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有塚 樹 10

 自分が出かけようと言いだしたくせに、俺が準備をして外に出ても、父さんは姿を見せなかった。俺と目が合うと、木村は胸に片手を置いて頭を下げた。その一礼で、父さんは同行しないのだと悟った。

 いつもなら助手席に乗るけど、今日ばかりは気が進まなかった。ドアを開けようとする木村を制し、自分で取っ手を引っ張った。こんなにも簡単で、労力なんてこれっぽっちも使わない動作でさえ、金持ちは人にやらせようとする。それも、至極当たり前のような顔をして。俗に言うセレブの神経は、生まれてこの方十八年、いや、年が明けたから十九年。由緒正しい有塚の血統、その次期当主として育てられた俺に、未だに理解できていない領域だった。

「どこ行くの?」

 俺に頭を下げたとき、木村は、いやに難しい顔をしていた。どう考えても、父さんに無理なことを言いつけられた表情だった。そしてそれは、俺に無関係な話ではなかった。父さんに指定された場所は、木村にとって、眉間に皺を寄せるほどのところなのだろうか。一応訊いてみたけれど、別に答えは期待していなかった。そんな顔をするくらいなのだから、質問されても応じるなと父さんに命令されているに違いない。

 案の定、木村は答えてくれなかった。どうでもよくなって、シートの背凭れに頭をつけた。暖房は効いているのに、指先は冷えている。コートの袖口を丸めて手を隠し、心地よく揺れる車の波に身を任せた。夜だからか車通りは少なく、エンジンの音もほとんど聞こえなかった。着いたら起こして欲しいことを伝え、目蓋を下ろした。このまま事故にでも遭って、苦しまずに即死できたらどれだけ楽か。永遠に眠り続ける幸せを、永遠に眠り続けたことなんてないくせに、確かに俺は知っていた。



 木村に声をかけられて目を覚ました。気分だけなら、一時間くらいは寝た心地だった。目を擦りつつ、ここはどこかと問いかけた。なんの返事もないことに違和感を覚えたけど、すぐに事情を思い出した。腹を立てることもなく、窓越しに外の様子を窺った。派手な色彩のネオンが視界に飛び込んだ。不快に点滅するその色合いは、寝ぼけ眼には少々痛かった。目を逸らし、木村を盗み見した。木村が目的地を間違えているのだと思った。車を降りる仕度をしている木村の行動から、その線はあり得ないことが判断できた。

 ネオンは、頭の悪い英単語を筆記体にして象っていた。なんとなく嫌な予感がした。ここがなにかのお店であることはわかるけれど、それ以上のことはなにもわからなかった。いや、本当にそうなのだろうか。俺はわからないのだろうか。わからなくないから、よくない予感を胸に構えているのではないのか。実に見慣れた映像、表現、妄想の根源。昼間、中途半端に実現した。あれが夢ではなかったことは、右手の人差し指の絆創膏が証明している。智生は本気で俺を拒んだ。でも、力では俺が勝っていた。邪魔されなければ、気の済むまで智生を好きにしていた。俺がそれを望んだのは、相手が智生だからだった。智生でないなら、どんなに美人で色欲をそそる女だとしても、絶対の手腕で百パーセント快楽を与えてくれる女だとしても、どんな女を用意されようと俺は欲情しない。あんなことをしてしまった後の今現在でも、俺は智生に変わらない好意を抱き続けている。それを知った上でこの仕打ちというのなら、もう俺は父さんを殺さなければならない。あの男の呼吸をこの手でストップさせない限り、この苛立ちは収まらない。

「有塚系列のお店でございます」

 いつの間にか木村は運転席を出ていた。ドアを開けて、俺が降りるのを待っている。この現実は、一体なんなのだろう。言われるがまま、俺は車を降りた。その僅かな瞬間に、目まぐるしく脳内を思考が駆け巡った。

「ここ、合法なの」

 腹の底から膨れ上がる苛々を、理性で抑えた。やっと吐き出した言葉は、その疑問ひとつだけだった。本当は別にどうでもよかった。『有塚グループ』は社会経済のあらゆる分野を網羅していて、関係していない商業を探すことのほうが困難だ。自分でもそれはわかっていたから、その意味では、この状況に立たされても特に驚かなかった。有塚が風俗店まで経営しているのは知らなかったし、予想していなかったと言えばそれもそうだけど、だからと言って意外だとは感じない。こういうのは必要悪だ。合法としても違法としても、性と人間の繋がりを断ち切ることなんてできない。現に、俺は今までずっと、あり得るはずもない同意の上のセックスを妄想し続けてきた。

 なんの返事も寄越さない木村から、この店が違法であることを察知した。仮に、上手く法の網目を掻い潜った合法風俗店だったとして、未成年の俺を客として迎えるのは犯罪だった。結局のところ、この店自体が法に触れていようといまいと、俺を通してしまえば真っ黒ということになる。

「ねえ、木村。もう有塚の使用人なんて辞めなよ。俺より二歳上の孫がいるんだろ。その孫と暮らせばいいじゃん。子どもが自立して結婚して、孫までいるんだからさ。それでその年でも働いてるんだから、お金にはそんなに困ってないんじゃないの」

 相変わらず、木村は無言を保っていた。不愉快な光を放つネオンの下で、ドアが開いた。胸元の開いた服を着て、派手すぎない化粧をした女が笑顔でお辞儀をしている。年は二十五か六くらいで、胸は大きく、脚は長い。肉厚の身体に締まった腰で、スタイルは申し分なかった。顔も確かに綺麗だった。俺の目には、とんでもなく不細工に見えた。この汚い女とやれというのか。耐えがたい展開に、両の拳を固めて自制を保った。無理矢理に凍てつかせた脳の片隅では、父さんの意思をきちんと汲み取っている自分がいた。男を好きになっているバカな息子には、直接女をわからせるのが最も効果的だ。だから、俺は、それは何度も考えたと言っているのに。さすがは親子というべきか、辿る工程が同じで嫌になる。

「なんで木村は有塚にいるんだよ。なんであんな男に頭下げてるんだよ。腐ってもあいつは父親なのに。腐っても俺は息子なのに。どこの親が子どもにこんなことさせるんだよ。なんで木村も言うこと聞いて、俺をこんなところに連れてくるんだよ。木村も父さんもバカじゃないの。絶対頭どうかしてる」

「今日ばかりは、樹様ではなく、旦那様の命令を厳守するように仰せつかっております」

「樹様? 旦那様? なにそれ。いつもは俺のことお坊ちゃんって呼んで、父さんのことも俺の前ではお父様とか言ってたじゃん。ガキ扱いはやめて、これからコトに及ぶ俺に対してあてつけてるつもり?」

「そんなつもりは微塵もございません」

「そう。俺に嘘吐くんだね。そんなことしていいと」

「樹お坊ちゃんの我儘を聞き捨て、お父様のご意思に従うことが今の私の務めです」

 俺が言い終わる前に、木村が喋った。苛立ちが頂点に達したような、荒々しい口ぶりだった。今度は、俺のことをお坊ちゃんと言った。お父様とも言った。このタイミングでそれを口にするのは、厭味以外の何者でもなかった。そう感じることもまた、自分の呼び名に拘った俺が幼稚である証だった。俺が余計なことを言わなければ、木村も悪態をつくことはなかった。俺の頭の奥で、なにかの糸がぷっつりと切れた。

 木村から視線を逸らした。無言で女の傍に向かう。女は笑って俺を迎え入れた。ほんのりと香水の匂いがした。

 そんなにやって欲しいなら、滅茶苦茶にやってやる。この女がどうなろうと、どうせ俺の知ったことではないのだ。腹を下そうとガキを孕もうと、一切知るものか。寄ってくる客全員に身体を開いているのだから、もしなにかあったとしてもそいつらのせいにすればいい。自分でも引くくらいに、人間を捨てた行為に及んでやろうではないか。この女を父さんが指定したのかどうかまでは知らないけど、有塚の長男を相手にしたことで、こいつの株価も急激に上昇するはずだ。父さんの思惑通りに俺は女を知ることができるし、この女は売女としての自分の価値を高めることができるし、いいことずくめで万々歳だ。

 ドアを閉じると、女は、馴れ馴れしく腕を絡めてきた。振り払う気にもならず、俺は黙って足を動かした。個々の扉の前を通り抜ける度、智生のことを思い出した。智生のことを好きにさえならなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。男の俺が、同じ男の智生に恋することは、そんなにいけないことだったのだろうか。好きな人とセックスしたいと願うのが、ここまでの懲罰を伴うほどに悪いことだとは知らなかった。下を向いたその瞬間、涙が襟元を濡らした。女はそれに気付いたふうもなく、豊満な胸を俺の腕に擦り付けていた。



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