黒川 智生 6
樹の家はどのあたりだったか、はっきりとは覚えていなかった。行ったことがないし、行きたいと思ったこともなかった。友達として訪ねてみたい願望が皆無だったと言えば嘘になるけど、俺と樹の差は雲泥の如くだった。樹の家の人が俺のことを快く思っていないことも明らかだったし、花菜をひとりで家に置いておくこともできなかった。あの頃はまだ俺も花菜も小さかったし、訪ねるならふたりで、という条件が絶対だった。初めてできた友達に甘えてみたい気持ちと、そんなことは許されないという気持ちが打ち消しあっていた。年月を重ねて、今では、ただ単に樹と自分の差を視覚化したくないという卑しい思いだけで拒否している。本当のところ、樹がうちを訪ねてくれるのも、あまりいい気はしていない。でも花菜は樹が来れば喜ぶし、俺だって、樹が個人として遊びに来てくれるのは嬉しい。誕生日のサプライズも、すごく嬉しかった。だけど、やっぱり思うことはある。樹がうちに来るという現象に、俺はいつも、うまく表現できない複雑な感情を渦巻かせている。
気を遣ってくれた樹を断ったのは、花菜の傍で妙な話をしたくないからだった。アパートは壁も薄いし、なにかの拍子で聞き耳を立てられていても困る。俺が樹にしたいのは、そういう話だった。奴らに写真で脅されているし、俺の意思で、強要された行為にとても見合わない小金を受け取っている。奴らとの契約は、一応成立しているのだ。俺が口外するのはルール違反だ。もしばれたら、それこそなにがあるかわからない。
金を受け取らなければよかった。それはそうだ。でも、ひとつだけ言いわけをするなら、生活に困っていた。金額設定が相場でなかったかもしれないが、一度、ニ度逆援をしたくらいでは、とても一ヶ月を乗り切れない。水代もガス代も払わなければいけなかったし、家賃が占めるウェイトも大きい。滞納している費用もあった。それを見越して、奴らは三十万をちらつかせた。とことん、やり方が腐っている。わかっていながら乗った俺も、相当腐っている。
うろ覚えで彷徨っているうちに、塀に凭れかかる樹を発見した。片手の携帯電話に目を落としている。ということは、この塀の向こう側は、すべて有塚所有の屋敷か。ざっと視線を投げて、桁違いの面積に唖然とした。俺と樹の差異。鉛のように、頭上に降り注いだ。やっぱり、俺はここに来てはいけなかったかもしれない。俺が持って生まれるはずだったものは、根こそぎ樹が横取りしたのではないだろうか。思わず後ろにさがった足に、金持ちの樹を妬む感情を、はっきりと自覚した。
顔を上げた樹が、俺に気付いた。高そうなコートに袖を通した樹は、笑顔で手を振ってくる。俺も手を振り返した。今さら引き返せるはずもなかった。足早に樹の傍に向かった。
「明けましておめでとう。今年もよろしく」
俺に向けて振っていた手を、不意に樹は差し出してきた。はっとして、俺も手を出した。そういえば、年が明けたんだった。大晦日も元旦も普通にバイトがあったし、家にはテレビもないから、すっかり忘れていた。お餅のひとつでも買って帰れば、花菜、喜んでくれるかな。即座に花菜のことを考えた直後、脳裏に例の行為がフィードバックした。汚い手法で得た金なのだから、必要最低限のこと以外には使うべきではないかもしれない。
「さっき言えばよかったな。忘れてた。今年もよろしく、樹」
「俺も忘れてたから。気にしないでね」
長く立っていたのか、冷えた樹の手を握り返した。こうして俺のために時間を割いてくれる樹を、よくない感情を伴って見てしまう。そうだというのに、俺ひとりではどうしようもないことを、調子よく聞いてもらって助力を乞おうとしている。自分の存在に、酷く嫌気が差した。
屋敷の人たちは、仰々しく俺たちを出迎えた。知っていたことだけど、本当に使用人が何人もいる。彼らは樹だけでなく、俺にまで深く頭を下げた。どう反応したらいいのかわからない俺を気遣ってくれたのか、それまで合わせていた歩幅をずらし、樹は俺の前へ出た。そんな樹の動作にも、俺は自分と樹の違いを感じてしまう。小さい頃も、確かにいろいろ考えてはいた。でも、ここまでひっきりなしに、なにか感じることはなかった。俺も大人になったということだ。典型的な、悪い例の大人だ。
「入って。ちょっと隙間風吹いてるかもしれないけど、暖房は効いてると思うよ」
ドアを開けて、樹は俺を部屋に通す。本当にいいのだろうかと未だに疑念を抱きつつ、敷居を跨いだ。立派な部屋だ。大きなテレビがついているし、パソコンもあるし、ベッドもすごく大きかった。この部屋だけで、俺と花菜が暮らす一室の四倍の広さはありそうだった。床も暖かく、天井に近い位置から緩やかに暖房が機能している。樹はいつもここにいるのか。俺とは、やっぱり月とスッポンの違いっぷりだった。
「そこ座って。もうすぐケーキ持ってきてくれると思うよ」
「え。急に押しかけたのに、そんなの別に」
「いいから座ってよ。俺、友達が家に来てくれたことないんだ。おもてなししてみたいし、家の人も喜んでたよ。俺には本当は友達なんていないんじゃないかって、ずっと心配してたから」
思わぬ返しに、俺は黙りこくってしまった。俺が思うよりもずっと純粋に、樹は俺を友達だと思ってくれている。
ソファーに腰を下ろすと、樹は満足そうに微笑んだ。上着も脱げばと言われたので、言われた通りにコートもハンガーにかけさせてもらった。樹は楽しそうだったが、時折、目を伏せる瞬間があった。それがどういう意味なのか、俺にはわからなかった。
ほどなくして、ノックの音が響いた。樹が返事をすると、ケーキとカップがふたつずつ載ったお盆を携え、低頭して老人が入ってきた。木村さんだ。すぐにわかった。
樹は木村さんと親しげに言葉を交わし、木村さんは俺にも優しく目配せしてくれた。再度頭を下げ、ごゆっくり、とだけ言って下がっていく。樹は軽く「ありがとう」と声を飛ばして、ひらひらと手を振っていた。
「俺は甘いの食べないから智生の分だけで、って言っといたんだけど。やっぱふたつ持って来ちゃったね。これ後で包んでもらうから、花菜ちゃんに食べてもらって」
「あ、うん。ありがとう」
「お礼なんていいよ。友達なんだからさ」
友達。今日の樹は、いやに友達を強調する。ような気がする。違和感がないわけではなかったけど、なにせ俺は、初めてこんな並外れた屋敷の客人となっている。違和感の正体は樹のものではなく、慣れない場所に来ている俺自身の感覚だと思い込むことにした。
胸の奥で、沸き立つものがあった。境遇や身分に関係なく、本当に俺のことを友達だと思ってくれているなら、本題に入る前に聞いて欲しい話があった。花菜の誕生日にあげた髪飾りのことだ。あげる前に話したときは、俺のことを疑っている雰囲気だった樹を誤魔化すために、裏をかいて話題にしたことだった。あのときはそうだったけど、今は、純粋に友達として、話を聞いて欲しかった。当日、花菜は、本当に喜んでくれた。一月生活して、僅かに残るなけなしの小銭を貯め続けていて、それをはたいて買った髪飾りだった。あの髪飾りだけは、まっとうに働いて得たお金で用意した。本当は、予算二万でもっと女の子が喜びそうな、可愛い服や靴を買ってやりたかった。誕生日くらい、いいものを食べさせてやりたかった。全部無理だった。あの髪飾りが、俺の精一杯だった。それでも花菜は笑ってくれた。
樹なら、俺と喜びを共有してくれる。口を開いて、なあ樹、と切り出した。その瞬間、樹はまた睫毛を伏せていた。また違和感が肌を刺した。これも気のせいだろうか。本当にそうなのだろうか。樹は顔を上げた。一瞬戸惑った俺に、樹はわざとらしく頬を弛緩させた。もう待ちくたびれたんだけど、とでも言いたげな表情だった。なんでそんな顔をしているのか、思い当たる節がひとつもなかった。
「楽しそうだね、智生」
声はとても穏やかだった。でも、少しも笑っていなかった。顔は笑っているのに、声は笑っていない。奇妙な構図で、なにがなんだかわからなくて、俺は膝に拳を乗せたまま硬直していた。
「ねえ、智生。俺、知ってるんだよ。お金に困ってて、逆援してるっていう相談をさ。俺にしに来てくれたんだよね。なのに、どうして楽しそうなのかな。やってお金もらうの、そんなに楽しい?」
樹は声音を変えず、いつもの綺麗な声のままだった。でも、言っていることはとんでもなかった。急に胸が波打ち始めた。俺が樹に相談したかったことはまさしくそれと、その延長で行われた輪姦のことだった。でも、相談できる空気ではなかった。完全に虚を突かれて、俺はなにも言えなかった。きちんと防護線を張ったつもりだったのに、樹はどこで確信したのだろう。違う、そんなことはどうでもよかった。何故俺は、言いわけを考えているのだろうか。樹はもう知っているなら、話は早い。いきなり相談できる空気ではないことは、むしろ当たり前だ。友達が逆援などという大それたことをやっていて、それを相談されているのに、終始笑顔で応じられるなんて普通ではない。最初から知っていたなら、樹はよく笑顔を保ったほうだと思う。
花菜の話は後だ。先に事情を説明しようと、再度俺は口を開いた。ここで樹は、紅茶の入ったカップに口をつけた。一口飲んで、口元を指で拭った。甘すぎ。樹は低く、吐き捨てるように言った。
「俺、ずっと我慢してるんだよ。逆援のこと、相談しようとしてくれたんだよね。嬉しかった。俺のこと、ちゃんと頼ってくれるんだなって。でも、智生。なんで違う話をしようとするんだよ。あんなに嬉しそうにしてたってことは、花菜ちゃんのことかな。誕生日のプレゼント、すごく喜んでくれたとか」
「え?」
「花菜ちゃんは智生の全部だもんね。言ってたもんね。でもさ、智生。俺がいつも、どんな気持ちで、智生が嬉しそうに花菜ちゃんのこと話してるの聞いてたかわかる?」
数拍置いて、樹はにっこりと微笑んだ。どうしてここで笑うのか、俺には全然わからなかった。さっきまでの低い口調とは打って変わり、樹は明るいトーンで言った。
「そうだよね。花菜ちゃん、喜んでくれないわけないよね。智生が一生懸命働いて、それで得たお金で買ったものなんだから。智生が一生懸命、汚いオヤジとセックスして買ったプレゼントだもんね」
樹が言っていることがわからなかった。わからなくて、声を出すことができなかった。樹は笑顔で続けた。
「セックスかあ。俺、やったことないんだよね。お金払ってまで経験したいとは思わないけどさ。でも、人並みに興味はある。どんな感じ? 本当に気持ちいい?」
「樹、お前なに言って」
「ねえ、智生。俺も知りたい。俺にも教えて」
言われた直後、声が出なかった。樹がなにを言っているのか、本当にわけがわからなかった。呆然としていた。少し遅れて、事態を理解した。立ち込める違和感と、先刻、樹が唇を指でなぞった意味がようやくわかった。鈍感な自分を思い知り、頭の奥で、最低な記憶が蘇った。




