黒川 智生 1
ちょっと頭突きが強烈すぎた。痛む額を片手で押さえながら、鍵を廻してドアを開けた。玄関とは呼べない、言うなればただの「靴脱ぎ場」だ。すぐ先の畳の空間は僅か五畳すらもない。その空間の確保が俺の限界だった。
「ただいま」
声をかけると、狭い炊事場でフライパンと菜箸をいじっていた花菜が顔を上げた。俺の帰宅に今気付いたという表情だ。いつもの花菜だ。今日も変わりなく過ぎてくれたことに安堵し、俺は花菜の傍へ向かう。
「おかえり。あんちゃん、今日遅かった」
「ごめんな。お腹空いてるだろ、すぐご飯にしような」
言いながら荷物を床に置いたところで、冷蔵庫の扉が開いたままであることに気が付いた。小さな冷蔵庫だが、それなりの電気代はかかる。冷蔵庫までの短い距離を、小走りで詰めた。ペットボトルのお茶が一本と、少し漬物が入っているだけの寂しい冷蔵庫だ。慣れた生活の風景だ。悲しくなることはない。
「花菜、開けたらちゃんと閉めなきゃ」
花菜はここでも驚いた顔をした。ポニーテールを揺らし、花菜は悲しそうに俯いた。俺は別に怒ったつもりはないが、花菜はいつだって素直だ。小声で「ごめんなさい」と口にする花菜の頭を、次から気を付ければ大丈夫だという意味を込めて撫でてやる。花菜は安心したように微笑んだ。
「あんちゃん遅いから、わたしがご飯作りたかった」
「ああ、わかってるよ。ありがとう」
「でもキャベツがなかった」
「昨日ので全部食べちゃったからな。大丈夫、今日また買ってきた」
床に置いた荷物の中からキャベツを取り出した。所謂エコバッグというやつだ。スーパーの袋をもらわなければその分ポイントが貯まるし、ポイントが貯まれば商品を安く買える。今日はその賜物で、卵まで買えた。キャベツと卵を花菜の前に並べてみせると、花菜の表情は、ぱっと明るくなった。
「卵焼きするの?」
「目玉でもいいぞ」
「目玉がいい」
じゃあ目玉焼きを作ることにする。花菜の頭をもう一度撫でた。荷物の中に入っていた小さなコンビニの袋から普通のキャラメルを取り出し、花菜に持たせてやる。花菜は普通の味のキャラメルしか食べない。ご飯前だからジュースは明日だ。ふたつとも樹からもらったことを告げると、花菜は笑った。「いっちゃんは優しいね」。俺は黙って微笑み返す。
畳に薄い毛布を敷いただけのその場所に、花菜は腰を下ろした。キャラメルを口の中で転がしながら、卓袱台の上にスケッチブックとクレヨンを広げている。鼻歌を歌っているので機嫌はいい。テレビもパソコンもないこの部屋では、暇潰しと言えば絵を描くことくらいしかない。
コートを椅子にかけて炊事場に立った。米を研いで炊飯器のスイッチを入れ、キャベツを切って塩胡椒だけで炒める。細く切るとボリュームがないのでざく切りだ。適当に時間が経ったらそれを大皿に移し、フライパンの上に卵を四つ割った。二つずつ。今日はなかなか豪華な食卓だ。
ご飯が炊き上がるまでに少し時間があるので、花菜を風呂に入れることにした。これもいつものことだった。少ないバイト代に家賃四万三千円は相当痛いが、花菜のことを考えると、共用の水回りはどうしても避ける必要があった。これでもまけてもらっているから、家賃だけは頑張って納めなければならない。花菜にできることが少ないのは、ずっと昔からのことだった。
風呂から上がって寝巻きに着替えさせた後、セミロングの髪の毛をタオルで入念に拭いてやる。ドライヤーなんて小洒落たものはここにはない。水分をしっかり拭き取ってから、二人で向かい合って手を合わせた。「いただきます」。炒めたキャベツも目玉焼きも冷めてしまっているが、バイトが遅いときは仕方なかった。入浴中は不機嫌だった花菜の機嫌は、食べ始めるとすぐによくなった。
「ごちそうさま。あんちゃん、今日も美味しかった」
「それはよかった」
「今度いっちゃんも呼ぼう。みんなであんちゃんの目玉焼き食べよう」
箸を置いた花菜が無邪気に提案した。俺は一瞬どきりとしたが、気取られないように賛成した。両手を上げて喜ぶ花菜に、樹がこんなお粗末な、料理とも言えない料理を口にするはずがないとは言えなかった。キャベツの炒めものは考えるまでもないが、そもそも樹は、目玉焼きなんて食べたことがあるのだろうか。何人もの使用人が住み込む屋敷で育ってきた樹のことだ。一流シェフが作ったふわふわのオムレツは大丈夫でも、庶民以下の人間が作った目玉焼きは胃が受け付けないに決まっている。それでも樹はきっと、舌鼓を打ったような感想を述べてくれるのだろうが。
「あんちゃん、見て。わたし、今日も絵を描いたよ」
卓袱台の下からスケッチブックを引っ張り出し、ページを繰って、花菜は俺に作品を見せてくれた。クレヨンや色鉛筆を使って繊細に描かれた絵は、どことなくファンタジーな風景画や植物ばかりだった。ここにはスケッチするものなどなにもないし、模写の題材になりそうな写真も図鑑もない。スケッチブックに描き出されているのは、完全に花菜の空想の中の世界だった。上手いと思う。これが花菜の趣味で特技で世界そのものだ。先天性の脳の障害を持つ花菜は、普通の学校には通えない。うちには親も保護者もいないから、つまり金がないから、養護学校に行かせてやることもできない。花菜は、最低限の読み書きと計算をするのがやっとだった。俺も花菜も、毎日を生き延びるだけで精一杯だった。俺が弱い者いじめを放っておけないのはそのためかと、ときどき考えることがある。弱い者いじめ。その境遇がいかに辛いか、知っていれば素通りできない。『灰色ヒーロー』などと周りは勝手に持てはやすが、俺はただ、弱者に対して一方的に力を振り翳す人間が許せないだけだ。
俺が絵の説明を聞いているうちに、花菜の瞳がまどろんできた。壁にかかった時計を確認してみると、既に九時半を過ぎていた。確かに眠くなってくる時間帯だ。花菜が眠そうにしていると、俺も一日の疲れが押し寄せてきた。花菜は両手で目を擦り、卓袱台を部屋の隅に追いやり、同じく隅に寄せて畳んでいた布団を広げた。横に俺の分も広げてくれた。
歯磨きして来いよ、と俺が言うと、花菜はまた目を擦りながら洗面所へ向かった。僅かな時間ひとりきりだ。俺は小さく息を吐き出す。こんな生活がいつまで続くのか。いつまでも続いていくことは、俺がいちばんよくわかっている。
こんな生活。そのワードが頭に残った。歯磨きを終えた花菜を布団に寝かしつけ、電気を消して、炊事場に取り付けられた小さなスタンドだけを点灯させた。なるべく音をたてないように食器を洗う。やがて花菜の寝息が聞こえ始めた。部屋を振り返ってカレンダーを確認した。もうすぐバイト代が出る。その後クリスマスがあって、花菜の誕生日があって、年末を迎える。十二月は慌しく過ぎていく。
「バイト代、か……」
無意識にそうぼやいていた。今月分は、多めにシフトを入れてもらった。花菜の誕生日があるからだ。花菜へのプレゼントはなにがいいか考えている、などと樹には言ったが、俺は果たして、本当にそんなものを買えるのだろうか。だってこんな生活は無限に続く。こんな生活が。自分で考えておいて自分で重い。
ポケットの中で携帯電話が震えた。こんな時間に誰だ、と思うことはなかった。見覚えのあるその番号を、何度拒否設定しようと考えたかわからなかった。でもそんなことをすれば、状況は却って悪化する。そう推測できるから拒否しなかった。通話ボタンを押して、俺は黙って携帯電話を耳に当てる。