七瀬 詩仁 12
口調は始終静かだったが、藤はあの性格だ。感情の変化に乏しいように見せかけて、本人たちも知らないような裏の関係性を発掘してしまったことに、たぶん戸惑っている。黒川の家庭環境が複雑なのは最初からわかっていたし、莫大な借金を抱えていることも、家の事情を考慮すれば思い至らないこともなくそこまでの驚きにもならない。黒川に頼れる大人がいないことも胸にくるものがあるけど、そこを支えていたのが、親友の有塚ではなかったのか。そうだというのに、まさか、黒川が返している金の先にあるのが『有塚グループ』だなんて。あまりにも酷い事実だった。
余計なことはせず、ふたりにも妙なことを吹き込まない。俺と藤は、そういう約束をして通話を終えた。黒川が金を借りているのが『有塚グループ』であることも、有塚の一族が黒川からなけなしの金を奪い取ったことも、お互いに知らないままでいるほうがいい。なにかの拍子で知ってしまうことがあるとすれば、それはもう仕方ない。俺たちにはどうにもできない。そうなってしまったときも、実は知っていましたなどと口を滑らせず、場に対応して言葉を選ぶ。初対面の俺に笑いかけてくれた黒川にそんな仕打ちはあんまりだし、自分がなにかと疑われていることを知りながら、飯やおやつを奢ってくれた有塚に他人のふりをするのも心苦しい。なんとかしたい気持ちが、いくらでも込み上げてくる。でも、藤が言う通り、たかが十五歳で、あのふたりよりも年下ですらある自分たちに、事態を打開できる術などなにもなかった。幼すぎる自分がもどかしかった。
それだけなら、まだいいよな。衝撃的だった真実を知った後、気分転換に散歩していた俺は、その一言に辿り着いた。頭の真ん中に浮かび上がったそれを、俺はゆっくりと吟味した。それだけならまだいい。有塚と黒川が親友だというのなら、お互いにそう認識していてこの現実なら、まともではないけどましな展開だった。黒川は有塚を親友だと思っているかもしれないが、有塚はそうではなかった。有塚は、同性の黒川に、異性に対して抱くそれとまったく同じ好意を寄せていた。以前にも三橋が指摘していたことだが、完全に確定はしていなかった。藤の反応も、さすがに少し苦々しかった。
なんとかしてふたりを救い出したい。考えれば考えるほど、その気持ちが大きくなるばかりだった。俺は、有塚とも黒川とも、そこまで深く交友があったわけではない。でも、本人以上の事情を把握してしまった以上、知らんぷりで素通りなんてできなかった。というか、たとえ一切関わりのない、本当に真っ赤な他人だったとして、ここまで知った上でなんの感情も抱かないのは、人間としてどこか欠落している。まして普通に会って対話している人間の事情なのだから、助けたいと思うのは当然のことだった。
藤の頭脳をフルに使えば、直接『有塚グループ』に手を出すことなく、少しくらい事態をよくできるのではないだろうか。提案した俺を、藤はあっけなく突っぱねた。「バカか。相手はあの『有塚グループ』だぞ。下手すれば引き込まれる」。なにか解決策を見出したとして、金を積まれて終わりだと言いたかったんだろうが、その言い分は、既に『有塚グループ』をまっとうな組織と認識しないことと同義だった。子どもの俺と藤だけなら金で左右はされないが、動くのは結局大人になる。この問題は、自分たちで仕事しない限り、安心できる結末に落ち着くとは思いがたかった。
年明けから数日経ったが、まだ世間は正月モードだ。浮ついた空気の漂う街中を、意味もなく俺はぶらついている。だから、その矢先で黒川を発見したのは偶然だった。頭の中を満たしていた思考が思考だっただけに、思わず声を上げてしまいそうになった。俺と向かい合う形で歩いていた黒川が、少しだけ声を漏らした。黒川とは一度会ったきりだが、俺のことを記憶していたようだった。
薄いコートに身を包み、あのときと同じ赤縁の眼鏡をかけた黒川が歩み寄ってきた。久しぶりだな、と声をかけてきたので、俺も無難な返事と新年通例の挨拶を口にする。黒川も同じ挨拶を返してきた。
「バイトで同じことばっかしてるから、そういう時期のイベントみたいなのって忘れちゃうんだよな。さすがにクリスマスは店のムードも音楽もちょっと変わるから、ちゃんと覚えてるんだけど」
「黒川さん、元気でやってた?」
訊いたのはわざとだった。でも、自然な流れでもあるはずだった。俺の意図を読み取ったはずもない黒川は、妙に疲れた笑顔で答えた。
「元気だよ。サンキュ。えーと、七瀬君だよな。七瀬君は元気?」
「詩仁でいいよ。この名前、すごく気に入ってるから」
「そっか。じゃあ詩仁、元気でやってたか」
笑顔を繕い直した黒川の目は、やっぱりどこか焦点が定まっていなかった。事情が事情であることも知っているし、それが原因ではないにしても、気のせいにして流すことはできなかった。とりあえず頷くだけ頷いておいて、俺は黒川に訊ねた。
「大丈夫? なんかすごく疲れてるみたいだけど」
「えっ」
意外にも、黒川は驚いた反応だった。自分では普通の笑顔を保っているつもりだったのだろうか。そうだとしたら、尚更疲弊している。辺りを少し見回した後、黒川は小さく言葉を発した。
「そんなに疲れた顔してるかな。自分じゃわからなかったけど」
「今日は休み? それなら帰って昼寝でもしたらいいかも。相当疲れてるよ」
言うと、黒川は口を閉じて俯いた。どう考えても、心も身体も元気である人間のリアクションではなかった。どうしたのだろう。訊いても俺なんかには言ってくれないかもしれないけど、訊いてみる価値はある。口を開くと、俺より先に黒川が喋った。
「ちょっとだけ悩みがあって、ずっとそれ考えてたから」
「深刻な悩み?」
深刻な悩みだ。わかっていたけど、敢えて確認した。黒川は肯定せず、否定もしなかった。
「ほんの少しでも軽くなればいいと思ったんだけど、やっぱり簡単には無理だな。ひとりでいたら余計考えちゃうから、人ごみの中に混ざって歩こうと思って」
自分で質問しておいて、なんと言ったらいいのかわからなかった。口をまごつかせる俺に、黒川は僅かに笑いかけた。どうしてそういう顔をするのか、俺には全然わからなかった。俺は全部知っている。黒川のことだけど、黒川よりもわかっている。どうしても力になりたかった。寒いから早く帰れよ、それじゃあまたな、と言って去ろうとする黒川のコートの裾を、俺は両手で掴んでいた。前進を阻まれた黒川は、きょとんとして振り返ってきた。
黒川を引き止めたのは、無意識のことだった。だから俺も戸惑った。でも、なんでもないからと言って解放するのも不自然だった。今の俺の状態で、黒川にかけられる言葉があるとすれば、たったひとつしか思いつかなかった。
「俺の父さん、警察なんだ。あんまりよくはわからないんだけど、結構上の人みたいだからさ。もしなにかトラブルがあるなら、話は聞いてくれるよ。立場のある人だから、それなりの融通は利くと思う」
「詩仁の親父さんが、警察の上の人」
「うん。あ、でも、あんまり家に帰って来ないんだけど……俺、父さんの携帯番号わかるから」
だから、各階級の人をすっ飛ばして、直接権力のある人間に話を通せる。そういう意味で、口にしたことだった。俺と父さんはあまり仲良しではないけど、仕事に関わってくる話となればまた別だ。妙な感情を挟まず会話できるし、人を守るのは警察の役目だ。ヤクザや裏社会が絡んでいたとしたら尚更で、放置することはないと思う。ほかの警察官がどうなのかはともかく、俺の父さんはそういう人だ。親としてのあり方はともかく、父さんは悪い人ではない。
父さんに話を通す可能性があるなら、黒川は、まず俺の連絡先を知っておく必要がある。携帯電話を取り出そうとしたとき、黒川は言った。
「そっか、わかった。ありがとな、詩仁」
わかったならその切り返しはなんだ。ぼんやりと揺らいだ瞳のままの黒川は、頬を弛緩させて、そのままなにも言わなかった。手を振って俺に背を向けた黒川を、今度は引き止めることができなかった。黒川には、誰を頼るつもりもないことが、明確に浮き彫りになった。
「え……」
零れ落ちたその声は、もちろん黒川本人には届かなかった。なんだかおかしい。黒川はどこか、以前となにかが違う。そんな気がする。ろくに黒川のことを知らない俺の頭の奥に、根拠のない疑念がふわりと舞い上がった。




