みの周囲には誰もおらず、そしてそれが自嘲の具現化だったとしても、最後に笑顔になれたことは悪い気分ではなかった。すべてを憎んで終わるより、表面だけでも柔く保って終わったほうが、次のための良い条件を掴みやすいかもしれない。
目を閉じた。頬に当たる風が気持ちよかった。死ぬことが生きることよりも楽だなんて思っていないけれど、生よりは死に希望を託しやすい。今度生まれてくるときは、お金持ちでなくていいから、普通の家庭で女に生まれて、普通に育っていけばいい。そしてもう一度智生に出会って、もう一度、智生のことを好きになればいい。男女でお互いの気持ちがあれば、付き合うことは全然おかしくない。女として生まれて、智生に好きになってもらえるように努力しよう。絶対叶わない恋をしている今よりは、そっちのほうが全然幸せだった。木村には悪いと思う。だけど、俺は樹「お坊ちゃん」なのだ。許して欲しいけれど、許してくれないのならばそれでも構わない。ガキの我儘と称してもらうほかになかった。
今度は力ずくで智生を組み敷くような間違いはせず、ついでに、過去でも現代でも傷害事件など起こしたりしないように。すべて上手くいく。大丈夫だ。言い聞かせて、身体を前に押し出した。希望がたくさんあるのだから、死ぬのなんてちっとも怖くなかった。アメの包装紙を包んだハンドタオルをきつく握りしめて、俺は死を選び取った。後ろからすごい力で腕を引っ張られたのは、そのときだった。
引かれるままに後方にさがり、バランスを崩して尻餅をついた。なにがんだかわからない俺の右頬を、容赦なく平手が襲う。弾けた小気味良い音と鋭い衝撃は、俺の脳内を疑問符で満たした。誰にこんなことをされる義理があるのか、ひとりとして思い当たらなかった。いや、思い当たらないことはなかった。俺の致死概念を知っている唯一の人物がいることは確かで、わからないのは、どうして彼が今ここにいるのか、ということだった。
「なに考えてんだよバカ、死にたいのかよ!」
死にたいのかよって、俺がずっと死にたがりであることは、キミだってわかっているだろうに。助けてもらっておいて何様のつもりだとは自分でも思うけれど、呆れてしまう自分を隠せなかった。助けられるのは想定外だった。俺は死にたかった。タイミングを失って、思わず溜息を吐いた。そこで俺は、ハンドタオルを持っていないことに気が付いた。七瀬君を押しのけて立ち上がり、辺りを見回した。ハンドタオルは見当たらなかった。引っ張られた拍子に、あれだけ下へ投げ出してしまったのだろうか。もしそうなら、拾いに行かなければならなかった。智生がくれたものならすべて特別だけれど、たくさんの特別の中でもあれは一際大切だった。智生が一番最初に俺にくれたもので、俺が一番最初に、有塚にまったく関係していない人からもらったものだ。あれを失うくらいなら、それこそ死んだほうがいい。懸命に視線を動かす俺の背中を、誰かが指で突いた。振り向いたそこには、俺に向かってハンドタオルを差し出している三橋君が立っていた。
「大事なんだよね。落ちなくてよかった」
手を出すと、三橋君は素直にハンドタオルを渡してくれた。中身を確認してみる。アメの包装紙は、きちんと折り畳まれて挟み込まれていた。安心して力が抜けた。落ちてなくて、本当によかった。また溜息が零れた。お礼を述べても、三橋君は無反応だった。
「自分の命よりも、それが大切なのかよ」
怒りを抑え込んだような七瀬君の声がした。俺はなにも言わなかった。七瀬君は続けた。
「そういうことだよな。死ぬのを助けた俺よりも、それを拾った三橋にお礼を言った」
「お礼を言って欲しいの? 助けて欲しいなんて、俺、言った記憶ないけど」
「黒川がくれたものだから、そんなに大切なんだよな。その黒川を救えるのは自分だけだって知ってても、お前は自殺するのかよ」
かつて智生がくれたアメのことは、誰にも話したことはなかった。そのとき一緒にいた木村が覚えているか否か、くらいの話だ。そうだというのに、何故か七瀬君は知っていた。驚きを隠しきれず、俺は七瀬君を斯界の中心に定めた。七瀬君は、今にも歯軋りしそうなオーラを醸して立っていた。この子にとって、俺の自殺はそんなにも許しがたいことなのだろうか。ふとそんな疑問が沸いた。そんなクエスチョンはどうでもいいことだと、すぐに思い出した。どうして七瀬君が俺の宝物を知っているのか、その経緯だって特に興味はなかった。
智生を救えるのは俺ひとりだけ。七瀬君は、その意味合いの言葉を吐き出した。単語の示す意味のひとつひとつは単純だけど、それが俺に向くとなれば話は別だ。どうして俺が、俺だけが、智生を救い出せたりすると言うのか。俺が智生になにをしたか、この子にはわかっているのか。事態を把握できていない幼稚なガキが、自殺現場を目撃して焦った咄嗟の出鱈目としか思えなかった。
「黒川さん、思ったより深刻だった」
「そりゃ深刻だよ。生活費に困って逆援してるくらいなんだから」
「黒川さんの噂、変な方向に捻じ曲がって広まってるんだよ。このままじゃお店干されちゃうかも」
「自己責任じゃん。金もらってオヤジと寝てる智生が悪いんだよ。クビになったら、一気に四、五人くらい相手にして効率よく稼げばいいんじゃないの」
「あんた頭いいくせに、黒川がなんでいきなり逆援するほど金に困るのか想像できないのかよ!」
低く吐き捨てた俺の胸ぐらを、思い切り七瀬君は捻り上げた。瞬時の出来事で予想ができず、一瞬だけ息が詰まった。拳を振り上げた七瀬君の身体を、後ろから三橋君が諌めた。俺と七瀬君の中心を割ったのは藤君で、いつもの涼しい表情で悠長に眼鏡の位置を整えている。なるほど、三人揃って俺を尾行していたようだ。全然気が付かなかった、ということは、俺もそれだけ参っているということか。平日に学校をさぼって人を尾けるとは、なかなかのもの好き揃いと見た。
藤君は、深く息を吐き出した。なんとなく意味ありげな深呼吸だった。明らかになにか言おうとしている体の藤君に対し、俺は微かに首を傾げた。藤君に告白されるべきなにかなど、ひとつとして思い当たることがなかった。
「単刀直入に言うんで、よく聞いてください。大人にどうにかしてもらうのが一番いいけど、『有塚グループ』が相手となると残念ながら望みは薄い。頼みの警察も学校も、金積まれて傷害事件を闇に葬る始末じゃあな。とは言え、こうすることが得策ともとても思えないんだが」
藤君が警察という単語を発した一瞬、七瀬君が顔を曇らせた。ああ、この子、親がケーサツだったっけ。どうでもいい。それ以上に、藤君の発言が不快だった。意識して俺を苛立たせる言い回しをしているとすら感じた。父さんが手回ししてなかったことにしている、俺が起こした、少し年上だった中学生を数人病院送りにした事件だ。一応警察沙汰にはなった。俺が有塚の息子だとわかったから、警察の対応は変わった。被害者側の親も、おそらく見たことはなく、今後見ることもないであろう大金を差し出されて口を噤んだ。その程度の人間たちだった。金でどうとでもできる事象を、後悔したことなど一度もなかった。
「なにが言いたいわけ」
頭の中を巡った記憶と思考を鎮め、藤君を催促した。言いたいことがあるなら、さっさと言って欲しかった。さっさと言ってどこかに消えて、ひとりにして欲しかった。
「有塚さんのところの人が、黒川さんからバイト代を全部奪い取ってたんです」
身体の奥で絶えず鳴り響いていた轟音が、突然止んだような気がした。藤君は続けて言葉を紡いだ。
「貴方はすごく頭がいいから、それだけ聞けばわかりますよね。黒川さんは、母親が置き捨てた莫大な借金を息子として肩代わりしてることはわかってるでしょう」
「だから、なにが言いたいんだよ」
不思議と俺は冷静だった。今までに一度も考えたことがない内容を事実として告げられたのに、俺の感情は落ち着いていた。つい先刻まで、荒波の如く猛っていた苛立ちが嘘のようだった。今までに一度も考えたことのない事実、と無意識に形容した俺自身に、噛み合わない不自然を感じた。
藤君は答えた。
「知り合いに、人調べが得意な奴がいるんです。有塚さんも黒川さんも有名だから、すぐ情報網に引っかかったらしいです。ただ、こいつはちょっと性格の悪さが異常なので、どこまで信じていいのかはわかりませんが。教えてくれてないこともあるだろうし」
「智生がくれたアメのことも、その人が言ってたんだ」
「それは本当だったみたいですね」
「人のこと勝手に根掘り葉掘り調べるなんて、キミも異常な性格の悪さじゃない?」
「それを言われると終わりですね」
「なあ、有塚。黒川を救えるのは、『有塚グループ』の御曹司様で次期社長のあんただけだ。黒川だって好きで身体売ってるわけじゃないってことはわかりきってるんだし、黒川が有塚の親友だってことは親だってわかってるだろ? なんとか手打ちできないかな」
藤君との間を割って、七瀬君は俺の前に立った。必死の眼差しを俺に向け、七瀬君は懸命に俺に訴えている。その瞳よりも、俺の頭の奥は、数秒前に全身を満たした妙な違和感の正体を探ることでいっぱいだった。
「俺、どうしても黒川を救いたいんだ。初めて会ったそのときに、金髪とピアスを褒めて笑いかけてくれた人はほかにいないし。特別に助けてもらったことはないけど、その意味合いで言うなら、間違いなく黒川は俺のヒーローってことにもなる。初対面から俺に優しく話しかけてくれたんだから、その人が辛い思いしてるなんて嫌だ。まして変な噂で勘違いされてるなんて」
「ヒーロー?」
「そうだよ。黒川はヒーローなんだろ。みんな大好きな『灰色ヒーロー』」
「ヒーロー、ね……」
口では七瀬君の発した単語を繰り返しながら、俺の頭の中は、はっきりとした輪郭を持った、混ざり合わないなにかで溢れかえっていた。なにがここまで不自然で腑に落ちず、妙な感触を伴って俺に覆い被さっているのだろうか。その正体を、俺は本当は知っているのではないのか。知っていたとして、何故わざと答えを避けるように心の動きを手配しているのか。わからないのなら、何故わかろうとしていないのか。募る一方の疑問を払拭すると、脳の中心に残ったのはひとつだった。動き始めてはならないなにかが、静かに動き始めてしまった予感がした。




