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有塚 樹 11 

 僅かに開けた口から、柔らかい舌が滑り込んでた。生温さは心地よく、俺はあっさりと受け入れた。奥まで入ってくる感触は確かにあるのに、どうにもまどろっこしかった。もっと近くに来て欲しい。その意味を込めて、相手の顔と顎を支えた。ちゃんと応じてくれた。それが嬉しくて、もっと近づきたいと思った。相手の首もとに手を置いて、体温を実感した。なんだかすごく安心した。相手の手も、俺の首に触れた。少し冷たい指先の上に、俺は無意識に自分の手を重ねていた。

 キスの感触に興じている最中、不意に俺は、誰と唇を合わせているのかが気になった。ただ触れるだけではなく、舌を入れ合うような仲なのに、どこの誰とこんなことになっているのかがわからなかった。忘れてしまった。忘れてしまった? 忘れるようなことなのか? 一層深く入り込んできた舌の湿度の持ち主を、俺は懸命に思い起こした。忘却とは違う感覚だった。知っているような気もするし、知らないような気もした。胸の奥が落ち着かなかった。キスしているということは、それをしていい相手のはずだ。それなのに、ついさっきまで夢中だったくせに、荒波の如く不信感が降り積もった。マイナスに働く感情は、俺の目蓋を押し上げた。そこにいたのは智生だった。

 あまりにも衝撃的だった。智生の肩を両手で押して、自分との距離を取ってしまう。突然突き飛ばされた智生は、僅かな間、目を丸くして俺を見ていた。やがて、困ったように微笑んだ。その笑顔の意味がわからなった。智生の唇と重ねていた自分の唇は、俺ではない誰かのそれを切り取ったもののような錯覚を覚えた。

「どうしたんだよ、いきなり。びっくりするだろ」

「びっくりするのはこっちだよ。なにこれ。わけわからない。どこなの、ここ」

「どこなの、ここ」

 はて、と何度か瞬きをして、智生は俺の言ったことを繰り返した。そうだよ、ここはどこだよ、と言おうとした。だって、そんなことが起こるはずがないのだ。俺と智生がそういうことになっているなんて、夢でもない限りは考えられなかった。なんでキスなどしていたのか。どういう経緯でそうなったのか。全部がわからなくて、頭が混乱する。頭が痛い。ここでどこで、今は何時なのか。確かめたくて、周囲を見渡した。広がっていたのは、よく見慣れている空間だった。バカみたいに広い部屋にバカみたいに広いベッド、液晶テレビにパソコン、いくら暖房を入れても隙間風が部屋を冷やす、俺の部屋だった。ついさっき、キスした直後まで見ていた景色を、何故か俺は覚えていなかった。意味がわからなかった。智生はというと、ずっとここにいたじゃないか、と言うふうに目を瞬かせている。

 俺、いつ部屋に帰ってきたっけ。少しも思い出せない。額を片手で支えて考えてみても、全然答えは出てこなかった。そうしているうちに、自分が制服を着ていることに気がついた。シャツの袖のボタンははずれ、胸下は第三ボタンまで開いている。その下に着ているものはなにもなかった。まさかと思って確認した。ズボンのベルトはとうに取れて、緩んだ腰周りが言葉にしがたいオーラを醸していた。

 なにが起こっているのかわからない。自分だけでは解決できない。咄嗟に辺りを見回した。現状から判断すれば、近くに木村がいるはずがないことは明白だった。それでも俺は、視線を彷徨わせて木村を探した。木村なら、状況を的確に説明してくれるはずだった。扉に向かって床を蹴りかけたところで、智生は俺の手首を掴んだ。

「どこに行くんだよ。続き、しないのか」

 続き? 続きってなに? 智生が言う「続き」が示す意味はわかる。それを俺に言う由縁がわからない。智生が智生ではない。智生の皮を被った、まったく違う別の人間だ。智生の顔をしているのだから、薄く微笑を刻んだ表情がとても綺麗であることは認める。でもその柔和な瞳は、俺の全身の毛を逆立たせる脅威以外の何者でもなかった。こんな状況で、智生が俺にそんな顔を向けるはずがないのだ。俺の頭の奥は、ひたすらにその事実で埋まっている。

 硬直する俺をしばらく見つめた後、智生の顔をした誰かは再度微笑んだ。含みがあるようには到底思えない、他意のない無防備な笑顔だ。少し困ったように眉根を寄せて、智生は、首を少しだけ傾げてみせた。

「なにかあったのか。ちょっと変だぞ」

「変なのはそっちだ。なんでこんなことになってるんだよ。なんで平然とキスなんかしてるんだよ。俺も智生も男なのに」

「男同士なのがそんなに問題?」

「問題じゃん。気色悪いじゃん。男が男を好きになるなんて、絶対どうかしてるんだから」

「お互い同意さえしていれば、付き合うのはもちろんのこと、結婚するのもありだと思うって。樹、言ってたじゃないか」

 はっとして、心臓が跳ね上がった。僅かな瞬間呼吸が止まり、思わず智生の瞳を凝視してしまう。眼鏡をかけていない智生は、穏やかに微笑んだまま俺を見据えていた。俺の反論など予測の範囲内とばかりに、智生は、ナチュラルに対話を成立させていた。

 現実に同性婚を法律でよしとしている国もあるのだから、日本でだって、本人たちさえ納得していれば結ばれることがあってもいい。智生が言ったそれは、紛れもなく俺の持論だった。何度となく学校で中等部の子たちに話しているし、そうすることで、密かに自分以外の人間の感覚を探っていた。幸いなことに、俺の持つ考えに疑問を投げかけてくる子はいなかった。もちろんその点は、俺が自分できちんと管理して、人が頷いてしまう環境を選んでいたということもある。中学生という、多感で素直な子どもの感情を色濃く残した時期の子たちが、理論や理屈っぽく同性婚を非難するとは考えにくかった。誰かが「そうだね」と言ってくれるなら、その対象が、別に俺より年下の子どもでも全然問題なかった。俺が毎日中等部に足を運んでいたのは、高校生のネットワークよりも中学生のネットワークに深く関わっていた智生のことをもっと知りたかったからでもあり、自分でもどうかしていると思う恋愛感情を否定せず、認めてくれる他人の声が欲しかったからでもある。藤君のことは、言いわけ代わりに利用していただけだ。

 なにがどうなってこういう状況になっているのか、ちっともわからなかった。智生に俺の同性愛に対する考えを話した記憶もなかった。でも、智生が俺にそういう話をするのなら、それは智生が自分で思っていることでもあるのではないか。その思想に至る最初のきっかけは俺が与えたのかもしれないけれど、納得しているなら、それはもう俺ではなく智生の考えだ。俺の考えと智生の考えが一致した、シンプルにそういうことだ。ということは、俺と智生は付き合っているのか。智生から告白してきたなどという夢のようなことはあり得ないから、きっと俺のほうから。肝心なのは、俺にその記憶がないことだった。

「なあ、樹。意識に縛られてるなんて、そんなのお前らしくない。覚えてるか覚えてないかが、そんなにも重要なことか。現に、俺と樹は、ついさっきまで興じてた。違う、今から興じるんだ。唇を合わせて、服なんて脱いで、直接の体温で、お互いの全部に触れて。昨日も一昨日も、その前もずっと」

 智生の指先が、ゆっくりと俺の頬を辿った。妖艶な動作に身体が凍りついた。頬から耳、首筋にかけてラインをなぞる智生の指先は、確かな体温で火照っている。目の前にいるのは、智生とは違う別人だ。ほんの数秒前まで確信に近かったそれは、いとも容易く崩れ落ちた。顔も声も指先も、間違いなく智生だった。何故疑っていたのか、急にわからなくなってきた。彼は智生ではないか。俺がずっと好きだった、灰色ヒーロー、黒川智生。どうだとか何故だとかどうでもよくて、まして性別などどちらでも構わなくて、俺の恋人の黒川智生でいいではないか。その回答は、俺の中では到達点だった。

 目蓋を下ろした智生に合わせて、俺も目を閉じた。心臓がいやに煩く波打っている。全身が熱かった。智生の両肩に手を置いて、そっと唇を近付けた。重なった。智生は自ら口を開き、舌を誘導してくる。智生の中を案内されている。嬉しくて涙が落ちた。俺は智生と結ばれていいんだ。あれこれ難しいことを考える必要はなかったんだ。そんな感情を後押しするように、智生は俺の手首を取った。智生の後ろにあるのはベッドだった。そこに俺を誘うように、智生は後ずさりを続けていた。キスしたまま、身体が柔らかいベッドに沈んだ。その瞬間、舌を噛まれた。思いっきり、うっすら血の味がするくらいの勢いで、上下の歯で挟まれた。目を見開き、反射で飛びのきかけた俺の腕を、智生はさっきの淡い笑顔のまま掴んでいた。

「なんてそんなこと、俺が言うと思ったのか」

 俺の腕を掴んだまま、智生はゆっくりと身体を起こした。片手でシャツのボタンをひとつずつはずしている。胸元から覗いていた白い肌、俺がそこに視線を取られていることを弄ぶかの如く、わざとらしくはだけたシャツをはぐって見せた。いつかに見たものとは違う、他人の痕跡などひとつもない、綺麗な肌だった。

「お前が汚したがってる身体だ。どうだ? 綺麗だろ? 誘われるだろ? 受け入れてやるって言ってんだよ。お前が望むように演じてやるよ」

「……演じる……?」

 なにが起こっているのか、また俺はわからなくなった。智生の発した単語のひとつを、力なく繰り返す。智生は俺の腕を放さなかった。そのままの姿勢で、声を大きくして笑っていた。

 だって今、あんなに夢中でキスしたのに。唐突に疑問が沸き上がり、思わず唇を指で撫でた。口の中に残る、鉄の味を認識した。面白くて面白くて仕方がないと言わんばかりに、智生は笑い続けていた。

「なにそんなにびっくりしてんだ。もしかして信じたのか? 俺がお前のことを本当に愛してるって。堂々とセックスできる関係だって。バカじゃないの。あるわけないだろ。男同士なのに、ずっと俺のことそんなふうに見てたお前が、あまりにも気持ち悪くてさ。ちょっとだけからかってやろうと思ったら、すっげーまじになっちゃって」

「ねえ、智生。俺、智生がなに言ってるのかわかんない」

「わかんないとできないことか? いいって言ってるうちにやっといたほうがいいと思うけど。大丈夫だよ、ちゃんといい声で啼いてよがってやるから。俺にそうして欲しいんだろ。樹、樹、ああ、樹ってな。あはははははは!」

 智生じゃない。やっぱりこいつは智生じゃなかった。智生はそんな下品なこと言わないはずだし、腐ってもずっと親友だった俺のことを、そんなふうになじったりしないはずだ。こいつは智生じゃない。智生じゃない。智生ではない誰かと唇を合わせ、身体をまさぐり、まさぐられた感触が、強烈な吐き気を催した。相手が智生でないのなら、身体の熱で好意を確かめることを致したのは、侮辱以外のなんでもなかった。この俺に侮辱を与えた、最悪の身の程知らず。愛しい智生の姿を騙った、最低なバケモノだ。バケモノは排除されなければならない。たとえ本当に生身の人間だったとしても、智生の顔で、智生の声で、智生の熱で、俺を惑わす存在など俺の世界にいてはならなかった。

 智生の姿をしたバケモノは、俺の腕を解放していなかった。逃げようとしても逃げられない。視線を彷徨わせているうちに、ベッドの脇にスタンドがあることを発見した。それを自由なほうの手で掴み、息を呑んで、智生の顔をしたバケモノの頭部に叩き付けた。俺の腕にかかる指は解かれた。一度だけでは飽き足らず、何度も俺は智生の頭を打ちつけた。智生の頭は、あっけなく割れて中身が飛散していた。智生の頭? ふと俺の中はその疑問で満ち溢れ、スタンドを手放した。ベッドを降りて、数歩後ろにさがった。ぴくりとも動かない、智生の姿をしたそれを眺めた。割れた頭から、留まることなく赤黒い液体が流出している。智生と同じ顔をしているから、智生の頭と形容してしまっただけだ。智生を殺したわけではないのだから大丈夫だ。大丈夫だと自分に言い聞かせているのに、動悸が止まらなかった。息が上がり、目の前に広がる凄惨な光景から、目を逸らすことができなかった。

「なあ、樹」

 声が聞こえた瞬間、今までに見聞きしたどんなことよりも、体験したなによりもを上回る恐怖が背筋を駆け抜けた。

 頭の割れ目から絶え間なく血を流しているのに、智生は顔をこっちに向けて、流暢に喋っていた。

「なにが大丈夫なんだ。俺は紛うことなく黒川智生だ。どうすんだよ、殺しちゃってさ」

 頭の中が真っ白になった。なんだこれ。なにがどうなって、なんでこうなってるんだっけ。気だるそうに起き上がり、一歩ずつ近寄ってくる智生から遠ざかるために、俺も一歩ずつ後ろにさがる。

 俺の背中が壁についても、智生は着実ににじり寄って来た。割れた頭で血を垂れ流しながら生きている智生も、割れゆく頭に思い切り凶器を打ちつけ続けていた俺自身も、怖くて怖くて仕方がなかった。来ないでくれ、と一言発することもできず、俺は智生を凝視して震えていた。智生はなにか言っている。もうその声も聞きたくなくて、なにも見たくなくて、きつく目を瞑って耳を塞いだ。それで視覚は遮断できても、聴覚は遮断できなかった。俺の手越しに口を近づけ、耳元で智生は囁いた。

「安心しろ。全部夢だから」

 目を開けた瞬間、身体が跳ね起きていた。部屋を見渡しても、どこにも頭の割れた智生はいなかった。よく見慣れた、俺の部屋の朝の風景だ。酷く息切れしていた。シーツもパジャマも、全身汗でびっしょりだった。胸を両手で抑え、呼吸を整えた。横目にスタンドが映った。とてつもない苛立ちを覚え、力任せに引っ掴んで床に投げつけた。淡い灯りを発していたスタンドは粉々に砕け、破片がところどころに散らばった。

 苛立ちをどうすることもできなかった。両手で頭を掻き毟り、傍らの小棚の中身を漁る。薬の束を乱雑に取り出し、手当たり次第口に含んだ。錠剤をいくつも噛み砕き、一心に飲み込んだ。少しも落ち着いた気分にならなかった。どうしようもなく苛々する。ベッドを出て、壁に両手をついた。自分の脳天をかち割るためだ。打ちつけようと頭を引くと、つい昨夜のおぞましい行為が脳裏に蘇った。内側から雷を轟かせたような、銅鑼のような頭痛がした。一瞬眩暈がしたその激痛に、壁についた手が滑った。その場でうずくまり、俺はひたすら歯を食い縛る。汗が冷えて身体が寒い。べっとりとねとつく全身を両腕で摩り、俺は、痛みが遠のく瞬間を静かに待っていた。



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