黒川 智生 8
各学校で新学期が始まったらしく、客に学生がどっと増えた。相変わらず俺は接客よりも厨房のほうに引っ込んでいることが多かったが、どうしても人手が足りないときは、お盆と注文機具を持って客の前に出て行った。その日は、お盆に載ったパスタとジュースが二人分、配達待ちのトレイの上に置かれたままだった。周囲を見渡すとみんな手一杯で、俺も特別暇だったというわけでもないが、俺以外にそれを運べる誰かも見当たらなかった。やっていた仕事を適当に切り上げ、お盆を持って外に出た。メモ書きされていた番号のテーブルにお盆を持って行くと、待っていたのは、俺と同い年くらいの女の子がふたりだった。制服に身を包んだふたりは向かい合って座っており、俺の進行方向の席に掛ける女の子と目が合った。彼女は目を大きく見開き、向かいに座って水を飲んでいたもうひとりの女の子の肩を叩いた。たまに女の客の前に出ると、よくされる反応だった。気に留めず足を進め、その子が振り返る頃に、俺はテーブルの傍に辿り着いた。
お待たせしました、と通例の一言を述べてから、メニューを配るために身を屈めた。そこで、最初に俺と目が合った女の子が、突然口を開いた。
「灰色ヒーロー、ですよね」
語尾が上がったので疑問系だ。名前ならともかく、ヒーローですかと問われて頷くのも妙な心地だけど、一応それが俺の通り名みたいなものになっている。小声で「はい」とだけ答え、さっさと下がろうとパスタの盛られた皿に手をつけた。幸いなことに、ジュースもパスタも同じものなので、どちらがどちらの所望品かを確認しなくても済む。
女の子たちは、明らかになにか目で会話していた。そのやり取りがなんとなく不愉快で、だがそれを表に出してしまうわけにもいかず、努めて温和な力加減で二人分のメニューをテーブルに置いた。頭を下げて、立ち去ろうと廻れ右をしたところで、再度声をかけられた。今度はさっきとは違う女の子だった。付着する一遍の汚れも許さないと言うような、濁りのない澄んだ瞳だった。ヒーローとはこういう目をする人間のことだろう、と、俺は諦念じみた感想を抱く。店員としては、呼び止められて無視することはできない。鬱陶しい思いを懸命に振り払い、俺は彼女たちのもとへ戻った。ほかの仕事があるんだから無駄な時間を割かせないで欲しい、などという願望を織り交ぜた表情は見せられない。ただ純粋に、なにか用事がありますか、という空気を醸すよう意図しておいた。
最初に俺と目が合ったほうの女の子は、手を膝に置いて俯いていた。俺が視線をやっていることにも気付いているだろうに、一向に顔を上げようとしなかった。さっきとはまるで態度が違う。なにかおかしい。正義を象った瞳のこの女がなにを言うのか、俺は一瞬、興味を抱いた。
「ヒーローなのに、知らない男の人と寝てお金をもらってるって本当ですか」
言われた一言に、さして驚愕はしなかった。ただ、女の子の声が少し大きかった。もうちょっと場を考えてものを言えないのか、いや、むしろこの場だからこそ、はっきりと聞き取れる声質でそれを言い放ってしまうのか。目の前の彼女の真意など、透き通った瞳をいくら見つめてみても、俺にはわかるはずもなかった。
「そんなの知りません。誰かと間違えてるんじゃないですか」
低く言い返し、早々に場を去ろうと踵を返した。予測の範囲内だった。あれだけ頻繁にホテルに入っていれば、目撃者など腐るくらいにいる。目撃者がいるなら、話は広がる。適当にかわして、さっさと自分の仕事に戻ることにする。世間には、オヤジとやって金を受け取る少年なんて、腐るくらいにいるだろう。
「私たちは、『灰色ヒーロー』に憧れてたんです。ほとんど同い年なのに、悪い人をとっちめて、弱い人を助けて。本当にすごいなって。でも、この子が貴方と男の人がホテルに入っていくの見たって」
しつこい。ヒーローの目をしたこの女は、ヒーローどころか俺の仕事の邪魔をする。人違いだからいい加減にしてくれ、こっちも忙しいんだと言ってやろうか。言ったところで、女はヒーロー気取りで次の文句を突きつけてくるに違いない。考えただけでうんざりした。
どうせ、このふたりには、今ここで俺がその「男の人とホテルに入っていった少年」だという証拠を提示することはできない。第一、今まさにもの申しているこの女はもちろんのこと、俯いている女のほうにも、俺はまったく面識がないのだ。俺はこの付近ではちょっとだけ有名人だから、一方的に知られていることはあるとしても、他人であることに違いはない。遠目にぱっと見ただけの他人から、お前は犯罪者だと言わんばかりの糾弾を受けるのは納得できなかった。なにせ他人なのだから、いくら至近距離にいたとしても、見間違いを否定しきれない。そう、どれだけ近い距離にいても、他人は他人なのだ。他人だからこそ、俺の主張なんて、塵ほども耳を傾けてくれない可能性もあるのだが。
「下げてください」
この一言で、既に凍りついていた場の空気は、一層凍てつくこととなった。周囲のすべての客が、お冷やを運んでいた俺と同じ従業員が、それぞれの手を止めて事態を凝視している。
「なんでですか。それ、注文の品ですよね」
わからなかったから、素直に訊ねた。だって、そのメニューを望んだのは、ほかでもない彼女たち自身だ。注文通りにせっかく持って来たのに、すぐに下げろと要求される意味がわからなかった。
俺の質問が余程気に食わなかったのか、女は、眉間をぐっと近付けた。そんなに凄んだら戻らなくなるぞ。もし友達だったなら、軽い調子でそれくらいは言えたかもしれない。
語調を強め、女は言った。どう聞いても憤っている、私はたった今怒り心頭に達したと表明している、荒々しい語気だった。
「下げてくださいって言ってるのがわかりませんか。私たち、もうお店を出ます。お代はきちんと払いますから、お勘定だけお願いします」
「だから、それはなんでなんですか。食べたかったから注文したんじゃないんですか」
「お金は払うって言ってるんだからいいじゃない。そんなの貴方に関係ないでしょ?」
「俺がホテルで小金を稼いでても、あんたたちには関係ないよな」
稼いでいるというか、今現在は、単純にマワされているだけなんだが。あれだけの行為に見合わないくらいの金は一応受け取っているから、稼いでいることにはなるのか。別にどっちでもよかった。最初こそ、犯罪まがいに身体を強要されること・とても均衡の取れない金額を持たされて誤魔化されていることが許せなかったし、従うしかない自分が悔しかった。やらされる度に屈辱を味わった。全員殺して花菜も殺して、ついでに樹も殺して、自分も死のうと何度考えたか知れなかった。今となっては、そういう感情はすっかり薄れてしまった。人に言えないような――とは言っても既に噂を通して周知の事実となっているようだが、卑しい仕事をしているのだ。だからこそ、少しの配当を望むのはむしろ正当な請求だと思う。その金だって生活費に消えている。余った額はこっそり貯めていて、自分の贅沢や我儘などには一切使っていない。皮肉なことに、まとまった金額を貯蓄に回せるのは、奴らにばれて好き勝手に客を取られるようになってからだった。
余った額。余った額か。まるで他人事のように、その単語を口の中で噛み締めた。あの腐れビッチが残した膨大な借金を、忘れたことなんて一度もなかった。母親が借り捨てた相当な金額こそが、俺と花菜を縛りつけている鎖だ。あんな親でも親だから、なんて間違っても思わない。あの母親は、俺たちにとって、憎い仇以外の何者でもない。その仇を具現化したのがあの借金だ。なんとも選び抜かれたことに、その借金は、法の目を盗む悪人を引っさげて俺と花菜の人生について廻る。
妙に冷えた頭の中は、ものの数秒でそこまでの思考回路を経た。ヒーロー気取りの女は、目を大きく見開いて、顔を真っ赤にして唇を震わせていた。だから、そういう反応の意味がわからないと俺は言っているのだ。このふたりが注文した品に手をつけず、お金だけ払うから会計をして欲しい、食べないことは俺に関係ないと指摘するそれとまったく同じ理由で、俺は言い返すことができる。
誰にも気取られないように、薄く息を吐き出した。口論しているつもりはないけど、傍から見れば、店員の俺と客が揉めている構図でしかないことは確実だった。それなら、分が悪いのは客ではなくこっちだ。言うことを聞いておこう。そう判断して、ふたりをレジに案内しようとしたときだった。
「なんでいきなり下げろなんて言うのかな」
潜めた声で、客のうちの誰かが会話する声が聞こえた。思わず足が止まった。会話している当人たちは俺の動作に気付かないのか、そのまま話を進行させる。
「金もらってオヤジのあれを舐めてるような奴が触った皿、汚くて使えないんじゃないの」
「噂、本当だったのかな。確かにお金はもらってるけど、実は本当はオヤジが好きとか」
「じゃ、好きでやってるってか。そりゃ確かに汚いか」
歯止めの利かない一瞬だった。手元にあったジュースを、会話の方に向かって思い切りぶちまけた。そこにいた客は、少し年上の男性ふたりだった。呆然と俺を見上げる二人の手元に、ジュースやらパスタやらスープやらがごちゃ混ぜになって散らかっている。
目の前のふたりは、俺がそこにいることをわかっていて、俺の話をしていたはずだった。そうだというのに、何故ここに俺がいるのかわからない、とでも言いたげなバカそうな面を曝していた。それがまた、殊更に腹立たしかった。後ろからほかの従業員が引き止める声がした頃はもう遅く、俺は、その客の胸ぐらを捻り上げていた。こんなことをしてはいけない、俺は店員であっちは客なのに。この客を攻撃したところでなにも変わることなどなく、自分の立場を悪くするだけだ。自身を抑制するそんな声を無視するのは、あまりにも簡単だった。
「こんなとこで呑気に飯食ってるお前ら風情に、俺の気持ちがわかるのか」
もちろん、わかって欲しいなどとのたまう気はない。誰がなんと言おうと、そこにどんな感覚があって俺の精神が傷つこうと、結局は俺が自分で選んだ道だ。さすがに輪姦は想定外だったが、それだって、俺が決断しなければ起こらなかった。樹を頼ろうとしたのも甘えだった。全部わかっている。けれど、問わずにはいられなかった。未だに事態を理解していない男の様子が、俺の神経を嘲るように逆撫でする。歯を食い縛らずにはいられない。はっきりとした歯軋りの音が、ほかの誰でもない俺の耳を突き抜ける。
「俺がどんな気持ちであいつらの相手してるのか、お前にわかるのかって訊いてんだよ!」
怒声が飛び出した。自分で制御できなかった。普通の暮らしができる幸せな人間のバカな噂が、バカな面が、バカな声が、本当に腹が立った。腸が煮えくり返るなんて例えがあるけど、今の俺の中で沸き立つそれは、既存の単語で表現できるほど生温いものではない。感情のままに、拳を振り上げた。後ろから振り上げた手首を掴まれた瞬間、自分でも引いてしまうほどに冷静になっている自分がいた。
手首を囲う太い指は、俺の倍以上を生きてきた、頼もしい経歴を物語っていた。水仕事が多いためが、ところどころ赤切れになっている。店長だ。振り返った直後、右の頬に衝撃が走った。頬を張られたその音が、張り詰めた空気の店内に響き渡っていた。




