有塚 樹 8
年が明けた。西暦の数字がひとつ増えた、ただそれだけのことなのに、何故テレビや世間はここぞとばかりに盛り上がるのだろう。真っ昼間からくだらないバラエティで爆笑している芸能人たちは、果たして本当に楽しいと思っているのだろうか。疑問を抱いたのは、することもなく部屋でだらけている俺の怠惰以外のなんでもなかった。
テレビを消すと、部屋から音が掻き消えた。静かな暖房の機能音と、俺の呼吸音くらいしか聞こえない。聴覚を刺激しない世界は快適だ。ベッドに倒れ、目を閉じた。眠い。寝ても寝ても眠いのに、しょうもないテレビ番組で更に目蓋が重くなった。
正月だというのに、父さんは仕事で忙しいらしい。そこまで仕事が好きなのかと思うと不思議だけど、有塚の系列を考えると、やはり社長の父さんはいなければならない存在なのだと思う。実際、父さんは『有塚グループ』の業績をずっと右肩上がりに保っている。数字を出すのは社長の下の従業員だとしても、結果としてあぶり出されるそれは社長の方針に従ってのものだ。父さんはすごいし、ついていくみんなもすごいし、俺はそんなものどうでもいい。
疑いが確定に移行してから、智生とは会っていなかった。それまでは頻繁に『ネコシロ』に訪れていた俺なのに、どうしたのかと智生は首を傾げるだろうか。疑問に感じるまでもなく、そんなことはないとわかりきっていた。今の期間は冬休みであるということは智生もわかっているし、学校が休みなら、いつも制服で店を訪ねていた俺という要素が欠けたことも自然と智生は取るだろう。冬休みも大学受験のための補習があることを智生は知らないし、知っていたとして、俺は補習に参加していない。学校の勉強はつまらない。教科書の内容を反復するだけだし、先生にも、この成績ならと役割免除の許可をもらっている。このサインを受け取った生徒は、俺を含めても十人には至らないと聞いた。それだけの結果を出しても、父さんはきっと、俺のことを認めてはくれない。
あれだけ鑑賞していたアダルト系統のメディアにも、一切手を出さなくなった。自分が正常な男であることを確認するために、麻薬中毒の如く各ジャンルに手を出していたが、今やもうその行為に意味がないこともわかっている。わかっていることに時間を割くのはバカげている。あんな事実を突きつけられても俺は智生に好意を抱き続けているし、だからこそ、あの構図を見るのは苦痛だった。智生が汚いオヤジに身体を巻きつかせ、いやらしく嬌声を上げている様を、まざまざと想像してしまう。その醜い男とはするのに、何故俺とはしてくれないのかと思ってしまう。そうだというのに、その妄想に反応しようとする己自身が惨めだった。あまりにも惨めすぎた。
することはなく、趣味はなく、外に出るのも面倒だった。もちろんなにも食べたくないし、飲みたくもない。昨晩もなにも食べていないからと、木村がおにぎりを持ってきてくれた。一口齧っただけで、みっつのおにぎりは、ほぼ手付かずでお皿に載っている。
目を閉じた。寝るのだけは好きだった。夢の中の自分は幸せである可能性があるし、なにより、眠れば時間が経っている。散々寝たけど、睡魔はいくらでも押し寄せてくる。
完全に眠りかけたところで、枕元の携帯電話が震えた。無視して寝るつもりだったけど、バイブ音は妙にしつこく継続していた。着信とわかったので、尚更放置することにした。音は止まなかった。仕方ないので、電源を切ろうと携帯電話に手を伸ばした。液晶に表示されている文字を見た瞬間、眠気がどこかに吹き飛んだ。フルネームで画面を埋めている智生のフルネームに、俺は急いで通話ボタンを押した。
もう切ろうとしていたところなのか、智生が発したのは、電話通例の一言ではなかった。あ、出た。低くそうぼやいたあと、智生は慌てて「もしもし」と言ってきた。
『ごめん。忙しかった?』
「そんなことないよ。ちょっと眠りこけてて」
『……起こしちゃったんだな。ごめんな』
「なにそんなに謝ってるんだよ。ヒーローらしくないじゃん」
軽い調子で返すと、智生は押し黙った。なんだかいつもと様子が違う。身体を起こして、どうしたの、と俺は問う。智生は、言いにくそうに口篭った。それでも、なにかを言い出しそうな雰囲気ではあった。急かすのもプレッシャーかと、俺は黙って智生の言葉を待った。
もしかして、相談してくれるのだろうか。僅かな期待が呼吸を阻む。問い詰められて仕方なくではなく、自分の意思で、智生の口から直接聞かせて欲しい。言いにくいならぼやかしてもいい、俺はもう知っているんだから察知できる。打ち明けてくれるなら。俺の中の歪んだ智生の像が、まだ定着しきってはいない。
たっぷり一分の間を置いて、ようやく智生の声は紡ぎ出された。その答えは、俺の期待を満たすには十分だった。
『今日は休みなんだ。花菜も今は寝てる。できたらでいいんだけど、ちょっと出られないかな』
口元が綻ぶのを自覚した。教えてくれる。電話では言いづらいから、直接会って言おうとしている。言ってくれるのだ。妙な感情はなく、俺は素直に嬉しいと感じた。
外は寒いから、家に来ないかと提案した。案の定、智生は戸惑ったリアクションだった。俺が智生の家に行くことはあっても、智生が俺の家に来たことはなかった。
『だって、俺、キレイな服とか持ってないし』
「なんで家に来るのに正装するんだよ。普通でいいよ」
『俺、樹の家の人によく思われてないだろ』
そんなこと気にしなくていいよ、とは言えなかった。俺は金持ちの有塚の人間で「思う」方だけど、智生は真逆で「思われる」方だ。俺が気にしないのと、智生が気にしないのはまったく話が違う。どちらも気にしないでいられるなら、当然それがベターだけど、そういうわけにもいかなかった。
俺と智生はこんなに近しい距離にいるのに、どうしてこうまでも違いが生じてしまっているのか。智生が持って生まれるはずだったものを、すべて俺が剥ぎ取っているからだ。それも、智生が生まれるより一年も早く、計画的に奪取した。そこに俺の意思などなく、そんな考え自体がどうかしていると思うけど、何度でも俺はそれを考える。そして、俺が同性の智生に恋心を抱くようになったのは、その代償だ。そうとでも解釈しなければ、それこそ自分の中の均衡を保つことができない。
「気になるなら、俺が行こうか」
そう持ちかけるしかなかった。どこかお店にでも入ればいいけど、そうすればお金を使うことになる。切り詰めた生活をしている智生は、間違いなく遠慮するだろうと踏んだ。完全に嫌がることまではしなくても、注文するメニューは、最低金額かそれに近いものを選ぶと思う。七瀬君や三橋君にそうするように、俺が親の金で智生の分のお代を持つことはできる。でも、智生はいつも、極端にそれを嫌がった。俺が智生の立場でも、たぶん嫌だと思う。いくら俺でも、それくらいの思考能力くらいはある。
『いい。俺が行く。でも、あんまり自信ないから近くに立っててもらえるか』
ほんの少しの合間を挟んで、智生は答えた。二つ返事で了解すると、智生はお礼を述べて通話を切った。別に感謝されるほどのことではない。ただ立っているだけでいいのだから、俺にだってできる。
お客さんが来るんだから、お茶とお菓子を用意するくらいは普通だよね。自問して、あっさり解決した。内線で木村を呼ぼうと、受話器を取り上げた。番号を押してコールする前に、受話器を置いた。お皿に載ったままのおにぎりを見やる。せっかく木村が持ってきてくれたのに、食べずに返すのは勿体ないし、いい感じはしない。すっかり冷えているおにぎりを手に取り、一口齧った。ちょっと食べていらないとは思ったけど、それは別に不味いからとではなかった。もう一口食べてみると、中の具は梅干しだとわかった。質素だ。悪くない。よくわからないなんとかのソテーやら、スープやら、味のしつこいステーキなんかよりも全然いい。ものを美味しいと思ったのは、いつ以来だろうか。二つ目のおにぎりに、自然と手が伸びた。




