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黒川 智生 5 

『なあ、花菜。ここにいるの、辛いか』

『辛い』

 俺の隣で膝を抱え、花菜は泣きながら、はっきりと答えた。そっか、と俺は答えた。花菜は泣いていた。俺は泣いていなかった。三畳もないような、ほとんど物置と言って正解のような狭い和室に閉じ込められ、その日の夕飯は抜きだった。理由はなかった。強いて説明するとしたら、俺と花菜はあの女のもとに生まれてしまった子どもだから、だった。あの女と、何人いるかもわからない男のうちのひとりを親として、慕うことができない状況にあったことが、唯一そこにある罪悪だった。

『あんちゃん、のど渇いた。おなかすいた。叩かれたとこ痛い。あんちゃん、痛い』

 泣きながら訴える花菜に、俺は、慰めの言葉ひとつかけてやれなかった。慰めたところで、却って精神状態は悪くなると思った。花菜は純真だから、言われたことはなんでも真に受ける。下手な励まし方をして、一度打ち砕かれたときの絶望感はひとしおだ。だから俺は、なにも言えなかった。

『ねえ、あんちゃん。叔父ちゃんはなんであんなに怒ってるの? どうしてご飯くれないの? なんであんちゃんのこと叩くの?』

 電気の切れかかった灯りは、もうずっと点滅していた。そのうち、完全に部屋は暗闇となった。花菜は肩を震わせ、俺の腕にしがみついた。ぐう、と腹の虫が鳴いた。俺だった。

 あの女の莫大な借金が発覚したのは、あの日だった。発覚したから、激昂した叔父が俺と花菜に滅茶苦茶な暴力を働いた。俺が珍しく夕方まで学校にいた日、帰宅してみれば叔父が花菜を蹴っていた。驚いて止めに入ったところ、俺も腹を蹴られた。借金返済の勧告通知が、叔父の勤め先に届いたそうだ。そんなもの聞いていない、あのバカな妹の不始末を世話してやっているのに、その上こんな金額を払うなんて冗談じゃない。叔父は口汚く罵りながら、ときに手近にあった灰皿やテレビのリモコンを投げながら、俺たちを更に痛めつけた。花菜は大声で泣いていた。俺は泣いていなかった。ただ、花菜を庇っていた。近所にもあの泣き声は聞こえていただろうに、助けに来てくれる人間は、誰ひとりとしていなかった。

 再び、腹の鳴る音がした。花菜だった。横に置いていたアメの袋を引っくり返した。出てきたのは、丸められたキャラメルの包み紙と、アメがたったひとつきりだった。たったひとつしかないアメを、俺は花菜の手に持たせた。

『あんちゃんも花菜と同じ。ここにいるの、ちょっと辛いんだ』

 アメを握り締め、花菜はここでまた涙を流した。俺は泣かなかった。それまでにうっすら考えていたことを、俺は、そのとき初めて口にした。

『だからさ、花菜。もう出ていこうか』

『え?』

 酷く素っ頓狂な声で、花菜は訊き返してきた。見境なく蹴られたせいで、鈍く痛む脇腹を押さえつつ、俺はさらに言った。

『ここじゃないどこかで、ふたりで暮らすんだよ。家もお金もないけど、なんとかなるよ。あんちゃん、頑張って仕事するから。それで、ちゃんと毎日ご飯食べよう』

『無理だよ。わたしもあんちゃんも子どもだもん』

 今思えば、あのときの花菜は、妙に現実的だった。いつもはマイペースでおっとりしているし、あのときも喜んで頷いてくれると思った。そうならなかったことは予想外だった。でも、俺の決意は変わらなかった。不安はあったけど、今よりはましになると思った。だから、俺は始終泣かなかった。俺は十三歳、花菜は十歳になる年のことだった。

『もしなにか辛いことがあったとしても、ふたりでいれば大丈夫だよ』


 ――思い出ばかりが蘇る。

 電気が点いたままだということは、カーテン越しに漏れる明かりでわかっていた。花菜は、まだ起きているのだろうか。もう今は午前一時を過ぎている。俺が帰宅していないし、花菜に夕飯の仕度はできない。腹を空かせてずっと待っていたんだろうと考えると、少しだけ胸が苦しくなった。静かに鍵を回し、部屋に入った。花菜は、卓袱台に突っ伏して眠っていた。

 ドアを閉めてチェーンをかけて、鞄に放り込まれた紙幣を数えた。一万円札が三十枚。目にしたことのない大金だった。今日の報酬はないと思っていたから、お金を渡されたことは意外だった。でも、結局あれはマワし以外の何者でもなかった。あの四人のほかに、更に別の四人、その後、また別の二人にマワされた。一晩に十人も相手して、たったの三十万円で誤魔化されている。俺の値段はこんなものだ。つい笑いが込み上げてきた。

 バイト帰りのままの荷物を床に下ろし、しばらくその場に座り込んだ。すごく疲れた。腹は空いていなかった。あんなことをされたあとで、飯なんて食えるわけもなかった。

 眼鏡のレンズは清潔に保たれているはずなのに、どうにも視界が霞んで気持ちが悪い。なんとなく腹の奥が痛いような気もする。とにかく疲れた。目を閉じた。暗闇を迎えた世界で、おぞましい感触が全身に蘇った。目蓋を押し上げ、視線を伏せた。ろくに眠ることもできない。痕だらけにされた身体も、強要された口での奉仕も、これから続いていくであろうその生活も、すべてひっくるめて絶望でしかなかった。

 腰を上げて、炊事場に立った。包丁は、きちんといつもの場所に置いてあった。俺しか触らないのだから、ごく当たり前のことだった。

 包丁を手に取り、寝ている花菜の首に照準を合わせた。何度刺せば死ぬだろうか。痛い痛いと騒ぐだろうか。確実に一撃で、苦しませずに殺すには、背中から狙うよりも正面から心臓を突き刺したほうがいいだろうか。下手に触れて、花菜を起こしてしまわないだろうか。思考が頭を巡った結果、身体には一切触れず、連続した攻撃を与えるべきだという結論に至った。花菜の意識は途中で覚醒してしまうだろうが、声をあげることすらできないような、的確なダメージを与え続けていれば問題ない。あまりに騒ぐと判断したら、それこそ正面から胸を刺してやればいい。

 これ以上、生きていたくはない。でも、花菜をひとり残しておけない。すべての終わりを選択するなら、それは花菜も一緒に、だ。俺を失った花菜を想像できない。それはきっと正史にはならない。ひとりでは入浴もできない花菜は、唯一の家族である俺を失ったら、どうなってしまうのだろう。やっぱり、俺が連れていくしかなかった。

 突き刺すつもりで、包丁を構えていた。花菜の白く細い首に狙いを定めると、ついさっきの思考回路とは裏腹に、簡単に刃先が貫通するような気がしてきた。どうせひとりにはしておけないのだ。やるしかない。一度で終わらせられるなら、花菜にとっても俺にとっても、それほど楽なことはなかった。大丈夫だ。俺はできる。汗ばんだ手から抜け落ちそうな、包丁の柄を握り直した。できる。俺は勝手に死んではいけない。花菜も連れていかなくちゃ。花菜を放って、ひとりだけ楽にはなれない。

 片手では、上手く力が入らないかもしれない。両手で柄を持ち直し、再度刃を振り上げた。呼吸が荒くなった。心拍数が、急激に上昇するのがわかる。できないかもしれない。そんな不安が脳裏を掠めた。もし、一撃で仕留められなかったとしたら、俺は本当に続けられるのだろうか。花菜は、すごく痛がるはずだ。大粒の涙を流しながら、あんちゃんどうして、と口にするはずだ。悲痛な花菜の叫びを無視して、俺は花菜を刺せるのか。俺は、この手で妹を殺害できるのか。俺はそんなに冷酷な人間だったのか。それは、あの腐った母親や、叔父の血がこの身体に流れているからなのか。

 手が震える。通常の呼吸ができない。頭の奥がどうかしそうだ。それでも俺は生きていたくない。生きていたくないから、死ななければならない。死ななければならないから、花菜を殺さなければならない。簡単な連立式だ。簡単な連立式なのに。

 今よりもっと子どもの頃、酷い生活を送ってきた。ビッチの母親に置き捨てられ、父親は未だにわからず、花菜のこともずっと俺が世話してきた。面倒だと思うことも、確かにあった。どうしてこんなにも普通のことが、できて当たり前のことが、この子にだけできないのかと疑問に思ったこともあった。正直、鬱陶しいと思ったこともある。でも、どんなことになっても、切り離せないのが家族なのだ。だから俺は、花菜のことを大切にできるし、花菜が誰かにいじめられていれば、自分が怪我をしてでも助けに入った。あんちゃん、あんちゃんと慕ってくれる花菜のことが、やっぱりすごく大切だった。俺が同年代の子どもたちに「ヒーロー」なんて呼ばれるに至ったのは、花菜に対するそういう気持ちが根源だったと思う。悪であれ善であれ、その場で一方的に責めたてていれば、ちょっと待てよと割って入りたくなることもそうだ。放っておけない。誰かが迫害されるその様が、親族の家を転々した自分と花菜の姿に重なる。居場所がないその気持ちに、どうしようもなく自我を見る。

 ――ヒーローのくせに、妹を殺すのか?

 自問した瞬間、包丁を床に叩きつけた。声を漏らし、花菜が顔を上げた。眠そうな目を擦りつつ、あんちゃんおかえり、と無邪気に笑顔を見せる。ただいま、と返せない。花菜は不思議そうに俺を覗き込んだ。俺はなにも言えなかった。花菜の腕の中に、誕生日にプレゼントした髪飾りがあったことに気付いた。あれを眺めて、空腹の状態で、今か今かと俺の帰りを待っていたのだ。なにかが胸に押し寄せた。鼻の奥が鈍く痛んだ。

 小さいときから、俺はずっと泣かなかった。親戚に疎まれても、八つ当たりされても、両親についての作文を書く授業でひとりだけなにも書けなくても、年を偽って働いていることがばれて切られたときも、決して泣かなかった。叔父に酷く暴力を振るわれたときも泣かなかった。ヤクザにバイト代を奪われて、逆援をして、変態十人にマワされて、写真で脅されて、望まれるままのことをして。それでも泣かなかったのに、一滴、頬を伝った。一度零れてしまえば、次から次へと流れ落ちた。あまりにも涙が溢れた。花菜が息を呑んだ。意識とは無関係に嗚咽が漏れる。口を押さえても隠し切れない。座って落ち着こうとしても、到底そんなことはできなかった。涙が止まらない。なにに対して泣いているのかもわからない。

「あんちゃん、どうしたの? お腹減ったの? どこか痛いの?」

 痛い。どこが痛いのかはわからない。そう言ったつもりだった。当然、言えてなかった。嗚咽しか出てこない。あまりにも泣く俺を案じて、花菜は眼鏡を取ってくれた。レンズは既に涙でぐしゃぐしゃだった。

 頭や背中、腕、足、花菜は俺のいろいろな部位を摩ってくれた。「まだ痛い?」痛くない、とも答えられなかった。ひたすら涙が落ちた。泣いても泣いても止まらなかった。

 再び背中を摩ってくれた花菜の手が、不意にストップした。花菜は俺の顔を覗き込み、心配そうに首を傾げた。

「なにか辛いことがあったの? あんちゃん、そうなの?」

 ごめんな、花菜。やっとの思いで、それだけ言った。まだ涙が溢れてくる。どうにもできない。大声をあげることができれば、少しは楽になるのだろうか。時間が時間だし、花菜にそんな姿は曝せなかった。

 花菜が俺を抱きすくめたのは、前触れのないことだった。突然身体を包んだ温度に、はっとした一瞬涙が止まった。花菜は、しっかりと俺の背中を両手で抱きこんでいる。ほとんど暖房の効かないこの部屋で、花菜の全身も冷えているはずのに。背中に感じる花菜の小さな手の温もりが、ふつふつと胸に込み上げた。視界が一層潤んでしまう。

「どうして謝るの? 大丈夫だよ。わたしがついてるよ」

「……うん……」

「おじちゃんの家を出たとき、あんちゃん、言ってたでしょ? もしなにか辛いことがあっても、ふたりでいれば大丈夫だって」

 幼い日の自分の声が、耳の奥で蘇った。あれは本心から言ったわけではなかった。まだほんの子どもでしかない俺と花菜が、ふたりきりで生きられるわけがないとわかっていた。でも、もうあの家にいるのは耐えられなかった。俺がちゃんとしなければならない。そう思って、花菜ではなく、自分に言い聞かせた言葉だった。

 小さい子どもをあやすように、花菜は、優しくゆっくりと背中を叩を撫でてくれる。

「そうだ、あんちゃん。ごはん食べたら元気になるよ。あんちゃん遅いから、わたし、ごはん作ったの。あんちゃんがいつもお昼用に作ってくれるやつ」

 俺がいつも、花菜にお昼用に作るやつ。おにぎりだ。具はなしの塩だけか、種抜きの梅をひとつ包んだのがせいぜいの、俺の貧相な手作りレシピ。でも、おにぎりを作るには、まず米を炊かなければならないのに。言いかけた俺を先回りして、花菜は嬉しそうに口を開いた。

「あんちゃんがやってるの、いつも見てるんだもん。ごはんくらいできるよ、わたし」

 炊飯器に向かった花菜を追い、俺も立ち上がった。得意げに花菜は蓋を開けた。湯気が沸き立った。その中に、不器用に海苔が巻かれた、大きさも不揃いなおにぎりが五つ転がっていた。

 中で一番大きなものを、花菜は片手で取り出した。「あんちゃんは大きいやつ」。差し出されたので受け取った。ずっと炊飯器内で保温されていたおにぎりは、いきなり食べるには少々熱い。

 こんなに素直で優しい妹を、自分の致死概念のために道連れにしようとしていたなんて。しかも、さもそうでなければならないかのような、正論めいた言いわけまでしていた。あまりにも勝手な自分自身に、またしても涙が零れた。

「はい、これで顔拭いて」

 当たり前のように、花菜はポケットからハンカチを取り出した。差し出されたので、こっちも受け取った。家の中なのに、花菜は、いつもハンカチなんて持っていたっけ。驚く俺をからかうように、花菜は笑った。

「わたし、もう十四歳なんだから。女の子のエチケットでしょ」

 そしてまさかそんなことを言うなんて、知らない間に、花菜もレディということか。無邪気な花菜の一言に、絶望に塗り潰された俺の世界が、少しだけ癒されたような気がした。




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