七瀬 詩仁 13
駆け出しそうになった俺を、待ての一言で藤は制した。有塚を目撃したらいつでも走れる準備をしていた俺は、予想外の藤の一声に全身の空気を抜かれた気分になる。三橋はいつもの澄ました顔で、呑気にいちごミルクを飲んでいた。
なんで止めるんだよ、と小声で口調を荒くしかけた俺になど目もくれず、藤は自分の唇に指を当てた。騒ぐな、のジェスチャーだ。別に騒いでいるわけではない。三橋はいちごミルクを飲み終えたらしく、音をたてて紙パックを折り畳んでいる。藤はそっちには注意を向けなかった。明らかに三橋のほうがうるさいのに、どうして藤はシカトを決め込んでいるのか、まったくもって俺には謎だった。
「ちょっと様子がおかしい」
静かに藤が言う横で、三橋は紙パックをごみ箱に投げ込んだ。三橋は俺に嫌がらせでもしているのだろうか。ちょっと苛つくが、今は三橋を相手にしている場合ではなかった。藤が指示する通り、俺は有塚に目をやった。有塚はちゃんと制服を着ていて、指定の通学鞄も持っていた。切符を買っているところを見ると、定期は使っていないことがわかる。そのことに、俺はちょっと驚いた。世界規模でどうなのかということまでは知らないが、有塚はあの『有塚グループ』の御曹司様なのだ。普段は車で送迎されているけれど、ときどき電車で学校を行き来していること自体は俺も知っていた。というより、学校のほとんどの面子が知っていると思う。色眼鏡とわかっているけれど、『有塚グループ』の次期社長が、駅で普通に切符を買って、一般庶民がするそれと同じように改札を抜けている。なんとも衝撃を伴う光景だった。有塚はどうも金持ちの自分の血筋を毛嫌いしているようで、だから、当たり前のようについてくる運転手付き車両を断る結果に至っていることは簡単に想像できる。有塚が学校を徒歩で離れていくところも、何度も俺は見かけている。それでも有塚の働く「普通の行動」に目を見張ってしまうのだから、つまるところ、有塚の名は、その響きだけでとてつもない力を持っているということだ。
有塚は始終俯いていた。少し離れたベンチに座る俺たちに、微塵も気付いた様子がなかった。こっそり後を尾けていた俺のことも瞬時に見抜いていたくらいだから、今日なんて「おはよう。朝から三人揃ってるなんて、本当にみんな仲良しなんだね。羨ましいや」などと声をかけてきそうなのだが。有塚の声はまるで宝石みたいで、聴覚にとても心地がいい。聞けると思えばつい楽しみにしてしまうような声で、だから俺は、朝から有塚と会話できることが少し嬉しかったりもしたのだが――とてもそういう雰囲気ではなかった。いや、俺が話そうとしていたことも、とても楽しんで話題にできるようなことではなかったことも事実なのだが。
「なんにも見えてないし、なんにも聞こえてない人みたい」
小さく三橋が呟いた。有塚はぴくりとも動かず、無言で下を向いていた。よく目を凝らしてみると、手になにか持っていることがわかった。携帯電話かと思ったが、どうもそうではないようだった。大事そうに有塚が握り締めているそれは、一枚のハンドタオルだった。少しも動かないのに、小さなハンドタオルだけを膝に置いている有塚の様子は、確かに普通とはどこか違う感じがした。そう思った瞬間、以前、街で偶然鉢合わせした黒川も、どこかなにかが違うような気がしたことを思い出した。
有塚と黒川の裏の関係性については、余計なことを口走らないというルールで藤と片が付いていた。俺と藤、ついでに三橋がここにいるのは、そのルールが揺らいだからだった。客にジュースをぶっかけ、声を荒げて黒川は腕を振り上げた。その黒川の頬を、別の従業員が張った。すごい音がした。ほかの客が言っていたところによると『ネコシロ』の店長だそうだ。三橋は素知らぬ顔でパフェを突き続けていたが、俺は、豪快にケーキを突き刺したままのフォークを取り落としそうになった。藤も藤で、いつものポーカーフェイスを保っていたが、さすがに目を大きく開いて硬直していた。
直接有塚に話すことが、最善策とは思っていなかった。まして有塚は情緒不安点気味で、しかも黒川に恋心を抱いているのだから、予想もできないような行動に出る可能性もゼロではなかった。だけど、もうそれしか思いつかなかった。黒川がホテルでオヤジの相手をしていることは既に学校でも噂になっているし、だから『ネコシロ』でもあんなことになったのだ。せっかく持って来た料理を下げろと黒川に命令した女ふたりが最低なきっかけを作ったわけで、それに準じた客の動きが黒川を激昂させてしまったが、黒川だって好きでそんな商売をやっているのではないのだ。それなのに、本当はあれが趣味なのだとか、変な方向に噂はどんどん捻じ曲がっていく。あのときは、黒川がキレなくても、たぶん俺がキレていた。
金の貸し借りは家系で実際にあったとしても、回収の仕方はまっとうであるべきだ。なんと言っても、有塚と黒川は、幼少の頃からの付き合いだ。有塚も黒川が借金を地道に返していることは知っているだろうが、その先にあるのが自分の親の会社だとは思っていないだろう。それなら、やっぱり有塚は知るべきだ。知って、黒川が逆援するに至った経緯もきちんと把握すれば、助けようとすると思う。『有塚グループ』の長男で、次期社長と決まっている有塚樹なら、その術があるはずだった。
電車が停まると、有塚は顔を上げた。ハンドタオルを握り直し、鞄を取って、おもむろに立ち上がる。覚束ない足取りで、有塚は、人に紛れてふらつきながら電車に乗り込んだ。学校に行く前に話したくて朝早くに起き出し、今日は車ではなく電車で通学する日だと信じて駅で待ち伏せし、願いが通じて有塚は姿を見せたと言うのに、この展開は完全にアウトだ。中高生の多いこの時間帯、電車内で話せる内容でもなかった。
「追うぞ」
「追うなんて言い方しなくていいだろ。学校に行っただけだ」
「学校方面はあっちじゃない」
まったく予想していなかった一言を浴びせられ、俺の動きは停止した。そんな俺を置いて立ち上がり始める藤を、今度は俺が呼び止めた。言いたいことがあるなら動きながらだと藤は言い捨て、さっさと電車に向かっている。三橋も、当たり前のように藤の背中を追って立ち上がった。動きながらでは遅いから言っているのに、と思いながらも、俺はふたりを追いかけた。追いかけなければ本当に置き去りにされてしまうので、追いかけるしかなかった。来たときと反対の電車に乗れば済む話だが、方向音痴の俺には、どの電車に乗れば学校に辿り着くのかわからなかった。
「切符はどうするんだよ。学校行きしか買ってないのに」
「有塚さんも学校行きしか買ってないかも」
「そういう問題じゃないだろ!」
「声がでかいぞ」
確かに声はでかかったけど。でも、もっともな反論のはずだった。しかし藤は、さもこうすることが当然とばかりに、ついに電車に乗り込んでしまった。静止する俺をスルーし、三橋も藤の背中に続く。ていうか、こいつはなんでここにいるんだ。有塚と黒川の関係を知っているのは、俺と藤だけなのに。
そうこうしていても、取り残されてしまうだけだ。神サマごめんなさい、お金はあとできちんと払いますと心の中で断りを入れてから、俺もふたりの後を追いかけた。




