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有塚 樹 9

 懸命になにか言おうとする智生の口を、何度でも塞いだ。強引に行為を決行していた。服を剥ぎ取り、痕の位置を確認して、その上を辿るように犯した。数の多さに、違和感はあった。でも、それ以上を考えることができなかった。頭の中では智生のためを思い、智生が相談してくれるならそれだけでいい、力になりたいと願っていた。智生の身体に刻まれた痕跡を実際に目にしてみると、頭の中が真っ白になった。俺の気も知らず、身体をオヤジに差し出していることが腹立たしかった。綺麗だった智生の身体を、俺以外の人間が汚したことがどうしようもなく許せなかった。

 身体を引き剥がされたのは、俺も半分服を脱いだところだった。最初のほうだ。キスは何度もしたけど、そこまでのことはしていない。邪魔されてむかついたけど、今考えてみれば、止めてくれてよかった。鍵を開け、チェーンを切って部屋に入り、俺と智生の身体を遠ざけたのは複数の使用人だった。その中心にいたのは木村だった。

 ベッドに横たわった状態で、携帯電話を確認した。誰からのメールも着信もなく、時刻は午後九時過ぎを示している。夕食は摂らなかった。水だけを木村に持ってきてもらって、隠し持っていた頭痛薬を飲んだ。別に頭が痛かったわけではなく、作業のひとつだった。薬を服用したという事実だけで、ちょっとだけ気持ちが楽になるはずだった。やってはいけないことのひとつやふたつ、悪いことのひとつやふたつ、大財閥の跡取りとして生まれた俺だってする。周囲の定めた、あまりにも都合のいい俺の在るべき俺の像。小さな頃からずっと、それを叩き壊してやりたかった。俺だって、意思を持つひとりの人間なのだとずっと証明したかった。

 楽になるどころか、本当に頭の奥が疼き始めた気がする。奥歯を噛んだ。ほとんどキスだけだったとは言え、俺は智生に無理強いした。今まで保ってきた関係は、もう絶対に復旧しない。思い留まっていればと後悔はしている。でも、そんな限界はとっくに突破していた。好きな相手の身体に刻み込まれた、幾多もの生々しい内出血の痕は、どうしようもなく俺を搔きたてた。初めて経験するときは、大好きな人がいいと望んでいたのと同じだ。大好きな人にも、初めての経験として自分を受け入れて欲しかった。相手が男にしろ女にしろ、そういう願望を抱くこと自体が夢見すぎだと思うけれど、夢くらい自由に見ていいはずだ。智生自身が選んだ相手と行為に及んで、お互いの好意の証として灯された痕跡なら、俺だってまだ自制が利いた。智生は純潔をお金に換えた上、更に俺が嫌いな花菜ちゃんの話をしようとした。許せるはずもなかった。

 智生は一体、なにを言おうとしていたのだろう。力ずくで組み敷かれながらも、智生はなにかを打ち明けたかったように思えた。その感触を理解する程度の理性は、まだ俺にもあった。だからそれがどうしたというのだ。俺は智生を許せなかった。あのときの俺にあったのは、ただそれだけだった。

 ノックの音がした。返事をする前に、再度時刻を確認した。ちょっと早いけど、父さんが帰っていてもおかしくはない時間だった。今日のことはとっくに父さんに報告されているだろうし、ホテルでの一件も絶対に知っているはずだ。今までそのお咎めがなかったことは腑に落ちなかったけど、それがどんな理由だったとしても、今回こそは呼び出しがある。構えていたから、冷静に俺は身体を起こした。

 ドアを開けた先に立っていたのは、予想通り木村だった。胸に片手を置いて、浅く頭を下げる。小さい頃から見慣れた動作だった。ひとつだけ違っていたのは、低頭の後、俺の目を見なかったことだった。当然のことと思いつつ、俺は胸の奥に鈍い痛みを覚える。木村は視線を持ち上げた風だが、俺の顔を見ていなかった。仕事として俺に接するのではなく、本当の孫のように接してきてくれた木村が、ぎりぎりのところで俺から目を逸らす。それが殊更に、俺の精神的な部分に位置する痛点を刺激した。

「お父様がお呼びです。書斎に来いとのお申し付けを」

 狙っているのかそうではないのか。たぶん無意識だ。ほかの使用人たちは、俺がいても父さんのことを「旦那様」と呼ぶ。でも、木村だけは、俺の前では「お父様」と称していた。父さんがその場にいてもそうだった。父さんも、それに気分を悪くした様子もなかった。そこだけはいつもと同じ、木村にとっての「旦那様」を、俺の目線で「お父様」と言い換えるところが辛かった。あんな男、親だと思って慕ったことは一度もない。

「父さんはいつ帰ってたのかな。そんなに早かったの」

 一応訊ねてみた。『有塚グループ』を取り締まる父さんは、当たり前ながら帰宅は遅い時間になる。こんな時間に俺を呼び出すなんて、まだ食事も入浴も済ませていないのではないだろうか。木村は答えた。

「つい先ほど。今日は大阪に行かれていましたので、かなり急いで帰宅されたかと」

「……ふうん。わかった。ありがとう、下がって」

 木村を押しのけ、部屋の外に出た。ドアを閉めて鍵をかけ、頭を下げた木村に一瞥もくれず、俺はバカみたいに広い廊下を歩く。今日の一件で、いっそのこと、親子の縁を完全に切ってくれればいいのに。すれ違う度に低頭する使用人たちを徹底的に無視しながら、俺は本気でそう考えた。



 最初から覚悟していたこととは言え、すぐにはノックできなかった。父さんを父さんと思ったことはないけれど、俺はやっぱり人の子どもだ。できれば声を荒げられたくないし、頬を張られたくもない。それでもさほど間を空けず、俺は手の甲でドアを叩いた。武力行使されたとしても、それで父と息子の関係がゼロになるなら耐えるべきだと思った。

 返事があったのでドアを開けた。父さんは、背広だけ脱いだワイシャツ姿でソファーに座っている。前にもこんなことがあった。そのときも、父さんは珍しく早く帰っていた。うんざりする記憶を懸命に振り払い、許可を得てから、俺もソファーに腰を下ろした。

「話は聞いた」

 発されたたった一言が、これ以上ないほどに俺を圧迫する。様々な記憶が脳裏をよぎる。走って部屋を出て行きたい衝動に駆られた。掌に爪を食い込ませ、父さんと目を合わせることもなく、俺はただ、ひたすらに自分の感情を抑制した。

「俺、自分が悪いとは思ってないから」

 やっとの思いで、それだけ口にした。父さんは無言だった。完全に後悔していないと言えば嘘だけど、最低な行為に走った自分を正当化する言いわけは揃っている。智生にだって悪い点はある。それだけは、なんとしてでも主張したかった。父さんは昔から智生のことを受け入れていないから、俺がそう言うのは却って逆効果かもしれない。別によかった。今ばかりは、とてもそこまで立ち回れるほどに頭が廻らなかった。

 幾ばくかの沈黙の後、ノックの音が響いた。父さんが応じると、メイドが入室した。お盆を載せたカートを押している。父さんの食事の準備か。わざわざ運んできて、ご苦労なことだ。興味が失せる直前、俺は目を見張ることになった。メイドが持って来たのは、湯飲みに入ったお茶とおにぎりだった。一度頭を下げてから、それを父さんの前と俺の前に配置する。なにか持ってきてくれたときは必ずお礼を言うことにしているけど、今回はなにも言えなかった。それくらい驚いた。父さんがなにを考えているのか、俺には全然想像できなかった。業務を果たし、メイドはさっさと部屋を出ていった。

「今日も食べていないんだろう。食べなさい。なるべく質素なものを作るようにと命じたんだが、本当に質素だな」

 厳粛な父さんの声が、ここで少し綻んだ。ほんの少しだけだけど、父さんが笑った。父さんのそんな表情を見るのは初めてだった。それもこのタイミングだ。怒るどころか笑っている。俺は呆気に取られていた。

「食べないから余計に気持ちが不安定になるんじゃないか。ひとつでもいいから食べなさい。普段はなにも食べたがらないお前が、おにぎりだけは食べきっていたと木村から聞いたんだ」

「昼過ぎてから、みっつも食べたんだよ。お腹空いてない」

「ひとつでいい。あとは部屋に持って帰って、今日中に食べなさい。ゆっくりでいい」

 逃れるのは無理だ。諦めて、ひとつだけ食べることにした。海苔を巻き、塩の利いたおにぎりの中には、ほぐした鮭が潜んでいた。お昼は梅だったから、ちょっとだけグレードが上がっているのだろうか。

「美味いか」

 自分のおにぎりをひとつ食べ終え、父さんは訊ねてきた。俺は素直に頷いておいた。食べたいか食べたくないかは別として、米と魚の組み合わせは強力だと思うのは本当だった。

「お前がものを美味いと言ったのは初めてだな」

 なんと応じることもなく、俺は黙々と口を動かす。別に味を噛み締めているわけでもない。家でよく目にするほかの料理より、ずっと手ごろで食べやすいのは嘘ではなかった。だからと言って食べたくなるのかと訊かれれば、肯定はできなかった。なにを食卓に並べられようと、そもそも食べるという行為自体を疎んでいる。少しくらい感じ方の違う味があったとしても、空腹を満たすまでそれを食べ続けることができるかどうかは、まったく別の話だった。

 頭が痛い。さっさと部屋に戻って、鍵をかけて篭っていたい。腐っても父さんは俺の父さんなのに、俺の気持ちに気付かないのだろうか。気付くわけがなかった。父さんが、今この瞬間、なにを考えているのかわからなかった。この頭痛はきっと、不可解な親の行動を読み取れない、イメージすることすらもできない得体の知れない不安が呼び起こしているものだ。

 ようやくひとつを食べ終えた。小さく息を吐き出して、なんとなく父さんのお皿を見やった。いつの間にか、ふたつめも完食していた。普通のことだ。普段ほとんど食べない俺は、人の前で食事をするということがまずない。自分では普通通りに食べたつもりでも、動作は恐ろしいほど鈍いのだと思う。

 俺の満腹のサイン、というよりはもう食べたくないという信号を、父さんは敏感に察知したらしい。崩していた足の上で指を組み、じっと俺の瞳を見据えている。父さんにそんなふうに見られたことはなく、咄嗟に俺は視線を逸らした。ずっと正面を向いていたら、父さんの歪みなく厳粛な視線に絡め取られ、二度と解放されることはないような気がした。

「樹」

「はい」

 そう返事をしてしまった。呼ばれてはいと応じるのは、決して悪いことではなかった。でも、俺が俺の立ち位置で使う礼儀正しいその応答は、一般的な意味合いとは少し違う。普通の家庭で育っていたら、到底信じられない発想だと我ながら思うけれど――俺にとっては、「はい」と答えることは、貴方に服従しますと頭を垂れていることと同じだった。父さんにそんな返事をしたのは、たぶん七年前以来だった。俺はずっと父さんに反抗心を抱きながらも、十一になるまで父さんに「はい」と応じ続けていた。

「前にも訊いたことだが、お前、彼女はいないんだったな」

「それがなに」

「お前も十八だ。女性を知れば、少しは世界も変わって見える。最初はその気でなくても、付き合い始めてから好きになることだってあるんだ」

 この男は、一体なにを考えているのか。父さんに関してわからないことは山ほどあるけど、今日は際立って疑問が募った。でも、ひとつだけ言いたいことがあった。父さんは、俺がたくさんの女に言い寄られていることを知っている。それにも関わらず、俺に今現在彼女がいないということは、すべて振っているからだというのは考えるまでもないことだ。

 今日の話を聞いたなら、俺が智生に恋心を抱いていることは父さんもわかっているはずだった。なのに父さんは、俺が智生に致した行為を一言として責めていなかった。まともな親なら、気が触れていても不思議ではなかった。まともではない俺の父さんだから、やはりまともではないということだろうか。こんな他人行儀な自宅で暮らしていること自体、既にまともとは言いがたいけれど。

 映像や誌面のみに限られるけど、俺なりに女を知ろうとした。厳密には違う目的、つまり女の身体で自分が男であることを確認したかったのが一番の理由だけれど、それと父さんの言っていることはほぼ同義だった。人並みに興味はあるし、女を抱きたいとも思った。俺は間違いなく男だった。でも、その感覚には常に違和感が伴った。交わる男女の映像を見つめ、なんとはなしに夢想したことがあった。そのとき、すべてが噛み合った。俺はあれを智生としたい。智生でなければ、誰もいらない。智生がああやって俺を求めてくれればいいのに。そんなこと、現実に起こりうるはずがないともわかりきっていた。夢を抱いたまま死ぬことができれば幸せだと思うのは、そういう理屈だった。

「別にいいよ、女なんてどうでも」

「今はどうでもよくても、そのうちわかるときがくる。父さんの言ってることがわからないのか」

「じゃ、父さんは俺にどうでもいい女と付き合えって言うんだね。女のほうもどうでもいいと思ってるならいいけど、そうじゃなかったら最悪じゃん」

 深い意味はなく、適当に言い返したつもりだった。実際、気もないのに弄ぶなんて男女問わず最低の行為だ。当然のことながら、父さんは、俺の頭の中などお見通しとばかりに会話を持続させるものと疑っていなかった。ところが、父さんの反応はどうだ。口を噤み、微妙に視線を伏せて、膝の上で指を組んだ姿勢で静止している。あまりにも予想外で、俺は、目の前の光景に呆然としてしまう。

 やがて、決心したように、父さんは長い息を吐き出した。どことなく意味深長な空気が漂っていることを、肌が敏感に感じ取った。今日はいつもとなにかが違う。それだけはわかっても、飛び上がって逃げ出すほどの脅威ではなかった。中途半端な感覚に囚われ、俺は父さんの眼前に居続けるしかなかった。

「少し出かけるか」

「え?」

 またしてもこの人は、一体なにを言い出すのだろう。壁にかけられたアンティークの時計に、思わず俺は目をやった。夜遊び上等の不良まがいの奴らなら、この時間でも普通に外を出歩くと思う。でも俺はそういうタイプではないし、だいたいこんな夜に外出なんてしたくない。風呂に入ってさっさと寝たい。父さんだって仕事で疲れているはずだ。言い分を主張すべく、俺は口を開いた。俺の声を掻き消すように、父さんは言った。

「着替えて来なさい。あまり派手すぎないようにな」

 吐き出すために準備していた言葉たちが、唐突に俺の中から姿を消した。空っぽの口の中から出てきたのは、はい、という二文字だけだった。とても小さく、頼りなく、自分でもどうしようもないくらいに情けない声だった。後頭部を鈍器で突然殴られたような、わけのわからない衝撃で頭がいっぱいだった。溢れかえるその感覚の中で、はっきりとした致死概念だけが、場違いに浮かび上がっていた。



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